ひろがる翅脈


 ウルグ・グリッツェンは考えていた。
 黄昏とは一体何か、とを。
 それにより水が涸れる理由、國に魔獣が蔓延る理由、空が濁る理由、人々が滅びる理由。すべてに何かしらの根拠が在り、この世に意味のない事柄など一つ足りとて在るはずがない、彼はそう考えている。
 どこかきな臭い風が彼の頬を撫でていった。
 倒壊した何かの研究施設らしき建物と、ひび割れて朽ちゆくのを待つばかりの道とも呼べない大理石の道だったものが、歩を進めるウルグの瞳に映る。
 酷い有様だな。
 ぼんやりとそう思いながら、彼は自ら錬金術で作り出した毒消し効果のあるタブレットを口に放り込んだ。銀薄荷の香りが鼻から抜ける。それからふと、背後に何者かの気配を感じ、彼は短く冷えた息を吐いた。
「──外で待っていろと言わなかったか、ルーミ」
「すみません、ウルグ。でもやっぱり気になります、この都市のことは」
 その気配はウルグがこの廃れた場所に入る前に、外で待っていろと命じたはずの人物のものであった。
 ──イルミナス・アッキピテル。
 ウルグと共に黄昏の真実を求めて旅をする剣士、それが彼女だ。
 光が当たり翠色に輝いて見えるイルミナスの剣が、張り付く血のような紅水晶で濡れそぼっているように見えた。
 紅水晶、それこそ魔獣の血液。
 彼女はその張り付く紅を振り払い、それからゆっくりと辺りを見回した。
「入口の方にいた魔獣は退治しましたが……都市の外よりも魔獣が多い都市というのは些か異常ですね、ウルグ?」
 こちらの気も知らずにそう言い放つイルミナスを見て、ウルグは眉間に皺を寄せた。
 だが、最早この娘に何を言っても無駄だと彼は感じ、溜め息を吐いてから諦めたように青碧の色を纏った冷たく小さな缶を彼女に投げて寄越した。
「それには毒消しの効果が有る。此処には何が在るか分かったものではないからな。とりあえず口に入れておけ」
「ありがとうございます。……少し苦いですね」
「流石姫さま、味にはうるさいというわけか。……文句があるなら返せ」
「もう、またそれですか? 美味しいです、美味しいですよ、錬金術師さま」
 そんな風に小競り合いをしながら荒廃した都市をしばらく歩いていると、イルミナスが何に気が付いたのか、はたとした表情を浮かべ、口を開いた。
「この都市──とても人の住める環境ではありませんね」
「……見れば解るだろう」
 何を今更。ウルグの顔がその言葉を言わずとも物語っていた。
 それを見たイルミナスは片手に握っていた剣を鞘に収め両腕を組むと、右手の人差し指だけを上げてわざと問いかけるような仕草をつくる。しかし、そこから発せられた彼女の声は、どこか咎めるような色をしていた。
「ウルグは此処を拠点にしていると言っていました。何故?」
「何かと思えば……つまり姫さま得意の心配性か、回りくどい言い方をするな。
 ……此処には前時代──かわたれの時代≠フ遺物が多く遺されている。例えば目の前の研究施設、これもそうだ。中にはまだ使えるものも多い。人がほとんど訪れず、錬金術に応用できる遺物がその辺に散らばり、豊富な研究材料と見てくれは悪いが前時代の知識が詰まった施設があちこちに在り、その施設の中の埃っぽい雰囲気も、錬金術やその研究に集中できて中々どうして悪くない。
 話だけ聞けばこれほどまでに俺向けの都市はないだろう──魔獣がいなければ、だがな」
 目の前の寂れた研究施設から視線を外さずに彼は言った。
「なるほど……つまりこの施設がウルグの拠点なのですね」
 イルミナスが困ったようにウルグの視線の先に自らの視線も合わせたが、ウルグはさして気にも留めずに施設の扉を開けて無遠慮にその中へと進んでいく。
 イルミナスはそれを肯定と受け取り、後に続いてゆっくりと歩を進めた。


*



 ──絶滅都市〈ゼーブル〉。
 この崩壊した都市のことを、いつか誰かがそう呼んだらしい。
 崩れかけた黒塗りの壁、元々は美しい白色をしていたであろう大理石の道は最早その原型を留めず割れ朽ちている。道から道へ点在するのは倒壊し、何かも分からない液体が垂れ流されるばかりの研究施設。
 今、この都市に在るのは濁り切った白と黒のみ。
 その姿はまるで、獅子に喰い荒らされた縞馬の亡骸のようだった。
 しかし、黄昏が大地を蝕みはじめる以前の時代──人々はその前時代をかわたれの時代≠ニ呼んでいる──の遺物が多く遺されているこの都市に興味をもち、此処は人の住めるような環境ではもちろんないが大勇か蛮勇か、この都市を拠点に生活している者も中にはいる。
 ウルグ・グリッツェンも、そういった者たちの一人だった。
「……結構改造してません? この中」
 イルミナスは施設内をぐるりと見回し、少しばかりからかうようにそう言った。
 扉から入ってすぐの大きな一部屋は、イルミナスの言う通り、かなりウルグの手が入っているように見える。
 部屋の中央には巨大なフラスコ、その周りには大小様々な錬金釜が点在している。長机の上には図形のようなものが書いてある古書や巻物、地球儀や天球儀──おそらく錬金術の道具なのだろう──細々とした器具が道具箱の横に散らばっていた。
 さらにこの部屋は、天井まである背の高いびっしりと書物の詰まった本棚が壁を一面覆っている。その姿に圧倒されたイルミナスは短く息を吐いた。ある意味で、人の住める環境ではない。
 そう感じた彼女は、ウルグは此処でどうやって生活しているのか、と、何か生活感のあるものを探したが、彼女が見付けたのはついに毛布の掛かった夜深青のソファだけであった。
 イルミナスは額を押さえ、思う。
 ウルグ・グリッツェンという男は、ほんとうに自身の研究以外には無頓着な人間らしい……
「手を加えたのはこの部屋だけだ。他はそのままにしてある。面白いものも多いのでな……ルーミ、さっきから何をしている?」
「……ウルグは普段何処で寝ているのですか?」
 そう訊かれるとウルグは視線は動かさず、イルミナスが立っている辺りを指差した。
「そこにソファが在るだろう」
「……やっぱり」
 イルミナスは呆れたように乾いた目線を彼に向けて寄越したが、ウルグは片方の眉を微かに上げて、分かっているなら訊くなといった表情を浮かべるだけだった。
「〈ゼーブル〉で研究していて何か解ったことはありました?──錬金術以外のことで」
「回りくどい。君が訊きたいのは黄昏についてのことだろう──ついて来い。……ああ、それとその金具には触れるな。魔獣除けの仕掛けがしてある」
 それだけ言い捨てると、彼は今居た部屋を左の方に在る扉から出ていってしまった。イルミナスも急いで後を追うが、ウルグは足早に長い通路の奥に在る扉の中へと消えていった。
「黄昏もただ理不尽に、理由も無く訪れたわけではない──何事にも理由は在る」
 息を切らしウルグを追って扉を開けて入ってきたイルミナスを一瞥し、彼は言った。
「これを見てみろ。人の傲慢さが見て取れる」
 そう彼が視線をやった先には、大きな電球のような形をしたものが在ったが、イルミナスにはそれが何かは解らなかった。
 そこからは太い管が出ており、施設の床を突き抜け地面に刺さっている。状態からしてかなり古いものらしい。かわたれの時代の遺物だろうか。
「──前時代の人間はどうやらこれで大地を意のままにしようとしていたらしいな。これは特に植物を生やすことを目的とした装置だ、今は動かないが。〈ゼーブル〉には植物の研究施設やこういった装置が多い。──逆に植物が生えなくなってしまったのは皮肉だな。遺跡を調べると植物だけではなく四大元素や天候を操ろうとした装置や痕跡も出てくる」
「ええと、つまり?」
「黄昏は人の業だ」
 淀みなく言い切られた彼の言葉に、イルミナスはしばらく呆然としていたが、しかし彼女は突然意識を取り戻しては巨大な装置に近寄った。
 そうしてその古い装置を見据えながら、イルミナスは口を開く。
「ウルグの言うことが事実でも──それには何か理由が在るはず。何事にも理由は在るのでしょう、ウルグ。
 ……例えば、この装置を造った理由。それは黄昏が世界に訪れはじめたからだとしたら? 黄昏が大地を蝕み、植物が枯れた。だから彼らは植物を再び生やそうとこの装置を造った……そうは考えられませんか」
 そう言い切ってから彼女はウルグの方へ視線を移したが、彼の深い青色が動いた様子はなかった。
 深い沈黙の後、ウルグは深い溜め息を吐き、それを破る。
「君のそういう善意的な意見をすべて否定する材料は残念ながら此処にはない。──だが、考えてみろ。人間とは欲深くはなかったか? 浅はかで愚かで傲慢ではなかったか。俺は君の意見を肯定する気にはなれん」
「でも──決してそれだけではありません。それだけではないはずなんです。今だって人々は黄昏を止めようと力を合わせて……」
「止まったらどうなるか分かったものではないがな」
 ウルグは嘲るようにそう言ったが、イルミナスの目が三角になったのを見てそこから視線を逸らした。
 懐から煙草を取り出し、火を点ける。
 肺まで吸い込んだそれを彼は呼吸と共に吐き出し、部屋を紫煙で満たした。
「ウルグだって黄昏を止めようと研究しているではありませんか。あなたの言う、愚かな人々のために」
「馬鹿を言うな。俺は黄昏を止めようなどとは思わん。錬金術の次に興味があるから調べているだけだ、自分のためにな。──どちらにせよ、黄昏は止まらないだろう」
 それを聞いたイルミナスは眉間に皺を寄せてウルグに近付いた。
 そんな彼女に彼は別段驚きもしなかったが、イルミナスが彼の銜えている煙草を口から取り上げたときには、流石の彼も少したじろいだ。
「煙草は身体に悪いから控えるようにと言いませんでしたか、ウルグ」
「俺はそれがないと生きていけん」
「これをわたしが吸っても同じことが?」
「姫さまの口には合わんさ」
「──人間がどんなに愚かでも、わたしは黄昏を止めたい。人の意志を、力を、心をわたしは信じたい。わたしがウルグを信じるように」
 そう言い切る彼女の瞳は揺れず、真っ直ぐな銀翼の意志を輝かせていた。
 ウルグは何処からか風が吹いているような感触を覚えたが、彼の髪も、彼女の髪も揺れてはいない。
 だが、彼女の手にある煙草の火はとうの昔に消え、灰になっていた。
「君が俺を信じるのは勝手だが、俺が君を信じるとは限らんぞ」
「そうですか?──そうでもないでしょう、ウルグ?」
「……やはり人というのは愚かだな。自惚れもいいところだ」
 ウルグの悪態を微笑みで受け流したイルミナスはくるりと踵を返し、部屋の外へ出ていこうと一歩踏み出した。そして、澄んだ声で後ろにいるだろう彼に問いかける。
「まだまだ調べなくてはならないものが無数にありそうですね、ウルグ。わたしは、黄昏を止めたいと願うわたしのために黄昏を止めます。よろしいですか?」
「俺は人のすることにどうこう言う趣味は持たない。好きにしろ」
「ありがとうございます。では、参りましょう」
 そうしてイルミナスは扉から通路へ出ようとしたが、後ろで火の点く音を彼女の耳が拾ったため、彼女は勢いよく振り返りそして青碧の缶をウルグに突き付けた。
「煙草ではなく、こちらを!」
「……人のすることにどうこう言う趣味はない、そう言ったな。撤回する。──余計なお世話だ!」
 彼は乱暴にイルミナスの差し出した缶を受け取ったが、それはイルミナスがこの都市に入ってきたときに彼が渡した、毒消し効果のあるタブレットだった。
 ウルグは苛立たしげにそのタブレットを三粒ほど口に放り込み、噛み砕く。
「……苦い。やってられん」
「ふふ、錬金術師さまも味にはうるさいらしいですね」
「……少し黙っていろ。君の心配性とお人好しもここまでくると病気だな」



20151107

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