スティグマータ


 歌が聴こえる。
 聖なる歌と云われた歌が。


*



 キト・アウルムはメグことメラグラーナ・ジェンツィと共に、一度己が背を向けたはずの世界樹、〈カメーロパルダリス〉の元へと舞い戻ってきていた。
 と、いうのもキトは、正ギルドから世界樹の祭壇に集う教徒に対して、声を荒げて主に礼拝の妨害をする、虚ろいと呼ばれている老婆のことを厳重注意し、必要があれば保護してギルドまで連れてくること──もし、仮に老婆が魔獣ならば連れ帰る必要はない≠ニ、おおよそこういった旨の指令を受けたためである。
 彼は内心じっとりとどこか気色の悪い汗をかきながらも、己が配属している支部のギルドマスターへ承知の意味で頷き、態度には出さなかったがしかし苦々しい気持ちで世界樹へとやってきたのだった。
 ちなみに、世界樹へ仕事に行くとキトがメグに告げたとき、やはり彼女はついて行くと言って聞かなかった。
 キトは世界樹の南側、祭壇が設置され教徒がまばらに集っているその場所から距離を取って、辺りの様子を見回す。
 世界樹の枝葉の陰となっている地面は、時折葉の隙間から差し込む陽光を受け入れていたが、キトはどうにも世界樹を見上げる気にはなれずに小さく息を吐いた。
 緑は今日も香っていない。
「この下は涼しくて良いっちゃ良いわよねえ」
「……遊びに来たんじゃないぞ、メグ」
「うんうん、分かってる分かってる」
「どうだかな……」
 手を額の辺りに当てて辺りを見回すメグは、キトの仕事を手伝って例の老婆とやらを探そうと一応はしているようだったが、しかし目線は近くでは見慣れない見慣れた世界樹の、あちこちの地面から顔を出している力強い樹の根たちへと気を抜けば向いてしまっている。
 キトの視界には、神父と思われる男が祭壇の前に立ち、他の教徒がそうするように地に足を突いては礼拝の儀の言葉を発しはじめたさまが映っていた。
 世界樹の祭壇の前には長椅子や普通、教会には在るだろう装飾などもない。此処にはただ、その姿ばかりが美しい祭壇がそれ以外には何をも持たずに世界樹の幹の前に備えられているのだった。
 歪に思える。
 世界樹へ祈りを捧げる者の横顔一つ取っても、その表情は祈るというよりも、いいやねがうというよりも、それはどうしても縋っているようにしか見えなかった。遠くから見てもそう見えるのだから、近くで見たら教徒たちの表情は更に悲痛なものなのだろう。
 そんな風にキトは想像して、彼らの痛みを堪えるような表情を見てもさして感情が動かず、こんな風に冷淡な考えばかりが頭に浮かぶ自身を一瞬だけ嫌悪した。
 しかし、そんな自分だからこそ歪に思えるのだ。
 ぽつりと備えられた美しい祭壇、地に足を突き、祈り縋り己のねがいばかりを押し付ける教徒たち、その顔を見ても声を聴いても、救いなど与えはしないだろうこの神に仕立て上げられた巨樹、此処からではよく見えないが祭壇に彫られているという旧き聖歌、その詩が……
 何が歪で、何がおかしいのかは分からない。
 だが何かが歪で、何かがおかしいのだった。
「……魔獣じゃないといいんだけどな」
「その、注意をするっていうおばあさんが?」
「ああ。……俺たちガーディアンは人を守るための盾だ。俺は甘いんだろうが……でもその盾で人を殺したくはない。それがもう人ならざる魔獣だからと言って……それが引いては人を守ることになるとしても」
「……あのさ、キト」
 先ほどまできょろきょろと忙しなかったメグの、その日暮れの色を宿した赤銅の瞳がキトの沈む黄金を捉えた。メグの柘榴の色を湛えた癖っぽい長い髪が風にゆったりと揺れている。
 キトは一瞬息をするのを忘れながら、此処には確かに教徒たちの祈りの声や揺れる葉の音、時折行き交ってゆく人々の足音が在るはずで、その音たちは確かに自分の耳の中へ入ってきているというのに、どうして今言葉として自分の中に入ってくるのは彼女の声だけなのだろうと心の反対側で思った。
 そしてどうして、彼女は今こんなに哀しそうに笑っているのだろうとも。
「──魔獣になったらもう人じゃないって、動物じゃないって誰が決めちゃったんだろうね」
 その言葉にじり、と顔の傷痕が痛む。
 いいや、痛かったのは心臓の方だったろうか。
 揺らめく思いを感じながらキトが呆然と立ち尽くしていると、自分の背中──背負っている盾辺りに軽い衝撃を感じて、彼は振り返った。
 そうしてみると視界に入ってきたのは、自分の背ほどもある琴を背にした小さな老婆であり、キトは何となくだが、ああこの人が例の老婆かと察し、難しい顔をしている老婆の瞳をよくよく見ながら言葉を発した。ひとまず焦点は合っているようだ。
「申し訳ない、少しぼんやりしていたもので。お怪我はないか、ご老体」
「ない。それよりおぬし、あの目障りな教徒どもを追い払ってはくれないか。此処には魔獣がいる。魔獣がいる。だがわしは歌わねばならん……」
「魔獣?……歌?」
「わしのさだめじゃ。血のさだめじゃ。
 先祖がかつて鷹狩りの猟師や羊飼いだった者がそうなったと云われる魔獣遣い……その子らが魔獣を躾けられる素質を持って生まれるように、そしていずれ魔獣遣いとなるように、わしはわしの血によってこの歌を歌うさだめがある。
 わしは彼に、歌わねばならない。歌うことしかできなかった、歌うことしかできないわしたちは……」
 この老婆が魔獣となった人ではないことは、最早誰の目にも明白だった。
 そして老婆は虚ろい≠ニ呼ばれているのに反して、その瞳には何か強い意志を宿しており、虚ろと言うのならば祭壇の前に膝を突いている教徒たちの方がよっぽどそれらしかった。
 虚ろいというのはおそらく、虚言と移ろいを掛けている面白くも何ともないただ俗らしいだけの呼び名なのだろう。
 老婆が痺れを切らしたようにかぶりを振り、背にしている琴を手に取った。
 それから老婆とは思えないほどにしっかりとした足取りで歩き出し、近くで聴けば頭のてっぺんから足先まで轟くような、しかし荒いと言うよりはむしろ神秘的と言える歌声を響かせはじめる。
 その小さな身体の何処からそんな大音声が出るのかは分からないが、それでも老婆は力強く声を張り上げて歌った。
 キトと共に老婆の後ろへついて行きながら、しかしその歌声に度肝を抜かれているメグが半ば感嘆の声を上げた。
「キト、この歌って──」
「……この歌だ」
「え?」
「俺が聴いたのはこの人の歌だ……!」
 微かに目を見開いたキトが、息を漏らすように声を発した。
 あのとき、樹が異質でどこか不気味だと感じたあのときに聴こえたのは、この歌だ。
 この歌なのだ。
 老婆の口から紡がれる流暢な古代語の詩が、何故だかは分からないがキトの頭の奥をぐらぐらと揺らす。
 何か、点と点が繋がって線となりそうだったのだ。
 そしてその線と線は繋がり、さながら夜空に浮かぶ星座のように形を成しそうだったのだ。
 だが分からない。
 しかし何かが繋がり、何かが分かりそうなのだった。
 そんなキトにメグが、別段隠すこともなくその顔に怪訝な表情を浮かべたが、すぐに思い出したかのような顔になると、先ほど自分が言いかけていたことをキトの耳へそっと伝えた。
「あたし、古代語はよく分からないけど……これ、聖歌よね、確か」
「ああ……彼≠ノ歌わねばならないと、この人は言っていたよな。此処には魔獣がいるとも。そしてこの人は世界樹の前で歌を歌うことに執着しているように見える……メグ、聖歌の歌詞には何か意味があると思うか」
「人は意味のないことをわざわざ歌にしたりはしないでしょうよ。いやもし歌にしたとしても、それが意味のないとんちんかんな歌だったら今の今まで語り継がれて未だ誰かに歌われるってことはないんじゃないの?」
「そう、そうだよな……カメーロパルダリスに祈れ、あの亡骸を悼め、かわたれに沈んだ誰そ彼よ、彼は誰か=c…」
「分かりにくくしてるようで割とそのままだったりしてね。かわたれ……前時代のこと? いや前時代につくられた歌なんだとしたら明け方のことかしら。
 ええと……明け方に死んでしまった人がいる、だけど彼が誰かは分からない、彼は誰だろう、分からないが彼の死を悼もう、そのためにカメーロパルダリス──世界樹に祈ろう……案外そういう感じかもしれないわよ」
 メグの言葉を咀嚼しながらキトが頷く。
 老婆の歌はますますその存在感を膨れさせてはキトの心臓を強く叩いた。
 彼女は一人で歌っているにも関わらずその喉から発せられる歌声は何重にも層を成しては調和し、更にその広がりを大きくしている。
 まるで、合唱団が一人になって歩き回っているようだ。
 高い音と低い音が老婆の口から同時に紡がれ、彼女は一つ後の詩を歌っているはずなのに、一つ前の詩までがこちらの耳に届く。
 しかしそんな荘厳とも言える老婆の歌に耳を傾けたり、或いは振り返ってキトやメグのように度肝を抜かれるものも此処には少なく、なるほど世界樹の周りに住んでいる者にとっては日常茶飯事のことなのだろう、呆れるような目線を向ける者も多かった。
「ねえキト、今気付いたんだけど……おばあさんの持ってる琴に描かれてる星と葉っぱみたいな紋様、祭壇にも同じものが彫られてない? ほら、聖歌の周りに彫られた……見たことある?」
「いや、よくは……ほんとうか?」
「あたしの記憶が正しければね。もしかしたらあのおばあさん、聖歌をつくった人の末裔──だったりして。有り得ないか、あの紋様は聖歌を歌う人にとっては一般的なものなのかもしれないし」
「話だけだったら有り得ないと笑って済ますだけかもしれない。……だが俺たちは今この人を見ている、この人の歌を聴いている……こんな風に聖歌を歌い上げる人は見たことがない。存外、メグの言う通りなのかもしれないな……」
 キトとメグは、前をゆく老婆へと視線をやった。
 二人とも老婆の背を見ているので彼女の表情自体は見ることができなかったが、彼女の歌声は実に真に迫っており、何か胸を肺を突き刺して心臓を揺り動かすものがある。
 肺が苦しい。
 息を上手くすることができない。
 頭が揺れる。
 何かと何かが繋がりそうで、しかし繋げてはいけないかもしれないものが、脳より深いところで点滅しているような気がするのだ。
 その点滅は星の瞬きか、或いは警鐘なのか。
 心臓が痛い。
 いいや、それともこれは恐怖か?
 何故、誰も振り向かない。
 何故、誰も足を止めない。
 何故、誰も、彼女の歌を聴かない?
 これは慣れ、不慣れという問題ではない。そんなものではないのだ。
「……あたし、ちょっと耳を塞ぎたくなってきたかも」
「……俺もだよ」
「何でだろう、何なんだろう……聖歌、なのに……」
「……これは、賛美歌じゃない」
 キトは、時折隣を過ぎ去っていく人々の方を振り返りながらぽつりと、しかし確信めいて呟いた。メグはキトの言葉をおうむ返ししながら、答えをこちらに求めるように疑問の色をその瞳に浮かべていた。
 誰もが、目を逸らしている。
 誰もが、この痛みから逃げている。
 そしておそらく、此処に住む誰もが薄々気付きはじめている。
 此処に救いがないことを。
 此処には、一時の休息のみしか残されていないことを。
 自分たちはずっと、ずっと、ずっと何か≠先送りにしていることを。
 先送りした未来に、自分がもういないことをねがって。
 その未来がいつなのか、今なのかと怯えながらも。
 それは、おれのように。
 この顔の傷跡、その理由とずっと向き合えていないのかもしれない、おれのように。
 それを理由にして、かつてのように笑うことも、怒ることも、泣くことすら満足にできなくなった──自分から、こんなものとやめてしまったおれのように。
 もう失いたくないからと、何も感じなければ強く在れると、たいせつな人を守ることができると御託を並べて、過去と向き合うことをやめてしまったおれのように。
 結局のところ、怖かっただけだ。
 過去と向き合うことが、かつてのように笑って怒って泣いて、たいせつなものがこの手に溢れてまた零れ落ちて、そして失うことが怖かっただけだ。
 怖いだけだ。
 それだけだ、それだけの臆病者なのだ。
 誰も彼もがそうなのかもしれない、歌う彼女の隣を目を伏せて行き過ぎていく人たち誰も彼もが……
「これは、鎮魂歌だ」
「え……しずめうたってこと? 聖歌なのに?」
「ほんとうに、聖歌か?」
「……鎮魂歌だとしたら、誰のための……」
「それは──」
 言いかけたところで、キトが背の盾を唐突にメグの方へと放って走り出す。
 メグが驚きながらも盾を受け取り、彼が走っていった方を見やると、なるほどその先では老婆が、ところどころの地表から突き出している世界樹のうねる太い根に躓いて転びかけているところだった。
 老婆の四肢に響き渡る歌は止み、メグの震えていた心が元のように落ち着きを取り戻そうとしている。
 メグが視線をやった先のキトは、老婆を抱き抱えた状態で背を強かに世界樹の根へとぶつけていた。
 キトが微かに呻き声を上げているのが視界に映り、メグはキトの盾を肩に担いでは急いで彼の元へと走り寄って隣に膝を突いた。どうやら老婆の方に怪我はないらしい。
 老婆はキトの腕から抜けると、呆然としたような表情で彼の方を見ていた。
「キト!」
「……」
「キト? キト!」
「……嘘だろ、そんな馬鹿な……」
 キトは、メグのことが見えているのか見えていないのか、青白くなってしまっている顔を世界樹の根の方へと向けた。
 根すらも新緑の色を湛えたそれに、キトは小刻みに震えて見える両手を置くと、青色吐息でその根に片耳を付ける。
 それから跳ねるようにその根から身を離すと立ち上がり、恐る恐るといった風に世界樹を見上げ、一瞬眩暈がしたようにふらりとその身体を揺らめかせた。
 そうしてキトは半ば放心したかのようにメグの方へと向き直り、夜の水面の如くに低く静かな声で彼女へ告げた。
「……俺たちには手に負えない。退くぞ、メグ」
「退く? 退くって……何から?」
 メグが問うと、キトは彼にしては珍しく大きく音を立てて深く息を吸い込み、鋭い金のまなざしをメグの赤銅へと向けて言う。
 彼の周りには、有無を言わさずというように夥しい金の粒子がいつかと同じく舞って見えた。
「いいから早く。──逃げるんだ、俺はお前を失えない!」



20161204

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