たそがれの國


 何故、わたしたちは滅びなくてはならないのだろうか?
 どうすれば、わたしたちは滅びずに済むのだろうか?
 黄昏がやってくる。
 すべてを呑み込む、黄昏が。


*



 ──黄昏に抗う鷹の爪、王都〈アッキピテル〉。
 都を守る厚い壁、そこから旅立とうとする一人の少女が大地の上に立っている。
 翠玉のように透き通った美しく長い髪を、こんにち彼女は躊躇なく切り落とし、その自分の姿こそを己の覚悟の証とした。
 少女が羽織るのは飴色をした生地でできた、短いマントのようにも見える町娘風の釣鐘型をした貫頭衣。その裾には、鮮やかなというよりは、やや深みのある赤茶色で一筋の線が波打つように刺繍されており、その赤茶色と同じ色の髪帯は、彼女の熱い意志を表すかのように、その翠色の髪を守っては彼女の首筋で揺れている。
 上掛けの下には、動きやすさを最優先としているがまだ新しい白くぴんとした襯衣。その白い襟元で時折光を放つのはひし形に磨かれた、彼女の髪のように透き通り、しかし彼女の髪よりも濃い翠を放つ翡翠でできた小さな胸飾り。
 腰から下には在るのは、何処かの民族が翼≠ニいう意味を込めた、鋭い羽のような紋様が描かれた赤い──やはり、赤茶色のスカート。そしてその下に身に着けている防護性の高い、伸縮するが分厚い布で作られた土色の洋袴は、彼女への田舎臭いただの町娘という印象を決定付けていた。
 しかし、彼女のその淡く翠を纏った銀色の瞳にはただの町娘≠ノは似つかわしくなくもそれは確かに、空を翔ける翼の意志が燃えている。
 少女の名前は、イルミナス・アッキピテル。
 今やこのような出で立ちとなっているが、彼女は、いいや彼女こそたそがれの國≠ニ呼ばれる、古い言葉で日の出≠ニ夜明け≠フ名を冠す広大な王國〈ソリスオルトス〉の君主、アウロウラ・アッキピテルの嫡女、その人である。
 イルミナスは迫りくる黄昏を喰い止めんと、今まさにこの鷹の厚い守りの中から飛び立とうとしているのだった。
 ただ見守るばかりの月明かりが、踏み出そうとする彼女の足元を照らしていた。
(……黄昏がやってくる)
 ──黄昏。
 それは春を枯らし、夏を散らし、秋を腐らせ、冬を殺すもの。
 ひとたび黄昏が訪れれば、その大地は割れ、水も涸れる。
 植物は灰になり、空が濁る。
 人々は渇れ、餓え、嘆き、そこへ訪れるのは黄昏た死ばかり。
 そして、その先にあるのは人類の滅び。
 それだけは、どんなに愚かな人間であろうとも理解することができた。
 この地に、黄昏が訪れる理由は分からない。
 しかし、何百年も昔からゆっくり、地を這うようにゆっくりと、確かにそれはやってきていたのだった。
 だがそれでも、滅びゆくこの大地の上に人々は立っている。
 暮れゆくこの大地の上で、それでも彼らは自らの意志を心に宿し、今を懸命に生きていた。
 生きるために知恵を絞る者、夢のために命を燃やす者、黄昏を食い止めんとする者、緑に満ちた新天地を目指す者、今在るものを愛する者──これは、黄昏に立ち向かい、抗う者たちの物語なのだ。
 そしてこの少女もまた、自らの意志を胸に、迫りくる黄昏に立ち向かってゆくことを決めたのだった。
「……ほんとうに往くのか」
 イルミナスを照らす月光の先に、夜闇よりも深い漆黒が見える。
 それは、彼女に問いかけた声の主のものだった。
 彼の髪の深い黒。それはまるで、月明かりすらも呑み込むようである。
「そこに? ウルグ」
 朝の澄んだ空気のような声で彼女は漆黒に問いかける。月光の影で黒が揺れ動くのが見えた。
「……ああ」
 ウルグと呼ばれたその男の声は、さながら冬の星空のように深い闇を孕んでいたが、しかしそれはどこか美しいものでもあった。
 イルミナスは夜に浮かぶ真白の月を見上げ、揺れない声で言う。その言葉はまるで、自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「往きます。もう迷いはありません。黄昏を、止める」
「ふん──どうやって」
「止める方法を探します。そのためにはまず、わたしが強くならなくては」
「……その剣は見せかけか」
 ウルグが意地の悪そうに口角を上げ、彼女が腰に差している剣に視線をやった。
 その言葉にイルミナスは一瞬ウルグの顔を見たが、すぐに視線を前へ持っていくとそれと同時にかぶりを振り、剣の柄に白い手袋をはめた自分の手を添え、答える。
「いいえ。扱えます。──しかし、これだけではまだ足りません」
「……足手纏いになるようなら、置いて往くぞ」
「覚悟の上です」
 その意志に根負けしたのか、ウルグは踵を返して歩き出した。それに気付いたイルミナスも、急いで後を追う。
 月明かりを受け入れた彼の輪郭が、ようやく今、ここではっきりしてきた。
 浅黒く焼けた肌に、闇を呑み込んではうねる黒髪、どこかに哀しみを湛えているような深い青の瞳。
 闇に溶ける黒い襯衣の襟元に閃くのは、金で縁取りされた丸く吸い込まれるような青い石のポーラー・タイ。纏う洋袴は細身で、微かに薄汚れた白色に染まっており、頑丈そうな焦げ茶の長靴を履いた彼の足は、迷いなく大地を踏みしめてゆく。
 黒い革の手袋をはめたウルグの右手では、彼の瞳にも襟元の青い石にも似た色を湛えた石が填め込まれた指環が、時折心もとなく月の光に照らされ淡くその存在をこちらに知らせていた。左手は何か小難しそうな機構が成された手甲に覆われ、彼がその手を動かすたびに乾いた音を微かに鳴らしている。
 彼の得物は例外も多いが、主に自身のその両手である。
 夜の暗闇の中で、彼が羽織る月白のローブだけが、ひらひらと白くやさしく輝いていた。
「──剣を抜くのはたいせつなものを守るときだと、幼少の頃、わたしは父に教わりました」
「大方……そうでも言わないと、君は無意味に剣を抜いて自分の指を切り落としかねなかったのだろう」
「わたしはそんなにお転婆に見えますか、ウルグ?」
「そうだな、まあ、淑やかな姫ならば剣を携えて旅に出ようとしたりはしないだろう」
 そう言われたイルミナスは困ったようにはにかんで痒くもない頬を掻いたが、ウルグは振り返らず淡々と歩を進めた。
「……何故、出発を夜にした」
 思い出したかのようにウルグが呟く。それもそうだろう、夜は視界が悪く危険も多い。そして、それだけではなかった。
 魔獣──〈ソリスオルトス〉に蔓延る、動物が黄昏により凶暴化し、それにより姿をも変質させた生き物であると云われる魔獣は、いつ彼らに襲いかかってくるのか分かったものではない。
 朝も、昼も夜も、彼ら魔獣は己の敵を見付ければ、見境などなくこちらを襲ってくるものなのだ。
 それなのに何故、わざわざ危険の多い夜を選んだのか。
 ウルグはそう言いたいのだろう。イルミナスは白い月に照らされる彼の背を瞳に映しながら、言葉を風に乗せた。
「ウルグが、月の力を借りる者だから」
 イルミナスがそう答えると、ウルグは一瞬立ち止まったがまた直ぐに歩を拾いはじめ、それから少しばかり笑いを含んだ声で、しかし振り返らずにイルミナスに声をかける。
「なるほど? 自分一人の力では魔獣どもに勝てない。だから俺──ウルグ・グリッツェンを利用しよう、そう思ったわけか。賢明だな」
「またそういう言い方をするのだから。月の力がなくともあなたはお強いですよ、錬金術師さま」
「気色の悪い呼び方をするんじゃない」
 〈ソリスオルトス〉は俗称として主にたそがれの國≠ニ呼ばれる。
 訪れる黄昏と、それによる夜明けと日の出の名を冠す王國の斜陽、更にはこの國の空の美しい夕焼けをも掛けて、いつか誰かが皮肉を込めてそう呼びはじめたらしい。
 しかし、そんな夕焼けの美しい黄昏る大地に立つ國の人々は、國いいや人の歴史の斜陽を面前に控えていても、未だ手を取り合い、かの黄昏に生きること≠ナ立ち向かっているのだった。
 そして彼らは世界に息づく様々なものの力を借り、それを己の力とする。
 ウルグの場合は月の力、そしてイルミナスは風の力だった。
 今宵は半月。
 ウルグ曰く、これでは月から得られる力は半減してしまうらしいが長く独りで旅をしていたのだろう、それでも彼は強かった。
「……ウルグ」
 王都から続く長い煉瓦の大橋を進んでいった先にはいわゆる城下町があり、彼らはそこから更に歩いてはその町を抜ける。
 抜けてからも更に進み、そうしてみると城下町の出口から少し離れて街道に入った二人の前に黒く蠢くものが見えた。それを認めたイルミナスは静かに声を発する。
 それは暗闇よりも更に黒く、血の溜まったような目をした魔獣だった。
 その風貌はどこか狼に似たものがあったが、それと距離を取っている二人には黒い魔獣が雷のような唸り声を上げていることしか分からない。
 イルミナスは驚きに目を見開いたが、ウルグは面倒だと言う風に溜め息を漏らした。
「魔獣か……あれは──月蝕狼=B夜によく出る狼が魔獣化したものだ。うるさいばかりでさしたる脅威ではない、油断は禁物だが」
「けれど……こんな処にまで魔獣が……? 王都から少し離れただけだというのに、これは……余りにも近いのでは? もう──もうここまで黄昏が近付いてきているの?」
 イルミナスの銀の意志が動揺で揺れる。
 その隙を突くかのように、人の心に巣食う黄昏が彼女の心を蝕もうと手を伸ばしたが、ウルグの声によってそれは制され、ついに叶うことはなかった。
「これくらいで動揺するな! 考えるのは後にしろ。こいつは仲間を呼ぶ、そうなると厄介だ。その前に片を付けるぞ。──ルーミ、剣を抜くのはたいせつなものを守るときだと言っていたな。……それはいつだ?」
 彼の言葉にイルミナスが顔を上げる。
 ウルグの青い瞳の奥に在る、深い闇を抱えながらも透き通った黒水晶の光が彼女の黄昏を振り払った。
 風のなかった夜闇に、月明かりを浴びた銀の嵐が立ち上る。
 彼女の瞳はもう、揺れてはいなかった。
「──今です。風も、此処に」
「遅いお目覚めだな、姫さま」

 ──黄昏がやってくる。すべてを呑み込む黄昏が。
 だが黄昏よ、恐れるがいい。
 かの者たちは、黄昏に抗う者たち。
 自らの意志を心に宿し、彼らは戦う。
 黄昏を食い止める、その日まで。
 これは、黄昏に抗う者たちの物語。
 黄昏よ、かの者を恐れるがいい。
 今、黄昏に立ち向かわん!



20151101
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