欠けたものの明星


 朽ちた村に横たわる無人の家々と、その前に転がる、紅水晶と化してゆく魔の獣たちを静かに見据えている彼女の横顔に視線をやる。
 そうして彼は片手に携えていた、巨大な盾の先を一度地面に降ろして一息吐き、それからその盾を再び持ち上げては背に負った。
 村に吹く風は乾いている。
 キトは厭でも比べずにはいられなかった。湖畔に吹いていた風とは大違いだな。
 農村〈セルバート〉より少しばかり行った処に、この朽ちた村は在った。
 それはかつて生きていた村だ、確かに。
 溢れるほどに豊かというわけでもないが人々が助け合い、各々が小さな幸せを拾い上げながら笑い合うことのできた自分たちの故郷。それが、この村。
 今や朽ち、無人となり手入れがされなくなった風化していくばかりの家々に、時折魔獣が迷い込むだけの廃村である。
 それが何だという話ではある。
 己の故郷が廃れ朽ちることなど、この時代にはよくあることだった。
 しかし、この風景を見るたびにキトの黄金の奥底は細い針で突き刺されたように痛むのだ。人はこういうとき、涙を流しては痛みをやり過ごすのだろう。自分はすっかり、そのやり方を忘れてしまったのだが。
 水郷〈キート〉を出てから、キトは何だかメグの様子がいつもとは少し違って見えていた。黒々とした濃いばかりの影が、彼女を離しはしないというようにメグの身体から根を張っているように見えるのだ。
 道中、メグの軽口はとんと減り、こちらを向いて笑うその表情も心なしか固くなって見えた。自分がいつか見たいと言ったように、彼女の跳ねっ返りが今は影を潜めている。
 それは地に足をつけている、とも言える。
 悪いことではないはずだった。
 だが、違う。
 違うのだ。
 おれが守りたいものは……
「どうしたの、キト」
 いつもよりも更にぼんやりとして見えるキトを怪訝に思ったのか、メグが自身の得物である斧に付いた紅水晶を振り払いながら、振り返って問いかける。
 キトは自らの黄金を彼女の赤銅に合わせて、こちらも静かに問いを返した。
「……何、気を張ってるんだ」
「え……あ、そう見えた?」
「ああ」
「……うーん……」
 メグは息を吐いて空を見上げた。
 乾いた風が彼女の長い髪を一瞬振り回し、そんな風にメグは唸り声を上げながら自らの手でも髪を掻き回した。それから眉間に皺を寄せて、朽ち果ててしまった自らの故郷を見つめる。
 畑に生えていた作物たち、その葉のにおいも、家々から立ち上る煮炊きの香りも、走り回っては笑い転げる子どもたちも──そこにはメグやキト、そして彼の弟の姿も在った──そのすべてが根こそぎ毟り取られてしまった、さながら焼け野原のような地を。
 瞳は村に転がる一つの家を見つめたまま、メグはそっと言葉を口にした。
「……何が悪かったのかな」
「……メグ」
「魔獣も生きたいって、思うのかな。……思うよね、あいつらも生きてるんだもの。でもさ、そしたらそんなの……お母さんやお父さん、あたしたちみんなとおんなじじゃないのよ……。今殺した魔獣たちだって、好きで魔獣なんかになりたかったわけじゃないはずなのに……
 誰が悪かったの?……何が、悪かったのよ……」
 キトは、無意識に胸の辺りをきつく押さえているメグの姿を見て、己が守れず、己の指の間からすり抜けて落ちていったたくさんのものたちのことを想った。
 父、母、弟、メグの家族、村の人々、皆がたいせつに守ってきた自分たちの帰る場所、育ててきたいずれ己が命となる作物たち、果ては自分の涙すら。
 水郷を出てからというもの、思い出したくないからなのか、おぼろげにしか瞳の奥に描けないあの日の夜の炎を、何故かメグの背後に佇む影の色に見出しながら、キトはメグと同じように朽ちた村へと視線をやって彼女に声をかけた。
「誰も何も悪くなかったって言っても、お前は納得しないだろう。それに俺は何も悪くはなかったなんて思ったことはない、何かが悪かったんだ、この世界は。いやむしろ、誰もが……何もかもが悪かったんじゃないか、俺たちは」
「村のみんなも?……ただ暮らしていただけの、みんなも?」
「だって俺たちは無知だったじゃないか。黄昏についても魔獣についても何も知らず、自分だけは死なない、狂わないと思い込んで……俺たちはだいじょうぶだと決め付けて……実際、俺はそうだったよ。お前もそうだったんじゃないか、メグ」
「……きっついなぁ、キトは……」
「俺たちは運が悪かっただけだと……そう言ったら怒るだろ、お前は。……実際、それだけのことかもしれないのに」
 メグは困ったように笑いながら頷いて、村に向けていた視線をキトへと向けた。それから自分の両手へと視線をやって、その手のひらを確かめるように強く握っては開いてを繰り返す。
 そして瞼を数呼吸の間瞑った彼女は目を開けると、再びキトの方へと──その、暮れる太陽の陽を浴びた雲の色にも似て見える赤銅色を、彼の黄金へと向けた。
「だから、あたしはもう何も失いたくない。あんたにも、何も失わせたくない──もう、二度と。あたし、たぶん……この世界のためには命を賭けられないけど、あんたのためなら命を賭けられるのよ、最後には」
「お前がお前の命を失ったら意味がないだろ、そんなの」
「そりゃあそうよ、言葉の綾よ……でも、最後には、ほんとうに最後だってときには……そう、そうなのよ」
「そんなの俺だって同じだよ。……でもやっぱり、お前はばかだな」
 キトの言葉にメグがむっとした表情で彼を見上げた。
 しかし、そこに見出した彼が呆れたように目を細めて笑っているものだからメグは少しばかり驚いて、彼に反論の隙を与えてはもらえなかった。
「前にも言ったが、お前は変なところで一人でいろいろ背負いすぎるんだ」
 キトは乾いた風にその鮮やかな孔雀緑の髪を揺らしながら、どこか優しい光を声に宿してメグへと更に言葉を重ねる。
 その声に懐かしさを感じて、メグは心の中で彼の光を受けた竜胆が揺れるのを感じた。
 そうだ、これはキトが、駄々をこねる弟を仕方ないなと宥めるときの声だった。
「変って……何よ、あんたのことなのに」
「……俺だって、もうそう簡単には何かを失ったりしない。お前にも失わせる気はない。だから、案外だいじょうぶなんじゃないか?……こういう風に物事を楽観視するのはお前の専門分野だろ、メグ。俺にやらせないでくれ。お前はさ、ばかみたいに笑ってればいいんだよ。俺はそれが見たいんだ」
「……前と言ってること、ぜんぜん違うじゃない」
「勝手なお前の真似をしてみた」
 確かに此処には守れなかったものたちが在る。
 だが、互いの隣には、守るべきものが確かに在るのだった。
 キトはメグの影へと目をやると、そこに先ほどまで見出されていたあの日の炎の色が和らいだことを感じては少しばかり目を瞑った。
 瞳の奥に、あの夜の赤と黒が戻ってくる。
 それは灼くような熱さをもち、それは肌が粟立つ暗闇の冷気を孕んでいた。しかしこの色は、自分の中に在るべき色なのだ。それは彼女と同じように。
 目を開けると地面に張っていたメグの影の根が、その地にしがみつく強さを少しばかり柔らかいものとし、メグの足に軽やかな調子が戻ってきていた。
 こちらを見上げてからかうように笑うメグの表情を見て、キトは少なからず安堵したのだった。
「メグ、メグってかわいいねえ。そんなにあたしが好きなんだ、キトくんは?──いやあ、お姉ちゃんは嬉しいよ」
「……調子がよすぎるところは直せよ」
 キトは冷ややかな視線をメグにやると、それから己の故郷をしばらく眺めた。
 五年も経ったと、メグは言う。
 五年も経った、しかし五年しか経っていない。
 彼女の奥で傷跡は未だ生のまま横たわっているのだろう。そしてそれは、時折顔を出して、彼女の影をより濃いものに、彼女の決意をより固いものにしているのだ。
 それは悪いことではない、おそらくは。
 だが、それで彼女が笑顔を失っては、涙を失っては、命を失っては意味がないのだ。
 それだけは、黄昏にくれてはやらない。
 そんなこと、おれは許せない。
 おれは、赦さない。
 おれが許せず、おれが赦さないのだ。
 ああ、おれだって、彼女のことをとやかく言えないほどに勝手な人間だ。
 そして、奥の傷が生でなくなるにはもっと、ずっと時間が必要なのだろう。彼女にも──おそらく自分にも。
 キトはもういいだろうという風に村へ背を向け、村に住んでいた人々の墓が在る隣村へと歩を進めはじめた。
 しばらく歩いた処で少しばかり遅れて歩きはじめたメグの方を振り返り、まるで思い出したかのように彼は彼女に声をかける。その声には抗議の念が滲んで聞こえた。
「……どちらかというと」
「ん?」
「どちらかというと、姉、弟じゃなくて──兄、妹だろう」
「……は?」
 それを聞いたメグは物凄い勢いでキトの隣につき、こちらもこちらで抗議の声を上げた。
 それから彼らは隣村に着くまでの間、延々とどちらが姉或いは兄で、どちらが妹或いは弟なのかを言い争っていたが、ついに決着のつかないままに村へと辿り着き、キトとメグは二人して額を押さえながら溜め息を吐いたのだった。
 そして村の中に息づき響くものたちの声を聴きながらメグはキトの黄金を見上げ、やれやれといった風に笑う。
 キトもそんな彼女につられては微かにその瞳を細めたのだった。
「何やってんだろうね、あたしたち」
「呆れられるな、これじゃ……」
「笑ってくれてるんじゃない?──みんな、さ」
「……ああ、そうだといいな」



20161112

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