献花


 化石図鑑を捲る少女の隣で、一通の手紙を前に男が見るからに不機嫌そうな顔をしていた。
 〈ゼーブル〉の住み処にて、今のところで集められた黄昏の情報を一通り纏め一息吐いた矢先である。
 魔獣除けの香を幾つも幾つも腰の革帯にくっ付けた配達人が、玄関先におっかなびっくり手紙を届けに現れた。よくもまあ、こんな処まで。配達人という仕事も中々骨の折れそうなものである。骨の折れそうな原因をつくっているのはこちらなのだが。
 ちなみに、配達人から手紙を受け取りながら多少の罪悪を感じたウルグは、絶えず不安げなおそらく新米だと思われる配達人の青年へ、玄関先に置いてあった魔獣除けの香を二、三個ほど彼の去り際に投げて渡した。
 ……さて、問題はこの書簡である。
 クエルクスが職務以外で、わざわざご丁寧に手紙をこちらにしたためて寄越すなどということは有り得ない。しかし、宮廷から送られてきたものとは封蝋の印璽が異なっている。
 いいや、というか、ウルグにしてみれば、自分宛てにご丁寧に個人的な手紙をしたためてくださる人間は、主に一人しか思い浮かばない。彼は差出人の名前も見ずに手紙の封を切った。
 封筒の中から引っ張り出した羊皮紙には几帳面に文字が並び、画家の娘が云々、庭園の蝶が云々、極彩色の魔獣が云々などとこれまた几帳面に事のいきさつが書かれており、それをざっと斜め読みしたウルグは、書簡と一緒に届いた小さな木箱を一瞥した。
 木箱をくくっていた紐を解き、その蓋を持ち上げ、それから中に仕舞われている白布を、不満げな表情とは反して柔らかな手つきで捲り上げる。
 そしてそこに七よりも多い色彩を宿す、さながらステンドグラスの細かな欠片のような水晶の集まりを認めると彼は音を立てずに息を吸い、それからあまりに深い溜め息を吐いた。
 ウルグはもう一度羊皮紙に書かれた文章に目を通すと、そこから今自分に必要な情報だけを抜き取ろうと努力した。
 まずは、差出人が確認するまでもなくハイク・ルドラであるということ。
 次にこの虹水晶の欠片たちは、魔獣化した揚羽蝶の紅水晶であるということ。
 そしてこれを、錬金術で化石にしてほしいということ。
 どんなに綺麗でも、こいつは魔獣の紅水晶なのだから、時間が経てばいずれは黄昏に還ってしまうだろう。
 時間がない。
 期限は一週間で頼む。
 んじゃ、後は任せた。
 ──何が任せただ、ふざけるなよ! ウルグの努力は水泡に帰す。
 そんな風にしてウルグは専ら自身が工房として使っている部屋へと手紙と木箱を小脇に戻り、今に至るのだった。
 彼のしかめっ面に気付いたイルミナスが図鑑の頁を開いたまま、ウルグへと声をかける。
「ウルグ、どうかしました?」
「どうもこうもない。一日半だ」
「一日半?」
「王都から此処まで最低三日、近場の〈語る塔〉まで半日、更に其処から王都まで二日。ここまでで五日半。期限は一週間だ、こいつが出されてからもう三日は経っているだろう。残りは四日、配達時間を考えると差し引きで一日半。しかしこれ≠ノは最早一刻の猶予もない、むしろ今まで持っていたのが奇跡か……急がなければ跡形もなくなる」
「……ウルグ?」
 話が呑み込めず疑問の光をその瞳に浮かべたイルミナスに、一瞥すらくれてやることもなくウルグはハイクからのお願いの手紙≠彼女の前に突き出した。
 イルミナスがそれを読んでいる間に、ウルグは部屋の隅に在る錬金術の素材や触媒を仕舞い込んである長櫃の中身を引っくり返す。
「ともかく俺に残された時間はといえば、長くても一日半だ」
「それではできないのですか、錬金術師さま?」
 イルミナスの口の端に笑みが浮かんでいる。
 その見た目や纏う雰囲気の割に、存外、近しい者の前向きな挑発にすぐ乗るのはウルグの悪い癖だった。そう分かっていつつも彼は、青い瞳をぎらりと閃かせて言い切った。
「まさか。俺を誰だと思っている? クェルだったら一日で仕上げるだろう、ならば俺にもできないはずがない」
「あら、わたしもいますよ、ウルグ」
「なら半日。いや二日に延びるかもしれんな」
 イルミナスがむっとした表情になる。ウルグはそれを一瞥して皮肉な笑みを浮かべると、幾つかの材料を手に長櫃の前から本棚の方へと移動し、書架から一冊本を取り出した。
 それは蝶の図鑑、主に揚羽を専門に描かれているものだった。彼はその本を片手にぱらぱらと頁を捲り、更に速度を上げて捲り捲り捲り、或る頁で素早く紙を捲る指を止めて、イルミナスに差し出した。
 ハイクの手紙に書かれていた蝶の大きさ、全体的な見た目の雰囲気、大体の触角や胴体、複眼の様子などを考えると、おそらくこの頁に描かれた揚羽蝶が一等手紙にある虹の蝶々に近いだろうと、ウルグは予想したのである。
 ただしその色は、かの虹色とはほど遠い。
 イルミナスはそれを受け取ると膝に乗せていた化石図鑑を退かし、自身の目の前に揚羽蝶の図鑑を置く。
 ウルグは近くの長机から硬い鉛筆と練り消し、そして透写紙を更にイルミナスへと手渡した。イルミナスは図鑑とウルグから渡された道具を見比べ、それから何か閃いたように頷いたが、しかしとウルグに問う。
「ところで……どういった風な化石を創るのですか?」
「創る、か。……第一に、これはほとんど復元の範疇だろう。腹立たしいものだな。昆虫のことは昆虫学者に、鉱石のことなら鉱石学者に、魔獣なら魔獣遣い、復元なら復元師、縫い物なら都のご婦人に頼めというんだ──しかしまあ、俺をご指名とは中々賢い。このままただ送り返すのも俺の名に傷が付くしな、全部一手に引き受けてやる。……これを創るぞ」
 言いながら、ウルグは指先だけでイルミナスの横に広がったままの化石図鑑を指し示した。そこには大きな蜂が丸々一匹、固化して化石と成った樹脂に包まれて閉じ込められている画が描かれている。
 イルミナスはウルグの指先に導かれるままに開かれた頁へと視線をやり、きらりと翠纏いの銀を輝かせると声を上げた。
「琥珀、ですね!」
「……まあそうだが、それそのままでは少々芸がない。それに琥珀というものは、虫を引き立てる石ではないだろうからな、どちらかと言えば虫が琥珀を引き立てる。今回引き立てたいのは琥珀の方ではなく、虫の方だ。しかも、虹色の蝶──」
「ならば……」
「そう、水晶だ。あれを透き色より透き色にする。……確か月光に当てておいたさざれが窓辺に在ったな」
 やり方は大体思い付いたと呟きながら、ウルグは無造作に床に転がっている分厚い本の一冊を拾い上げると、この間まではすべてが白紙だった頁へと視線を落とした。
 白紙の本には今や一枚一枚全頁に渡って錬金術で用いる、古代語と様々な紋様から織り成される円の陣が描かれていた。描かれる際に遣われたインクは、ウルグの瞳と同じくらいに深い青を称える瑠璃から色を抽出したものである。
 ウルグはその錬金陣の描かれた本の頁を、躊躇うこともなく何枚か千切り取ると、今、自身の目の前に在る錬金釜へとそれを放り込んだ。
 千切ることに何の躊躇いもないのは、そもそもこの本は彼がいちいち陣を描く手間を省くため、事前に描き溜めておいたものだからである。
 イルミナスが図鑑の揚羽蝶を透写紙に転写し終えるのと、ウルグが錬金釜に透明な水を張り、それから火打ち石で釜を熱しはじめたのはほとんど同時だった。
 イルミナスはウルグへ、丁寧に揚羽の輪郭や羽の様子を写しとった透写紙を渡すと、彼は片方の口角ばかりを上げながらそれを受け取り、それから釜の張られた水の上に透写紙を浮かべる。
 透写紙はみるみる内に水に溶け、そう思った瞬間透き色の水の表面にはイルミナスが写しとった通りの蝶々の輪郭が、鉛筆で縁取ったが如くに黒く浮かび上がってきた。ウルグはその黒の輪郭の上で木箱から取り出した白布を広げ、その中に守られていた虹色の水晶たちをすべて水面の蝶の中に注ぎ込む。
 一瞬、釜の中で極彩色が弾けていた。
「ウルグ、他には何を遣うのですか?」
「……少しは自分の頭で考えろ──と、錬金術師でもない君に言っても仕方がないことだな。まずは蜘蛛の糸。蝶を捕まえておくにはこれに限る。それからさっき言った水晶のさざれ。だめ押しで琥珀も入れてみるか、蟻が入っているのが在ったはずだ」
「糸はさざれを取ってくるついでに、少しばかりわたしが拝借してきますね。……蜘蛛の巣なら、此処は困りませんから!」
 ウルグの真似をして口元を片方歪めて笑ったイルミナスが、さざれを取りに隣部屋へと駆けていった。ウルグの方は再び長櫃の前へと移動し、その中身を検めている。
 ついでに研磨材も入れてやればいいと思いながら長櫃を漁り漁り、そうして引っ張り出してきた研磨材を目の前に並べて、彼はさてどれをいれたものかと軽く唸った。並ぶのは紅玉、金剛石の原石に、柘榴石の金剛砂。
 そして彼は、最後に長櫃から取り出した、研磨材の素材となる鉱物の一つを床に置き、しかし置いた瞬間すぐにそれを取り上げた。
 ──これだ。
 これを遣う。
 彼が青い瞳に閃光を宿して手に取ったのは、鋼玉だった。そう、それは、ハイク・ルドラの瞳の色によく似た鋼玉。
 それからウルグは長櫃を閉めようとその蓋に手を伸ばしたが、ふと、手紙にこの蝶は胡蝶の庭園≠フ蝶だという旨が書かかれていたことを思い出して、ぴたりと手を止めた。
 胡蝶の庭園。実際に訪れたことはないが、名前ばかりは聞いたことがある。
 たそがれの時代≠フ始まりに、或る凝り性の貴族が造り上げたと云われる、華々しく大きな屋敷。そしてその外に広がる、この時代には珍しい花々の園。言わずもがな、胡蝶の庭園と呼ばれる所以は後者にあるのだろう。
 ウルグは熱に緩く煮えている、蝶の水晶を溶かした釜の水面の方を見た。
 仲間を失い、自身も魔獣となった蝶……
「──ウルグ! 蜘蛛の糸はこのくらいでよろしいのでしょうか?」
「……ああ。よろしいですよ、姫さま」
 隣部屋から戻ってきたイルミナスが目にしたのは、鋼玉を釜へと沈めたのち、何やら乾花を手に、時折七色に揺らめく水面の前に佇むウルグの姿だった。
 ウルグはイルミナスの姿を認めると、彼女のことを軽く手招いて、手にくっ付いてべたつく、したたかな蜘蛛の糸と、月の光を吸い込み、透き色に美しい水晶のさざれを受け取ると、それらを一気に水面へ浮かべた。
 蜘蛛の糸は水の上で虹に煌めき、水晶は静かに淡く発光しながら、両方は吸い込まれるように水底へと沈んでいく。
 イルミナスはウルグの手に有る乾花をちらりと見やると、それからウルグの、いつもどこか深いところに哀しみを宿している青い瞳を見つめて問うた。
「……それは?」
「弔いの花。何、ただの気まぐれだ」
「弔いの……」
「何の変哲もない、その辺に咲いている紫蘭だがな」
 ウルグの手に有る紫蘭は、元々乾花にするつもりで彼が引っくり返して壁に吊るしておいたもので、紫蘭特有の柔らかな紫の色彩と瑞々しい花びらの面影などは、しかしとうに失われてしまっていた。
 そしてその褪せた色彩とかさついた感触に、彼はどうしても想い出さずにはいられない。
 黄昏、黄昏、黄昏の姿を。
 ただ、この紫蘭がまだ生き生きとしていた頃の色彩を、手触りを自分はまだ想い出すことができる。
 それは四季彩の蝶を見た、手紙の中の登場人物たちもそうだろう。
 ──それでいい。
 記憶が此処にあるのなら。
 記憶が褪せないのなら。
 今はそれで。今ばかりは。
 ウルグは手のひらの紫蘭を釜の中に散らし、イルミナスの方を振り返り見た。瞳の端では、水面が淡く柔らかい紫に煌めいている。
 ウルグは黙ってイルミナスの銀の瞳を見ていたが、イルミナスは釜の透き色が紫に発光していることに気が付くと、その瞳に水面の輝きよりも柔らかく優しい光を宿して微笑んだ。
「ウルグ……蝶の翅と共に、人の想いも繋げるのですね」
「……君、よく恥ずかしげもなくそんなことが言えるな」
「もう、すぐそうやって──……それにしても、ウルグが誰かのために錬金術をするだなんて珍しいですね。やはり相手が相手だからですか? ふふ、ウルグも、ハイクさんにはめっぽう弱いですね」
「さあ?……誰かさんのお人好しが少しばかりうつったんじゃないか? この世界にはお人好しの病を患う連中が、少々多すぎるようだからな」


*



 透き色よりも透き通るような水晶の中で眠る虹色の蝶を、傷付かないように綿を敷き詰めた木の小箱へ丁寧に入れ、ウルグはそっと息を吐いた。
 口にした通りきっちり半日で仕事を終えた彼らの片割れは、今や夜深色のソファで眠りこけ、もう片方はというと、これから美しい蝶の眠るこの木箱を近場の塔まで配達を頼みに行かなければいけないのだった。
 眉をひそめ、開いた瞬間毒吐きそうな口を引き結び、しかしついに我慢ができなくなって舌打ちを一つすると、ウルグは気怠げに壁際から立ち上がる。
 ただし瞳は月の熱い光を宿して怪しげにしかし楽しげに輝き、口元はというと鋭く舌を打った後のそこにはもう笑みすらが浮かんでいた。
 こんにち振り回され続けた問題の手紙をもう一度頭から、今度は丁寧に読み返すと、彼はローブの隠しから手記を取り出した。そこから一枚頁を破り、雑に破いたその紙切れにたった一言だけ、瑠璃のインクで書き付けをする。
 当たり前だが、手紙をしたためたとは到底言い難い代物である。
 彼はそれを木箱をくくっている紐の間へと挟み込むと、もうこの世界には存在しないだろう幻の蝶々を軽く小脇に抱え、そうして己の根城を出ていった。
 彼のその書き付けには、書き慣れているため静謐で流れるように整った、しかし右下がり癖のある文字でこう書かれていることだろう。
 お人好し>氛氓ニ。



20160915
…special thanks
ハイク・ルドラ @hiroooose

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