反時計回り


 あの日、確かに心が砕け散る音を聴いたのだ。

 ウルグの肩に深く突き刺さる魔獣の牙、その魔獣の頭をイルミナスが浅い呼吸で斬り落とす。
 ウルグは地面に落ちた魔獣の頭と、それの上に落ちていく自らの血を一瞥し、深い溜め息を吐いた。
 大した傷ではない、応急処置をしておけば問題ないだろう。
 そう判断し、ウルグはベルトに下げている革袋から傷薬と包帯を取り出して、それから地面に膝を突いた。
 否、突かざるを得なかったのだ。
 どうにも足に力が入らない。それに、受けた傷が先ほどから何やら燃えるように熱かった。
 靄がかかっていく思考で、あの魔獣は毒でももっていたのだろうか、と考える。
 と、同時に、魔獣との戦いで傷を負った者が魔獣になった、という噂話のことも思い出した。
 吐き出した声も、まるで獣の唸り声のような色をしていたような気がする。
 魔獣──魔獣になり果てた人──そう、彼らもこんな声をしていたのではなかったか。
 ウルグの心臓、その奥に眠る、砕けた黒水晶の欠片が熱さに耐えかねて火を吹く。
 イルミナスが必死でウルグに呼びかける声も、今は遥か遠くに聞こえるばかりだった。


*



 ──あの日、確かに心が砕け散る音を聴いたのだ。
 父の心臓に深く突き刺さる錆びた剣の刃と、悲鳴を上げる小さな少年。
 父は地面にくずおれ、人の慟哭のような獣の呻き声のような声を上げた。
 少年は反射的に一歩下がり、誰か助けを呼ぼうと辺りを見回したが視界に映るのは、人。
 人。
 人。
 人。
 死した人の亡骸ばかり。
 父を刺した人間──いいや、今思えばあれは最早人などではなかった、あれは紛れもなく魔獣だったのだ──はとうに地に伏せ、砂になっていた。父に与えたあの一撃が、最期の力だったのだろう。
 少年は、唸る父を見て思う。
 恐らく自分たちだけがこの町での生き残りだ。
 ああ、しかし、父のこの傷。
 この傷ではもう、父は助からないのではないだろうか。
 自らの身を護るため、がむしゃらに振るっていた短剣を鞘に収めようとして、少年ははたと気付く。
 父の身体から、血が流れ出ていない。
 それに気が付くと同時に父が立ち上がり、少年の方を見て笑った。父が立ち上がると共に傷口から零れ落ちる紅い水晶。それを自覚した少年の細い喉がひくつき、父はその様子を見て更に笑みを深いものにした。
 震える手で短剣を構える少年に、魔獣と化した父が迫ってくる。
 己の父を殺すことなどできない、そう少年は悟り、目を瞑って襲いくるであろう痛みを待った。
 しかし、いつまで待ってもその痛みは襲ってこない。
 不思議に思った少年は恐る恐る目を開き、父の姿を捉えた。
 すると視界に映ったのは、あろうことか地面に膝を突き、絞り出すようにこちらへ何かを言っている父の姿だった。
「ウルグ──ウルグ……! 早く……父さんを殺しなさい……! おまえが、父さんを……想うなら……私が獣になり切らない内に……殺しなさい……!」
 名前を呼ばれ、ウルグはどこか遠くから見ているような気持ちで思った。
 そうか、これはあの日のおれか。
 少年の自分が叫び声を上げながら、父を刺す。
 何度も。
 何度も、何度も、何度も。
 父を刺す度に手や顔に降り掛かる紅水晶の色を、輝きを、このときから忘れたことは一度もなかった。
 父の赤い水晶が飛び散るごとに、自分の心に在る黒水晶が砕けてはまた砕け、悲鳴を上げるのを感じた。
 そうだ、おれは確かに、己の父親を殺めたのだ。
 自分の爪の中に、父の血の色をした水晶がちかりと瞬いた気がした。
 ──反転、次に立っていたのは王都〈アッキピテル〉の王城。
 そうだった、あの後壊滅した町に巡回兵が通りかかり、おれは宮廷に保護されたのだった。
 保護されたのち、宮廷付きの錬金術師の元に数日の間預けられ、簡単な錬金術──その辺に生えている草を少量の純水に変えるだとか、前時代の古い建物や朽ちた里に稀に漂っている毒素を身体から抜くための薬粒──銀薄荷のタブレットの創り方だとか、そういった生きていくために必要そうな術をいくつかだ──を教わり、外に放り出された。
 後は自分で生きてみろ、つまりはそういうことだったのだろう。
 いいや、それよりも、おれはもっとたいせつな何かと、あの王城で出会ったのではなかったか……
「ウルグは錬金術師になるの?」
 透き通った無垢な声に呼びかけられて、ウルグは両の深い青を瞬かせた。
「私は騎士になるのが夢でしたが……家も焼け、金も力もありません。そうですね、おそらくは……錬金術というものは少々……私の手には余るような気が致しますが……だが、興味深い力だ。この力で何とか生き延びることができたら──真理を求める旅にでも出ますよ」
「真理……?」
「いえ、申し訳ありません。格好をつけました。俺……いや、私にとっての真理とはつまり──黄昏の奥に眠る真実のこと、とでも言えばいいのでしょうか」
「よく……わからない」
「……家族を殺したものが何なのかを、私は知りたいだけです」
 このときの彼女は十かそこらだったか、おれは確か十五だった。
 彼女と出会ったのは錬金術師──あまりこう呼びたくはないが、己の師だ──に王宮から放り出される前の日。
 そして彼女とこの会話をしたこのとき、確か自分は、少しでも知識を頭に入れておこうと錬金術の本を片っ端から読んでいた。
「ええと……その、真理……というものに、笑顔は絶対に必要なものなの?」
「笑顔……何故?」
「だってウルグ、笑っているから」
「……それが?」
 ウルグのやや苛立ったその返事に彼女が首を傾げ、翠玉のような長く透き通った髪もそれに合わせて揺れる。さも当然のことのように彼女は言った。
「だってあなたは今、笑いたくないのでしょう?」
「……どうして、そう?」
「お母さまもお父さまも亡くなって、故郷も家も……そんなあなたがどうして笑いたいって思うの?……あの、わたし、上手く言えないけど……でも、あなたはあなたでいるべきって、そう思います。ウルグは、ウルグで」
 そう言う彼女の中で遠慮がちだったのは声色ばかりだった。
 いや違う、この少女の声が気後れしているように聞こえるのは、彼女が自身の心を上手く言葉にできないことへもどかしさを感じているためだろう。そうだ、ただそれだけである。むしろこちらへの遠慮などはなく、少女の翠を微かに纏う銀の瞳なんかは率直な思いをこちらへと伝えてきていた。
 その丸い瞳は暖かに優しく、残酷なほど無垢で、少しばかり厳しい。
 少女の言葉を聞いたウルグの顔から愛想笑いの色が消え、眉の間に深い縦皺が刻まれる。
 おれはおれで。
 なるほど、この國の姫さまは酷なことを言うようだ。
 彼は開いていた本を閉じ、深い溜め息を吐いて宙を見つめた。
「──これから、俺はどうすればいいんだろう」
「しばらくここに住んだら? ここで一緒に考えましょう!」
「できない。明日には此処を出ていくことになってる」
「……では、戻ってきてください。あなたが戻ったら、そのときには旅に出ましょう。真理、というものを求める旅に。だからここに戻るためにまず、生きて。生きて、ウルグ」
 少女の銀の瞳と目が合った。
 強く自分を惹き付けるその瞳に、少年の背筋は知らず知らずのうちに正される。
 心の奥の、自分しか気付かないだろういいや自分すら気付かないだろうさらに奥で輝く風が微かにだが立ち上った。
 ウルグはこの瞬間、己の生涯がまだ小さなこの少女と共に在るのだろうことを唐突に自覚し、それから人知れず心に誓う。
 生きることを。生きて、再び彼女の元へと戻ることを。
 それは何度でも、何度だって。
 己の生涯は、この少女と共に在るのだから。
 そう、そうだった、おれは生きねばならなかった。
 彼女の元へ戻るために、生きねばならなかったのだ。
 父の紅水晶が己を責め立てようと、母の亡骸がこちらを見つめていようと、魔獣と化した人の剣が腕を掠めようと、魔獣が肩を食い破らんと牙を突き立てようと、おれは生きねばならない。
 そうだ、そうだった、こんな処で死ぬわけにはいかないのだ。
 こんな処で、死を甘んじて受け入れるわけにはいかないのだ。
 涎を垂れ流し咆哮する、黒い毛並みに青の双眸をもった獣が目の前に立ちはだかり、こちらを見据えている。
 これは、おれか。
 これは、おれだ。
 ああ、そうなのだ。
 人の心には皆、太古より獣が棲んでいる。
 だから人は魔獣となるのだ、彼も、彼女も、父も、おれだって。
 だが。
 だが、こんな処で獣となってやる義理はない。
 おれは戻らねばならないのだ。
 戻らねば!
 ウルグを呑み込もうと覆い被さる黒の獣が、月の光を浴びて身を捩る。
 その光はウルグが呼び寄せた月の光、彼の心臓に眠る黒水晶を通り、闇を引き裂く一閃の光。黒の獣はみるみる縮んでいき、ついには小さな黒い虫と化した。
 ウルグはそれを片足で強く踏み潰し、振り返る。
 声が聴こえた、たいせつな者の声が。
 その声の方へ向かおうと一歩を踏み出した瞬間、強い衝撃に煽られて世界は反転する。
 瞬きをひとつした後にはもう、過去の幻は溶け消えていた。
「ウルグ、戻ってきなさい!」
 頬に強い衝撃を感じて、ウルグは数度瞬きをした。
 何が起きたのか分からず彼は、目の前で瞳を赤くさせているイルミナスを見上げ、状況を把握しようと思考を巡らせた。
 どうやら頬を強く引っ叩かれたらしい。右の頬がひりひり痛む。
 文句の一つでも言ってやろうと口を開いたが否、己の皮肉に歪めた唇から零れ落ちたのは思ってもみなかった言葉だけであった。
「……只今戻りました、姫さま──」
 そのわざとらしく、どこか皮肉に芝居がかった言葉を聞いたイルミナスは、不安を堪え赤くなっていた瞳からついにぼたぼたと涙を零し、力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
「お、お帰りなさい、ウルグ……! よかった……あなたが魔獣になってしまったらわたし、わたしは……」
 傷を受けた肩から血が流れ出ていることに自らも安堵しながらも、ウルグはいつものように皮肉っぽい口調で、両目から涙を地面に降らせるイルミナスに言った。
「そのときはさっさと君が殺してくれないと困るな、姫さま?」
「分かっています……もちろんです。そのときはわたしがウルグを手に掛けます。他の誰にも手は出させない」
 イルミナスは立ち上がっては涙を拭い、微かに強張った表情で言う。
 己が予想していた、姫さまのお人好しで或る意味気弱とも捉えられるだろうものとは全く違う返事が、彼女の口からこちらへと返ってきたことにウルグは多少驚きつつ、しかし、と顎に手を当てて唸った。
「俺は魔獣になりかけた、それは確かだ。だが……どうやらまだ人のままらしい。魔獣になりかけた者をこちら側へ引き戻すことは、できなくもないことのようだな」
「……こんなことを訊くのはおかしいとは思うのですが──どうやって戻ったのですか?」
「ふん──君の平手打ちが効いた、それだけだ……と言いたいが、そうだな……ルーミ、君の声が聴こえた。君がいるということを思い出せていなかったら、危なかったな。
 姫さまを魔獣化したウルグ・グリッツェンが喰い殺した──そんなことになれば俺の名に傷が付く、そうだろう? 悪運が強くて助かったな、俺も……君も」
「ええ、ええ。そうですね」
 イルミナスが呆れたように笑い、ウルグの方へ手を差し伸べる。ウルグは渋々その手を取り、近くの町へ戻るために歩を進めはじめた。
「……結局、人というものは──独りでは生きていけないものなのかもしれないな」
 呟くように言ったその言葉をイルミナスの耳が拾う。
 イルミナスは珍しいものでも見るかのような表情でウルグの方を見上げた。それから視線を前へ戻し、呟く。
「そうですね……きっと、そうなのでしょう。だから人も、魔獣になるのかもしれませんね……」
 気が付くと、ウルグの輪郭も、イルミナスの輪郭もいつの間にかやってきていた夜の色に溶けて、曖昧な色を保っていた。
 しかし月の光は彼らを照らし、自身もまた、熱い光に照らされている。
 ウルグの深い青色の瞳が白い月の光を受け入れ、いつもより柔らかく輝いた。
 夜明けを想うには、まだ早い。
 手に着けている手袋を外すと、やはり爪の中に父の紅水晶が瞬いて見えた。
 それでも、とウルグは両手を強く握る。
 それでも、おれは此処に、彼女の隣に戻ってきた。
 父を殺めてしまったこの両手で、何を求めるのか、何を手にできるのか、何を守れるのかは分からない。
 けれどそれでも、それでもおれは生きていくのだ。
 守りたいのは彼女の命、それさえ在れば、おれはまた此処に戻ってこられるのだから。



20160327

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