プリマ・マテリア


 ソファに腰を沈めながら、一冊の本を紐解く。
 こんにちウルグが頁を捲っているこれは、錬金術の初歩の初歩、その最低限の知識が記されている古びた本であり、それは錬金術に関してほとんど宮廷錬金術師であるクエルクス=アルキュミア・グリッツェンに二十三という若さで追随する実力と、それに対応する知識を、その頭のてっぺんから爪先までに叩き込んでいる彼には似つかわしくない書とも言える。
 だがこれは彼が己の師であり養父であるクエルクスから、あの日≠ノ──孤児となり、滅びた町の生き残りとして國の巡回兵に保護され、歩き慣れない王城の大理石を確かめるように歩きながら、どうすればいいのかも分からずにふらふらと宮廷の中を彷徨っていた、宮廷で過ごした数日間の中のいちばん最初の日──ちかりと一瞬光を放った扉の隙間、その先に在った宮廷錬金術師の工房、そこに辿り着いた彼にクエルクスから手渡された一冊の本だった。
 扉の隙間から洩れた瞬く光に誘われクエルクスの工房に入り、そこで見た床を覆い尽くす円の形を保った紋様紋様紋様、そして見たこともない言葉たちに圧倒されたのをウルグは今も鮮明に覚えている。
 扉を静かに開く音に振り返るクエルクス、その横に在ったゆったりと時を告げる巨大な砂時計、水が沸騰するときの音を立てている、雫に四本足が生えたかのような形をした金属の機械のてっぺんから出ている管は小さな鈍く銅に光る壺へと繋がっていた。
 今思えばあれは、純化された何かの液体を保存しておく容器へと移していただけなのだと思うが。そういえば、流動性の金属が発明されたのはなるほどこの頃だったな。
 本格的に量産が可能になれば、魔獣の攻撃に合わせて毎回形を変える盾や鎧が造れるようになるかもしれないと、鍛冶師たちが意気揚々と語っていたような気がする。今のところ量産はそれなりに可能だが、それを巧く加工する技術は発展途上らしい。
 いや、それはいい。成し遂げる者は必ず現れるだろう。
 それよりあのとき工房に入ったおれは、クエルクスに何と言ったのだろう。
 一言二言、何かを言った記憶はある。それを聞いたクエルクスは梟の笑い声を潜め、目ばかりをかの鳥のように細めたのち、こちらにこの本を手渡した。本を渡す彼に言葉はなかった。
 呆気にとられながら自分は、表紙の見慣れぬ文字の表題と、その下に描かれた卵のような装画をただ見ていた。
 表題は『プリマ・マテリア』。
 古い言葉ですべての元≠フ意だ。
 果たしてこの本がほんとうにすべての元という名を冠すのに相応しい本なのかは分からないが、自分にとって錬金術のすべての元となったことには間違いない。
 彼は文字の上をただ滑っていたその視線をそこから外し、その読み込まれて擦り切れた表紙を静かに閉じた。
 今日は目覚めてからイルミナスとクエルクスの姿が見えない。
 気配はするからこの家の何処かしらにはいるのだろうが、動こうとするたびに世界樹のことが頭によぎり、全身が鉛のように重くなるウルグは立ち上がって彼らを探しに行くのも今は億劫だった。
 ろくにものが考えられない。考えられないことを隠すように本を読むふりを決め込むほどには。
 こんな簡単な本の内容すら今は頭に知識として、いや言葉として、文字としてすら入ってこないのだった。今自分に見えるのは意味を持たない線たちばかり。
 そして思考はいつも同じところへ帰結する。
 どうすればいい?
 ふと、部屋の扉が開き、視界の隅に見慣れた透き通る翠の髪が映った。
 イルミナスは覗き込むようにこちらを伺い、目が合うと部屋に入って後ろ手に扉を閉める。
 ウルグがぼんやりと彼女を眺めている内に、イルミナスは彼との距離を詰め、彼が今腰を沈めているソファの前に在るやたらと大きな図鑑の上に腰を下ろした。
 彼女が口を開く。
 ウルグはその声を聴きながら漠然と、ああそういえば朝が来たのか、と思っていた。
「ウルグ」
 何だ、と口にしようとしたがしばらく声を出していなかったせいで言葉が掠れて声にならなかった。
 しかしそれでも彼女には伝わったのだろう、イルミナスは片手に持っていた青碧の缶を自身の顔の横で振る。
 ウルグは怪訝な顔で、少し得意げなイルミナスの顔とその横にある青碧の缶とを見比べた。
「わたしが創りました、錬金術で!」
「……は?……何を?」
「銀薄荷の毒消しタブレットです、驚きました?」
 言いながらイルミナスが青碧の缶を手渡してくる。
 ウルグは訝りながらその缶を受け取ると、親指で擦るようにその蓋を開けて一粒タブレットを取り出した。
 ウルグはそれとイルミナスを未だ怪しみながら交互に見ると、イルミナスは頷いて家──研究所の此処より奥、更に部屋が在る方への方角を手で示しながら言った。
「これは錬金術の初歩の初歩に当たる錬成物だとクェルに聞いて……わたしにもできるかもと彼が仰るのでならばとクェルに教わりながら彼の携帯錬成器?──と簡易錬金釜?……で、創ってみた次第です。ど、どうでしょう。いちばん初めにしては中々上手くいったと思いませんか?」
「……毒は吹き飛ぶだろうな、或る意味で」
 イルミナスの言葉を聞きながらタブレットを一粒口に含み、それを噛み砕いたウルグは眉間に深く皺を刻みながら彼女に答えた。
 イルミナスのこしらえたタブレットは物凄く辛く、物凄く苦く、とにかくとてつもなく不味い。
 何だこれは、およそ人の食べる代物ではないぞ。
「君、下手くそにもほどがあるだろう。何をどうすればこうなるんだ」
「えっ……そんなにですか?」
「そんなに」
「す、すみません……」
 うなだれるイルミナスを、舌の上で火の粉がのたうち回るような味と今まさに格闘しているウルグは冷ややかなまなざしで一瞥すると、自身が手に持っていた『プリマ・マテリア』を彼女に差し出した。
 イルミナスはそれを微かに首を傾げながら受け取り表紙を開くと、そこに羅列している膨大な知識の数に少しばかり背をのけ反らせる。
 ウルグは意地悪く口角を上げて言った。
「それが初歩の初歩だ、姫さま」
「……やはりわたしは身体を動かすことの方が向いているかと……」
「そういえば……何故君は剣技を身に付けようと思ったんだ、ルーミ」
 イルミナスは本の表紙を閉じ、それをウルグに返しながら瞳は彼の青い夜を見た。彼女は銀の瞳を細めると小さく頷く。
「──それは、ですね」
 すると、イルミナスの髪が彼女の肩の上で合わせて揺れ踊った。
 ウルグは、出会ったときこそ輝く銀の糸が垂れるように長く美しかった彼女の透き通る翠を湛える髪を想わずにはいられなかった。
 今のイルミナスの髪は自ら切り落としたのだろう切り口は不揃いで粗が目立ち、髪の長さも所々で少しずつ違う。
 だがそれは、美しいものを純粋に美しいと思えなくなった自分がただひたすらに、痛いほどに美しいと思うもの。
 ほんとうに、美しいと思うもの。
 彼女の髪が、目が、声が、手のひらが、そのすべてが今こんなにも美しいと思うのは、出会ったときより美しいと思うのは、彼女の心が深い哀しみを知ったからだろうか。
 ああ、そうと知って彼女を美しいと思う自分はやはりどうしようもなく酷い人間なのだろう。
 それでも、ウルグは静かな表情でイルミナスの言葉を聴いた。
「約束をしたでしょう、旅に出ようと……だからです。
 最初は、あなたが戻ってくるまで剣の腕を磨いて待っているつもりだったのですが──分かるでしょう、わたしはあまり待っていられる性分ではありません。黄昏の真実を探りながらあなたを探そうと思ったのです──今思えば無鉄砲極まりないのですが。
 出立の日にあなたが城に戻ってきて、わたしは何て偶然なのだと内心喜んだのですけれど……偶然ではなかったのですね。父上もクェルも、ウルグもみんなして人が悪い」
「え?」
「え、何でしょう、ウルグ? わたしは何かおかしなことでも……」
「いや……」
 ウルグは静かに息を吐くと、少しばかり気が抜けたような顔で笑った。それは、普段の彼に比べると、些か子どもっぽい表情だった。
「……お前は憶えていたのか、約束を……」
「それはもちろん憶えていますとも。むしろ今まで、ウルグはわたしが約束のことを忘れていると思っていたのですか?」
 本を受け取って宙に浮いた手は本を乗せてそのままに、ウルグは驚いたような呆れたような困ったような、そのすべてが一緒くたになったかのような表情で彼女に向けて言葉を紡いだ。
「クェルに呼ばれて城に戻ったとき、君が俺のことを憶えていて、俺を俺だと分かっただけで大層驚いたんだ。だが八年前に交わした言葉などは流石に忘れていると思った。
 ……君が俺についてくると言い出したときはそれもそれで驚いたが、君は黄昏について調べたいのだから黄昏について調べている俺についてこようとするのはまぁ……分からなくもなかった。一度会ったことがあるくらいの俺についてくるなど些か浅慮だとは思ったがな。
 俺は元々君の護衛……のようなものとして呼ばれたのだし、さして問題もないだろうと思って今まで何も言わなかったが……憶えていたのか……憶えていたんだな……八年も? 阿呆らしいな、姫さま」
「錬金術師さま、それをあなたがわたしに言うのですか?」
「……何だ、言うようになったな」
「あなたは騎士になるのが夢だったとあのとき言っていましたね、ウルグ」
「そんな下らないことは忘れろ。……いや、そんなことを本気で考えていた頃もあったな。そんなこと、か。ああそうだ……でも、俺は変わっただろう、あの頃よりずっと。見た目も中身も、考え方も、口の利き方だって……何故分かった、何故分かる?」
 ウルグは眉をひそめ、しかし瞳は心底不思議だというようにイルミナスを見た。
 そんなウルグを見てイルミナスは少し笑い声を上げると彼の真似をするように意地悪く──そうは見えないが──唇の端を持ち上げると静かに息を吐き、それから今度は真っ直ぐにその銀の瞳でウルグの瞳を見つめる。揺れないまなざし。
「分かります、あなただってわたしのことをすぐにわたしだと分かったでしょう。……一目で分かりました、変わらないものがあったから。瞳は──あなたの瞳は、同じ」
「瞳……」
 おうむ返しをするウルグにイルミナスは頷くと、底に砕けた黒水晶の在るウルグの青い瞳を再び見つめる。
 その水晶の黒は彼の夜を更に深いものとし、しかし砕けてもなお月の光に閃くその黒の水晶は確かに此処まで彼を導き、そして彼女をも導いた。
 ただ、今の彼の瞳に見えるのは深い、己の足すらもよく捉えることのできないほどの闇ばかり。月は暗雲の陰に潜み、そんな彼の姿を悲しんでいるのか嗤っているのか、厚い雲の向こう側などこちらには分からない。
 イルミナスは、彼の深い青を想うように少しばかり自身の翠色をした睫毛を伏せ、夜吹く静かな風のように声を潜めて言葉を唇に乗せる。
 その言葉はウルグを吹き過ぎたのち、彼の心を微かに揺らした。
「……わたしは、無責任でしたね」
「無責任?」
「わたしはあのとき、あなたにあなたはあなたで在るべき≠ニ……そんなことを言いましたね」
「ああ、それが何だ」
「……わたしはミェーフを失ったとき、わたしでいることを手放しそうになりました──何度も、何度も。たいせつな人を失うのがこんなに酷い……痛くて、悲しくて、苦しくて……こんなだなんてわたしは知らなかった、何も、知らなかった。
 母を失ったことはあってもそれはわたしがずっと幼いときで、痛みなんてほとんどなくて……ただ時折寂しいってくらいで……母がたいせつだったのはほんとうです、ほんとうだけど……
 ……でもわたしは何も知らなかった、知らなかったんです」
 彼女の強い銀の翼、その間に隠れた傷痕が一瞬瞳に映った。
 それを認めた途端、瞬きの間だけ己の心臓が灼けるように痛むのをウルグは感じ、それを隠すかのように深い息を溜め息に似せて吐く。
 何故か彼女の痛みが自分の痛みとして心臓の奥底にまで返ってくるのだ。
 それから発した声が乾き、掠れてしまったから変なところで勘のいい彼女には気付かれてしまったかもしれない。
 ウルグは本の上に置いた、青碧の缶を手にしていない方の手に力を込めた。
「……だが、君は君でいただろう。いるだろう、今も」
「それはわたしに仲間がいたからです。……でもあなたは独りだった、少なくともあのときは……家族を、育った町を失ったあのときは……。けれどわたし、わたしはまるで簡単だというように軽々しく……あなたはあなたでいて、と……何の権利があって……だから、だからウルグ──」
「……謝ったら君とはもう口を利かないが、それでもいいのか?」
「え?」
 ウルグはイルミナスに向けたまなざしはそのままに、片手に在るタブレットの入った缶の表面を指先でなぞった。それと同時に深く息を吸い込み、ああと思ったときにはもう言葉が声となって外に出ては彼女の耳に届いていた。
 ろくにものが考えられない今は自身の心が頭を追い越してしまっているのだと、彼は嫌でも感じずにはいられない。
 そうだ、こういうのをやけくそと言うのだろうな。
「──お前がいただろう、ルーミ」
「わたし?……でもわたしはあなたが出ていった後もずっと王城にいて……」
「分からないのか、お前はいた。お前は、いたんだ。言葉だけそのままの意味で受け取っておけ。……それに、まあ、クェルもいた。あれはひどい放任主義者だが。そうだなほとんど一人だった……が、言うほど独りでもなかったさ、俺は」
「ウルグは時々、わたしには分からないことを言う……わざとなのですか?」
「さあな、姫さまには少々、お勉強が足りないのではありませんか?」
 イルミナスは大袈裟に溜め息を吐くと、それから打って変わって真面目な顔でウルグを見た。
 その強い意志を宿した銀色の瞳を見た瞬間、ウルグはああついに言い当てられるのだと思ったものだったが、それを自覚した瞬間に彼女の言葉はもう彼の耳から心へと届いていた。
 ただ音でもなく、ただ声でもなく、それは彼女の言葉として。
「何があったのですか、ウルグ。──あの、世界樹の下で」
「……」
「わたしはお勉強が足りない≠フで、またあなたに無責任なことを言いますが──あなたはあなたです。何があっても、あなたはあなた。ウルグ、ですよ」
「……ルーミ」
「はい」
 ウルグは両の手のひらに力を込めるとひどく苦しそうに、しかし何かを決心した顔でイルミナスの銀色を見つめる。
 それはまるで、すべてを失い途方に暮れ、しかしそれでも自分は自分として生きてゆくことを心に誓ったまだあどけなさが残る少年──あの日の小さな少年の姿にも似ていた。
「──話したいことがある。クェルを、呼んできてくれないか」



20161120

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