夜明けの子どもたち


 夜明けの光を角灯に導き、その小さな箱の中に明かりを灯す。
 キトはメグと共に崖の上の街、かつて彼と彼女が二人で旅に出たはじまりの灯台の横にて、その命を還すために今まさにこの大地の上から去ろうとしている世界樹の姿を遠く、見つめていた。
 吹く風は静かでやさしく、それでいて寂しい香りを纏っている。
 耳を澄ませれば、かの樹のために未だこの街の入口で聖歌を歌い上げている老婆の声が聴こえてくるようだった。
 樹──いや彼≠ニ呼ぶべきだろうか──の紅水晶は、やはりあやまたずキトとメグの心臓にも突き刺さり、それでも彼らは尚気丈にこの地に立っていた。
 こめかみの鈍い痛み、瞼の裏で弾ける赤、それらはまさしく彼らの日常が引き千切られたあの日の夜の記憶に等しく、キトとメグの心に浮かんだのは前時代への怒りでも憎しみでもなく、ただひっそりと水面の如く静かに揺らめいては佇むばかりの哀しく切ない、痛みだった。
 キトは段々と透き色と化していく世界樹の枝葉を遠く見つめて、ぽつりと呟く。
「世界樹……彼を不気味だと思ったのは……」
「キト?」
「思ったのは、彼が俺に似ていたからだったんだな……何も考えないで立ち止まって、座り込んで……」
「でもキトはちゃんと立って此処にいる。歩いて──生きてるじゃない」
「それはお前がいたからだよ、お前がいるからだ。だから……ありがとう、メグ」
 そう言ってキトがいつかのように優しく笑ったのと、メグの夕焼け色の瞳から雨のように涙が一粒零れ落ちたのはほとんど同時だった。
 メグがはっとしてキトの方に向けていた顔を世界樹へと向け、それにつられるようにキトもまた世界樹の方へと視線をやる。
 メグの瞳からまた涙が零れ、今度はそこから堰を切ったように止め処なく涙が溢れ出してきた。顔を出しかけた陽の光がメグの涙を橙色に染めている。
 キトは顔を上げて、もう光の名残ばかりとなった世界樹へとどこか祈りを捧げるように瞼を閉じ、これから去りゆくものたちのことを想った。
 去ってゆく、これまでたくさんのものを自分から奪ってきた彼らが。
 そして自分も、同じように奪ってきた彼らが。
 去ってゆく、それでもこれまでこの大地の上で共に在り続けたものたちが。
 去ってゆくのだ、自分たちと同じ、生きたいとねがう命たちが。
 彼らが最期に声を上げた歌の一節が、キトの心の中に降りてきて、彼の中に在る水面に波紋をつくりだした。
 それは幾重にも幾重にも広がり、重なり、水上で踊ったりまた水底で震えたりしながらも彼の中で深く響き合って、キトの心をわけも分からず静かに、しかし強く、切なく、しかし愛しく揺らしはじめる。
 キトの喉からはみ出してきたその歌の一節の中の更に一言は、最早歌のかたちを成してはいなかったが、それは彼の、声を名乗る心として隣に立つメグへと届き、彼女は未だ涙を止め処なく流しながら、キトの方を振り向いた。
「キト……」
「ああ」
「泣いてる?」
「ああ」
「悲しい?」
「……ああ。いや、分からない……」
 彼の喉から出てきたそれは、嗚咽だった。
 はじめに出てきたのは、ほんとうに小さな嗚咽だったのだ。
 キトは、心臓の痛みを堪えるように胸を押さえながら腰を折り、ついには足に力が入らなくなって土の上に膝を突いてくずおれかける。
 彼が地面に手をつく前にメグはキトを抱き留め、彼女は彼の肩に額を押し当てた。
 メグが流す涙が服に染みてそれは熱となり彼の中に広がり、その熱は彼の黄金色の瞳からますます涙を溢れさせる。
 今まで心の中に抑え付けてきた感情を、あの日の夜からずっと骨のふりをさせて土の中に埋めていた痛みを、悲しみを憎しみを、そのすべてを吐き出してしまうかのように、彼の瞳からは透明な雫が光を受けていくつもいくつも流れ落ちた。
 痛みを吐き出すことにも痛みが伴うとはなんて酷い身体を、いや心をもって生まれたものだろう。
 キトは震える両手でメグの肩を痛みを感じるほどに強く抱くと、しばらく苦しげな嗚咽と呼吸を繰り返したのちに、ついには大声を上げて泣きはじめた。
 それは、迷い子の泣き声というよりはもっと幼く、もっと無垢で、最も痛く最も愛しい泣き声──生まれたばかりの赤子の泣き声、これから生きていく世界への恐怖と怯えに震え泣く、その声の色によく似ていた。
 メグはそんなキトの背を涙しながらも優しく微笑んで柔らかく叩き、地平線の先で太陽がすっかり顔を出した後も、彼が泣き止むまでずっとその背に細かな傷が付いた自身の細い腕を回していた。


*



「──キト、怖いね……あたし怖いよ、どうしたらいいか分かんないほど……」
「ああ、怖い。どうすればいいんだろうな、俺たち」
 泣き止んだキトは言葉を声にするのも一苦労のようで、彼の声はいつもよりゆっくりと、そして掠れた音を伴ってメグの耳に優しく響いた。
 日は昇り、もうすっかりこんにちの朝はやってきていたらしい。ともすると、吹く風の中に待ちくたびれた太陽の欠伸すら聴こえてきそうである。
 メグは赤く腫れてしまったキトの瞼に親指で触れると、それから小さく笑って彼の手を引き立ち上がり、朝の光が差している方角を眺めた。
「……どうもしなくていいよ、今は」
「そうかもしれない。……いや、そうだな」
「ねえ、魔獣は何処に往っちゃったのかな」
「たぶん──眠れる方だよ」
「……うん、そうだね」
 キトが大声を上げて泣きはじめたのと同じ頃に降りはじめた透き色の雨は、太陽が昇り切った後も未だ降り続き、涙によって熱くなっていた二人の頬をやさしく冷やしている。
 崖の上へと吹く風は湿り気よりも海の香りを運び、彼らの瞼の裏には遥か昔の何処までも青く続く水の都が映るようだった。
 メグは見つめていた地平線から視線を外すと、今度はその瞳をキトの方へと向け、片手で拳をつくりそれで軽くキトの胸板を押して悪戯っぽく笑う。
 そんな彼女にキトが溜め息を吐いたが、それでもメグは愛おしげに瞳を細めて笑っていた。
 朝の光を受けてメグの夕焼け色は更に輝き、その輝きを瞳に映したキトもまた黄金の瞳を微かに細めて笑う。
「どうせならあんたの顔の傷も消えればよかったのにね。それがなければキトもちょっとはかわいいんだから、ちょっとはね」
「いや──いいんだ、これはこのままで。俺はこの傷痕ごと俺だから。……分かってるだろ」
「分かってるよ、だいじょうぶ。あんたの安直な名前も、その顔の傷も、全部ひっくるめてあたしはキトのことがたいせつだから」
「……物好き」
「ほんとにね」
 そうして二人で笑い合っていると、ふと耳の奥で潮騒が聴こえたような気がして二人は同時に背後を振り返った。
 しかし、崖の下に広がるのはやはり白い塩の大地のみで、打ち寄せる水の気配などは微塵もなく、風が運ぶのは乾いた潮の香りばかり。
 それでも二人は顔を見合わせてお互い眩しそうに目を細めるとどちらからともなく頷いたのだった。
 取り戻せるだろうか、海を。
 帰ってくるだろうか、海は。
 分からない。
 分からないが、それでも海は死んでいないのだ。
 彼らは輝く太陽を見上げた。
 取り戻せる、海を。
 帰ってくる、海は。
 自分たちの中に、こうして海が在る限り。
 光の雨に打たれながら、キトがメグの方を振り返ってはやはり掠れた声でゆっくりと、まるでこっそり世界の秘密でも教えるように、隣のメグだけへ吹く風の中に言葉を忍ばせた。
「なあ、俺はやっと想い出したんだが……」
「うん」
「朝陽ってやつは身体に当たると、こんなにも……こんなにもあったかいんだな」
「そうだね──あたしたち、生きてるからあったかいって思うのよ」
「だから痛くもなるんだな、朝の光が」
「うん、きっとそう」
 二人はまばゆい太陽を一度だけ見るとすぐに視線を外し、互いに歩いてきたその痛みを想った。
 そして彼らは自身の泣き腫れた赤い瞼を感じ、海の香りの漂うこの地で緩やかに呼吸をする。
 泣いてばかりいたおかげで忘れていた身体の痛みが二人の中に戻ってきて、ほとんど同時に彼らは溜め息混じりの欠伸を一つした。
 もうそろそろ、少しだけ弱くなってもいいだろうか。
 気を抜けば涙が零れてしまいそうな今日だけは、今だけは、弱くなってもいいだろうか。
 二人は互いの顔を覗き込むとそこにたいせつな瞳が在るのを見付け、そして共に微笑んだ。
「少し疲れたな。帰ろうか、みんなの処に」
「そうだね、ちょっと休もっか。あたしたち、けっこう頑張ったもの。……熱い蜂蜜酒が飲みたいな」
「お前は酔うと面倒なんだよ、自覚してくれ」
「いいじゃないの今日ぐらい。あんたもたまには付き合いなさいよ」
「……そうだな。たまには、いいかもな」
 キトはそう言うといつの間にか地面に転がしてしまっていた角灯を持ち上げ、それから差し出されているメグの手を取った。
 夜明けと共に明かりを灯した角灯の光は未だ消えることなく、太陽の白い光の中で淡くあたたかく揺らめいている。
 そうして彼らはまたいつか暮れゆく道の上を、そして同じようにまたいつか明けゆく道の上を、降り注ぐ光の雨と太陽のまばゆい白色を浴び、背後には自分たちが此処に在るのだというその証を確かな足取りで引き連れ、そして手を繋いではゆっくりとまた、歩き出したのだった。



20161227

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