扉を開いた彼が盛大に顔をしかめたのを、イルミナス・アッキピテルは見逃さなかった。
 ウルグ・グリッツェンは自分の家兼拠点である研究施設へと戻ると、その場に居合わせたクエルクス=アルキュミア・グリッツェンのことを認めるなりイルミナスが今まで見た中でいちばんと言えるほどに眉間の皺を深くした。そのままの意味で口から毒を吐きそうな顔をしている。
 イルミナスは、玄関からすぐのウルグの自室と呼べるだろう部屋から少しだけ顔を出し、ウルグとクエルクスが相対している二人の姿を眺めていた。
「……何故、あなたが此処にいるんだ」
「おれはおまえの師であり養父であるからの」
「答えになっていない。それとその気色悪い老人言葉はやめろ」
「おやおや手厳しい、おれもそろそろ年相応になってみようかと思ったんじゃがなあ」
 苦虫を噛み潰したような表情をしているウルグに反して、クエルクスの表情は心底楽しげなものとしてイルミナスの瞳に映った。
 ウルグは片腕に何やらたくさん本を抱えたまま、眉間の皺はそのままに長い溜め息を吐く。それから顎を上げると少しばかり苛立たしげにその青い瞳を微かに細めてクエルクスの方を見た。
 彼はクエルクスにしか届かないほどの大きさで、さながら夜の渓谷のように暗く低く、そしてどこか威圧感を秘めた声を発する。
「……ルーミ──イルミナスに余計なことを吹き込んではいないだろうな」
「ああ、おらんよ。イルミナス姫=Aには」
「……何の用なんだ」
「おいおい、目線だけで人を殺しそうな顔をするのはやめんか。いやな、たまには貴様の錬金術でも見てやろうと思っておったんだが……何か進展があったのか?」
「黄昏と直接的な関わりがあるかは分からないがな」
 言うとウルグは、今まさにイルミナスがひょっこり顔を出している己の自室へと歩を進めた。
 扉から顔を出しているイルミナスに気が付くとウルグは一瞬、君は何をやっているんだとでも言いたげに怪訝な色をその目に浮かべたが、しかし彼女と目が合うと、何故か彼は片方の口角を上げて少しばかり笑い出しそうな顔をする。
 今度はイルミナスがその銀の瞳に怪訝な色を浮かべて、何だか可笑しそうな様子のウルグを見上げた。
「君、寝癖」
 自分の頭を書物を持っていない方の手で示して彼はそれだけ言うと、片手を軽く振って部屋の中心へと進んでいった。
 イルミナスは慌てて手櫛で髪を整えると、後から部屋に入ってきたクエルクスをどこか恨めしげなまなざしで見つめる。クェルはとっくの昔に気付いていたでしょう。
 普段と違わず部屋の中央には巨大なフラスコが設置され、その周りにはフラスコを取り囲むように点在している大小様々な錬金釜が、その周りには本や古い巻物などが無造作に転がっている。
 ウルグは近くの長机を背にした状態でそこへ片手をつくと、腕に抱えていた書物を重たい音を立てて置いた。
 長机に載っている、前時代の世界が描かれているのだろうが最早球体に描かれた地図は掠れてほとんど読みとることのできない地球儀を意味もなくぐるりと回しながら、彼はクエルクスへと視線をやった。
「聖歌がよく歌われていたのはいつ頃だったか、あなたには分かるか?」
「聖歌? 聖歌というと……」
「世界樹信仰の教徒が昔歌っていたとされる、旧い聖歌だ。今しがた古書店で見付けてきたこの歴史書の隅に詩だけは書かれていたが……詩はまったくもって意味不明、だがこういうものには何かしらの意味が在る。だから歌われてきたのだろう。それを解明するためにもこいつが歌われていた時期が分かればと思ってな」
 ウルグが歴史書の表紙を開く。
 イルミナスが紙が古びて紅茶色になっている本の一頁を覗き込むと、そこにはウルグが言った聖歌と思われる詩が確かに書かれていた。
 イルミナスはそれを心の中だけで読み上げる。

 夜に歌う男は歌った 世界樹に往け
 カメーロパルダリスに祈れ あの亡骸を悼め
 かわたれに沈んだ誰そ彼よ 彼は誰か
 その嘆き その哀しみ
 最早名の知れぬ誰そ彼よ
 かわたれに沈み いつかは人へ還る誰そ彼よ
 夜に歌う男は歌う 世界樹に往け
 カメーロパルダリスに祈れ
 誰そ彼よ 誰そ彼よ……

 なるほど確かによく意味が分からないとイルミナスはウルグの言葉に頷いた。
 クエルクスはふむと顎先にその大きな手のひらを持っていくと、思い出していくように言葉を発する。
「確か……たそがれの時代がはじまった少し後から、百年ほどの間だったと云われていたと思うが」
「……現代なのか、これが歌われていたのは」
「そんなにおかしなことか? 世界樹の信仰が始まったのも現代なのだから別段おかしなことはないだろう」
「それはそうだが……妙に腑に落ちんな。そもそも何故前時代では世界樹への信仰が皆無に等しかったんだ? 神への信仰は今とそう変わらないかたちで在ったのだから、同じように前時代の人間も世界樹を信じていたっていいだろう。
 縋るものは多い方が都合が良かったはずだ、かわたれの時代は戦火の時代なのだから」
 聞きながらクエルクスも何か思うところがあったのだろうか、顎に当てていた手を口元まで持っていっては微かに唸り声を上げている。ウルグはクエルクスと似たような所作で折り曲げた人差し指を唇に当てていた。
 イルミナスはそんな風にして黙り込んでしまった二人を交互に見やると、おずおずといった様子で小さく手を挙げて、困ったように微笑みながら二人に声をかける。
「あの、こんなことを聞くのはあまりに学が足りていなくて恥ずかしいというか、今更というか……ええと、そういえば、なんですけれど……」
「回りくどいな、さっさと言えばいい」
「その……世界樹って、いつからこの大地に在るのですか?」
「いつからって、そんなもの──」
 言いかけて、ウルグは微かに目を見開き、その虚を突かれた驚きを伴ったままクエルクスの方へと顔を向けた。
 クエルクスはそんなウルグには気付かずに、こちらはこちらでイルミナスの言葉に何か目を開かれるものがあったのだろう、何やらぶつぶつと口の中で言葉を転がしている。
「──この大地は吸われている……? 樹の根の深さは、その範囲は……? 〈白き海〉を越えた先に在ると云われる新天地……ただの夢物語か、それとも……? 元凶が樹だとして、海を越えた先の大地に樹の根が届いていないと仮定するならば、或いは……」
「ええと、クェル、ウルグ。先ほど前時代には世界樹への信仰が皆無だったと仰っておりましたが、こうは考えられないでしょうか。
 ……前時代には、世界樹が存在しなかった、と」
 ウルグが青い夜を宿した瞳でイルミナスの銀の翼を讃える瞳を見た。
 視線はイルミナスに向けたままで、彼は手元の地球儀を先ほどとは逆の方向へと回転させる。
 それは左へと転がる回り方、反時計回り。
 ウルグは瞳の中に白い月の光を宿すと薄く笑い、そうかと思えばいつものように意地の悪そうに口角を上げて、イルミナスへと──彼女にだけ届く大きさで声をかける。
 言われなくとも、イルミナスには月の導きが目の前に見えるように思えた。
「ルーミ」
「ウルグ……はい」
「俺たちはとんでもなく罰当たりなことを考えているのかもしれないぞ」
「……罰なら十分受けたでしょう、わたしたち──誰もが」
「……それもそうだな」
 イルミナスは折れた剣の柄に手をやり、竜の元で眠る少女のことを想った。瞼の裏には少女の笑顔が浮かんでは消え、また浮かび、消える。
 イルミナスが深く息を吸ったのと同時に彼女の足元から銀翠を纏う風が立ち上り、その風は部屋の両開きの扉を中心から開かせ、彼女のための道をつくった。
 イルミナスは一歩進んだのち、背後を振り返る。
 クエルクスはというと壁にずらりと立ち並ぶ本たちの中から何やら数冊を取り出し、現地に赴くのはそっちに任せたとでも言うように書き物机へと向かってしまっていた。
 イルミナスは、クエルクスからウルグの方へと視線を向けると、ウルグも同じようにクエルクスを見ていた視線をイルミナスの方へと向け、それから彼女の銀色と目が合うと、その青色を細めてはやはり意地悪そうに笑うのだった。
「往くのか」
「ええ、往きます」
「俺が必要だろう、ルーミ?」
「もちろんです。参りましょう」
「──仰せのままに」



20161106

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