暮れないねがい


 日は沈み、夜が更ける。
 世界樹〈カメーロパルダリス〉は、未だ静かに吹く風にその葉をさながら人の髪のように揺らし、こちらには見えない瞳の睫毛を伏せてしかしこちらを見ているようだった。
 その瞳に映るのは銀翼の意志を己が命に宿した、少女と呼ぶべき小さな存在でもなく、月白の意志をその身に纏う、青年と呼ぶべき小さな存在でもなく、そして迫る夜の藍でもなく、暮れゆく大地の姿でもなく、明かりの灯りはじめたこの世界でもなく──映るのは、その瞳に映るのは何百年も昔、轟く光の色、星が弾けて沈んだ大地、追いかけた小さな蝶々、いつかの夜に燃ゆる赤、そして孤独と呼ぶこともできる嘆きの色ばかり。
 彼は今、この世界に溢れる嘆きを見ている。
 己の孤独と似た色をした嘆きを、嘆きを呼ぶ嘆きを彼は見ている。
 彼が何をしたというわけではない。
 彼自身が生きてゆくために大地から水を吸い、此処に座り込んでは地中に根を張る。
 彼はただ、見ているだけだった。
 それだけなのだ、昔も、そして今も。


*



 イルミナスは折れた剣を鞘から抜き、祈りか誓いか、それを胸に押し当てて深く呼吸をした。
 柄を握る手のひらに力を込め、瞼の裏に浮かび上がる守るもの≠フ名を冠す少女の柔らかな笑顔を想い、彼女は微かに頷く。
 隣のウルグは、面前に立ちはだかる巨大な世界樹の新緑を湛える幹を一瞥すると、イルミナスの方へと視線をやった。
「……毒を与えて、もし彼≠ェ暴れ出したりしたらどうする?」
「そのための剣です。わたしは戦う」
「死ぬぞ。こんな……途方もない大きさの魔獣が暴れるとするならば推論ではなく、絶対に」
「それでも。それがわたし、イルミナス・アッキピテルのさだめ」
 ウルグは片手に持った手のひらほどの大きさの瓶を眺め、どこか痛みを堪えるような表情で目を瞑った。
 彼の持つ透明な瓶の中では白い小さな蝶々が飛び回り、そして時折羽を休めている。
「君は死にたいか?……死にたくないと言ってくれ、ルーミ。嘘でもいいから」
 瞼を押し上げそう笑った彼の表情はほとんど懇願するような色を宿していた。ともするとそれは泣いているようにも見える。
 イルミナスはウルグの瞳の更ける夜の青、その奥に砕けた黒水晶と未だ彼の中に張り付く幻の紅水晶を見、心臓を強く握られたような思いがした。
 彼女は痛みを隠すこともせずにウルグの瞳を見つめ、言の葉を風に乗せる。
 それは、彼女と彼以外には全く意味をもたないねがいだった。
「──生きたい。嘘ではありません。わたしは生きていたい、此処で」
「……ああ、分かった。君は俺が守る」
「ならばわたしはあなたを守ります、ウルグ」
「ルーミ……そうだな、頼むとするか。言うならば俺も民の一人だからな、そうだろう殿下=H」
 いつものように皮肉っぽく笑ったウルグにイルミナスは微笑みながら頷くと、ウルグの持つ蝶の瓶を彼の手から受け取った。
 イルミナスは瓶の底で羽を休めている白い蝶々をしばらく黙って見つめると、それからウルグの方を向いて問いかける。
 瓶の蝶々を見つめるウルグはさながら罪人のように睫毛を伏せていた。
「これが毒、なのですね。……蝶々……何故、蝶なのですか?」
「簡潔に言うなら、俺が酷い人間だから、だな」
「でも綺麗な蝶ですね──光のようで」
「ああ。彼の子にもそう見えたのだろう、光に……」
 イルミナスの瞳に疑問の色が浮かぶ。
 ウルグはその問いかけをかわすように微かに笑うと、彼女の手に在る瓶の蓋をすっかり取ってしまった。
 イルミナスが何か声を発する前に、瓶底の蝶々は羽を広げて彼女の手の中から飛び立ち、更ける夜の藍色の中にぽっかりと浮かび上がっては光を名乗る孤独のように世界樹の幹の前をふわふわと彷徨った。
 二人は声もなく蝶の瞬く光を見つめ、その白色が描く孤独の軌跡を目で追っている。
 しばらくしてウルグが思い出したように空を仰ぎ、星と共に其処に浮かぶ微かに欠けた青白い月へと視線をやった。
 そして、ウルグが月を見上げたのと同時に仄かに淡く光る月の導きが、イルミナスの片手に在る剣へと示し出された。
 イルミナスは、突如現れた光の道に少しばかり驚いて持っていた瓶を地面に取り落とし、しかしその光がウルグによって呼ばれたものだとすぐさま理解すると、両手でしっかりと剣の柄を握り、そして、その月白の意志を銀に輝く刃で受け取った。
 イルミナスは彼の魂に在る月を想うように、その目を閉じる。
 月光に導かれて白き蝶が彼女の折れた剣先に留まり、その小さな羽を休めている。
 そうする内に、蝶の身体は少しずつ白く輝く鱗粉と化してゆき、彼女が次に目を開くときには、蝶々は空に散らばる星の如くに瞬いては輝く小さな粒子となっていた。
 イルミナスは、刃の上で光さざめいている白の星々を黙って見つめると、次に世界樹を見上げて最早淀むことなく言葉を風に乗せた。
「わたしは選べない」
「……ルーミ?」
「選ばなければならないときがきた。だからわたしは選べない──あなた≠フことを、選べない」
 その言葉と共に、強い風が彼女の周りを支配して吹き荒れた。
 その風に髪も服も振り回されながらも彼女はふらつくことなく地に足を着け、銀に閃く折れた刃を樹へと向ける。
 銀と翠を纏いし風たちが彼女の剣へと集束し、瞬きの間に彼らは一つの長剣と化した。
 その長い風の刃は、月に導かれた蝶の白い鱗粉を渦を巻くようにその身に纏わせ、こんにちの風はさながら夜空を宿すようだった。
 イルミナスは世界樹の幹へと一歩近付き、その風の長剣の切っ先を幹へと当てる。
 だがその手のひらは、隣に立つウルグには震えて見えた。
「ルーミ……怖いのか」
「……あなたは怖くないのですか」
「それは怖いに決まっているだろう」
「ウルグでも怖がることがあるの?……いいえ、そうですよね……当たり前ですね、こんなこと」
「ああ。怖かったさ、いつも──今も」
 イルミナスはウルグの震える黒い睫毛の下に在る、彼の哀しい夜を見た。
 彼もまた彼女の瞳の中に在る一度は折れた銀色宿す翼をその青で見やると、それから、今ばかりは砕け散った黒水晶の色も、母の血の赤も、父の弾ける紅水晶も、その痛みと哀しみのすべてを瞳の中から追いやるように鋭い目で世界樹をねめつける。
 彼の青い夜に月光の如く白い光が閃いた。
 それでも強くなくてはならない、今だけは。
 イルミナスはウルグの心に共鳴するように、剣を握る手に力を込めて、再び世界樹の方へと顔を向けた。
 深く息を吸って腰を低く剣を構え、そうすると同時に彼女は呼吸を止めて幹の一点を見つめる。
 今やこの地は、静かに吹く風の音と世界樹の葉が揺れ動く音、そしてイルミナスが土を踏む音ばかりに支配されていた。
 誰かが瞬きをしたその一瞬の間に、樹の幹が押し割られる音というよりは肉を裂くような音を立てて、彼女の刃が世界樹に突き刺さった。
 剣の根元、柄まで深く深く剣を幹に押し込みながら、イルミナスの肌はその肉を裂く感触に粟立つ。
 これは魔獣の──それも人の魔獣を刺したときの感触と同じだ。
 頭では理解していても心はその生々しい手触りに震え、彼女のそのおののきに呼応するように風の剣、その切っ先が彼≠フ身体の中で一瞬歪んだ。
 樹から剣を引き抜こうと身体に力を込めて握りを引いたとき、その違和感にイルミナスの背骨は、いつか剣が折れたときと同じように急激に冷えていった。
 抜けない。
 剣が、抜けない。
 刃に纏う風が、樹の中で唸りを上げている。
 樹に片足を突いてこれ以上はない力で引いてみても、剣が幹から抜ける気配はなく、まるで風の刃が樹にぱっくり喰われてしまったようだった。
 イルミナスの額に玉の汗が浮かび、その内にそれは冷え切って地面へと落ちていく。
 抜けない。
 抜けない抜けない抜けない!
 風すら、そこに纏った月の光すら喰われるのか!
 喰われるのか、黄昏に!
「ウルグ! ウルグ──剣が! 剣が抜けない! 呑まれる──死んでしまう、風が死ぬ!」
 未だ剣を強く引きながら、首だけウルグの方へと振り向いてイルミナスは叫んだ。
 顔はウルグの方へと向いてはいても彼女の目は戸惑いと焦りに泳ぎ、拠り所を探すかのように焦点が合わない。
 心臓を破いてしまいそうなほどに彼女の血は熱く激しくその膜を叩き、そんな彼女の心に共鳴するように風が強く──それは風ではなく、最早嵐としてイルミナスの周りを吹き乱れた。
 彼女はその強風に剣から無理やりに引き剥がされ、自ら呼んだ風に頭を押さえ付けられるように地に伏した。
 彼女の近くに設置されていた世界樹の祭壇は嵐に砕かれ、少し離れた位置に待機している騎士たちも地に押さえ付けられたようで、呻き声や叫び声が風に運ばれてイルミナスの耳に入る。
 迫る死への焦燥と恐怖に暴れる嵐と化した風たちは、渦を巻いては砂塵嵐を起こし、その小さな砂石たちは此処に立つ者たちの肌に細かい傷を付けた。
 更に風は世界樹の葉を無数に乱れた刃によって刈り取り、新緑の色を宿す葉を砂石と共にその身に纏っては、閃く刃の如くに鋭く吹き荒れる。
 いいやそれは、最早刃だった。
 イルミナスの地に押さえられた手の甲が、狂った嵐の刃によって裂かれる。
 彼女は飛び散った己の血を横目に、何とかウルグのいる方へと視線を持っていくと、彼がこの嵐の中で未だ何事もないように立っているのを見付けて安堵よりも先にその強い驚きに目を見開いた。
「……死なない」
「ウルグ……? でも、剣が……」
「死なないさ、お前の風は」
 それは大きな声ではなかったが、強い確信をもった揺るがない声であり、そしてその静寂の奥に激しい月光を宿した声は、イルミナスの心に広がり幾度も反響した。
 ウルグは緊張を解くように息を吐くと、右手にしている皮手袋を剥ぎ取り捨てては自身の両の手のひらを見つめ、その爪の中にやはり瞬く幻の紅水晶を認めると、それを振り払うようにきつく拳を握って目を瞑る。
 そしてすぐにそのまなこを開くと、強くしかし冷たく打ち鳴らされている鼓動を押さえ付けるように息を深く吸い込み、イルミナスの前に膝を突いた。
 そうする間にも彼の肌は吹きすさぶ嵐の刃に裂かれ、無防備な頬などは赤に塗れ血が滴っている。
 地に伏せながらも、ウルグを見上げたイルミナスの銀の瞳と彼の青色がかち合うと、彼は今にも痛みに泣き叫びそうな顔──それはまるでかさぶたを無理やりに剥がして血の滲む傷口を露わにした少年、たいせつなものを見失って彷徨う迷子の子どものような顔──でイルミナスに右の手を差し伸べ、そして彼女に震えのちらつく声で問うた。
「手を……手を、取ってくれるか」
「ウルグ……」
 彼女は嵐に押さえ付けられながらも、その刃に裂かれた手のひらをウルグの手へと伸ばし、痛みを感じるほどの強い力で彼の手を握った。
 そうして再びウルグと目が合うとイルミナスは柔らかく微笑んだのちに、ウルグの真似をして片方の口角ばかりを上げ、皮肉な笑みをその顔に浮かべる。
 ウルグはそんな彼女の表情に安堵の息を吐くと、彼女を引き上げて共に立ち上がり、イルミナスの心と共に段々と治まっていく嵐の中で、互いに裂かれた傷の痛みを想った。
「わたしは、はじめからあなたの手を取っていたでしょう。──それに、手放すなと言ったのはウルグの方」
「……何、ただの確認だ」
「ならばよろしい──なんて。……わたしにはあなたが必要です、ウルグ。あなたがわたしを必要なように」
「分かっている。……なら剣を抜け、ルーミ。幸い毒は回ったようだからな、そら」
 イルミナスの手をきつく握っていたウルグの手のひらが静かに離れ、眼前の世界樹を指し示した。
 彼の導きを追ってみれば、先の暴れる嵐の刃によって樹の幹には無数に深い傷が付いており、その傷口の隙間からは透き通る紅色が煌めいている。
 なるほどウルグの用意した毒というものは、直接にこの樹を枯らすものというよりは、この樹の身体を脆くさせて刃を通りやすくするものらしかった。
 イルミナスは一歩進むと、先ほどの彼女では考えられないが片手で剣を緑の幹から引き抜き、そして彼≠見上げる。
「泣いている……嘆いているの……?」
 イルミナスがそう呟いたのは彼女の──いいやおそらくこの大地に立つすべての生き物の心に、何かが重く響き渡ったためだった。
 彼女はその轟く痛みに耐えるように風の刃を地面に突き刺し、心の中に鳴り響く音──いいや歌と対峙した。
 この歌はおそらく彼=Aそして朝焼けに沈んだ彼ら=A黄昏に還った彼ら≠フ嘆きと慟哭だった。
 轟く光の音、
 星が弾け大地が沈む音、
 追いかけた小さな蝶々の羽音、
 いつかの夜が赤く燃える音、
 鳴り響く鈍い鐘の音、
 愛しい者の最期の声の音、
 己が泣き叫ぶ声の音、
 壊れる日常の音、
 崩れる家の音、
 倒れる誰かの音、
 水と命が涸れゆく音……
 心に響き、幾度も幾度も合唱の如くに反響し広がるこの歌はそのどれの歌でもなく、しかしそのすべての歌であった。
 そのすべてに聴こえる歌だった。
 気を抜けば心臓が破られてしまいそうなその嘆きの轟きに、イルミナスの足元が一瞬ふらつく。
 そんな彼女を背後でウルグが受け止めると、二人は心で木霊する歌の赤く鈍い痛みに頭を割られそうになりながらも、しかし強い意志をもってこの哀しき樹を見上げた。
 この樹が水の如くにその身に湛える、その激しい悲しみに涙が零れるほど二人の心は震えている。
 それでも涙は流さない。
 それは今ではない。
 今、涙は必要ない。
 イルミナスは地面に刺した風の長剣を引き抜くと、ウルグの方を振り返って頷いた。
 嘆きの歌は未だ、耳の奥ばかりで木霊している。
 それは、この世界に生まれ落ちたことを嘆く歌、この世界で生きてゆくことを嘆く歌、おのが孤独を嘆く歌。そう、これは独りきりが叫ぶ歌──燃え立つ痛みと暮れゆく孤独、赤い朝焼けと昏い夜の間で痛みと孤独に震える心……
 それが、黄昏。
 それこそが、人の心の黄昏だった。
 ああしかし、今更なのだ。
 人の心に巣食う黄昏の正体など、言葉にできないだけできっと誰もが分かっていた。
 何故なら世界に朝が訪れるように、世界に夜が訪れるように、心に黄昏が訪れるならば同じように夜も、そして朝もやってくるのだから。
 それは哀しく、そして愛しい真実だ。
 なんて、残酷な世界に生まれたものだろう。
 なんて、恐ろしい世界に生まれたものだろう。
 それでもとイルミナスは風の剣の切っ先を傷付いた世界樹へと再び、同じように傷付いた身体で向けた。
「あなたを殺して、ほんとうに黄昏が止まるのかは分からない。でもあなたをこのままにしておくのは間違っている──誰が何と言おうと、絶対に」
 それでも、自分たちはこの地に立たねばならない。
 この残酷で恐ろしい世界に、立たねばならない。
 この哀しく、そして愛しい世界で生きてゆかなければならない。
 それは、何故なのだろう。
 誰に命じられたわけでもないのに、何故わたしたちは生きてゆかなければならないのだろう。
 どうして自分の身体すら、自由にすることができないのだろう。
 生きろとも死ぬなとも言われたわけではないのに、何故。
 答えなど分からない。
 いいや、答えなどいらないのだ。
 わたしは此処にいたい、それだけだ。
 わたしが此処にいたい、今はそれだけでいい。
 それだけ在れば、立っていられる。
 此処に、立っていられるのだ。
 わたしは、滅びない。
 わたしは、立ち向かう。
 イルミナスは深く息を吸い、背負う覚悟を決めて世界樹を見上げた。
 そこに、伏せられた彼の睫毛と瞳を彼女は見たような心地がしたが、彼女の心は最早揺らがず、剣の柄を握る手のひらも言葉を発するその声も震えることは二度となかった。
「あなたを殺します。わたしが選んだのは、そういう道だから」
 時が経つにつれて淡くなる月明かりばかりが、彼女の風の刃を静かに照らしている。
 風は止み、聴こえるものといえば心で未だ鐘の音のように反響しては鳴り響く悲しい歌ばかりだった。
 イルミナスは眠るように一度その銀色を閉じると、己の中に響く朝焼けと黄昏の歌を想う。
 そうしてみると瞼の裏に一瞬赤色が浮かび、彼女はその熱い色に痛みすら覚えるものだった。
 それでも閉じた瞼越しに光が差すのを感じるとイルミナスは目を開き、手にした風の刃を鋭く振るった。
「ごめんなさい、ありがとう──さようなら」
 樹の、彼≠フ身体をほとんど真っ二つに裂くようなその深い傷を残す鋭き彼女の一閃に、彼は慟哭ではなく咆哮したようだった。
 その咆哮は心の中にではなく今度は音として耳から身体に入り込み、人々の心を揺さぶった。
 嘆きでも痛みでも、或いは苦しみでも悲しみでもない色をしているこの声は、一体何なのだろうか。
 だが人々はこの声を知っていた。
 この色を、知っていた。
 それは愛しい人と共に終わりを待つ者の呼吸、それは孤独に年老いた者が逝く日の夜に吐いた静かな溜め息、絶望に似た安堵の色──黄昏に喰われ魔の獣と化したこの地の生き物たちが、最期に発する声だった。
 彼を裂く傷口からは紅水晶が無数に零れ落ち、それらは痛いほどに煌めいている。
 根の辺りから段々と紅水晶と化していく世界樹のそれは、ひとりでに舞い起こった風によって天上まで立ち上り、最早太陽が昇りつつある空の中で煌々と光を放った。
 そしてそれは突如として、痛みを感じるほどにまばゆい光を発したと思えば四方に飛び散り、村を町を森を、海すらも越えてこの地に生きるすべての生き物の心臓に突き刺さる。
 他のすべてと同じように、自身の心臓に紅水晶が突き刺さったその瞬間、イルミナスはくずおれかけ、しかしウルグの助けによって彼女が再び地に伏すことはなかった。
 そしてイルミナスが膝を折りかけたのは、心臓に紅水晶が突き刺さるその鋭い痛みによってからではなかった。
 彼女が膝を折りかけたのはその紅水晶に宿る彼≠フ記憶、轟く光の色、星が弾けて沈んだ大地、追いかけた小さな蝶々、いつかの夜に燃ゆる赤、そして孤独と呼ぶこともできる嘆き、それらすべてが鈍く鐘を鳴らすかのように、瞼の裏で弾けたからだった。
 心臓に突き刺さったこの紅水晶に、そのすべてが宿っている。
 忘れたい記憶、忘れ難い記憶、忘れてはならない記憶……
 それは、自分たちが今だけは忘れてはならない記憶だった。
 人が何度同じ過ちを繰り返すとしても、それでも今、自分たちだけは忘れてはならない記憶だった。
 何百年後、何千年後に再び戦いが起こるとしても、今だけは。
 その紅水晶が心の臓に突き刺さったこの地に生きているすべての魔獣たちは、彼と同じように最期の声を上げて地に倒れ、しかし紅水晶とはならずに柔らかな光となって命を大地へと還した。
 そして彼らは、一匹は種と、また一匹は卵と、そして一匹或いは一人は幼獣なり、またいつか再びこの地に生まれ廻る命となったのだった。
 魔獣たちが最期に発した声は歌となり、この大地の上を流れ、人々の心を激しく揺さぶっては涙させた。
 今まで永く共に在ったものたちが去ってゆく。
 遠く遠く、去ってゆくのだ。
 人々は誰もが理由も分からず涙を零し、心臓の奥でやさしく響く歌の痛みを確かめるように想い続けた。
 それは、彼らの歌の終わるその最後の一節まで、それは紅水晶と化して人々の心臓に刺さりゆく彼≠フ最後のひとかけらが、もう誰の目にも映らなくなるそのときまで。
 そんな人々の涙が雲を呼ばずに雨ばかりを呼び、そしてその雨は朝陽の昇る美しい空の中で静かな音を立てては何日も、何日も降り続いた。
 傷だらけの身体に沁みる、透き通る光の雨に打たれながら、イルミナスは涙を零しながらも、ウルグと共に世界樹が在った場所に立ち、そして想い出す。
 それはおそらく、誰もが想い出したことだった。
 人には忘れていたことがある。
 けれど人が想い出したことがある。
 それは夜が明けること、そう、いつも夜は明けていたこと。
 こうも簡単に、残酷と言えるほどにあっけなく明けてゆくこと。
 朝焼けの光を浴びながらイルミナスは目を瞑り、耳を澄ませる。
 柔らかな風が彼女の髪を静かに揺らし、それはさながら風が朝を告げているかのようだった。
 風が運ぶのは、人々がこの地に生きる音。
 たいせつなものを失った誰かの光が瞬く音、
 もう二度とたいせつなものを失いはしないと誓った誰かの影が地を踏む音、
 墓を掘る誰かが土を掘り返す音、
 それを守る者が墓に語りかける声、
 流れの吟遊詩人の紡ぐ歌、
 さだめを背負う歌うたいの歌、
 魔獣と共に生きる誰かの涙の音、
 或いは新たに廻った命を手のひらが包む音、
 誰かが羊皮紙に紋様を描くその音、
 海の先を求めて歩く誰かの足音、
 神を信じて祈るために祈りを捧げる誰かの声、
 誰かが暗闇で本を開く音、
 その誰かの近くでまた、誰かが明かりを灯す音、
 明日の名を冠す者とその仲間たちの雄叫び、
 黄昏と歌い踊る誰かの声と靴音……
 そして、隣でたいせつな人が微かに零した涙と笑い声。
 耳の奥だけで微かに潮騒がさざめき、しかし今はこのやさしい雨にその音は溶け、語りかける海の声はこの地の生き物たちの一部となり静かに消えてゆく。
 イルミナスは閉じていた目を開けて、昇る太陽が放つ美しい輝きとその痛みをその銀の瞳に受けた。
 そうしてみれば彼≠ェ在った処から小さな光が降りてきて、イルミナスはその光を両手を伸ばして受け取り、それから小さく微笑んだ。
 その光が何なのかを、何故だか彼女は知っていた。
 そして彼女の隣に立つウルグ、彼もまた、降りてきた光が一体何なのかを知っていた。
 彼らは顔を見合わせて、涙を零し痛みを堪えながらも笑い合うと、光を包んだその両手を開き、そこに在る小さな種を見つめる。
 透明な光の雨を受けて朝の陽を浴びるその種に、彼らは傷だらけの身体でまた一粒涙を零したのだった。
「──おはよう」



20161225

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