愛しい罪


 日は暮れゆく。
 王都〈アッキピテル〉から飛空艇に乘ったイルミナス・アッキピテルとウルグ・グリッツェンは、予定の街よりもいくつか手前の街でかの空飛ぶ船から降りては、世界樹へと続く面前の街道を見つめていた。
 月は雲と陽の光の奥に隠れ顔を見せてはいないが、しかし確かにそこに在るのだということを吹く風が静かに伝えている。
 ウルグの青い瞳が、ちらとイルミナスの方を窺った。
「……ほんとうに、往くんだな」
「はい、往きます」
「此処からは徒歩で、か。距離はそれなりにあるぞ、何故?」
「それは──揺らがない、ために」
 イルミナスが一歩を踏み出すと、同時に隣でウルグもまた一歩を踏み出し、強くも弱くもない力でこちらを押す向かい風を受けながら、二人は歩きはじめた。
 イルミナスはその一歩一歩を噛み締めるように確かめるように、或いは信じるように進んでいく。
 ウルグはほとんど無意識に彼女の速度に自分の歩みを合わせながら、イルミナスの前を見据える銀の瞳を横目で見ていた。
「わたしがいくら自分も民の一人だ、自分とてただの剣士に過ぎない≠ニ謳ったところでわたしが國の王の娘イルミナス・アッキピテルであることに変わりはない。
 わたしの中にただの剣士のルーミ・アッティラは確かにいる。いるけれどそれは、ルーミはイルミナスの一部でしかなくて……ルーミはルーミだけになれないんです。
 わたしは、剣士だけでいることはできない。わたしはいつか、父の後を継ぎこの王國の上に立つから。民の代表となるから。上手く言えないのですけれど……」
「……ああ」
「だから歩きたいんです。わたしは確かめたい。自分が守りたいのは、守るべきは──守らねばならないものは一体何なのかを。何度でも、何度でも」
「……君は、そういう人間だったな。いつでもそうだ。まぁいい、こちらも精々付き合うとするさ。空に浮かんでいては思考も中々地に着かん」
「ウルグは飛行艇が苦手なのですか?」
「まさか。……少々考えごとには向かない環境だと言ったまでだ」
 その返答に何を見出したのか、イルミナスはウルグをからかうように小さく笑い声を上げた。
 そんな彼女の面白げに細められた瞳を見るとウルグは怒ったように黙って足早に歩を進め、しかしイルミナスが自分に追い付くまでの間その口元に微かな笑みを浮かべたのだった。
「ウルグ」
 少しすると、己の背後から名を呼ぶ声が聞こえて彼は首ばかりで振り返り、だがその声を発した本人が、柔らかな笑みを浮かべて微笑んでいるのを青い瞳が認めると、彼はほとんど虚を突かれたようになった。
「──ウルグ、ありがとう」
「……何が。礼を言われるようなことはしていない」
「此処まで導いてくれたこと。それ以外にも」
「確かに俺が君を導いたこともあったかもしれないが、此処まで歩いたのは君だろう。それに何だその物言いは? これでおしまいか? こんなにも利用し甲斐のある俺を手放してもいいのか、ルーミ?」
「いいえ、まさか!」
 今や身体ごと振り返ってイルミナスの方を向いている、そのウルグの背後から風が吹いている。吹く風はウルグの闇にも浮かぶ黒髪をすり抜けては、イルミナスの透き通るような翠の髪を揺らしていた。
 彼女が結ぶ赤茶色の髪帯の布地や、飴色の上掛けその裾も彼女の髪と同じように風に揺られていたが、それでもウルグはただイルミナスの柔らかな透き翠の髪と、真っ直ぐに強い光を湛えている銀の瞳ばかりを見つめている。
 出会った日から変わらないその二つの色を、ただ。
「──俺は、君に導かれて此処まで来た」
 彼は薄く口を開き、何か一つ言葉を零した。
 それはウルグ自身声にしたという自覚もなく、静かに吹く風にすら攫われそうなほど小さな声だったが、しかしそれでもこのイルミナスの耳には彼の言葉が届いたらしかった。
 彼女もまた、彼のことを見ていたのである。
 いつの日か出会ったウルグという少年がもっていた、閃く月光の中に傷付き砕けた黒水晶が沈む、深い哀しみが見え隠れする思慮深い青い夜と昏い闇。
 そのすべてが今、此処に在った。彼の中に。
「……ウルグ」
「ああ。何だ?」
「よく歩きましたね、わたしたち」
「……まったくだな、この世界は広すぎる」
 それからしばらく、地を歩く音ばかりの沈黙を守りつつ二人は街道を進んだ。
 先までまばらな雲の隙間から、白い光を両手から振りまいていた太陽は段々と傾きはじめ、イルミナスとウルグの頬を熱く照らす。
 その眩しさに瞬きをした一瞬に、ウルグの瞼の裏には赤い光が弾け、右目には母の流れる血、父の紅水晶の色が、左目には世界樹の彼の赤い赤い、あまりにも赤い黄昏の夜の記憶が点滅しては、彼のこめかみに重く響いた。
 その鈍い痛みはさながらかの地、いつかのこの大地に響いた終戦の鐘の音のよう。
 ウルグはイルミナスと共に歩を進め、瞳は前方にもう迫りつつある世界樹をどこか寂しげに、或いは哀しげに見つめながら掠れた声で呟いた。
「……俺は、何を憎めばよかったのだろう」
 ウルグのそれは問いかけのかたちを保ってはいたが、しかし答えを求めて発せられた言葉ではなかった。
 それでもイルミナスの心は、彼の言葉に答えを求めて彷徨う。
 翼の意志が宿る彼女の銀の瞳は、今のウルグと同じように世界樹を見つめ、そして一度その銀は閉じられた。
 少ししてその瞼が開かれると、イルミナスの銀翼はウルグの青い夜へと向かい、それから彼女は彼の瞳を見つめたまま、静かにかぶりを振る。
「わたしは──いえ、分かりません……分からない」
「……変に御託を並べられるよりよっぽどましな答えだな。分からない、か……俺とて少し前なら憎むべきは人という存在だと断じることができただろうに。悪いのは人だ、それは間違いない、それは変わらない。事実なのだから。それでも……そうだな、ああ、そうだ。分からない」
「それでもあなたは人を信じてくれますか、ウルグ。……いいえ、信じてください。まずはわたしを信じてください。わたしがあなたを信じるように、わたしを」
「笑わせるな。……ルーミ、君のことなど──もう、とうの昔に信じている」


*



 世界樹の祭壇の前から少し離れた位置に、王國の騎士団が樹の周りを取り囲むように弧を描いては並んでいる。
 ウルグは樹の前に騎士団の姿を認め、しかしそれでもさして驚いた様子もなく、隣のイルミナスの方を一瞥してその口元に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「存外早かったな、騎士連中以外は人っ子一人いない。陛下の采配か、或いはクェルか……君、どちらだと思う?」
「そうですね……両方でしょうか」
「いや陛下の方だろうな。クェルなら予防線だ何だのと言ってこの騎士たちの中に紛れ込んでいたとて俺は驚かない、ほんとうにいるんじゃないか? あれはやりかねないぞ」
 イルミナスが小さく笑って頷く。
 しかし次に一歩を踏み出したとき、騎士たちの身に着ける鎧が、果てに沈みかけた陽に照らされて赤く鋭く反射したのが目に映り、二人はその瞬間身体の中に漂っていた言葉すべてを呑み込まれた。
 世界樹へと続く街道が土の道となり、その道が最後に辿り着くのは祭壇である。
 その果て手前の道の中心に立つ騎士の一人とイルミナスは、身体五つ分ほど開けた処で目が合い、あと一歩進めばこれは斬り合いではないが、それでも彼らの間合いに入るのだということを理解して立ち止まった。
 目で分かる。
 この道の中心に立つ彼が、この騎士団の長だ。
 イルミナスは深く息を吸うと、目を瞑ってその息を静かに吐き出した。ウルグは己の一歩後ろに立っている。
 イルミナスが目を開き、再び騎士の瞳をその銀翼で見た。
 一歩を踏み出す。
 重い一歩を踏み出したと思った。
 さまざまな人々の意志を背負った一歩、しかしさまざまな人々の意志を傷付けるだろう一歩を。
「──取れ剣!」
 それは、心の臓に鳴り響くような声だった。
 騎士団長の号令により、世界樹の周りに弧を描いている騎士全員が剣或いは槍を抜き掲げ、誰一人遅れずに回れ右で世界樹の方へと身体を向けては、その手の得物を樹へと掲げた。
 そして騎士団長は、イルミナスへと道を開けるようにいつの間にか祭壇へと続く道の上から姿を消し、今や他の騎士と同様に世界樹へと向かい剣をかざしている。見事な引き際だった。
 しかし、イルミナスとウルグは呆気に取られたように、騎士たちのかざした鋭い光を見つめているばかりであった。
 ああ。
 ああ、これは。
 イルミナスもウルグも知っていた。
 二人はこれ≠知っていた。
 これは、騎士団が魔獣討伐へと出る際の号令である。
 騎士団長が得物を取れと声を上げ、各々が自身の得物を手にしたのちにこれから魔獣を討伐しに向かう方角へと剣をかざす。この一連の動作が終われば彼らは馬に跨り問題の魔獣を討ちに旅立つのだ。
 世界樹の前でこれが行われる、それはつまり國は、世界樹が魔獣だともう断定したということだった。
 イルミナスは、眼前の世界樹を見上げて微かに息を吐く。
 彼女はまだ世界樹が、今までずっとこの地で人々と共に在ったこの樹が魔獣だという実感が湧かなかった。おそらくはこの場にいる騎士たち全員もそうだろう。何故剣をこの樹に、希望と謳われるこの樹にかざしているのか不明瞭な者も在るように見えた。
 自分たちは、希望に刃を向けるのか?
 その中で一人だけ黒い睫毛を伏せているウルグが、ふとしてその青い瞳を騎士団、イルミナス、そして世界樹へと順に向けていったのちに一歩、前に進んだ。
 イルミナスとウルグには普段通りのことだとしても、ウルグの進んだ先は不敬にも王女イルミナスの堂々隣である。
 その思い切りの良さに、騎士団の中の一人が笑いを堪えているのだろう、剣を持たない方の拳が小刻みに震えていた。いや怒りを覚えていたのだろうか。手甲から覗く指先は黒檀のような色をしている。
 一歩進んだウルグは、騎士団長の方を見て深く息を吸うと、彼とはまた違った風によく通り響く深い声で言った。
「……悪いが、剣を下ろしてくれないか。彼≠ヘ大勢で刃を向けるような相手じゃない、ほんとうは」
 魔獣相手に刃を向けるななど、この男は随分と素っ頓狂なことを言い出すものだ。それはこの場にいる騎士たち各々が皆思ったことだろう。
 そう──ウルグの瞳を見ていた、騎士団長以外は。
 ウルグのその夜の如く深い青から、この騎士は一体何を見出したのだろう。
 彼はしばらく黙ったまま、自身の瞳でウルグの目を見返していた。風ばかりが静かに吹いては髪を揺らし、暮れる太陽が誰も彼もの色を赤や橙に染めている。
 騎士団長は瞼を閉じ、息を吐きながらゆっくりと、そのかざした刃を地に向けて下ろしていった。
 その行動に彼の部下やイルミナス、果ては自ら頼んだウルグまでもが驚き目を見張り、皆が皆、かの騎士一人ばかりを見つめている。
「──納め、剣!」
 彼は瞼を開けると大きく息を吸って再び騎士たちに号令した。
 それはよく響いたが先の轟くような声ではなく、どこか謳うような色が宿って聴こえる声だった。
「……礼を言う、ありがとう」
「何かあればそのときは剣を取ります。それでよろしいですね、殿下」
「もちろんです、ありがとう。よろしくお願い致します。……ウルグ」
「──ああ、往こう」
 顔を上げると、世界樹の背後には煌々と赤い太陽が燃えていた。
 日は暮れゆく。
 選ぶときが、やってきたのだ。



20161222

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