福音


 世界樹の葉の隙間から、青白い月がこちらを見ている。
 ウルグ・グリッツェンはこの大地にそびえ立つ巨樹の、葉と同じように新緑の色を湛えている、そのあまりに太い幹を前にしては、夜空に浮かぶかの白い輪郭を見据えた。
 そして今、目の前にそびえているこの樹こそが黄昏に最も近い存在なのかもしれないと思うと、彼の肌は知らず知らずの内に粟立つ。
 大地を涸らしているのはこれなのかもしれない、魔獣を生んでいるのはこれなのかもしれない、彼女に魔獣を殺させているのはこれなのかもしれない、人にたいせつなものを失わせているのは、奪っているのはこれなのかもしれない、おれの母を殺し、おれに父を殺させたのは……
 ウルグは自分の指先を一瞥すると、その爪の中に一瞬ちらついて見えた紅水晶のことを思い、それから再び葉の間からこちらを見ている白い月を見返した。
 彼は心の中だけでかの月へと片手を伸ばしそして、さながら月を掴むかのように或いは砕くかのようにその手のひらを握り締める。
 同時にウルグは、心で月へと短く吠えたのだった。
 ──さあ、おれに! おれに真実を掴む力を!
 これまでのすべて──彼自身だけでなく、この世界をそのはじまりからずっと見てきた月が、身を葉に隠しながらも笑ったのが、しかしウルグには分かった。いいや、あれは嘲ったのだったろうか。
 まるで、地球儀が反時計回りに転がるかのように光が月の表面を滑っている。それはこちらにこう問うているようでもあった。
 ──果たしておまえに、真実を受け止める覚悟があるか?
 一際強く光を放った月の白に眩んで彼はきつく目を瞑り、それから瞼の奥で点滅する光の傷跡がすっかり消え去っていくのを待った。
 しばらくして目を開けた彼は、空を見上げようと首を上へと向けかけたが、手のひらの中に在る手記の頁が開かれていることに気が付き、口の中だけでその頁に書かれている文章を読み上げた。
 今日はおそらく、酉の月五日であろう。此処までどうにか生き延びることができたが、しかし、最早これ以上は叶わない。私たちは此処で最期を待とう。戦火が近い。朝も夜も、空が鳴いている。妻と子が、私より先に逝かないことを祈るばかりだ……
「──あなた」
 呼ばれて彼は反射的に振り返る。
 そこには、薄汚れてあちこちが破けたぼろを身に纏っている女が一人と、その女の太もも辺りにぴったり頬をくっつけ寄り添っている小さな娘が一人立っていた。
 彼はぐるりと辺りを見回すと二人の元へと歩み寄り、それから小さな娘の、触ったところから抜け落ちてしまいそうなほどに細い髪の毛をやさしく撫でる。
 女が彼に声をかけた。
「手記を書いていたのね」
「ああ……最期の頁だ」
「終わりなのね、わたしたち……」
「待とう、終わりを……この神殿で……せめて、一緒に」
 妻は頷くと、先の彼と同じように神殿内を首の動きのみで見回した。
 比較的戦の被害が少なかったこの神殿は未だ内部も荘厳であると言え、祭壇の辺りなんかは草花に集う鳥たちの意匠が施されていて見るに美しい。
 彼は己の半生を綴り、己と共に在り続けた手記が神への最後の供物だとでも言うように祭壇の前へと歩を進め、その壇の上に己の手記を供えた。
 しかし彼は祈りもせず、ねがいもしない。
 今まさに彼は悟ってしまったのだった、
 神などいない、と。
 たとえ神がいたとしても、それは自分の、自分たちのための神ではないということを。
 背後で妻が弱々しい声が上げたのを受け、彼は祭壇に背を向けた。
「ああ、こら、待ちなさい……」
「やだ、ちょうちょ!」
「まったくもう……仕方がないわね」
 振り返った先では神殿に舞い込んだ白い小さな蝶々を追いかけて、娘が神殿の壁に空いている穴から外へと出ていこうとしていた。
 まだ幼く見える娘も、もうすぐ十になるはずだった。
 娘は戦渦により身体も言葉も十分に発達しておらず、一見すると四、五歳ほどの子どもに見える。
 いいや、嘆いても仕方のないことだ。この子のような子どもは世界中何処にでもいる。それどころかこの子の年まで生きられない子どもの方が多いのだった。
 しかし自分の娘は今、生きている。
 もうじき終わりが来てしまうとしても、最期は共に在れるのだ。
 それでいい。
 それが幸せなのだ。
 それだけでいい。
 娘を困った子を見るように、しかし愛おしげなまなざしで妻が追いかけてゆく。
 彼も少しばかり遅れて壁の穴から神殿の外へと出ていくと、瞬間、まばゆい光が面前に轟いたのを感じて彼は微かに緩めていた自身の口元を驚きに固くした。
 何だ?
 目の前で轟いたものの正体が分からず、彼は心臓に直接響くように鳴ったその音と光に鼓動を強く打ち鳴らしては歩を進める。
 数歩進んだ先の地面で足先に何かが当たり、視線を下ろすとそこには焼け焦げたような色とにおいを抱えているやはり正体の分からないものが転がっていた。
 何なんだ?
 地面は彼が立っている辺りのみ、もしや地中で星が弾けたかのだろうか表面が足首辺りまでへこんでいた。
 さながら円を描いたような、彼の立つその場所だけは草花たちが影も形も、草花がもっているそのすべてが何もかも跡形も残さずにすっかり何処かへと消し去られている。
 生来、植物たちから力を借りることができる彼は、植物が根を張るのに欠かせない大地のその無残な姿に眉をひそめたが、しかしそれよりも強く彼の目に留まったものがこの剥げた地面の中心には在った。
 それは半身だけの、まるで焦げ付いた石膏像のような何か……
 何だ、何なんだ、これは?
 その何か≠スちが、己の妻と娘ということに気が付いたのは、妻が最早痛みすらも感じないだろうその身体、心臓などとうに止まっているだろうその身体で空を仰ぎ、もう見えるはずもない淀んでしまったその瞳の奥に空の色を写しとってはこちらを見、そして何かを問うた後であった。
「た、そ、が、れ……?」
 妻の今際の際の言葉に彼は顔を上げ、空を仰いだ。
 空は赤く、燃えている。
 妻の言葉から一瞬、これは夕焼けの光なのかとも彼は思ったが、しかし今は夜。夜に夕焼けが燃えるはずもない。だが、夜空は赤く赤く、ただひたすらに赤く燃えている。
 これは、何の赤だろう。
 人を殺すための星が弾ける赤、戦火により燃え立つ家々の赤、積み重なる人々が流す血の赤、身悶えながら朽ちてゆく植物たちの赤、血のにおいに唸りを上げる獣たちの瞳の赤──
「黄昏……」
 最期すら。
 最期すら、共に在ることを許さないこの世界は。
 最期すら、共に在ることを許せないこの世界を。
 彼は、獣が咆哮するよりも遥かに激しく慟哭した。
 その叫び、その怒り、その悲しみ、その苦しみ、その嘆きのすべてを喉の奥から絞り出し、もう二度と声が出なくなった後も、もう二度と涙が流れなくなった後も、何が枯れ、何が涸れても彼は泣き叫び続けた。
 何かを呼ぶように、或いは何かに呼ばれるように。
 しかし、彼の慟哭は何一つ人々には響かず、人々に響いたのはただ重たく木霊し人々へ終戦を知らせる、冷たい金属でできた鐘の音ばかりだった。
 鐘の音が鳴り響いた数日の間に、彼の足は地から水を吸い上げる根として大地へと広がり広がり、胴体は未だ背は低いが太い幹へ、両手は強かに伸びてはいずれ空を覆う枝々に、そして頭はその枝を守るように茂る、若い緑の葉たちとなった。
 小さな樹が終戦と共に大陸の真ん中にひっそりと誕生し、彼と樹の一部始終を眺めていた流れの吟遊詩人は、彼らの魂を慰めるために弦を弾いて歌を歌う。
 そして根を張った彼は思った。
 自分とはかつて、一体何者だったのかを。
 そして葉のひとひらとして彼は聴いた。
 自分と同じかたちをした嘆きの声たちを。
 たいせつなものを、人を失った自分たちの声を。
 そして樹を名乗る魔獣となった彼は、人々の血を溶いて紅水晶の色になったのだろうこの大地に流れる水をその身で引き受けながら、いずれ世界樹と呼ばれるようになる樹としてただ嘆きの声に耳を傾け、さながら希望を振りまくかのようにその枝葉に太陽を、或いは星月の光を受けてはゆっくりと、過去在ったはずの己の存在は不確かなまま、それでも穏やかにその身に受ける光の一粒一粒を揺らしていた。



20161107

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