回帰する探針


 ──生きろ、生きてくれ、生きろ。

 喉元に灼くような熱さを感じて、転がるように飛び起きる。
 詰まるような呼吸を繰り返しながら喉元へ左手を持ってゆき、右手は胸より少し上を強く握りしめた。
 メグは立てた膝頭にきつく額を押し付け、影の中で薄い毛布を探し当て、さながら身を守るようにその布を頭から被る。肌が粟立って仕方がなかった。気を抜けば歯が音を立てて鳴り出しそうなのだ。
 メグは気持ちを落ち着けるために長く息を吐き、しかし表情は厳しいまま寝台から降りて、そのすぐそばにある窓の掛け布を微かに引いては外の景色を見た。
 青白い月が、その冷たく柔らかい光を湖畔に差し伸べている。
 光に揺らめく水面を視界に入れるとメグはふと、ああそういえば自分たちはまだ〈キート〉にいるのだったということを思い出し──]いいや、あの日の夜≠ナはないことを思い出し、ほっと胸を撫で下ろした。
 気球の定期便が、夕暮れから吹きはじめた強風によって休止され、仕方なしに〈キート〉に次の定期便までの間滞在することとなったのだった。次の定期便は明日──いや、もう今日だろうか──の昼過ぎである。
 メグは寝台の横に置いてある洋灯に火を灯した。
 何でもいいから明かりが欲しかったのかもしれない。それは寒いからか、或いは怖いからか。
(──生きろ、生きてくれ、生きろ……)
 メグは未だ毛布を被ったまま、視線は火の光へと向けて自分を自分で抱きしめた。寒さも引かない、恐怖も引かない。自分はずっと弱いままの子どもなのだと、否応なしに突き付けられている気分だった。
 夢に見たのは、思い出したのは、あの日の夜の色。
 それは、焼ける村の家々、その燃える色、焦げる色。
 それは、無情に奪い続ける魔獣の牙の色。
 爪の色。
 息の色。
 引き千切られていく日常の色。
 痛みに悶える誰かの声の色。
 いいや、それは血の色。
 嘆き叫ぶ声の色。
 誰の声か、それは己の声だったろうか。
 染みてゆく赤と黒。
 ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた悪い夢のような、赤く黒く熱く、すべてを灼くような現実。
 燃え立つ村に、崩れゆく人々に、白い雲が覆う空すらも赤黒く見えたのだ。
 その色が剥がれない。
 その色が離れない。
 その色が今も、今もこの瞳の中に、この瞳の奥に。
 わたしの瞳の色はこんなにあの日の雲の色に、空の色に似ていただろうか。父の目の色は、母の目の色は何色だっただろう。想い出そうとして浮かぶのは、あの日の赤黒い色ばかり。
「……お母さん、お父さん……みんな……」
 あの日の色に、すべてが上から塗りたくられてしまったようだった。
 夜の夢を見るといつもこうなのだ、自分は何をも想い出せないような気がする。そんなことはないのに、そんなことはないはずなのに。
 心の奥に在る、彼の背負う影を名乗る光の糸で縫い閉じた、己の爛れた傷跡の奥で憎しみと怒りが暴れまわっては外へと出ようと声を荒げている。
 メグはかぶりを振った。
 こいつらだけならどうにでもできるのだ。声を上げて泣けば、子どものように暴れまわれば、そうすればこの二つは鳴りを潜めるのだから。
 涙を流せばいい、涙を流せばいいのだ、あの日の夜のように。
 感情ばかりで、感情だけで、あの日の夜のように。
 ただ、そうした後にやってくるどうしようもない虚無感や恐怖や哀しみはどうしたらいいのだろう。
 また、自分が笑って生きるために誰かに飲み込んでもらうのだろうか、誰かに──彼に、感情を。
「キト……」
 二度と同じことがあってはいけない。
 二度と同じ過ちを犯したなら今度こそ、わたしはわたしを許せない。
 許さない。
 たとえ魔獣となって、己の喉を掻き毟り死んだとしても。
 メグは頭まで被っていた毛布を取り上げると、自分の両目から涙が流れていくのを自覚しながら目の前の窓を開けた。
 昼間心地好い温度をもって水上を走っていた風が夜の冷気を纏って部屋に舞い込んでくる。髪が揺れた。それでも涙は乾く隙も与えずに止め処なく零れ落ちていく。
 月の青白い光がぼんやりと彼女の輪郭を照らしていた。
 まるで、何を悲しんでいるのだろうと問いたげに。
 それは何のための涙なのだ、と。
 そんなこと、彼女自身にも分からない。ただ、涙は頬を伝い流れ、彼女の手の甲へと落ちてゆくのだった。
(泣きたいときに泣けない、なんて……泣き方を忘れたなんて、それは……どんなに……)
 彼の父は逝く寸前に言った。
 ──生きろ、生きてくれ、生きろ。
 それは彼に言ったのか、それとも自分に言ったのか、いいや二人にだったのか、それ以前に彼の父は誰を庇って逝ったのだろうか。
 ──生きろ、生きてくれ、生きろ。 
 親から子へとおくるとするにはなんて重く、なんて強く、なんて優しく、なんて厳しい言葉だろう。
 しかし皮肉もいいところだ、この言葉が彼の声のかたちを保って辿り着いたのは彼の息子の元ではなく、その幼馴染の自分の元だった。
 最期の言葉すら最愛の子の元へと届かない、こんな世界を彼は憎んでいるだろうか。わたしを、憎んでいるだろうか。まさか、と心の中で首を振る。
 それでも、それが生きるための、この地から足を離さないための枷となったのは間違いなかった。
 キトの父の生きろ≠ェ自分をこの地から離さない影となり、それからキトが無意識の内に言ったのだろう生きろ≠ヘそれを足裏から離さないように影と身を結ぶ糸、影を名乗る光の枷となったのだ。
 わたしは生きている、彼らのおかげで。
 それだけは変わらない、それだけは記憶が幾ら赤黒く塗りたくられようと変わらないたった一つの真実だった。
「もう二度と失わせない……」
 彼のたいせつなものを、何も、何をも。
 心の傷跡、その奥で彼女の髪先の色によく似た竜胆の花が強く根を張り、花を咲かせて顔を上げた。
 枯れるな、彼が笑うまで。
 枯れるな、彼が涙を流すまで。
 枯れるな、彼が笑っても。
 枯れるな、彼が涙を流しても。
 自分勝手に強くねがう。それが彼女のやり方だった。そしてそれが彼女の覚悟となるのだ、それはいつだって、今だって。
 微かに音を立てている洋灯の、その小さな明かりへとメグは視線をやり、それから背後に佇んでいる影の黒さを想った。今振り返れば自分は、暗闇に潜むその大きな揺らめきに恐怖するだろう。
 ならば、振り返らない。影がそこに在り、自分も在るということさえ感じられればそれでいい。それだけが、それこそが力となる。
 メグは月の光に輪郭を保たれたまま、瞼を瞑ってその瞳の奥に映るあの日の色を想った。
 この色は自分が受け取ろう、この色だけは、この赤だけは、この黒だけは、この瞳の中に。
 だからどうか、眠りの中に在るキトがあの日の夜の色に襲われないようにと、それだけをねがう。
 そう、今だけは──今だけは、どうか安らかに。



20161106

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