茨の冠


「──ウルグ!」
 薄く目を開くと、そこに飛び込んできたのは丸い銀の瞳だった。
 ウルグは己の身体に、朝の微睡みのような気怠さが訪れたのを感じて、一度瞼を閉じる。
 そうして深く息を吸うと共に、頭の中に稲妻のような月光を纏った鐘の音が警報のように熱く打ち鳴らされるのを彼は感じ、弾けるように飛び起きた。
「ルーミ! お前は──」
 そう発するウルグの青い目は見開かれ、吐いた言葉は熱い。ただ、自分が何を言おうとしたのかが今の彼には分からなかった。
「え?……あ、あの、ウルグ……身体の方はだいじょうぶなのですか?」
「身体?……身体など……」
「だ、だってあなたは三日も寝たきりだったんですよ。世界樹の前で突然倒れて……やはりどこか無理をしていたのでは……」
 言われて初めて、ウルグは辺りを見回した。
 本だらけの壁に物が散乱した床、部屋の中央には巨大なフラスコ、その周りに点在するは使い込んだ錬金釜たち、そして自らが身を沈めているのは己がいつも眠るときに使っている夜深色のソファ──此処はどう見ても、〈ゼーブル〉に在る、自分の住み処である。
 ウルグは目の前で心配そうにこちらを見ているイルミナスが無事であることにとりあえずは安堵すると、起き抜けであまり上手く状況が噛み砕けないでいる頭を動かそうと、とにかく思ったことを口に出してみた。
「……君、よく此処まで俺を運べたな」
「ちょっ……と、風にも手伝って頂いたのですけれど」
 口調からなるほど手伝ってもらったのはちょっとどころではないのだろうことをウルグは察すると、一体どのようにしてあの場所≠ゥら此処まで運ばれたのだろうとこめかみの辺りが痛むような思いである。あまり目立つようなことはしていないだろうな、姫さま。
 いや、待て。
 あの場所?
 あの場所。
 ──あの場所?
 今一瞬頭を掠めたその言葉を、ウルグは口の中だけで繰り返した。
 あの場所、世界樹。
 彼は、世界樹の前に立ったときのことを思い出して反射的に口元を押さえた。
 瞳の裏に轟く光と暗闇に燃え立つ赤、鼻から喉にかけては命が焦げるにおい、耳の奥には愛する者の虚ろな声と己の慟哭が行ったり来たりを繰り返している。
 身体中が粟立ち、狂ったように瞳が揺れるのを彼は自分自身、嫌でも感じた。すべて吐き出してしまえと心が叫び、いいや吐き出すなと頭が叫んでいる。ただ気持ちが悪かった。
 彼はゆらりとソファから立ち上がると、よろめきながら何歩か進み、一体何処へ行くのかと声をかけようとしたイルミナスの方を振り返っては問いかける。
 目が覚めたとき、自分が言おうとしたその言葉を。
「どこも怪我はしていないな。……何も、見てはいないな、ルーミ」
「え……?」
「……いや、何でもない。少し水を飲んでくる」
 何を問われたのかが分からない、そう言ったかのような彼女の表情が自らの問いかけの答えに等しかった。
 彼は気を抜けばもつれそうになる足で、時折壁に拳を押し付けながら、植物用の研究装置と、未だ飲み水を汲み上げることができる手押しポンプの在る一室まで歩を進めた。
 クエルクスを呼びに行ったのだろうイルミナスが自分を追ってこなかったのが、彼にとって唯一の救いだった。
 冷や汗が額を伝って目の中に入りかける。
 それを拭うと同時に今度は頬を伝った汗が顎先から零れ落ちて床を叩いた。
 握っても握っても手のひらは震え、肌などはずっと粟立ったままだ。
 唇をきつく一文字に結んだままウルグは歩を進める。
 そして部屋の入口が見えてくると同時に、彼はほとんど崩れるようにしてその中へと飛び込んだ。
 縋るように手押しポンプのハンドルを握り、乱暴にそれを動かしては頭から水を被る。息ができなくなるほどにそれを繰り返しても背に汗が伝う感触は拭い去ることができず、床を濡らしている液体が最早汗なのか水なのかも今の自分には判別がつかなかった。
 ウルグは力なく両腕を地面へと押し付けると、絞り出すかのように掠れた声で彼から彼自身へと問いかけるための言葉を呟いた。
 部屋の中には、零れ落ちる水音だけが虚しく響いている。
「……俺が、求めていたのは……」
 拒絶するように目を閉じる。
 しかしそれを嘲笑うかのように、彼の瞼の裏には白と黒と赤が激しく点滅していた。
「……俺が求めていたのは……こんな簡単でこんな単純な……どうしようもない、ことだったのか……? こんな……これが……? これが、こんなものが……黄昏の真実だって、いうのか……? なら……こんなもの……俺たちにどうしろっていうんだ……どうしろと……」
 石が敷き詰められた床に水が滴ってできた大小様々な染みが広がりゆく黒い影に見え、ウルグは飛びすさって壁を背にした。
 そんな己の行動に、彼は自分の口元が引きつるのを感じる。何を怯えているんだ。
 彼は壁に背をくっつけたまま天井を見上げ、まるでそこに何かが見えているかのように一点をねめつけながら深く呼吸をした。
 恐怖というものは認めずに否定し続ければ続けるほど、不思議なくらいに膨張していくものだ。
 ウルグは眉間に深く皺を刻んでは溜め息を吐き、自分の片手で肩を抱く。
 ならば、素直に認めればいいのだろうか、笑えるほどに怖いと。叫びたいほどに、いいや声も上手く出せないほどに怖いと、そう認めればいいのだろうか。
(俺は、悪い夢でも見ていたのか……?)
 いや違う。
 夢であるはずがない。
 あんなにも激しく、あんなにも生々しく、あんなにも悲しいものが夢でなどあってたまるものか。
 頭は何の根拠もないと、あれは夢だったのだと否定する。だが、心はどうだ?
 夢ではない。
 あれはかつて起こった、悪夢のような現実だ。
 分かっているのだろう、夢ではないと。
 そう問いかけたのは果たして自分自身か、或いは天上に在る月だったろうか。
 世界樹は魔獣だ。
 いいや、世界樹は人だ。
 違う、世界樹は彼≠セ。
 大地を涸らし、生き物たちを飢えさせたのは、そうさせているのは彼なのだ。
 それにより魔獣が生まれ、生き物を殺し、そしてまた新たな魔獣が生まれる。
 ならば、黄昏を引き起こしたのはやはり彼だ。
 ではおれの母を殺したのは彼か、おれに父を殺させたのは彼か。
 ああだとしたら彼を、彼を魔獣とさせたのは一体誰だ、彼からすべてを奪ったのは一体何だったのか……
「ルーミ……」
 ほとんど無意識に彼女の名を呼びながら、イルミナスが彼の記憶を見ていないことにウルグは強く安堵した。
 あんなもの、見ないで済むなら見ない方がいい。あんなものを、人の心をその身をもってして信じる彼女にだけは見せたくなかった。
 だが彼女なら、あの記憶と向き合い倒れたとしてもおそらく最後には立ち上がり、前を見据えて強い風を吹かせるだろう。そんなことは分かっている。だからこそ自分だったのだ。
 赤く燃えゆく空の記憶と向き合わなければいけないのは、おそらくこのおれなのだった。
 だが向き合ったところでどうやって伝えればいい、自分が見た樹の──彼の記憶を。
 他にしてみれば、口にするのも馬鹿々々しいような絵空事に聞こえるだろう。実際、自分が他の人間の口からその樹の記憶とやらの話を聞いたなら寝言は寝て言えと、そう切って捨てるような話なのだ、これは。
 どうすればいい。
 もしこれを話して信じてもらえたとして、それから先は。
 どうすればいい、どうすべきなのだろう、どうしろというんだ。
 ……人が憎い。
 母が死に、父を殺してから、自分はずっと人が憎かった。
 それは人が愚かだから。
 違う。
 愚かな自分が、人で在るからだ。
 そして人というものの中には、自分のような愚か者が数多くいて、生き残るのはいつも、そんな風に生きることに貪欲な愚か者ばかりだった。
 死んでいくのはいつも甘い人間、優しい人間ばかりなのだ。
 それは母のように、父のように……
(ほら、正しかっただろう、俺は……)
 黄昏は人の業だと、人間とは欲深く、浅はかで愚かで傲慢だと、いつかそう言った自分の言葉が耳の奥で反響する。
 正しかっただろう、正しかったじゃないか、おれは。
 だというのにこんなにも心臓が熱く燃えるのは何故だ、まるで否定するかのように激しく鼓動を打ち付けるのは何故だ。
 月がこちらを見て嗤っているのが、外へ出なくとも分かる。
 ウルグは手のひらをきつく握りしめると、その拳を背の壁へと強く叩き付けた。
 逃げ果せてしまいたかった、彼女と何処か遠くまで。
 吐いて忘れてしまいたかった、こんなに赤い記憶など。
 手を離してしまいたかった、自分が自分で在ろうとするこの意志を。
 いつか踏み潰したはずの黒い虫が、足元から無数に広がって自分の身体へと登ってくるようだった。
 何かが逃げろと吠えている、何かが忘れろと吠えている、何かが離してしまえと吠えている。
 ウルグは片手で喉に爪を立てながら、もう片方の拳を更に強く壁へと打ち付けた。彼の青い暗闇が、床に広がる影にも似た水の跡をねめつける。
「……お前が守るべき者は誰だ、ウルグ・グリッツェン」
 魔獣などにはさせないと言った彼女の言葉を想い出しながら、ウルグは瞼を閉じる。
 逃げるわけにはいかなかった、忘れてしまうわけにはいかなかった、手を離すわけにはいかないのだ。
 おれはおれで在らなければならないのだった、彼女を守るために、彼女だけを守るために。
 そしておれは、自分が自分で在り続けることで守れなかった母や自ら手に掛けてしまった父に何かを償える気がしているのだろう、それこそ愚か者らしく。
 しかし、そうして決意を固めたところで何かが変わるわけでもない。どうすればいいのかなど、笑えるほどに全く思い付かなかった。それが怖く、怖く、ただ怖いのだ。
「た、そ、が、れ……」
 彼の妻が最期に発した言葉を繰り返す。
 たそがれ、誰そ彼、黄昏。
 部屋の隅に在る振り子時計が、過ぎ去った時間を告げるための鐘を鳴らしている。
 それはどこか、かつてこの地に響き渡った終戦の鐘の音にも似ているように、彼には聴こえた。



20161114

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