明くる日の標


 夜も深まるというところ、キトのいつになく緊迫した表情を見て、一人の男がこちらもまた困惑はしているようだが、極めて真面目な顔で彼に声をかけた。
「じゃあ何だ……お前はあれが、世界樹が──魔獣だって、そう言うのか?」
「……はい、そうです」
 眉間に皺を寄せて頷くキトに、男が溜め息を吐いて自身の頭を掻き回した。それから途方に暮れるかのように天井を見上げている彼の名は、オゼという。
 キトはオゼから視線を外すと、一度辺りを見回して集う者たちの顔を見渡した。
 此処に在る二十数人の面々の表情は唖然とする者、苦々しげに顔をしかめる者、困惑したように固まる者と様々だったが、しかし誰一人としてキトの言葉を嗤う者はなかった。
 それもそのはず、この場所に今集っているのは彼の平生の仲間たちばかり。
 此処は、キト・アウルムが十五の頃より所属している〈九陽協会〉──通称正ギルドの〈ツィーゲ〉支部である。
 オゼは、自身のこげ茶の髪を掻き回すのを一旦止めると、その手のひらを行き場なく宙に彷徨わせたのち、明け方の空を想わせる紺碧の瞳でキトの黄金を見据えた。
「……確かなのか」
「はっきりとは言い切れませんが、けど……しかし、俺はそうだと思いました、そう感じました」
「世界樹の何が、お前にそう感じさせたんだ」
「……耳を根に当てたんです。最初は水の巡る音か何かだと思ったんだ。けど違う、あれは、あの音は……脈……脈です。世界樹の根から脈が聴こえた。俺たちの手首を耳に当てると聴こえるあの脈と同じように、規則正しい……」
 部屋の真ん中辺りの椅子に座っている男がキトの言葉を聞いては、根っことはいえ片や希望の象徴、片や神のもたらした樹とされる世界樹のそれに耳を付けるという、恐いもの知らずにも程があるだろう行為に笑い声を立てた。
 つい笑ってしまった彼に悪意はなかったが、そうとは知らないメグがキトの後ろからひょっこり出てきては少しばかりむっとした表情で、椅子に座る彼の方を見て言った。
「……キトは嘘を言わないわよ」
「んなこた知ってるよ、だから俺らは困ってんだ」
 メグの言葉に応えたのは、今しがたキトとやり取りを交わしていたオゼだった。
 キトは、メグとオゼを交互に見やると静かに息を吸い、訥々とだがしかし確かめるようにゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「俺の考えが正しいとするなら、世界樹は魔獣。だが魔獣ということはつまり動物か植物──或いは人……」
「いいやだが魔獣だ。俺たちの生命を脅かす存在だと判断されたなら、元が動物だろうが植物だろうが人間だろうが殺さなきゃならん。
 俺たちは黄昏を喰い止め、人の生を守る正ギルドの一員だ。それが仕事だ、そういう仕事だ。はき違えるなよ。そうしたいとか、そうしたくないとかじゃない。そうしなければならないことがある。それが俺たちの場合、人を守るために人だったかもしれない魔獣を殺すことが一として在る。
 ……珍しいな、キトが仕事に対してそういう風に言うのは。揺らぎそうか」
「組長……いや、だいじょうぶです。そこまで情は厚い方じゃない」
「どうかね、お前は優しいからな」
 まだ年も若いが、それでも國から正式に認められているギルドマスターであるオゼに軽く肩を叩かれると、キトは少しばつの悪そうに目を伏せてから肩をすくめた。
 優しい?
 いや違う、おれは臆病なだけなんだ。
 キトの隣へ出てきたメグへ、オゼが紺碧の瞳を向ける。オゼは一旦キトの方を見やると、再びメグの方へとその目を向けて、少しからかいを含んだ風に彼女へ問いを投げかけた。
「──で、あんたは一体キトの何なんだ?」
「あたし?……あたしメラグラーナ・ジェンツィと言えばキト・アウルムの幼馴染としてそれはもう有名な──」
「メグは俺の家族だ」
 メグが冗談めかして言葉を相手へ投げ返している最中に割って入ったキトの珍しい行動と、そのキトの発した言葉に、ギルドの人間たちは立つ者も椅子に座る者も心底驚いて──蜂蜜酒の入った酒を取りこぼしかけた者もいた──口を半開きにしては呆然と彼のことを見た。
 しかしその中でその場に硬直してしまうほどに驚いたのは無論、このメラグラーナ・ジェンツィ本人である。
 いつもと変わった様子もなく平然と言ってのけたキトを見て、組長オゼが一瞬言葉に詰まったが、すぐにその明くる朝の瞳を細めては豪快に笑い声を上げた。
 他の団員たちは、我らがギルドマスターがこれからキトへ何を問うのかを察したらしい、何やら誰もが口元に小さく笑みを浮かべている。
 オゼは手のひらを緩く振ってキトへ問いを放り投げた。
「家族ってのは姉、妹、母、嫁さんだとかまぁいろいろ種類があるが……そのメラグラーナさんはおまえにとって一体どれなんだ、キト? ん?」
「え……いや、そうだな……全部?」
 キトには理由がよく分からないが、己が発した言葉に部屋中が轟くようにどよめいたのを彼は感じた。
 世界樹は魔獣であると断じたときに起こった、誰もがはっと息を飲むようなどよめきではない。いやむしろこれは祭りの中に生じるどよめきにほとんど近かった。ギルド員の一人が、手にしていた蜂蜜酒を取りこぼしてはその硝子の杯が哀れにも木の床に砕け散っている。
 メグはいろいろな感情が心の中で渦を巻いて、結局はそれらすべてを一緒くたにして溜め息として吐き出し、それからほとんど呆れたような目線でキトの方を見た。
 ともかく、この部屋に在るキト以外の者たちの心は今、違わず一致したのだった。
 全部だと!
 欲など遠い昔に捨ててきたようなあのキト・アウルムが全部をご所望だと!
 いいやこの男、一体何を言ってやがるんだ!
「キト、なぁにぬいぐるみを取られたがきみたいな顔してるんだよ。誰も取って喰いやしねえよ、なぁ、お前ら?」
 そうギルド員たちへとオゼが問いかけると、彼らは背後を振り返ったり隣の人間の顔を見やったりしてから、やはりからかいを含む陽気な笑い声を立ててめいめい組長へと頷いたのだった。
 そんな中キトとオゼ、オゼとギルド員たちのやり取りをじいと見ていたメグは、少しばかり驚いた色をその瞳に浮かべると、しかしすぐに安堵したような顔になって呟くように、いいやつい洩れてしまったのだろう言葉を唇に乗せた。
 その声は、大盛り上がり極まりない部屋の中で組長オゼにのみ届いたようだった。
「あ……分かるんだ」
「何がだ?」
「キトがむっとしてるって」
「そりゃ分かるさ」
「うん──うん、そうだよね」
 オゼはメグの無意識だろうが柔らかく細められた瞳、その夕暮れの太陽の色を不審を抱かれない程度に見つめると、彼もまたその明けゆく空の紺を湛えた瞳を細め、腕を組んでは微かに頤を床へと向けて吹き出すように軽く笑った。ああ、なるほど全部ね。
 やや──かなり逸れてしまった話題を元の道へと導くように、オゼが片手を上げた。
 瞬間、ざわついて仕方がなかった部屋の喧騒は鳴りを潜め、オゼはギルド員たちの集まる視線を一手に引き受ける。それから自らの紺碧に鋭く閃く光を宿すと口角を上げてちらりとキトの方を見やった。それにつられるように集まる視線が今度はキトの方へと流れていく。
 キトは彼らの視線をその身体に受けても別段怯むこともなく背筋を真っ直ぐに正しては顔を上げ、そして己の仲間たち一人ひとりの顔を見渡した。
 そして、彼は悟る。
 こいつらはもう船に足を掛けたらしい。
 いや、もう乗り込んでいる者もいる。
 こいつらは信じることに決めたのだ。
 こんな≠ィれのこんな§bを、こいつらは!
「さてキト、どうする?」
「……伝令を飛ばせますか、王都に」
「塔を介さずギルドから直接行こう。よもや勘で物を言ってるのではないだろう?」
「あれには脈と──おそらく心の臓があります。手っ取り早いのは樹に耳を付けてもらうことですが……しかしとりあえず世界樹が魔獣、聖歌が鎮魂歌だと仮定すると繋がるものが多く出てきます。
 ……魔獣となった人間の中に、異様にあの樹へ陶酔する者がいるでしょう。獣はより力のある獣に心惹かれ、畏怖し、その力に恃み従う。いや王に恃む人も同じか。……つまり魔獣が世界樹に興味を示すのは世界樹が他ならぬ魔獣であり、その存在がより大きなものだから。
 ……現に植物のかたちをとる魔獣は各地に存在します。そしてそれに共通するのが香らない≠ニいうこと。いや獲物を誘う香りを発する植物の魔獣も存在するにはするがけれどその香りは植物の香り≠ナはない。違う。
 植物の香りというものは人を寄せ付けるものではなく、むしろ跳ね返すもの。むせるほどに圧倒的な生命のにおい……世界樹にはそれがない。あれからは何も香らない。意志が、魂が、生きたいとねがう心が──あそこには何もない=B
 あの魔獣は生きているが死んでいる。死んだように生きている……かつて世界樹が何だったのかは分からないが、もうあの魔獣は鼓動するだけの哀しい存在だ。ただ哀しく揺れる……いえすみません、逸れました」
 オゼが気にするなというように軽く手を振った。
 顔を上げてはいるが微かに伏せられたキトの瞳に浮かぶ仄かに光さざめく水面を彼は見ると、静かに息を吐く。キト・アウルムの心に、哀しい色を宿す光が舞っていた。
「何も考えなくて済むなら俺はもう魔獣になっちまってもいいかなって、そう思ったこともあったんです」
「……ああ」
「言っていいのか分からないけど、俺は黄昏を止めようと思って此処に入ったわけじゃなかった。危険が伴うこともあるがそれなりに金が貰えて、慣れる内に仕事は増える一方だから仕事に明け暮れて……そうしてる間は何も考えなくてよかった。都合が良かった。
 俺はたいせつなものを守りたいと言いながら同時に、たいせつなものを守ることから逃げていたかった。逃げてた。……守り切れなかったときが怖いから、また……」
「お前が黄昏を止めることに別段興味がないことは知ってたよ。誰も咎めないさ、咎めることなんてできない」
「俺はもうほとんど、魔獣みたいなものだったのかもしれない」
「だが違う」
 静かな声だったがオゼがよく通る声で断じた。
 キトははっとして彼の強い瞳を見ると、微かに目を細めて笑い、しかしやはり哀しげに頷いたのだった。
「ああ──だから哀しい。俺はあの樹のことを何かおかしい、不気味だと思っていたんだ。だけど……あれが魔獣だと分かった瞬間、いろんなものが腑に落ちて……ただ、哀しいと……それだけが残った」
「しかし殺すか?」
「……國がそう判断したなら。それが國を、民を、人を守るためと王が判断したならば。俺はガーディアン──まもりびとだ」
「結構。分かっているとは思うが、第一に俺たち正ギルドは依頼がなければ動けない、基本的には。相手はこの國の希望、世界樹〈カメーロパルダリス〉だ。それこそ依頼どころか、國からの指令がなければ動けないだろうな。ならばやはり伝令を飛ばそう、この中に口車で國を動かせそうなやつは?」
 オゼが言うと、机の上に軽く腰を掛けて腕組みをしては、眠ったように顔を組んだ腕の方へ向けていた、烏の羽のように黒い長髪をもつ男が、伏せられていた睫毛を上げてその間からオゼの方を見やった。
 オゼはその男と目が合うと軽く笑い、やはりお前しかいないかと軽口を叩く。
 長髪の男はやっと顔を上げるとオゼとキトを交互に見、それから柔らかい色を保った声で言葉を発した。声に反してその瞳は鋭い。
「世界樹が魔獣だという話をするとして──今まで何事もなかった魔獣を今になって殺す必要性に問われるかもしれませんね」
「いやソレルス、そのときは素直に言ってやればいいさ。そうやって油断して今まで何人死んだんだ?……ってな。その死んだやつらは一体誰の子どもで、一体誰の親だったんだ?……あれが黄昏の原因かもしれないぞと言ってみるのもいいかもしれないな」
「いえ根も葉もないことを言うのはかえって逆効果かと私は──いや、待てよ」
「どうした?」
「存外有り得ない話でもないかもしれません。落ち着いたらもう少し詰めてみましょう」
「ともかくさっさとやることをやっちまって、この朴念仁キトさまへ問い詰めてみないとな。いろいろと。──なぁ、お前ら?」
 組長オゼが腰に片手をやり、余った方の手を鋭く振った。部屋中に笑いが起こり、杯を片手に持つ者は皆それを掲げて声を上げる。
 それは、ほとんど咆哮だった。
 いいや陽気なそれこそが、彼らの鬨の声なのだ。
 黄昏に抗うとは一体どういうことなのか、キトは彼らの大音声をその身に浴びながら想った。
 彼の目の中に極彩色の紫電が走り、鈍かった金色を少しばかり光らせる。瞬きの間だけ彼の周りには光の粉が舞い、その顔に走る傷跡を照らしていた。
 そんなキトに気付いたのは隣に立っていたメグばかりであるが、それでも彼の仲間たちは気配を感じていた。
 ──キト・アウルムは、黄昏に抗うことを決めたのだ。
 メグはそんなキトの瞳を横目で見ると静かに息を吐く。
 それから彼女は、肩に下げている布袋から何やら巻物を取り出すと、それを部屋の中のいちばん大きな卓の上に広げて、オゼとソレルスと呼ばれた男の方を振り返って彼らを呼んだ。
 彼女が広げたそれは、大きな羊皮紙に現時点での〈ソリスオルトス〉の姿が黒のインクで描かれている地図だった。
 二人が近くまで来ると、メグはその黒の上から濃い赤で描かれた線──いや道を指差す。
 インクの変色の仕方を見ても、鼻を近付かなければ分からないがその香りを取っても、この線はごく最近に引かれたものだということが分かった。
「善は急げね。これはまだ本部にも──あ、冒険家組合の本部ね──持っていってない地図。
 王都には〈ツィーゲ〉から気球や飛空艇が出てるけど、それで直行するよりもむしろ……この途中の町で降りて、そこからこっちの洞窟を抜けていく方が早く王都に着くわ。この前まで未開の洞窟だったんだけどね。五日、遅くても三日早く着く。
 あたしがこの足で仲間と歩いて調べて測って、それで描いたんだから間違いはないわよ」
「まだ國から正式には認められていない道……ということですか。よろしいのですか、持ち込む前に公開して」
「ばれたらこってり絞られるだろうね。まぁいいじゃない。冒険しないとね、あたしは冒険家なんだから」
 メグは、悪戯を考え付いた子どものようにあくどい笑い声を上げた。キトが後ろで呆れ顔をしているのが振り返らずとも分かる。
 メグは、卓に広げた地図を丸めてソレルスに手渡した。
 ソレルスは笑いを堪えているようで、彼の震える肩にかかった濡羽色の髪の一房がはらりと宙に垂れる。隣のオゼは最早笑いを隠すこともなくメグに礼を言い、面白そうに何度も頷いていた。
 笑いを何とか押し止めたソレルスが、ふと自らの懸念を口にする。
「ところで、この洞窟に魔獣は?」
「そりゃ出るわよ、あんた戦えないの?」
「……オゼ」
「言われなくてもついてくよ。それから双子も来てくれ」
 オゼの閃く手のひらを見て、双子と呼ばれた二人組の男が頷いた。
 双子と呼ばれつつも似ているのは目鼻立ちや髪の色ばかりで、片方は痩せぎす、もう片方は丸々としたという体型である。
 しかしこの二人は腕の立つガーディアンであり、細い方は杖に仕込んだ刀と呼ばれる得物、太い方はまるで盾のような──実際盾としても使う──大剣を得物としてその手に取り、これまで幾人もの人間を守ってきたまもりびとなのだった。
 双子の方を見やった後、オゼは次にキトの方を見てその手のひらを鋭く閃かせた。
 その手の動きを見て、自身に指令が下されるのだと悟ったキトは黙ってオゼの朝の瞳を見据え、彼の言葉を待つ。
 そんなキトを見返したオゼは、その瞳に浮かぶ色が以前とは少しばかり違う光を宿しているように感じて、思わず目を細めた。
 彼は、予感を覚えていたのだった。
「キト、お前は此処にいて──上にいる吟遊詩人の婆さんについててやってくれ。言ってることが回りくどくて困ったものだが、あの人は世界樹について知っていることがある。お前さんはどうやら、割かしあの婆さんに気に入られてるようだからな。いろいろ聞いて、いろいろ考えてみてくれ。そういうのは得意だろ?」
「……承知。組長、ソレルス、ラインにシュリヒト──道中お気を付けて」
「気を付けるが、実際気を付けるのはソレルスだけで十分だよ。俺と双子は殺されても死なない」
「無茶苦茶ですよ、組長……」
「それくらいの気概で行くってことさ」
 これから王都へ直談判をしにいくというのにも関わらず、オゼは少しばかりも臆することもなく楽しげな笑い声を上げた。
 それから正ギルド支部の入口、両側開きの扉の前に立つと、彼はその心のままに音がするほどの勢いでその扉を開く。
 その先に見えた空は今、彼の瞳と全く同じ色を映しており、入る風は彼の鋭く閃く手のひらの冷たくも熱を宿したそれだった。
 彼は朝を迎える空を見据えると、もう一度鬨の声を上げる。
 風の往き先は最早、昨日とは違っていた。
「野郎ども、俺の名前を知っているか! 俺の名前はオゼ! オゼ・ガーダ! 明日へ向かう者≠セ!──何かが変わるぞ。これは勘じゃない。俺たちは勘には頼らない。だが変わる、何かが変わる! 見ろお前ら、夜が明けるぞ!」



20161210

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