スヴェトラーナの灯


 王都からほど近いその遺跡は前時代、かわたれの時代≠フものとするには驚くほどに状態が良いため、逆に人が寄り付くことがほとんどなかった。
 状態の良い前時代の遺物は恐ろしい。どんな術が仕掛けられているか分かったものではないからだ。美しいまま姿を保っている遺跡などはもってのほかである。
 その美しさを保つために人はどれだけの錬金術で素材を創り出し、それをどれだけの召喚術で呼び出し、どれだけの魔術を遺跡に張り巡らせ、他どれだけの人員や数多の技術をその遺跡に注ぎ込んだのか……それは計り知れない。
 ただ、風化することのない遺跡に注がれた数多の力、数多の知識、数多の技術──数多のねがいはかつてその名前を名乗っていたとしても、最早呪いに等しかった。
 そう、多くのたそがれの人々にとっては。
「──ああ、ウルグさん」
 総大理石の遺跡、その大きな入口からひょっこり姿を現した少女に覚えがあるウルグは微かに片方の眉を上げて、こちらの名前を呼んだ少女の方を見た。
 隣のイルミナスは呑気に、あらウルグ、お知り合いですかなどと笑っている。
「……ノエルか。こんな処で一体何をしている? 此処は前に一度調査が入ったきりで、滅多に人が寄り付かない場所だぞ」
「……でも此処、ただの美術的建造物ですよね」
「何故分かった?」
「入口の床に彫られてるこの紋様、案内人用です」
 言いながら少女は遺跡の玄関口に当たる部分に、その三つ編みにされた長くゆったりとした二つ結びの髪の毛を揺らしてしゃがみ込んだ。
 彼女が纏う、術師が好んでは何故かこぞって羽織る漆黒のローブからは、くるぶし近くまで丈のある長くふんわりとした桃色のスカートが覗いている。茶色をした革の長靴は砂塵にまみれ、曇っていた。
 ウルグはノエルと彼が呼んだ少女の元まで早足に歩いていくと、彼女と同じようにしゃがみ込んで遺跡の床を検めた。
 彼の羽織る月白のローブは彼が入り口前でしゃがんだことによって、地面と擦れて微かに汚れてしまったが、見た目に反して様々なことに無頓着なウルグがそれを気にするはずもない。
「それだけで判断したのか? ならば少しばかり浅慮だな」
「中にも危ない仕掛けなどはなかったようですし……」
「中にも入った? 君、存外怖いもの知らずだな」
「此処がほんとうに危険な場所なら、調査が入った時点で國から立ち入り禁止令が下りるだろうと思って」
 ウルグが眉をひそめて深い溜め息を吐いた。
 少女の発する声はおずおずといった様子でさして大きくもなく、さながら鈴の鳴るさまにも似ているように思えたが、しかし紡ぐ言葉の芯は震えていない。
 彼女は手に持っていた、てっぺんの方が渦巻き状に加工されている木の杖で地面を突いて立ち上がると一度ウルグの方を見、それからイルミナスの方を振り返って少しばかり微笑んだ。
「……入りますか? 案内ができると思います」
 そう言う少女は紫紺──夜入り前の黄昏、その色を纏っていた。


*



 ノエルは遺跡の入口横の壁に一つぽつりと存在した真四角の空洞から、使い古されてはいるが、経年による劣化はしていないように見られる角灯を取り出した。
 彼女が一言二言何か言の葉を紡ぎ出すと、角灯の中に備えられた透き色の水晶が橙の光を宿し、瞬く間にそれはゆく道を照らす明かりの灯となる。
 イルミナスは目を瞬かせ、それからすぐにわっと喜色を宿す声を上げた。
 やっぱり魔術師!
「この中を進んでいくと、突き当たりに長い螺旋階段が現れます。それだけで他に危険な仕掛けなどはありませんでした……わたしが見た限りでは」
「螺旋階段? 上ったのですか?」
「ええ。今だったら綺麗なものが見られると思います」
 そう言ってこちらを振り返り、少しばかり笑った少女の姿を見てイルミナスは内心はっとした。
 ノエルはその髪にも瞳にも紫紺の色を宿し、それはさながら夜の訪れを待つ紫の夕暮れの如く。彼女の纏う黒い長衣が夜の気配を更に強くしているかのようだった。
 ならば手に持つ角灯の光に照らされた頬は黄の月か、明かりを受け取るその瞳に宿る光は迫る宵に煌めく一粒の星か。
 光を灯す言の葉を紡ぐその身体の後ろに付き添う影のかたちは静かに揺らめき、その色は深く、強い。
 彼女の灯した水晶は柔らかな色を宿して、ゆく道をあやまたずに照らしている。
 どうにも自分が出会う術師たちには、夜を感じさせる者が多いらしいとイルミナスは一人感じていた。
 今、傍らには真白の月を背負っては闇すら呑み込む青い夜。そして、前を行くのは紫の黄昏を宿し──
「……きっと、このために在るのだと思いました」
「このために?」
「──魔術、は……魔術だけじゃない、いろんなこと……」
 ふと、そう小さく呟いたノエルとイルミナスは目が合い、彼女はノエルの瞳の中に──そのまじないをかけたかのような夕暮れ空の色の中に、彼女の背後に付き添う影が訪れるのを見た。
 それは、夜と言い換えることもできる。
 そしてその黒い夜の空に、イルミナスは見たような気がした。いいや、見たのだろう。紫の黄昏を宿し、黒い夜を纏う少女のその空の中に、銀の川の如くに煌めく天河の姿を……
「あ……そういえば、ついうっかり。わたし、ノエルです。見ての通り、一応魔術師で」
「まあ! そうでしたね、こちらこそ申し遅れました。わたしはルーミ。ウルグと共に旅をしている剣士です」
 少女の声によって紫紺の日暮れから引き戻されたイルミナスは、急いで装いを正すと、元々良い姿勢を更に伸ばしてノエルに向き直り軽く礼をした。イルミナスにつられて、ノエルの方もちょっと慌てた風に姿勢を正してお辞儀を返している。
 遺跡の床に彫られた紋様とにらめっこしていたウルグが、そんな二人の様子に気が付いて、軽く笑いを洩らしていた。
「──なるほど。君のその角灯の光に呼応して、床が発光するというわけか。そうして道が示されると」
 言われてみれば、確かにそうだ。ノエルが一歩進むたびに紋様の彫られた遺跡の床が淡い橙に発光して、行く先を示している。彼女はゆったりとした速さで歩を拾いながらそう言ったウルグの方を振り返り、それから頷いて微かに笑った。
 ウルグの隣を歩くイルミナスが、彼を見上げて小首を傾げる。
「ウルグは、魔術についても明るいのですか?」
「いや、そうでもない。錬金術や召喚術が元々、魔術を根源とする学問だったというのは比較的有名な話だろう。岩が砕けて石となり、その石がやがて砂になってそののちにまた岩となるように。言うなれば錬金術は、魔術の遠い親戚のようなものだからな……少しばかり通ずる部分もあるというだけのことだ」
「今回、その通じた部分というのは?」
「相も変わらず好奇心旺盛で、大変結構なことでいらっしゃいます。
 ──この床に彫られた紋様は広く呼応≠フ紋と定義付けられるものの中の一つだ。錬金術でも、呼応の紋を用いた陣が無数に在る。俺たちは紋の周りに更に多くの紋や古代語を描いて陣として遣い物質を変質させるが、魔術師は主に長ったらしいまじない言葉を口にすることで、その物質の力を引き出す。ま、言葉で言うばかりではどちらも似たようなものに聞こえるが」
 ウルグが息を吐いたのと同時に、前を歩くノエルが振り返らずに言葉を発した。
「……錬金術師は、まじない言葉に反応して光を宿す水晶を創り出すことができるけれど、その水晶にまじない言葉によって光を宿させることはできない。魔術師は、まじない言葉によって水晶に光を宿すことはできるけれど、まじない言葉によって光を宿す水晶を創り上げることはできないわ。──魔術、錬金術、召喚術、そのすべてを同じように上手く扱える人なんて聞いたことがないもの」
 暗闇の中で小さな鈴を鳴らすようなノエルの声が、静かに大理石の空間に反響する。淡く光る道を片手に角灯、片手に木の杖を持って進み、一度通ったことがあるからか、その足取りは緩やかなものだったが、しかし怖れはないように思える。
 今度は振り返って言葉を紡いだ彼女の柔らかく優しい鈴の音の奥には、凛と響き渡る想いが鳴っていたかもしれない。
「でも、言葉には力がありますから……誰かが不意に発した言葉が、昔の人たちが巡らせた魔術を目覚めさせたりすることもあるかも」
「……それはたとえば……歌、などでしょうか」
「そうですね。古い歌には、いにしえの言葉が遣われていますから。遺跡で歌などを口ずさんだりしたら、眠っていた魔術たちが一斉に起き出してしまうこともあるかもしれません。……ええ、十分ありそう」
 先ほどイルミナスとノエルの自己紹介では笑いを隠し果せたウルグだったが、今度のこれには堪え切れずついに笑い声を発した。歌か! このようにして彼が笑い出すのも仕方がない、彼には歌好きのトレジャーハンターという友人がいるのだから。
 イルミナスの方はといえば、そんなウルグに若干呆れたような顔をしながらも、少しばかり口元を緩ませていた。それからそういえばといった様子で、彼女はウルグの方へと問いかける。
「ウルグ、ノエルさんとは何処でお知り合いになったのですか?」
「ああ……〈ゼーブル〉の地下書庫でな。この魔術師さまはよくあの書庫に入り浸っている」
「あそこには古い魔術の書物も多いですから。いろんな魔術を本を通して識りました──でも、解読することもままならない難解な古代語で記されたグリモワールも多くて」
「まあ、その魔導書自体に何重にも鍵として魔術がかけられているのだろうな」
 ウルグは息を吐く。
「……文字が解れてそこらじゅうを跳ね回る、頁を捲っても同じ頁に戻ってくる、同じように次の行を読もうとしても、気が付けば読んでいるのは先ほどと同じ行、表紙を開いた途端、文字が言葉として頭に入ってこなくなる等々──ああいう類のものはほとんど迷宮だ、嵌まれば出てこられなくなるぞ。更に、そういうものに書かれているのは人の驕りの結晶と相場が決まっている。十中八九ろくでもないものばかりだ。そうでなければ隠さない」
 ウルグの言葉を聞いて、ノエルは螺旋階段の前で立ち止まった。
 そうして階段を囲う、美しい草花の透かし彫りがされた手すりを見上げると、その大理石の階段に手持ちの角灯を掲げる。暖かな陽光にも似た橙の光が、石の白に柔らかく照らし出されていた。
「……一語だけ解読できた前時代の魔導書があって……その一語だけを読んで、わたしはその本の表紙を閉じました。言葉の響きや舌触りだけでも分かる、あれはわたしの知っている魔術ではなかった。そう、確かに。……わたしの知っている魔術というのは……」
 彼女は振り返り、此処まで歩いてきた遺跡の軌跡を見やった。床で行く先を示していた光の導きはいつしか光の足跡へと変わり、彼らの後ろには気が付けば淡く発光する橙の道が生まれている。
 ノエルは、手に有る木の杖で床をこつこつと叩きはじめた。
 それは同じ間隔、同じ強さで。
 その拍子は、さながら心の臓の鼓動のようでもあった。
 彼女は誤ることなく同じ拍子で床を叩き続けながら、片手の角灯を先ほどまで自身の背後、振り返った今は自身の前に在る光の軌跡へと捧げるかのように掲げた。
「──魔術とはこういうもの。魔術というものは、きっとこのために在る」
 瞬間、彼女の唇から流星の如くに言葉が溢れ出し、その流星群は最早天上を流れる無数の星の河、紫紺の空を羽ばたき空を覆い尽くす渡り鳥の群れ、降り注いでは止まない透き色の雨、いいや雨のない日に鋭く轟く稲妻の閃光か。
 もしもこの世に魔法≠ネるものが存在するのならば、そう呼ぶべきは人の言葉以外に何が在ろうかと、魔術師の紡ぐ言葉を目の前にした者なら誰もが諸手を挙げて言うだろう。
 そう、言葉である。
 鼓動のように木の杖で床を叩く、それも魔術師の言葉。
 光の道に向けて水晶の角灯を掲げる、それも魔術師の言葉。
 呼吸すら、衣擦れの音すら、瞬きの間隔ですら今はすべて魔術師の言葉言葉言葉、言葉なのだ。
 まじない言葉のすべてが唱えおわるのと同時に、木の杖は最後の鼓動を大理石の床へと刻み込む。
 それからノエルは瞬きをし、その瞼がもう一度開かれるときにはもう、遺跡の両側の壁、天井、床すべてに淡い橙の光が灯っていた。
 両側の壁には水晶の填め込まれた真四角の空洞がノエルの杖の鼓動によって開かれ、叩き起こされた水晶は慌てて自らに光を宿し、天井の水晶も掲げられた角灯によって、壁のものたちと同じ要領で明かりを灯す。
 ゆったりと光を収束しかけていた呼応の床は、しかし彼女の言葉によって再びその息を吹き返し、暖かな橙色を辺りへと振りまいていた。
 その景色は他の何にも例えることができないほどに暖かく、優しく、そしてどこか少しばかり寂しい色を宿している。
 橙の光をその目に宿し、息を呑んでいたイルミナスとウルグの二人だったが、その寂しさの色に彼らは憶えがあって二人は密かに息を吐いた。
 それは、ひどく……
 ふるさとへと──家へと、帰りたくなる色だった。


*



「きっと、すべて人のためになると思って考え出されたものなんです。どんなに酷い魔術だって、最初は……」
「それが独善的で愚かだと言うんだ。事実この遺跡だって、時すら己の物となると過信した人間どもの馬鹿げた産物だろう。これを造った本人たちはとっくの昔に死んだというのに、遺跡ばかりはこうして遺るとは皮肉なものだな」
「彼らの言葉だけが此処には遺っている──それを魔術師のわたしがどう取ればいいのかは分からない……けれど、此処に遺っているのは優しい魔術でした」
 此処がいちばん上ですと微笑んで、ノエルが角灯を片手に走っていった。
 次に続くイルミナスが螺旋階段の終わりから遺跡の最上へと顔を出すと、吹きさらしの遺跡のてっぺんでは、ノエルが奥の方でこちらを手招いている。イルミナスは大理石の最上から見えるその景色に、先ほどノエルの魔術を見たときと同じように息を呑んだ。
 ──紫紺の黄昏を宿す少女の背後では、赤々と色を放つ夕焼けが燃えている。
 王都にそびえる王城の背後ではかくも美しい暮れの炎が立ち上り、都を、街を、森を川を大地を、赤く赤く照らしていた。総大理石のこの遺跡も、その燃ゆる黄昏に染められて赤と橙の色をその身に宿しては光を反射させている。
 少女のローブは未だ黒色を揺るがさずにいたが、紫紺の髪や瞳、白い肌などはやはり他と違わず沈む陽の色に照らされて熱く染まり、彼女は眩しそうに目を細めていた。
 イルミナスはその姿を瞳に映すと、自分の少し後ろで立ち止まっては眉根を寄せているウルグの手を無理やり引っ張り、いきなり身体を引かれた彼の焦りと戸惑いの表情は目に入れず、更には彼の非難の声すらも聞き入れずにノエルの元へと走り出した。
 イルミナスの先の読めない行動に驚きと呆れが一緒くたになったようなウルグの表情を見て、ノエルが声を上げて笑っている。
 イルミナスはノエルの元へと追い付くと、彼女の背後で瞳が灼けそうなほどに赤く赤く燃えている、美しきこの大地の夕焼けを目に、ウルグへと振り返って言った。
「この遺跡を造り上げた人々が時を手にしたかったのは、これを遺したかったからかもしれませんね」
「これ?」
「はい。この美しい景色を、未来に──わたしたちに」
「……まあ、君のそういうお気楽極まりない考えをすべて否定する材料は此処にはない。とりあえずは何も言わないでおく、とりあえずは」
「──ふふ、お人好し!」



20170222
…special thanks
ノエル @橋さん
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