醒めた永遠


 白昼、世界樹の葉は静かに揺れているばかり。
 キトは世界樹の下で膝を突きながら、自身の目の前に座り込んでいる者の顔を覗き込んだ。
 その人のもつ、白の絡んだ黒髪が樹の葉と同じように静かに揺れ、彷徨うように宙に踊っている。
 顔にはところどころ年相応に皺が刻まれており、なるほど彼女はおおよそ四十路を過ぎたくらいだろうことがキトには伝わった。
 ただその瞳には沈んだ色ばかりが浮かび、この人の瞳には何をも映ってはいないのだということも彼は察する。
 以前の自分もこういう目をしていたのだろうか。
 いいや、していたのだろう。
 拒む暇も与えず、また音も立てず、寒気のようなものがキトの背筋を上った。
「──俺たちも行きましょう」
 そう声をかけてみても、目の前の人の瞳は虚ろに遠くを見つめるばかりで返事はない。
 キトの視界の端で、メグが迷子の子どもたちをひょいひょいと担いで避難場所へと連れて行くのが見えた。
 世界樹〈カメーロパルダリス〉が魔獣である可能性が浮上したため、世界樹下に集う者たち、または比較的幹に近い位置に集落を構えている遊牧民は安全が確認、確立されるまで正ギルド員の指示に従い、避難圏外の町村或いは正ギルドの野営地へと逃れるように=c…
 そう、アウロウラ王から勅命が発せられてからというもの数日間、正ギルドは避難誘導で大忙しであり、ギルド員でないメグとメグの所属する冒険家組合ですら仕事を手伝う始末である。
 ソレルスの口車とやらが國を動かしたのは称えるべき業績だが、こんなにも早く事が進むとは思っていなかった正ギルド〈ツィーゲ〉支部のギルド員たちは各々任された仕事に天手古舞。
 そう、もちろん避難誘導をはじめとする、のちに訪れるのだろう調査隊が、滞りなく調査を進められる環境を整えておくためにこなさなければならない数多の仕事の最前線に立つのは〈ツィーゲ〉のギルド員──言い出しっぺの黒山羊ども≠ナある。
 急に仕事を増やされ派遣されてきた他地方のギルド員たちには少々、白い目で見られているが、しかし最早そんなものを気にしている時分ではないことは誰もが承知していた。
 それが仕事だ、そういう仕事だ。
 そうしたいとか、そうしたくないとかじゃない。
 そうしなければならないことがある。
 ……そうすべきことがある。
「……子どもを……何処に連れて行くの?」
 ふと、虚ろな目をしてキトの前に座り込む彼女がそう問いかけた。
 メグが子どもを担いで連れて行くのをその瞳に映したのだろうか、キトは連日避難誘導のために大声を上げっぱなしだった喉から何とかまた声を出す。声は少し掠れていた。
「避難場所へ。あの子どもたちは服装から見るにおそらくあちらに今居を構えている遊牧民の子でしょう。ですからその遊牧民たちが向かう指定の避難場所へ──」
「私の子どもは?」
「お子さんがご一緒でしたか。はぐれましたか?」
「いないわよ」
 目の前の女性の支離滅裂な発言に、キトは思わず眉をひそめた。
 周りを見てみれば、こんにちは勅命を受けて五日目、避難圏内の祭壇、集落、小さな町村内の人々の避難はあらかた済んだようで、おそらく自分たちがおおよそ事の末尾となりそうである。
 ちなみに避難勧告が発令されて自ら真っ先に逃げ出したのは、その日にも祭壇の前に膝を突いていたのだろう教会関係者だった。
 ギルド員たちはどうにも頭の痛くなる思いで彼らを保護したものだが、しかし誰にも彼らを咎めることなどできはしない。
 祭壇の前に膝を突き、教徒と共に祈り捧げること。彼らもまた、それが仕事≠セったのかもしれない。
 いやそれ以前の問題だ、彼らが生きる罪を誰に裁くことができようか。
 死を怖いと思うことが、死にたくないと思うことが、自分たちと同じようにそう思うことが、果たしてそんなに悪いことだろうか。
 咎められなければならないことだろうか。
 ほんとうに、そうなのだろうか。
 前に座り込む彼女の両の手のひらが、キトの頬を包むように伸びてきて、彼は微かに身動ぎした。
 女性の指は四十のそれにしてはあまりにも細く、もう少しすると骨のように見える。
 手を顔にやられながらキトは、彼女のその沈んだ色の瞳ばかりに焦点が行っていた自身の目を瞬き、今度はこの女性の顔を、いや表情を受け取れるように努力した。
 そういえばこの人の肌はどうにも白く生気がない上に、あまりものを食べていないのかやつれて見える。瞳はやはり虚ろで何処を見ているのかがよく掴めない。隈も酷いようだ。
 世界樹の下から動く気があまりないように見えるのは、彼女がこの樹に魅入られているからだろうか。
 だとしたら、この人は魔獣なのだろうか。
 キトは、彼女のこちらを見て細められた瞳を見返した。
 いや違う。
 魔獣ではない。
 世界樹に陶酔している者の目ではない……
「いないのよ……」
「あ──ええと……お子さんが、ですか? やはり何処かで迷子になっているのでは……」
「あなたくらいの子」
「ああ、ならきっと、ご自身の力で避難場所へ移動なさってるかと」
「──生きていたら、あなたくらいなの」
 その言葉に一瞬キトの思考が白に弾け、彼は言葉を失った。
 生ぬるい風が、静かに彼らの間を吹き抜けていく。
 彼女はさながら宝石を触るかのように、キトの顔に走る傷痕を優しく指先でなぞり、また、彼の風に揺れる青みの紫がかかる孔雀緑の毛先を愛おしげに触れた。
 彼女の口が知らない誰かの名前を呼び、その言葉がキトの耳の奥で反響する。
 それでもキトは唇を引き結んで哀しげにかぶりを振り、今にも泣き出しそうな顔でほんの少しばかり微笑んだ。涙は流れていなかった。
「──キト」
「え?」
「キトだ。キト・アウルム」
「……何よ、いいじゃない……少しくらい……」
「だめです。だめなんだよ。俺はキトなんだ、それ以外にはなれない。それ以外にはなりたくない。たぶん……そいつもそうだよ、自分以外に自分をやらせるのなんて御免だろ。……あなたの名前は?」
「……アネシア……」
 呟くように名乗った彼女は、両手をキトの顔から離すと、悲しげに睫毛を伏せた。
 自分に触れていたその手のひらが、宙を掻いて力なく地面に落ちる。
 キトは振り返り、背後にある世界樹の祭壇を見やると再び視線をアネシアへと戻し、その虚空を見つめる瞳を自らの黄金で覗き込んだ。
 彼の瞳の金色は未だ輝いているわけでもなかったが、しかしただ沈んだ色を宿しているだけというわけでもなく、底に光る何かが在るようだった。
「行きましょう、アネシアさん。いくらこの樹にねがったところで、あなたの失ったものは戻ってこない」
「知っているわよそんなこと。だからこうして此処にいるの。あの子のいない世界で行く場所なんてない、行きたい場所なんてない。此処でこうして意味もなく祈るふりをしているのがいちばん楽なのよ。私は死にたいわけじゃないけど、生きたいわけでもないのよ!」
「……こんな樹に何ができるんだ」
「じゃああなたには何ができるって言うの、キト!……あなたはガーディアンね。あなたに一体何が守れるの? 何が守れるって言うの!」
 キトの右の手首にはめられている真鍮の腕輪を震える指先で示して、アネシアは絞り出すように、或いは掻き毟るかのように言葉を吐き出した。
 その言葉にキトは、誰に詫びているのだろうか許しを乞うようにこうべを垂れ、そのまま絶命してしまった風にしばらく動かなくなった。
 垂れた前髪から見える薄く開かれた金眼は静かに地面を見つめ、呼吸の音すら生ぬるく吹く風に拭われる。
「俺は……」
 やっとのことでキトが発した言葉は、ただ訥々としたそれであり、悲しげでもなく苦しげでもなかったが、どうしてだろうアネシアには──彼の目の前で彼の声を聴く者には今、彼の言葉はすべて彼の嗚咽に聴こえるのだった。
 震えてもいない、冷たくも熱くも、強くも弱くもない声。
 ともすると、感情すら感じさせない彼の声。
 しかしどうしても泣き声に聴こえる彼のその声が誰に向けてなのか、誰にも向けていないのか、或いは自分へ向けたものなのか、彼は言葉を紡いでいった。
「俺は、何も守れなかった。自分の家族も、大好きだった人たちも、たいせつな人のたいせつな家族も、みんなの家も、自分の家も、畑も花も、木々も、日常も……自分の心すら。残ったのはこの身体と、たった一人のたいせつな人──俺の家族……
 だから、守ろうと思った。こいつだけはこの手で守ろうと。それがみんなへの償いになると思ったんだ。だけど、違う。こんなのは逃げてるだけだ、償いなんて大袈裟に言って、俺は自分の心から逃げてるだけだ。選ぶのが怖いだけだ、ずっとそうだ、そうなんだ。守ろうなんて言って、実際守ってもらってたのは俺の方なのかもしれない。
 俺は見ての通り臆病者だ、だからこうして生き残った。こんな俺に何が守れるんだろうな、何も守れないのかもしれない。けど──」
「……」
「それでも俺はガーディアン、まもりびとだ。守りたいと思う。守ろうと思う。いや──守るよ。あなたを守る、アネシア」
 キトは顔を上げると言い切り、アネシアの腕を取って立ち上がった。
 それから世界樹を見上げて静かに息を吐き、急に立ち上がらせられたことで微かに見開いているアネシアの瞳を見て小さく微笑んだ。
「俺はこの樹みたいに大きくもないし、綺麗──でもない。だけど、できることはある。こうして手を取って、そばにいることはできる。一緒に歩いていくこともできる。これは樹にはできないことだ、これは俺にしかできないことだ」
「私たちは……何を失っても立たなければならないの?」
「いつかは。ずっと座り込んで目を塞ぎ耳を塞ぎ口をつぐんでいたら、そんなのは……そんなの樹と変わらないよ。俺たちは人だ。いつかは立てるように目があり、耳があり、口があり、身体があり、心がある」
「そのすべてを失ったら?」
「立てるよ。──独りでないことに気付けたなら」
 アネシアの顔が苦しげに歪み、その瞳から涙が一粒零れ落ちた。
 彼女の折れてしまいそうな細い片腕がキトの胸板へと伸びてきて、そこでつくられた拳が軽く彼のことを叩く。
 キトとアネシアは少しばかり笑い声を上げたが、そののちにアネシアから発せられた声は哀しげな震えをもってキトの耳へと届いた。
「あなたは強いのね、キト」
「……俺は弱いよ、強くなりたいだけだ。たいせつな人を守れるように、強くなりたい。それだけでいい──今は」
「……痛みを、憶えている?」
「それをいちばんはじめに想い出したんだ、だからこんなに怖い」
「私も想い出したわ、立つってことはこんなに痛いことだったって……独りじゃないこと、想い出してしまったから」
「……行きましょう」
 頷いたアネシアの手を引いて、キトは歩を進めた。
 その一歩一歩に痛みが滲むようで、彼の心の水面は苦しげに揺れ喘いでいる。
 しかし、遠くに両手を振っているメグの姿が見えて、彼の痛みは少しずつ和らいでいっては彼の表情を穏やかなものとした。
 いつかは誰もが立たなければならない。
 生きていかなければならない。
 何を失い、何を捨てても。
 黄昏を越え、夜明けを求めて歩き続けてゆく。
 そこにどんな痛みが潜み、そこにどんな苦しみが沈んでいても。
 それでも歩いていく。
 歩いていける。
 おれたちは、生きていける。
 この世界でたった独りになるまでは。
 この世界に、光と影が在る限り。
「……俺の家族と仲間に会っていきませんか。そう、えらく歌の上手なお婆さんがいるんだ。聴いた方がいいですよ、驚くから。
 ああやたら弁舌に長けたやつもいて話を聞いてると面白いな、でも言うこと丸ごと信じない方がいい。あんまり嘘は言わないけど、ほんとうのこともあまり言わないんだ。
 オゼっていうのが俺たちの中のいちばん上なんだけど、あの人は笑い上戸でほんとにすぐ笑う。それでみんなもつられて笑うから耳が割れるほどうるさくてな、いつもだよ。
 俺の家族っていうのはメラグラーナって言って、そうだなとにかくメグはほんとうにやかましくて跳ねっ返りもいいところなんだけど──」



20161217

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