望郷


 柘榴色の髪を砂の絡んだ風になびかせながら、彼女は握っている自らの斧を男のようにしっかりと腰を据えて振り下ろした。
 こちらの命を喰らおうとした魔獣の命が、彼女の目の前で弾ける音がする。
 瞳の奥で燃えていた夕暮れの炎がゆっくりと沈んでゆくのを彼女は感じ、一呼吸置いてから、背中合わせで魔獣と戦っていたもう一つの命に声をかけた。
「片付いたね、キト? 怪我してない?」
「ああ。……お前は」
「してないしてない、だいじょうぶ」
 そう言って笑うのは、メラグラーナ・ジェンツィ。
 彼女の柘榴色の髪は、その笑顔に呼応するかのようにゆらゆらと揺れている。
 その隣で振るっていた大きな盾を地面に突き刺しているのはキト・アウルム。
 彼はメラグラーナ──メグの幼馴染であり、現在は護衛として共に旅をしている青年である。
「いやあ、今日は空が真白だねえ。次の街までかなりあるし、やっぱ飛空艇使うべきだったかな」
 魔獣との戦いで強張っていた身体を伸ばしながら、メグが空を見上げてそう呟く。そんな彼女の様子を見て、キトは溜め息を吐いた。
「歩いていくと息巻いていたのはお前だ」
「そうだっけね」
「俺は大人しく飛空艇を使えと言った──俺を雇う金をそっちに回せば良かっただろ」
 そう言われたメグは自らの得物である大振りの斧を地面に降ろし、左手を腰に当てながら、ぴっと右手の人差し指を上げる。
「まあ、それも一理あるわね。でもさあ、あたしはキトと話したかったわけだし、キトもちょっとくらいあたしと話したかったでしょ? 久しぶりに会ったんだし」
「いや……べつに……というか、お前とは先月にも会ってる」
「……ほんとに……ぜんぜんかわいくないねえ、あんた」
 そんな風にして、幼馴染同士にとっては最早日常茶飯事である小戦を二人は繰り広げる。
 すると、棘を含みながらもどこか和やかな空気が勝っている二人の間を馬の嘶きのような音が裂いて入った。
 これは。
 自分の背後に何かいる、その気配を感じ取ったメグは素早く振り返った。そうしてしかし、自分の得物が地面にあることに彼女は気が付く。
 まずい。
 メグは一瞬で背骨の奥が冷えるのを感じた。
 一度目の前の魔獣と距離を取ろう、彼女がそう思うよりも速く、何か大きな物体が魔獣を薙ぎ払い、叩き付けて紅水晶を散らす。
「──油断するな」
 大きな物体──それはキトの大盾であった。
 彼は魔獣の亡骸が紅水晶と砂に還って往くのを見届けてから、緊張の糸を切って息を吐く。
 油断するな。
 そう言った彼の表情。
 それを見て、感情が骨になりかけている彼の瞳の奥に、怒りと焦燥がちらついたことに彼女は気が付いた。
 メグは自分の目の前に星が飛び散り、心臓が凍る寸前まで冷えたように感じた。
 彼女は荒くなる呼吸を抑えながら、視線を地面に落とす。
「……メラグラーナ?──おい、メグ」
 メグの顔が青くなったり白くなったりするのを訝しんだキトが、彼女に声をかける。その声にはっと顔を上げたメグは、困ったように髪を弄りながら笑った。
 しかし、それは青白い顔のままで。
「──ほら、護衛……必要だったでしょ? ありがとね」
「……だいじょうぶだ」
「え?」
「お前は怪我をしてない、俺も。今は昼間だ。誰も死んでない、血も流れてない」
 キトのその言葉が何を指しているのか、理解できるのはおそらく彼女だけだった。
 心の隅に潜んでいる、時々視界にちらつく爛れた傷痕。その傷痕が顔を覗かせた。
 キトは遠回しに今日はあの夜ではない、ということをメグに伝えたのだろう。彼女もそのことには気が付いていた。
 魔獣は黄昏に還り、自分たちの血は流れていない。
 二人とも、生きている。
 地面に、立っている。
 それが分かった今、彼女の目の前を飛んだり跳ねたりしていた混乱の星たちは空に帰ったが、彼女の心臓は先ほどとは違った理由で冷たくなっていた。
「ごめん。……ねえ、あたしは強くなりたかったんだよ。なりたいんだよ。強くなってさ、たいせつな人を守って……あの夜死んだ、みんなの代わりにいろんな景色を見て、生きたいって」
 独り言のように呟くメグの言葉を、歩き出そうとしていたキトの耳が拾う。彼は振り返り、いつもと同じように溜め息を吐いては淡々とした口調で言った。
「お前はいろんなことを気にしすぎなんだ。重たいものは持てるやつに任せておけばいい。そうだな、たとえば俺みたいなのに」
「それが嫌だったんだって! そうやってあたし、キトに色んなもの背負い込ませてさ──あたしは笑えるようになったけど、あんたは……キトにそんな目をさせてるのは、あたしのせいだよ。偉そうに現実に生きろだなんて言える立場じゃないのに、ほんとは」
 自分の目の前で、火が弾けるのをメグは感じた。
 気を許せば爛れた傷跡からあの日の憤りと憎しみが舞い戻ってきそうだった。黄昏と、それが蔓延らせた魔獣と、何よりも自分への憎深く苦々しい怒り。
 ──あの日、キトへ当たり散らし、それを彼が涙を忘れて食べ、飲み込んだはずの感情。
 キトの瞳から黄金の輝きを失わせたあたしの感情!
 許せもしないあの日のあたしだ!
 あの日の憎悪を彼に押し付け、それを背負った彼が己の感情を殺してしまったという事実が、新たな憎悪を呼ぶようだった。
 しかし、ふと顔を上げると、キトの周りに夥しい数の金の粒がメグには舞って見えた。彼女はそんな彼の様子に少しばかり驚いて思わず瞬きをする。
「黄昏のために死ぬな、お前はそう言った。そのまま返す。それと死にながら生きるなとも言った、じゃあお前は死んだ人間のために生きようとするな。
 俺の目が何だ、感情が? 死んだ家族のために泣けなかったら死ぬのか。大笑いできないと死ぬのか。家族のために泣いて笑えばみんな生き返るのか。──俺がこんなのになったのは俺のせいだ。メグのせいじゃない。憎むな、絶対。自分を憎むな」
 メグの心臓の奥で、キトの瞳の色によく似た金の鳥が影を背負いながらも声を上げ、小さな花の種を蒔くようだった。
 彼女は口を一文字に結び、溢れ出しそうな涙を何とか押し止めた。
「あの日もそうやってキトに頼った」
「何が悪いんだ」
「──全部」
「……べつにいいんだよ。何が悪くたって、俺にはどうでも。何でお前が気にするんだ? メグが笑えばいいだろ、俺の分まで。泣けばいいだろ、べつにさ。死んだ人間の代わりに何かするなとは言ったが、生憎俺は生きてるんだ」
 キトがそう言うと、瞬いたメグの瞳から一粒涙が零れ落ちた。
 それと同時に、彼女は柘榴色の髪を揺らして笑う。堰を切ったようにぼたぼたと地面に染み込んでゆく涙、それに比例するように彼女の肩は震えた。朱が差した頬は涙のせいか、抱腹のせいか。
「……同時にしろとは言ってない。忙しいやつだな」
「いや──うん、そうなんだけど……照れ臭いこと、あんた真顔で言うから可笑しくなっちゃって」
「……それだけ元気なんだったらだいじょうぶだろ。──置いてく」
 顔をしかめたキトがぶっきらぼうにそう吐き捨てて歩を進めていく。
 メグは胸に手を当て、自分の心を覗いてみた。
 あの日の爛れた傷跡。
 在った。
 顔をちらつかせるそれが、消え去ることは決してないのだと彼女は悟る。黄昏と自分への怒りと憎悪も。それらは一緒に生きていくものなのだ。そして、自分を静かに叱咤した彼の表情を思い浮かべる。
 彼の感情は死んでなんかいない、ただ忘れているだけで。
 それは、分かる。
 それがあの日、自暴自棄になり燃え散る村へ戻ろうとする自分のことを彼が抑え、支えてくれたからだということも。自分の感情よりもメグが生き延びることをたいせつに思った彼のおかげで、彼女は今生きて笑っている。
 だが、そのせいで彼の感情は骨になったのだ。
 そんな自分を許せるわけがない。憎まないことなんてできるのだろうか?
 だが、心に憎しみを蔓延らせていれば、いつか黄昏に心を呑まれる。そうなれば、彼が自分を助けた意味も黄昏に喰われてしまう。そんなことは許されない。
 それよりもまず、彼が憎むなと言っているのだ。
 自分を憎むな、と。
 キトの周りを舞っていた金粉を想い出しながら、彼女は心の中でそれを金糸に変えた。爛れた傷跡に怒りと憎しみを押し込め、その金糸で入口を縫い付ける。傷跡の中でしばらくの間二つの感情が暴れたが、それは彼女の肩を時折震わせるだけに止まった。
 守るべきたいせつな人の色で縫い付けたのだ。揺らぐわけがなかった。
 長い時が経てばこの二つも次第に溶けて水になり、彼女の心の花を咲かせるだろう。
 金の鳥が蒔いた小さな花の種──竜胆を。
 顔を上げると、キトが如何にも早くしろといった表情を浮かべ、数歩先でこちらを見ていた。メグは小走りで彼に追い付き、問いかける。
「明日は晴れると思う、キト?」
「……お前が、そう思うなら」
 見上げた空は相変わらず真白の色をしているが、しかし二人の瞳には明日の青空が見えるようだった。
「──雲はいつか晴れる。それが空だろ」



20151114

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