帰郷


 灯台の前で、ぼんやりと遠くの景色を眺めている、一人の青年がいる。
 彼はそこに佇んだまま、自らが先ほどまで背負っていた大きな盾を地面に降ろし、孔雀緑の髪は風に遊ばせたままにさせていた。一房だけ伸ばした左目近くの前髪には、孔雀緑の中にどこか菫の色が混じって見える。
 彼の瞳の黄金色は、一見するととても美しいものに見えるが、彼の前に立ってみると、その両目が何物も映してはいないことが分かった。彼の黄金は濁り切り、今やそれは錆びた金メッキのような色を帯びている。
 青年の名前はキトと言った。
 キト・アウルム。
 彼はガーディアン──主に護衛業である──を生業とし、常に大きな盾を背に負っていた。
 キトの顔には、頬から鼻頭にかけて火傷の跡のようにも見える大きな傷痕が在るが、多くの者は彼が仕事中に負ったものなのだろうと推測し、その傷痕について深くは追及しようとしない。
 彼にはそれが助けとなった。
 この傷痕については他人に語りたくもなかったし、負った原因を思い出したくもなかったからである。
 此処はたそがれの國=A〈ソリスオルトス〉。
 滅びゆくこの大地の上に人々が立っているように彼もまた、この黄昏の地に立っていた。


*



 ──絶望をも力に変える強き山羊の四肢、崖の上の街〈ツィーゲ〉。
 それが彼が今佇んでいるこの街の名前であった。驚くべきことに、この街は断崖絶壁に立っている。
 断崖絶壁のこの街のいちばん高い場所に、キトの後ろに在るその古びた灯台は腰を下ろしていた。そこから大地を見下ろせば、眼界に広がるのは一面の白色。
 そこは昔海≠ニ呼ばれ、様々な生き物が住む水の都だったのだと云われてはいるが、広がる白色に最早その面影は遺されていなかった。
 海はとうの昔に乾上がり、今では無限に続くかのようにも思える塩の里となっている。
 その景色は彼の瞳に映ってはいなかったが、それでも彼は灯台の前で大地を見下ろしていた。
 そうして時が過ぎるのを待っていると、突然視界に深い赤色がちらつく。誰かが自分の目の前に立ったのだ。素早くそう感じ取ったキトは顔を上げ、それと同時に、その誰かの口から呆れたような声色で言葉が降ってくるのを感じた。
「やあっと見つけた。参るよ、何処探しても見当たんないんだもん、あんた。……ちょっとキト、聞いてんの?」
 そう言った誰か──彼女は、腰ほどまであるたっぷりとした柘榴色の髪を揺らして溜め息を吐いた。
 長い髪の毛先は、キトの左目近くの前髪と似たように竜胆の色を元々の柘榴色に纏わせているが、キトはそれには目もくれず彼女の顔を一瞥した後、こちらも同じように溜め息を吐いた。
「メラグラーナ……何で〈ツィーゲ〉に。お前は〈ルナール〉を拠点にしてるはずだろ」
「なあに、幼馴染に対してそのかわいげのない呼び方は?……まあ、名前で呼ばれてるだけまし、なのかしらねえ。昔はメグ、メグってかわいかったのに」
 メラグラーナと呼ばれた彼女は不服そうに腰に手をやって小言を言った。
 メラグラーナ・ジェンツィ。
 それが彼女の名前である。
 彼女の名前は呼びにくいため、大抵の者は彼女をメグと呼ぶ。これは彼女の愛称でありメグ自身も気に入っているのだが、目の前の青年は意固地になっているのかメラグラーナを愛称で呼ばずそのままの名前で呼んでくるのだった。その度にメグは、
「かわいげがない」
 と溜め息を吐く。
「……質問」
「はいはい。──拠点って言ってもねえ、あたしは冒険家だし。同じ処に長い間留まってられないわけ。分かるでしょ?
 〈ルナール〉を拠点にしてるのはあそこが商業都市で旅に必要なものが一通り揃って手に入るから。これも分かるでしょ。……で、今は旅の途中で……あんたがいる〈ツィーゲ〉に顔を出してみたってわけよ、ついでにね。
 分かった? これで分からないことはもうないね、満足?」
 呆れたような笑いを浮かべながら、メグの赤銅色の瞳がキトの黄金を見据えたが、キトはその輝いて見える瞳からはすぐに顔を背けて地面に座り込んだ。
「……〈ルナール〉から〈ツィーゲ〉まではかなり距離がある」
「あんたね、あたしが此処まで徒歩で来たと思ってんの?……あたしにどんな印象持ってるのよ……。気球で来たの。まあ、流石に飛空艇使うお金はないからね。そういえばキト、仕事は?」
 包帯が巻かれたキトの手のひらが、隣に置いてある盾を撫でた。
「さっき終わった」
「さっき? じゃ、〈ツィーゲ〉までの護衛だったのね」
「……いや。〈ツィーゲ〉からすぐの村までの護衛だった」
 それを聞いたメグは、多少驚きの表情を浮かべながらキトの前に腰を下ろした。抱えていた旅の荷物と背負っていた大きな斧も次いで地面に降ろす。それから地面に胡坐を掻き、腕を組んだ。
 メグのその様子をぼうっと眺めたキトは心の中だけで女らしさの欠片もないな、と言った。
「へえ。そんな近場までの護衛を頼む人もいるんだ」
「最近は多い。……魔獣が増えたからな」
「まあ、言われてみれば確かに。中々歩きにくいったらありゃしないわよね。でも、だからっていちいち護衛頼んでたら冒険なんてできないねぇ、お金もなくなるし」
「お前みたいに楽観的な人間の方が稀なんだよ。人類みんな冒険家みたいな考え方はやめたらどうだ」
 そう言われたメグは、突然真面目な顔をしてキトを見た。彼女の瞳に、キトの錆びてしまった金色が映り込む。
 キトの瞳は地面の上を彷徨っていたが、それでも彼女は彼の瞳を見据えて言った。
「だからってキトは悲観的すぎだよ。ねえキト、まだ引きずってる?」
 メグの言葉の節々に、何か怒りの棘のようなものがあることをキトの耳が感じ取り、彼の肩を微かに震わせた。
 頬の傷が痛むような錯覚を感じたが、しかし彼がほんとうに痛かったのは心臓の奥であったのかもしれない。
「……うるさいな」
 彼は静かな声で呟いた。
 それは傍から見れば感情を感じさせないいつも通りの彼の声であったが、それが少しばかり震えていることにメグは気付く。彼の声にちらついたのは怒りか動揺か、はたまた深い哀しみか。
「何にも考えたくないのは分かるよ。あたしだってあのときはそうだったもの。でも、もう……あれから何年経った?……五年──五年よ」


*



 少年時代、キトとメグは同じ村に住んでいた。
 二人とも家族に恵まれ、互いに幸せな生活を送っていた。
 しかし、そんな幸福な日々を黄昏は許してくれなかったのだ。
 その村では日照りが続いて水が涸れることも、砂嵐が農作物や家畜を攫っていくこともなかった。この村は大丈夫、そこに住む誰もがそう思っていた。
 だが、或る日の夜だ。
 或る日の夜、魔獣たちが村を襲った。それは突然に。
 鋭い牙をもつ狼のような姿をした魔獣と、火を吐く小さき竜の魔獣が何の前触れもなく無数に現れたのだ。
 戦い方を知らない村人たちはなす術がなかった。そんなものあるはずもなかった。そして幼かったキトとメグも、もちろんそうだった。
 平凡に幸せな日常の中に在った、その日──いつかの今日≠ノ彼らの日常はいとも容易く、まるで紙切れのように破り捨てられていった。
 自分の親しかった友人が、狼の牙で切り裂かれている。
 隣の家の若い夫婦が、互いを庇い合いながら、まるでごみのように転がっている。
 メグの母が未だ、燃え盛る火の家の中にいる。
 キトの弟の、清らかな首の骨が折れる音が聞こえる。
 それでも、彼らは動けなかった。
 自分のたいせつな者たちが死んでいくのをどこか呆然と、ともすると他人事のように見ていた。
 目の前で起こっていることが何一つ、現実として信じられなかったのだ。
 魔獣たちはそんな彼らのことなど見えていないかのように村を蹂躙し、灰すらも燃やし尽そうとしている。
 自分たちを命からがら村の外へ逃がしたキトの父が、狼の爪で背中を切り裂かれる前に何かを言っていたような気がするが、最早それは言葉としてキトには届かなかった。
 そのとき、父の熱い吐息だけがただ現実のかたちを保って自分の頬を灼き、そして柔い心臓を突き刺した。


 ──ああ。
 ああ、これはあの夜の記憶か。
 キトは痛む心臓の奥でそんな風に思った。
 何故、今になって。
 仕事に明け暮れて、あの夜のことなどとっくの昔に忘れたつもりでいたというのに。
 メグが、メラグラーナがあんなことを言ったせいだ。
 何であんなことを。
 こんな記憶と向き合ってどうしろと言うんだ?
 未だ、涙が出ないというのに……
「……キト、酷い顔よ。眉間に皺、寄ってる」
「お前がそうさせた」
「あたしのせいにするの? まあ……そっか。そうだよね。でも、ほんとうに──自分のために生きなよ、キト」
「……生きてる」
「生きてない。あんたはね、今、忘れるために生きてんの。それって、黄昏のために死のうとしてるのと同じよ。……このまま生きたら、だけど」
 彼の黄金が揺れ、少し赤みを帯びた。
 あの夜のことが走馬灯のように頭を駆け巡り、目の前を紫電が走り去ってバチバチと極彩色が弾ける。叫び声を上げそうになる自分を抑え付け、彼は肩で息をした。頬に残ったあの夜の傷痕が唸りを上げている。
「……あのとき、死んだんだよ」
「え?」
「きっと、あのとき死んじまったんだ、俺は」
 ──あの夜、メグは怒り狂い慟哭した。
 赦さない。
 赦さない。
 赦さない。
 そう獣のように喚きながら彼女は泣き叫んだ。
 メグと一緒に泣けたら良かった。しかし、自分は泣けなかった。涙が出てこなかったのだ。
 それは、致命傷を負った人間が、傷の痛みを一瞬感じないのと同じである。
 それがあまりに鋭い一撃だったものだから、身体が傷を負ったことに気付かず、そのまま傷口は固く口を閉ざし、切り裂かれた肉と肉はくっつき合ってしまった。いちばん深いところでは冷たく淀んだ血ばかりが流れ、傷付いた部分は骨のように固くなり凍り付いてしまったのだ。
 メグのように泣けたら良かったのだろうか?
 だが、あの夜の彼は村へ戻ろうとするメグを制して支えて、近くの村に向けて歩を進めることに自分は精一杯だった。
 メグまで失うわけにはいかなかった。
 メグまで失えば今度こそ、自分は心臓の奥まで凍り付き、ほんとうに骨になってしまうと自分の心が何より分かっていた。
「──キト、一緒に往こうよ」
 ふと、目の前にメグの手のひらが差し出された。
 彼の黄金は揺れ、宙を彷徨ったが、しばらくするとその手のひらをゆるりと払った。
「……もう、いいんだよ。いいんだ」
 そう彼が言うと、メグは諦めたように荷物を持って立ち上がり、少しばかり震える声で言い放つ。
「そう……分かった。キトがいいなら──いいよ」
 それから踵を返して元来た道を引き返す彼女を、嵐が去ったような気持ちでキトは眺めていたが、彼女がすぐに振り返りこちらへ戻ってくるのを見て、彼は微かに眉根を寄せた。
「よくない。いいわけないでしょ。馬鹿じゃないの、あたし」
「何がしたいんだ、お前……」
「護衛して。次の目的地まで」
 そう言って彼女は革の袋をキトに投げて寄越した。ジャラ、と金属の音がしてキトはすぐに袋の中身を察する。
「……金は、ないと」
「あんたを雇うくらいのお金はあるよ。それにキト、あんたはもっと人と話をしないとだめ。キトのおかげで生きてる人はたくさんいるのに、あんたが死にながら生きてるなんて、絶対だめ。黄昏が許しても、あたしが許さない。あの夜、キトがいなかったらあたしは死んでたよ、絶対──あたしはキトのおかげで生きてる」
「そんなわけ──メラグラーナは強い。あの夜、俺がいなくても生きていけた」
 キトが地面に視線を彷徨わせると、メグは柘榴色の髪を振り乱して叫んだ。
「あたしがそうって言ってんだから、そうなんだって! 何で素直に受け取らないかなあ!……ねえ、あのときキトのお父さん、何て言ってたか覚えてる?」
「あれは……いや、聞き取れなかった」
「──生きろ。……そう言ってた。だからさ、やっぱり生きなきゃだめだよ、キト。あの夜、あんたもあたしに言ったんだよ、生きろって。覚えてないだろうけどさ。ね、キト──生きよう」
 喉の奥で何かが溶けていくような、不思議な違和感を覚えて彼は腕に爪を立てた。それでもやはり涙は出てこなかったが、彼はほんの少し、それは目にも見えないほどに少しだけだったが、彼女に向かって確かに笑ったのだった。
「次の目的地まで、だ。メグ」
「うん、それでいい。……腕は立つけどひどく無愛想なガーディアンって、あんたの噂でしょ。そろそろ変えない?」
「それは別に……どうでもいい」
「あーあ。まったく──かわいげがないなあ!」



20151104

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