はじまりの荒野


 かつての竜は、小花たちのささやかな園を守るように背を丸めては、花たちの上で鈍い白をした骨となり、そうしてこんにちも静かに眠っている。
 この地に立つ誰もが生まれたときからずっと共に在った、緑の希望と紅水晶の獣たちが光となって世界から去り、幾日かが経った。
 人々の涙が呼んだ光の雨はこの広大な大地の隅々まで未だ降り続き、それはまるで一つの音楽のように地面を、水面を、植物たちを、獣を、人々をやさしく叩いている。
 この暖かくも冷たくもない雨を受けていると人は皆どこか涙の湖を揺らされることがあるらしく、この國にはここ数日で泣き虫が増えたようだった。
 泣いてもいい、泣けばいい、この雨がこの世界に降り注ぐ間は。
 こんなにも哀しいのだから、こんなにも寂しく、怖く、こんなにも愛おしいのだから。


*



 イルミナスは、まるで星がそのまま植物になったかのような白く美しい花の束を小さな墓石の前に供え、それからどこか不恰好な花冠をその墓石の上に戴かせた。
 その冠に編まれたのは、素朴な小花と若草の白と緑。
 彼女はこの小さな墓の周りに溢れる、小さな命のにおいを柔らかに吹く風の中から見付けると静かに微笑み、それから少しばかり照れ臭そうな顔で少女≠ノ話しかけた。
「ミェーフ……あなたのように、上手くは編めなかったのですが……」
「君の不器用も中々どうしてご病気でいらっしゃるらしいからな」
「ならば練習あるのみ、ですね!」
「……ああやれやれ、打たれ強さもか」
 こんにちも彼女の隣に立つウルグは、やはりいつものように片方の口角ばかりを上げたのちに、鼻を一度だけ鳴らして皮肉っぽく笑ったものだが、それでもとうとう堪え切れなくなったらしい。
 喉の奥から転がり出てしまった笑いが全身に行き渡ってしまった彼は、諦めたように顎に片手を当て、大声ではなかったが心底面白げにしばらく笑っていた。
 誰もが皆涙を誘われるような雨の中、この男ばかりは人と逆回りを進んでいるかのように、泣くより笑うがここ最近は多いような気がイルミナスにはするのだった。
 まだ夜が明けたばかりの空の下で、彼女は少し憑き物が落ちたように見える彼のことを見て優しく目を細めた。
 そんなイルミナスの柔らかな翠を纏う銀色と目が合ったウルグは、彼女の表情と見ると笑いを引っ込め、それから一つ咳払いをしたのちに得意のしかめ面へと戻る。
 そんなウルグの一連の動作もイルミナスには何だか可笑しく、今度はこちらが笑いを抑えきれなくなって彼女は怒られないようできるだけ小さな声で笑った。
 しかし怒る気力も特に湧いてこないウルグは、彼女を一瞥すると盛大な溜め息を吐き、それからさっさと話題を逸らすかのように彼女の手のひらに在る小さな種を指差して言う。
「……ほんとうに植えるのか、しかも此処に?」
「はい、そのつもりです」
「それは世界樹の──彼≠ゥら生まれ出た種だぞ。植えたら何が起こるか分からない。そうだ、またあの樹のような存在が生まれないとも限らないし、ともするとそれを植えるということがそのまま黄昏を進行させる悪手となるかもしれない」
「いいえ、だいじょうぶですよ。……ウルグにも分かっているくせに」
 言い当てられて、ウルグは言葉に詰まる。
 彼は元来、すべての物事には理由があって然るべきと豪語するたちであり、理由もなく何かに対して是と頷いたり否と断じるのは性に合わないのだが、しかしこの種をだいじょうぶか≠ニ真に問われたならば彼は理由も分からないままに、ああ、と頷いてしまいそうな気がするのだった。
 そう、理由は分からない。
 いいや、理由など必要ないのかもしれなかった。
 眉間に皺を寄せて押し黙るウルグの思考をこちらへ引き戻すために、イルミナスが少しばかり冷たい風を呼んでは、それをウルグの青い瞳に押し付けた。
 ウルグがその風の冷たさに驚いて顔を上げると、イルミナスは特に悪びれることもなく笑い、それから静かに首を振る。
 彼女の透き通る翠の髪は、少しずつ光を放ちはじめた太陽に照らされてその輝きを増していた。
「だいじょうぶ。此処には竜も花たちも、それにミェーフもいるのだから」
「ミェーフ……守るもの=Aか」
「ええ。そうでしょう、ミェーフ?」
 その声に応えるように、風が眠る少女の周りの花たちを揺らした。
 ミェーフが好きだった白と緑の小花たちは、降る雨におのが体を伸ばして歓び、ついには竜の身体にまでその色彩を散りばめている。
 イルミナスは、竜に抱き付くそのかわいらしい彩りたちにあの日の少女の笑顔を見出し、少しばかり嬉しいような、或いは哀しいような気持ちをその心に抱いた。
 それからイルミナスは手のひらに乗った小さな種を見つめ、かつて世界樹が在った方角へと振り返ると、ウルグにだけ届くような声で呟いた。
 それはいつものように澄んだ朝の色を纏ってはいたが、しかし朝の光が当たる彼女の頬には、どこか痛みが滲んでいるようにウルグには見える。
「……わたしたち、ついに彼の名前も知ることがなかったのですね」
「名前……か」
「彼は誰だったのでしょう」
「誰そ彼か、皮肉なものだな」
 息を吐いて、ウルグはイルミナスと同じように彼≠フ在った方角を見つめた。
 しかしすぐに朝焼けが眩しく燃えはじめた方へと視線を戻すと、そのまばゆさに思わず目を細め、そこからもすぐに視線を外す。
 すると己の瞳が花畑の中を雨に打たれながらも楽しげに飛んでいる一頭の蝶を見留め、その瞬間そこに彼≠フまだ小さかった娘の面影が浮かび、そして次にはあの日、イルミナスの腕の中、傷だらけの身体で眠りについた少女の横顔までもが彼の青い瞳の奥に浮かんだ。
 二人は違う時代に生きた、全く異なる少女である。
 だが、そこに違いはなかった。
 そう、はじめから違いなどなかったのだ。
 そう、この大地に生きた誰もが、何もかもが……
「──俺だったのだろう」
「え?」
「名前は分からない、彼の歩んできた道のりも。それでも彼は確かに誰かのルーミであり、誰かのクェルであり、誰かにとっての俺だったのだろう。誰かにとっての子で、誰かにとっての親で、誰かにとってのたいせつな人だった……それは、こんな俺にだって言える。それだけは」
「誰かにとっての……」
「やはり人は愚かだな。たかが他人のことで──こんなにも哀しくなれるのだから」
 雨に交じってイルミナスの瞳に浮かんだ一粒の涙を、ウルグは飛び去ってゆく蝶を見つめたまま拭い取った。
 今日が生まれる方へと羽ばたいていく蝶を、その羽の輝きが見えなくなるまで見送ると、彼は今度こそイルミナスの方を振り返り、いつものように口元に皮肉な笑みを浮かべる。
 ただ、ウルグの青い瞳はいつもよりも柔らかく細められており、こんにちの彼は夜というよりは月明かりを纏って見えた。
「さて、お人好しで心配性で不器用で打たれ強い俺の姫さまはまだ旅をお続けになられるのですか? それとも宮廷にお戻りになる?」
「お人好しで心配性で不器用で打たれ強い=Aそんなたかが小娘のわたくし≠ノ宮廷でできることが何かあって?……まだすべてが終わったわけではありません。いいえ、まだ何も終わってなどいないのかもしれない。もしかすると始まってすらいないのかも」
「だろうな。黄昏とは最早現象ではなく状態だ。この先どうなるかなど誰にも予測することができないだろう──何が起こるか分かったものではないぞ、俺たちは精々気を引き締めておくべきだ」
「……相変わらずウルグは手厳しい」
「当たり前だ。君、誰のためだと思っている? それに、だ──」
 ウルグが朝の空に淡く浮かぶ月を仰ぎ、それから指先を太陽の昇る地平線の方へと線を引くように閃かせた。
 すると、月明かりの白い導きがまだ陽が顔を出し切っていない、少しばかり藍色に染まっている道の上に浮かび上がる。
 ウルグはその自らが呼んだ、昏い闇を夜明けまで歩いて往くための淡い月の導きを見つめ、それからイルミナスが呼んだ風に言葉を乗せて彼女へと届けた。
「魔獣は生まれ続けるだろう。俺たちにこの力が有り、俺たちが道を違え続ける限り──いや、たとえこの力を失ったとしても」
 イルミナスは頷き、しかし月明かりの導きを呼ぶ彼の傷付いた手のひらを取った。
 そしてその手のひらの上に自身が持っていた小さな植物の種を置くと、彼のその手のひらを包み込むように小さな両手でウルグの手をやさしく握る。
 それは祈りのようであり、また誓いのようであり、そしてそれは彼らにとって確かに朝の光、小さなねがいだった。
「……ルーミ」
「ウルグ──それでもわたしたちは向かいましょう」
「ああ、そうだな。往こう」

 ──朝へ。



20161228 了
 目次 次

- ナノ -