ホシノスナ
墓を掘っている。
眠るべき人が眠れるように。
墓を掘っている。
たいせつなものを埋めるために。
墓を掘っている。
眠るべき人の身体がそこにはないとしても。
歌を口ずさみながら、ピグ・デルタ・ケーティは棺桶を入れる穴を掘っていた。
少し休憩でもしよう、そう思ったピグは少し大きめな布の帽子を外し、それで顔を扇ぐ。彼の鳶色の髪が揺れ、それに呼応するかのように乾きを孕んだ風が彼の傍を微かに吹いた。
やさしき小鹿の滑らかな角、農村〈セルバート〉。
このあまり大きくはない農村にて、ピグは墓掘りとして生を営んでいる。農村の外れにある墓地が専ら彼の仕事場だ。
微かな風を頬に感じながらその場に佇んでいると、遠くから放畜民の鳴らすベルの音と羊の鳴き声が聴こえてきた。その音を背に、ピグは自らが足繁く通っているまだ若い樹木のところへと歩を進めはじめる。
──墓地よりも更に外れに、その樹木は立っていた。
少し力を加えれば倒れてしまいそうな樹木に、しかし気にせずピグは背を預け、長めに息を吐き目を閉じる。
しばらくそうして瞼の裏の黒に身を浸していたが、ざり、と靴が砂を踏む音を耳が捉えるとピグは目を開け、音のした方向へと視線をやった。
「……キトさん?」
そう呼ばれた青年はピグの方へは視線を向けず、ピグが背を預けている樹木を見つめながら言った。
「……また、此処にいたんだな」
「倒れそうだから切ってしまえ、と言われてるんですけどね、この木は……。キトさんこそ、何でこんな処に? そうだ、メグさんは?」
「近くまで通りかかったから、何となく。あいつはまあ……村の何処かにはいると思う」
キトは水筒を取り出して一口水を飲むと、木からは視線を外し、今度は墓地の方へ顔を向けた。
「さっき一回りしてきた。……少し、増えたか」
「そうですね。魔獣になってやむなく殺された人の墓も在りますよ、この辺は比較的平和な土地なんだと思ってたんですけど」
「……俺が死んだらそのときは頼むよ」
それを聞いたピグは呆れたように笑って、手をひらひらと振った。
「あんたが言うと冗談に聞こえないですね」
キトが黄金の瞳をほんの少しばかり細めて、微かに笑う。
ピグはそのことに小さな安堵を覚えながら、自身も墓地の方へ視線をやった。
キトやメグがかつて暮らしていた故郷の人々は、今、この〈セルバート〉の墓地に眠っている。キトとメグの家族も同じように。
彼らの村が在ったのは〈セルバート〉より少し先、それは小さな村だったが、この農村とも少なからず交流があったらしい。
その村が魔獣に襲われ壊滅した当時のピグは、やっと墓掘りという仕事に慣れてきた頃だった。
棺桶に入った村人たちを土の中に埋葬しながら、横目で見たキトの顔は、死人より死人、魂を何処かへ置いてきたようで、彼も土に埋まってしまいたいと思っているのでは、そう周りに思わせるものだった。
それでもピグは軽く歌を口ずさみながら、眠るべき人々の墓を掘った。周りに咎められようが、構わずに。
「歌うの、癖か?……仕事するときに」
「かも。まあ、いろんな人に怒られますけど。……人の死を悲しんで、そうして死んだ人が帰ってくるんなら、俺はいくらでも悲しんでやりますよ。でも、死≠チてさ、死って、そうじゃないでしょう」
ピグの緑柱石にも似た瞳が、木の葉の隙間から落ちる光に照らされて緑にも青にも色を変えて見えた。
キトは己の頬に在る傷痕を指先で触れ、そうしてから初めてピグの方へ振り向き、その緑柱石を自分の黄金で見た。
「あの日、お前が口ずさんだ歌を──まだ、憶えてる」
キトにそう言われたピグは、あの日、墓を掘るときに歌った歌を小さな声で口ずさんだ。
キトが頷いて、雲に覆われた空を見上げる。
「最近になって知った……それは遠い地の歌、らしい。地図に載っていないほど遠い場所の。古い文献にあった、それは死者の道を照らす歌──火を灯す歌、だと。……知っていて?」
「いや──初めて知りました。この歌、何となく知ってたってだけですし。遠い地の、ね……母親が歌ってでもしてたのかな」
その言葉を聞いたキトの黄金に疑問の念が浮かぶのをピグの瞳が捉えた。ああ、とピグは頷いて背を預けている樹木を仰ぐ。
「俺、此処で生まれたわけじゃないらしいので。聞くところによると、地図にない場所で生まれたんだとさ」
「……親には?」
「さあ。会ったことがあるような──ないような」
「そう、か……」
見上げた樹木は乾いた風に吹かれてその若い葉を柔らかく揺らしている。
昔、この木の下で、一人の魔獣と出会ったことがあった。
それは確か、先代の墓掘りが亡くなって数年、一人でも大分まともな仕事ができるようになったくらいのときだ。
その魔獣は樹木の下にうずくまり、もう身動きもできない状態だった。恐らく、衰弱していたのだろう。
魔獣の瞳には深い悲しみの色が、黄昏に喰われ砕けた鉱石の色が滲んで見えた。
見覚えがあった、というよりはその魔獣に己の血が震えたのだ。
幸福感からくるもののような、或いは懐かしさからくるもののようなぬるい熱が、血として自分の指先まで駆け巡り、木の下で息絶えそうなその魔獣の前から動くことが、ついには彼女が息絶え、砂になって往くまで叶わなかった。
そして、その黄昏に還り往く砂に、自ら手を伸ばしてしまった。
理由など分からない。
ただ、この手に掴んでおきたかったのだ。
だが、両の手に掻き集めた砂を胸に抱いてみても、あのぬるい熱、心地好い熱が帰ってくることはなかった。
この村に、彼女の墓はない。
魔獣になった者や遺体の見付からない者の墓は掘っているというのに、未だ彼女の墓だけは。
ピグは樹木から視線を外し、キトの方を見た。
「──もう、往くんですか」
「ああ、少し顔を見にきただけだからな」
「……気を付けて」
キトは頷き、じきに暮れる空を一瞥した。
また、夕暮れはやってくるのだろう。
昨日と同じように、似たような色、この世の終わりのような色を連れて。
キトが小さく、ピグの歌った遠い地の歌を口ずさんだ。それから歩き出そうとした足を止め、振り返りピグへ向けて言う。
「また来るよ。──生きてても、死んでても」
去っていくキトの背中を眺めながら、ピグは帽子を深く被った。微かに吹いていた風は止み、聴こえてくる羊の声も先ほどより遥か遠い。
ピグは胸元に仕舞ってある試験管を取り出し、少しずつ燃える色になっていく光にそれを翳した。中に入っている細かな砂が光を吸って、さながら星のように揺れ煌めく。
「……帰ってくるなら、人として帰ってきてくれよ」
手にした試験管を、再び胸元に仕舞いながら想う。
これが彼女の──認めよう、母の棺桶だ。
ならばおれは、おれこそが母の墓石となろう。
いつかおれに終わりがやってきたならば、そのときは共に昏く暖かい土の中で眠ろう。
それでいい。
もうこの血の中にあの熱が帰ってこないとしても、それでいい。
ピグは風のない空の下で、墓地へと向かって歩き出した。試験管の中の砂が、彼が歩を進めると共に揺れる。
夕暮れはもう、すぐそこまでやってきていた。
墓を掘っている。
眠るべき人が眠れるように。
墓を掘っている。
たいせつなものを埋めるために。
墓を掘っている。
眠るべき人の身体がそこにはないとしても。
墓を掘っている。
いつか訪れる死を想いながら。