夜の目覚め


「──いや、信じる」
「……は?」
 ほとんど俯きながら訥々と言葉を発していたウルグに、クエルクスからかけられた言葉は、彼の想像していたものとは真逆の位置に在るものだった。
 ウルグは向かいに脚を組んで座っているクエルクスを窺うようにして、俯くことで目にかかった前髪の間から彼の顔を見る。同じようにして、クエルクスの隣に姿勢良く座っているイルミナスの表情も彼は窺った。
 両人とも自分の素っ頓狂とも言える話を聞いて、尚真面目な顔を崩していない。それどころかクエルクスは腕を組み、イルミナスは唇に手をやって打開策を考えはじめている様子だった。
 全く信じてもらえないだろうと思っていたわけではない。
 ただ、自分の話はほとんど夢物語のようなもので、説得力などは皆無に等しかったのだ。
 彼はこれをどうして伝えるか思考を巡らせてみたものの、結局自分の身に起こったこと、そして自分が見たものをありのまま話すという選択肢しか頭に浮かばず、額に玉の汗を浮かべながら途切れ途切れに言葉を紡ぎ、話を立ち止まらせては、何も見えない暗闇を掻くような口調で少しずつ、かなりの時間をかけて目の前の二人に世界樹と彼≠ノついて自分が見、体験し味わったものを語って聞かせたのだった。
 しかしこうも簡単に信じてもらえるとは到底思っていなかったウルグは、二人の様子を見て拍子抜けというよりはほとんど呆然として、信じ抜くということをし難くなっているのかもしれない自分を恥じてはクエルクスとイルミナス、そのどちらとも目を合わせることができずにいた。
 ふと、俯くウルグの額から汗が一粒零れ落ちてイルミナスははっと息を飲む。
 彼が泣いたように見えたのだ。
 しかしそれは、すぐに錯覚だと気が付いたが。
 普段の彼からは想像もできない、今のウルグのさながら寄る辺のない子どものように不安げな姿に、イルミナスもクエルクスも彼が嘘を吐いているとは到底思っていなかったが、睫毛を伏せ語っていた彼はそれを知る由もなかった。
 クエルクスがウルグの顔を一瞥した後、瞼を閉じて何かを思い出すように言葉を発してゆく。
 ウルグは少しばかり顔を上げては、そんなクエルクスの表情を見ていた。
「おれも若くてそれはそれは威勢がよかった頃があってな、まあ何だ、今のおまえのように力を欲していた時期もあったものだ」
「俺は力など──」
「皆そう言うものだ、とにかく聞け。……おれは植物から力を借りるだろう、ウルグの言う彼≠ェそうだったように。……で、だ──植物と考えていちばん初めに、そう青二才の頭にいちばんに思い浮かぶものは何だ?……それは言わずもがな世界樹、だろう。さて……そんなおれは一体、何を考え付いたと思う?」
「……世界樹に力を借りること、ですね」
 イルミナスが確信めいた表情で隣のクエルクスに声をかけた。
 クエルクスは過去の自分にはほとほと困り果てたというようにイルミナスの方を向いて頷くと、再び視線をウルグへと向ける。
 ウルグは一瞬クエルクスと目が合うと微かにその黒い睫毛を伏せ、両膝の間で組み合わせた指の一本一本に力を込めた。それから呟くように静かな声でクエルクスに問いかける。
「借りられたのか、それは……」
「まさか。世界樹はうんともすんとも言わなかった。強大なものに力を求めすぎた、大それたことをしたとおれは自分を恥じたもので、まぁ世界樹ほどの強大なものともなれば容易くおれなどに力を貸しはせんだろうと自分なりに納得はしたんだがな……当時は」
「強大なもの……では、風は? 月は? 世界樹以外の植物たちは? 太陽、その光、或いは影に力を借りる者もいるでしょう。この世界すべてのものに力はあります。それらに力を借りることができて世界樹は強大なものだから力を借りることができない、というのは何か違和感を覚えますが……」
「実のある質問をするようになったな、姫さま。そうだ、世界樹には力を借ることができない……この世界に無数にいるだろう植物に力を借る人間が一人とて。それ故神聖なるものとして世界樹を崇める者が出てきたんじゃよ。
 だが、神聖なるものとは何だ? その境界線は? 世界樹は神が与えたもうた樹だとでも? こんな世界すらろくに守れぬ神など人と変わらん、そうだろう?
 あれは結局のところ、ただの馬鹿でかい樹だ。でなかったら何なんだ──そういう風に自分の中に違和感として残っていたものを、おれは今まで若気の至りが未だ自分に張り付いているだけだと思っておったんだが……いや違うらしい。つまりは──」
「……世界樹が神聖なものだから力が借りることができないのではなく、世界樹が魔獣だから、植物に力を借りるあなたには彼≠ゥら力を受け取ることができなかった。そういうことだろう」
 クエルクスの言葉の続きをウルグは引き継ぐと、その青い瞳をようやくクエルクスの黒色へと向けて微かに頷いた。それから視界を広げようと彼は深く息を吸い、ゆっくりと静かにその息を吐く。
 イルミナスはそんなウルグに、命綱もなしに知らない場所へ放りだされた少年の震える心を感じ、目の前にいる、自分がいつも頼りにしているこのウルグ・グリッツェンという男が、まだたった二十三の青年ということを唐突に思い出して虚を突かれる思いを胸に抱いていたが、それもやはりウルグは知る由もない。
 ウルグは、苦しげにも見える表情で吐き捨てるように言葉を落とした。
「俺たちは黄昏が起こり、そののちに魔獣となるものが現れたと当然のように考えていた。それには何の根拠もないというのに……暗黙の了解として、おそらくは誰もがそう思っていた……思っている。……だが逆だ、逆なのだろう」
「だとしたら、わたしたちはこの地の水を吸い取っているという世界樹を何とかしなければ」
「……どうやって。あれの根はこの大陸全土に及ぶ──いや大陸の面積よりも遥かに広いとされた海をも涸らした。どうにもならんさ、それに俺は元々黄昏を止めたかったわけじゃない……言っただろう、黄昏は止まらないと。俺は……かつて俺のすべてを奪ったものが何だったのかを、その真実を知りたかっただけだ……」
 自分に言い聞かせるための言葉が、唇から零れて落ちてゆく。
 ふとイルミナスの銀色を湛えた瞳とこちらの青色がかち合って、彼は反射的に目を逸らした。
 するとイルミナスの両手が伸びてきて、彼女は少しばかり怒ったような顔でこちらを見、何かを問う。
「──あなたの名前は何ですか」
 問いながら、イルミナスはまた俯きかけたウルグの頬を両手で無理やりに持ち上げ、彼の視線を強引に自分の瞳へと合わせると再びウルグに同じことを問う。あなたの名前は何ですか。
「……ウルグ・グリッツェン」
「ウルグ・グリッツェン、あなたは何?」
「錬金術師……」
「ではウルグ、あなたがいずれ超えるとする者は!」
「そんなもの……宮廷──現宮廷錬金術師クエルクス=アルキュミア・グリッツェンに決まっているだろう」
 言われて横から二人のやり取りを見ていたクエルクスは、これはまた面白いことを聞いたというように片方の口角をついと上げ、それから梟のように目を細めて声を立てずに笑った。しかしウルグとイルミナス、そのどちらもそんなクエルクスの様子には気が付かない。
 イルミナスは、ついに立ち上がってウルグへと言葉を浴びかけている。
 それはさながら朝に吹く風のようにやさしく、そして時折刺すように冷たく、しかし光を纏い暖かく、そして朝陽の強さをその身に宿していた。
 そんな彼女を見てクエルクスは心の中だけで舌を巻く。いやはや、姫さまは強かでいらっしゃるな。
「あなたならできます、わたしたちならできます!……何がどうであれ、黄昏を呼び込む世界樹をあのままにしておくのは間違っている」
「滅茶苦茶な、一体何の保証があって──それに、彼≠殺した≠ニころで黄昏が止まると決まったわけじゃない。悪化の可能性も少なからずあるだろう。それに世界樹はこの國の希望の象徴だ、失われることによって縋るものを失くす人間だっているかもしれない」
「それはいるでしょう、ですが……選ぶときではないですか、ウルグ。わたしたちは今、選ばねばならないときではありませんか? わたしたち人間は責任を取りましょう、わたしたちの過去の、わたしたちの未来の。……わたし一人でも往きます、ウルグが迷うなら」
 そう言って剣の鞘に触れたイルミナスの顔を見て、ウルグは彼女が何をしようとしているのかを大方察した。
 彼は自分の両手を見やると、そこに己の父の紅水晶の色を幻だと分かっていてもやはり認め、唇をきつく噛む。同時に、自身の瞳の深い青に夜の帳を下ろし、眉間に深く皺を刻んだまま彼は苦しげに深く呼吸をした。
 そして、目を開く。
「……ウルグ」
 呼びかけられて、イルミナスの銀の瞳と目が合った。
 おれが守るべきもの、いや守りたいもの、おれがおれで在るために守るもの……
 夜の霧を晴らすかのように、ウルグの隣をイルミナスが無意識に呼んだ朝の風が通り抜けて、彼の黒い髪をやさしく揺らした。
 耳を澄ますと、何処かの部屋で時を告げる鐘が鳴っているのが聴こえる。
 ウルグは、イルミナスの創った銀薄荷のタブレットを一粒口に放りこむと、そのとてつもない不味さに顔をしかめるのではなく、いいやむしろ笑った。
 今、おれは一体何に悩んでいたんだ?
 方法がないのならば、創り出せばいい。
 ウルグ・グリッツェン、おまえは錬金術師だろう。
 世界樹──彼を殺す方法を知らないわけではない、分からないだけだ。
 知らないことと分からないことは全く意味の異なるもの、別の場所に位置するものだ。
 おれは今どれだか分からない≠セけだろう、そうだ、おまえの頭は何のために付いている?
 何かを得るために何かを失う、その失われた何かを想うのは、この世界にごまんといるどこぞのお人好しに任せておけばいい。それはおれの仕事じゃない。
 ウルグはイルミナス同様に立ち上がると、こうでしか在れない自分を半ば嘲り、そして今やっと少しばかり受け入れたのだろう溜め息交じりに笑う。
「……浅はかだ」
「え?」
「君のことだ、樹が原因ならば最悪切り倒してしまえばいいなどと思っているのだろう。そういうところが君は浅はかなんだと言っている。思えば君はいつもそうだ、いつもいつも……」
「──ですから、ウルグがいなければだめなのです」
 これから自分は何度でも己の爪の中に紅水晶の色を見、自身が失い失わせてきたものに苦しめられ、歩くたびに罪を繰り返すのかもしれない。そう、何度でも何度でも。
 だが、今はいい。
 今だけは罪も罰もすべて夜の闇に隠し、自らが進むべき道だけを月明かりが照らすのだ。
 余計なものは、今は見えなくていい。
 いずれ、その余計なものたちに苦しめられるとしても。
 ウルグは未だ面白げにこちらを眺めているクエルクスへと視線をやり、その黒い瞳に自らの瞳を合わせると意地の悪そうに口角を上げた。おそらく思い付いたことは同じ。
 クエルクスは梟の笑い声を上げながら立ち上がると、ウルグを見やって軽く頷いた。
 ウルグが言葉を、先の訥々とした語りをしていた人間とは別人が話すかのように閃かせる。
「安直だが分かり易く、かつ一等理に適っているのは、大地を傷付けずに世界樹だけを枯らす薬──或いは毒を用意することだろう。樹≠ノ対しては。
 そうだな……此処の研究装置に付着していたほとんど毒に近い栄養剤があったろう、あれを改良しよう。それから変質すると途端に致死量の毒霧を発する毒草、あれも使えれば間違いないな……クェル、あなたなら用意できるだろう?
 ルーミ、樹≠ノ関してはこっちが引き受ける。お前は魔獣≠ナある世界樹に立ち向かうと言うのだから剣の練習でもしておけ、何があるか分からん──結局のところ相手は魔獣だ、お前がやろうとした通りに切り倒すことになるかもしれないからな」
「……世界樹だけを、枯らす薬──」
「俺ならできると君が言ったんだ、信じてもらうぞ。……人類がもつ力の中でいちばん大きなものは何だか分かるか、ルーミ」
 ルーミは首を傾げる。
 ウルグはクエルクスの方へと視線を向けると、彼はもう答えを知っているのだろう今にも笑い出しそうな顔をしていた。そんなクエルクスをウルグは一瞬睨み付けてからイルミナスへと視線を戻し、口角を上げて言った。
「──想像力だ。そして想像できるものはすべて、創り出すことができる。で、俺はもう想像ができた。つまり、分かるだろう?」
「分かりましたとも。……そうでなくてもわたしはあなたを信じています、ウルグ」
「戻るぞ、王都へ」
 そう告げて部屋の出口に向けて歩き出したウルグの背にイルミナスが声をかける。
 その響きに振り返れば、彼女はウルグがいつもするように口角を上げては何やら意地の悪そうな笑みを浮かべて問いかけたのだった。
「わたしが必要でしょう、ウルグ?」
「──ああ、君が必要だ」
 天上で月は笑い、その体に光を滑らせた。
 その方向は、反時計回り。
 そんな月の表情を、今は彼だけが知っていた。



20161123

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