月痕を追う


 空を見上げると、涸れゆく大地にそびえ立つ世界樹の葉が白い光を浴び、命を称えるように揺れていた。
 いつ見ても、この世界樹だけは世界の黄昏を感じさせない。
 イルミナスはひとつ息をおいてから、あまりにも大きいこの世界樹を見上げていた己の視線を隣人に移す。
「やはり、この世界樹は美しいものですね、ウルグ」
 感嘆まじりにそう言えば、ウルグはそれを鼻で笑い、世界樹を顎で指し示した。
「──世界樹〈カメーロパルダリス〉、か。……何故、この樹の下には人間が集まる?」
「それは、この樹が皆の希望だからでしょう。黄昏に負けない心をもっている、この樹が」
 イルミナスの言葉が希望の風を呼び、ウルグのうねる黒髪を柔らかく揺らした。髪が目に掛かるのを煩わしそうに手で払いながら、ウルグはその深い青で世界樹の根元辺りを睨み付ける。
 その近くには、世界樹に向かって祈る人々が身を寄せ合っていた。
「希望?……よくもまあ、そんなことが言える。こんな──たかが樹に祈った程度で救われるなら、今頃苦労はしていない」
 その遠慮の全くない発言に、祈りを捧げていた人々の一人がこちらを振り返ったが、彼女は曇り顔に少しばかり哀しそうな表情を浮かべただけで、またすぐに世界樹の方へと向き直ってしまった。
「ウルグの仰ることは分かります、が……こうしたものに縋りたくなる人たちもいるでしょう。愛する者……家族や友人を失った人たちの中には、この世界樹の輝きに救われる人も少なくないと……わたしは思います」
「……つくづく理解し難いな」
 ウルグの瞳に一瞬、夜の闇よりも深い色がちらついたのはイルミナスの思い違いだっただろうか。
 世界樹は未だ白光を浴びて、鮮緑の葉を煌めかせている。
 ふと、イルミナスの目が世界樹へ祈りを捧げている人々の中の、一人の女性を捉えた。
 彼女は先ほど、こちらを振り向いた人だ。真白の足元まであるローブ、顔はそのローブに隠れていてよくは見えない。
 世界樹の周りにはこういった服装の人が多く、別段彼女が浮いて見えるというわけではないのに、何故、自分の目に彼女が留まったのだろう。感じるのは、微かな違和感。よく目を凝らして彼女を見てみれば、畏れか恐怖か、彼女は小刻みに震えている。
 身体の具合でも優れないのかとイルミナスが一歩を踏み出したと同時に、その白ローブも立ち上がり、半ば酔っているような足取りで世界樹の根元を後にした。
 イルミナスがウルグを見上げると、彼も去っていった彼女を不審に思ったのか、眉間に皺を寄せている。
 イルミナスが何かを発するその前に、ウルグの瞳が冷たい光を閃かせ、少しばかりざらついた声で言った。
「……追うぞ」
「ええ?」
「あの方向はおそらく廃教会だ。……少々、嫌な予感がするのでな」


*



 ウルグの予想通り、白ローブの女性は世界樹〈カメーロパルダリス〉からしばらく東、黄昏の被害が顕著に表れている街道を外れた先に在る、廃教会へ向かっていた。
 女性が教会の中に入っていくのを見届けると、彼女から距離を取っていた二人は、そろそろと廃教会の中庭まで歩み出る。
「こんな処に教会が在ったのですね、ウルグ……」
 囁くようにそう言えば、ウルグは劣化で薄汚れ、ところどころにひび割れがあるものの、一応は教会の形を保っている建物を見据えながら答えた。
「此処には、魔獣を集める何かが在るらしくてな。……向かうなら此処だろうと思っていた」
「魔獣……? 彼女と魔獣に何の関係が──」
 言いかけたとき、廃教会の中から獣のような唸り声が聴こえてきた。
 まさか、あの中で白ローブの彼女が魔獣に襲われているのか。
 そう思ったイルミナスが剣の柄に手を掛けた瞬間、世界樹の下で彼女が目に留まったときと同じような違和感が、微かにイルミナスの心に広がっていった。
 今の声。
 獣のような唸り声。
 あれは、ほんとうに魔獣の発した声だっただろうか。
 あれは、人の言葉を発してはいなかったか。
 いいや、よく思い出せ。
 再度獣の唸り声が聴こえてくる。
 イルミナスは、喉に冷たいものが這い上がってくる感触を味わった。
 あれは。
 あれは人の慟哭のようにも聴こえないか。
 いいや、違う。
 しかし──あの声。
 あの獣の唸り声は──魔獣ではなく、教会の中の彼女が発したものではないか?
 冷たい蛇が身体を上ってくるような、どこか気色の悪いその心地を振り払おうと、イルミナスは頭を左右に振った。ウルグが静かな声で告げる。
「剣を抜いておけ」
 それだけ言うとウルグは顔色ひとつ変えずに教会の入り口まで進み、イルミナスが制止するよりも早く、そして何の躊躇いもなくその扉を開け放った。イルミナスが慌ててウルグの隣に並ぶ。
 廃教会の中はその名の通り廃れ、寂れていた。
 参拝者のための長椅子は床に倒れ、その姿はまるで風に吹き付けられたかのよう。かつて教会を鮮やかな色で彩っていたのであろうステンドグラスはそのほとんどが無残にも割れ、きな臭い風を教会に招き入れていた。そしてその風により舞い立つ埃や塵。それは、祈りの場とは思えない有様だった。
 何よりも異様なのは、教会の奥の女神像。右脚、左手、両の翼が失われている彼女は、それでも優しく微笑んでいる。
 イルミナスの瞳には、その姿がどこか歪なものとして映った。
「──来たのね、愚かな人……。世界樹のほんとうの美しさを分からない、愚かな人……」
 女神像へ向かい、此処でも祈りを捧げている真白は振り向かずに声を発した。その声は静かなものだったが、しかし奥の方にはさながら踊り狂う雀、つんざく鴉、血を貪る鷹の狂気を孕んでいる。
 ウルグが一歩を踏み出した刹那、彼女はこちらへ振り返り、獣の唸り声を上げた。
 彼女の右腕だけが大きく醜く、鋭い鉤爪をもった姿へ、木の砕けるような音を発し変形していく。
「ウルグ、これは……」
「魔獣化した人間だ。しかしルーミ、あれを人と思うなよ、人ではない。さっさと斬ってしまえ」
「しかし……!」
「ぐずぐずしているとこちらがやられるぞ、そら」
 ウルグがそう言うのと同時に、彼女の鉤爪がイルミナスの目の前まで迫ってくる。
 イルミナスは一歩引いてそれをかわしたが、今度は爪ではなく彼女の──魔獣化によるものだろう──鋭くなった歯、もはや牙に近いそれがイルミナスの首をめがけて喰らい付いてこようとした。
 イルミナスは身を低くしてそれをしのぎ、白ローブの両足を払った。
 魔獣といっても華奢な女性だ、足を払われたことによって教会の濁った色をした絨毯の上に仰向けに倒れ、すぐには立ち上がれないのか歯を剥き出しにした口元からしゅうしゅう音を立ててこちらを睨み付けている。
「愚か、愚か、愚かな……! ああ、何故黄昏を受け入れない。何故気付かない! 黄昏こそ我ら人を救う真の光、ああ、黄昏を受け入れれば身も心も楽になれるというのに!」
 喚く彼女に、イルミナスは意を決して魔獣のものとなった彼女の右腕を切り落とした。
 右腕を切り落とされた彼女から発せられる、獣の絶叫と人の悲鳴が入り混じった声が耳を裂くようだった。
「ああ! ああ! すぐに我も向かいます、向かいます! 黄昏よ、黄昏の元に……!」
 魔獣化した部分を切り落とせば、元の人間に戻るかもしれない。
 そんな淡い期待をイルミナスは抱いていたが、今度は彼女の左腕が魔獣のそれに変わっていくのを目にし、心臓が裂けて血が溢れ出しそうな思いで、剣の二振り目を彼女の心臓へ突き刺した。
 紅水晶が飛び散り、音は立てずに弾けながら教会の外へ出ていく。
 息絶えた彼女の身体は足から順に細かい砂に変わり、それもみるみる透明の色を纏いながら、紅水晶を追うように教会から出ていった。
 ぬるい温かさを保った血が自分の身に返ってくるのを想像していたイルミナスは、弾ける紅水晶を眺めながら、言いようもなければどうすることもできない虚無感に襲われ、落とすように言葉を発した。
「魔獣……なのですね、ほんとうに……」
「俺はそう言っただろう、ルーミ。魔獣は大地に還れない。血も流せないし、死んでから肉体も遺ることはない、そうだろう? 彼女はまさに魔獣のそれだ」
「──誰か一人を屠れば……」
 ひとりごちたイルミナスに、ウルグが怪訝な顔をする。イルミナスは、教会の絨毯に視線を落としたまま呟いた。
「一人を屠れば、他の同じ──獣と化した人も、今と同じように見捨てて屠らなければならないのでは……ありませんか? わたしたちが普段、魔獣にしているのと同じように。魔獣は黄昏に喰われた動物……でしょう。その動物たちをいつも見捨てて屠っているのと同じように、魔獣化した人も──」
「ならば、どうすればよかったと?──彼女を救う手立てがお前にはあったのか」
「いえ……」
 ウルグが教会を後にしようと踵を返した。イルミナスは未だ思案顔でそれを追う。
 ウルグがほとんど溜め息のような長い息を吐き、視線を動かさずに言った。
「知識も力もないのにすべてを救おうなどとは考えないことだな、姫さま。──だが君、君はこれしきのことで諦めるような心の持ち主だったか」
 イルミナスの顔が上がり、ウルグの青へ意識が向いた。
「俺は魔獣のことなどどうでもいいが、君はそれをよしとはしないのだろう。姫さまは自分勝手でいらっしゃるからな。君は、そうしたいと思う自分の心のために行動するのだろう?」
「わたしは……」
「魔獣と化したものたちは、二度と元には戻れない。そう決めたのは誰だったか、神か?──それならば仕方ない。しかし、違うだろう。そう決め付けたのは君だ、ルーミ。たった一度対峙しただけで、努力も研鑽もせずそう決め付けたのは君だろう。君は神か?……そうだったとしても、生憎俺は神を信じないたちでな」
 教会の中に強い風が吹く。
 その風は歪に笑った女神像を粉々に砕き、長椅子を起き上がらせ、割れたステンドグラスの間からきな臭い風と共に埃や塵を外へ追い出した。
 イルミナスの瞳に白い光がちかりと瞬く。
「魔獣について絡まっている糸を解けば、きっと何かが見えてくるはず……ウルグ、わたしは魔獣になったものたちを元に戻す方法も求めたい。それが神ではないわたしたちにできることならば。そこに黄昏を止める何かが在るかもしれないから──それに、彼女のような人をもう……わたしは……」
 目を伏せたイルミナスに、軽く笑ってウルグが問いかける。
「それを掴むまではどうする。俺が魔獣を屠るのか、姫さま?」
「まさか!──わたしもやります。命を還し、その責任をもって救う手立てを必ず見付ける」
「まあ、悪くはない答えだな。ならばルーミ、そのときは躊躇うなよ。こちらが喰われてしまえば元も子もない」
 イルミナスは頷き、ウルグと共に廃教会を後にした。
 外に出ると、もう日は傾き、斜陽が大地を照らし出していた。
 街道では斜陽に照らされた世界樹の姿が目に映る。橙や赤に染まった世界樹を見ても、不思議と美しいと思わないのは何故か。
 黄昏に還った白ローブの彼女が、白い鴉となってイルミナスの耳元で囁く。
 ──世界樹のほんとうの美しさを分からない、愚かな人。
 心と命を喰らい喰らい、成長し続ける黄昏。
 今、斜陽に照らされる世界樹はまったく黄昏の象徴のようだった。
 彼女はこれを見たかったのだろうか、あの教会でこれを待っていたのだろうか。教会の高台からなら、確かにこの景色がよく見えそうだった。
 イルミナスは首を振る。
 詮もないことを考えるのはよそう。今はただ、前へ。己の魂の向かう方へ。
 イルミナスは前を向き、歩を拾うウルグの深い青の瞳を見て想う。
 黄昏にすべてをくれてなどやらない、と。
 ただ己の心だけは、ただ、己の守るべきものだけは黄昏などにくれてやるか、と。
 黄昏に抗う。
 彼女はその決意を一層固いものとした。
 そのために今はただ、前へ。一つずつ歩を拾っていくしかない。
 彼女を後押しする風は、輝く銀を纏っていた。



20160303

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