創付いた凍土


 跳ねた魚が太陽の光を受け、上げた水しぶきと共に輝いている。
 木々の緑色が映り込む透き色が美しい水面を眺めながら、メラグラーナ・ジェンツィは目を細めて、驚くような感動するような気持ちで知らず知らず長く息を吐いていた。
 隣で泳ぎ回る魚を見ていたキトが、こちらに視線を向けたことにメグは気が付くと、感心したように腕を組んでは虹の如くに美しく煌めく水面を見つめて言う。
「ほんとに在ったのねえ、〈キート〉って……」
「ほんとにって……そりゃ在るだろ、地図にも載ってるんだし」
「だって見たことなかったもの。こぉんなに大きな水源が存在するなんて、話に聞いただけじゃ信じらんないわよ」
 慈悲深い鯨の涙、水郷〈キート〉。
 二人が今立っているのはその〈キート〉をたそがれの國の貴重な水源地たらしめている巨大な湖畔に掛かる、数在る桟橋の中の一つである。
 貴重な水源に豊富な緑。
 こんにちの〈ソリスオルトス〉では欠かせない──類稀なる存在と言ってもいい──広大な水郷がこの〈キート〉なのだった。大きな、それは街が一、二個は入ってしまいそうなほどに大きな湖畔、その周りを囲むようにしてこの地の人々は生活している。
 その大きさ故、湖には東西を結ぶための定期船が常に行き来しており、なるほど〈ソリスオルトス〉では水上を走る船というものも、この水郷と同じくらい類稀な存在であるため、この地を観光に訪れる者も決して少なくはない。
 古い言葉で安らぎを与える地≠ニいう意味でこの水郷はオアシス≠ニ呼ばれることも多いらしかった。
 気球を乗り継ぎ乗り継ぎはるばる〈キート〉までやってきた二人である。
 そして、仕事で〈キート〉周辺の水源地の水質調査のために調査員の護衛を命じられたキトに、水源地までの安全な経路図を書けたら便利だからなどと無理を言って半ば強引についてきたメグである。
 仕事が終わり次の気球の定期便まで暇を持て余していた二人は、水郷〈キート〉を此処でしかほとんど食べることのできない魚料理を堪能しながら散策したのち、湖畔に掛かる桟橋にてぼんやりとその光さざめく水面を眺めていたのだった。
 メグは桟橋のいちばん先に腰を下ろすと、足を水の少し上の辺りでぶらつかせる。背後に立っていたキトが座り、軽く溜め息を吐いたのだろう気配をメグは感じた。
「……落っこちるなよ」
「やだな、流石にないって」
「どうだか……」
「ねーえ、キト?」
「何だよ」
 メグは顔を上げて、遠く続いてゆく湖畔を眺めた。
 時折魚が跳ね、やはり水しぶきと共にその身を輝かせている。湖の上を何隻もの船が行ったり来たりを繰り返し、水面を揺らしては湖畔に棲む生き物たちを驚かせているのだろうということはメグにも容易に想像ができた。
 眩しい、水が眩しい。
 一つの場所に集まり、数多の光を受けて煌めく水面とはこんなにも美しいものなのか。
 湖に溢れんばかりに湛えられた水を眺めていると、生まれて初めてこんなにもたくさんの水を見たというのにも関わらず、何故か懐かしい気持ちになるのはどういうことだろう。
 そして同時に、穏やかに揺らめきながら、彼女の心の水面は哀しみと不安を抱くのだった。
「海ってさ、海って……こんな風、だったのかな」
 ──いつか、この美しき水郷もすっかり消え失せてしまうのではないか、と。塩の大地と化した、こんにちの海のように……
 小さな想いが心に揺らめくのを感じながら、メグは弾ける水しぶきを見る。最早メグの目には、光が跳ねているのかそれとも水が跳ねているのか定かではなくなっていた。
 キトもおそらく自分と同じように水面を眺めているのだろう、湖畔の波紋よりも静かな声が返ってくる。
「……だったら……綺麗、だったんだろうな」
「うん。……ねえ、あたしさ……見たことないのに、どんなものなのかもよく分からないのに、知ってる気がするんだよね。海、を……」
「……人はかつて、海から生まれたと云う。だからかもな、俺たち≠ェ海を知っているような気がするのは」
 メグは思わず振り返り、キトの瞳を見た。それが彼の心にまで映っているのかは分からないが、湖のさざめく光たちが彼の瞳に反射して黄金色を美しく際立たせている。
 メグはその瞳を見たままほとんど石像のように硬直していたが、水上を吹く風に己の髪を巻き上げられると、今まで忘れていたのを思い出したかのように息を吐き、目を瞑って口元を和らげた。
 それからメグは彼女にしては珍しい、どこか凪いだ声を言葉を紡ぐ。
「キトの名前はさ、この水郷から取ったんだって。昔、おじさんとおばさんが言ってた」
「は?……え……何でお前が知ってるんだよ」
「あはは、何でかしらねえ」
「この水郷から取った……って……」
 水気を纏う涼しい風が、二人の間を通り抜けた。
 メグはキトの顔を向いたまま、しかし目線はそこから少しばかり下げて想い出すようにゆっくりと言葉を風に乗せていく。
 キトの耳には最早風も水も、大きな汽笛の音すらも聴こえなくなっていた。彼の耳は今、メグの紡ぐ言葉ばかりに傾けられている。
「おじさんとおばさんは一度だけ、此処に来たことがあったんだって。あんたが生まれるよりずっと前……ずっと前、だけどね。でも、何故か想い出したんだって、生まれてきたあんたの顔を見たときにこの──溢れんばかりの水の郷を。この、光さざめく豊かな湖畔の水面を……
 だから、あんたの人生がこの水郷のように豊かになりますよう、あんたの心がこの水面のように光で満たされますようって、ねがいを込めて……キト、と」
「そう、か……」
「ねえ、感情を忘れたなんて嘘よ、何も感じないなんて嘘よ。お前なんかに何が分かるって言われてもね、分かるのよ……あんたはね、何のためにかは分からないけど……何も感じないように自分を偽って、ほんとうは失ってなんかない感情を忘れたことにしてるだけ。だって、無理よ、何も感じないなんて、無理なのよ……生きてるんだから、無理なのよ、キト……」
 堰を切ったようにメグの両目から大粒の涙が零れ落ちて、桟橋の上に雨を降らせた。
 眉をひそめてメグに声をかけるキトを、彼女は悲しんでいるのか怒っているのかよく分からない表情で未だ涙を流しながらねめつける。
「おい、何でお前が泣くんだよ」
「あんたがそう言ったんでしょ」
「それはそうかもしれないけどな……何て言うか、困る、んだが……」
「ちょっとくらい困りゃあいいのよ、キトなんか」
 手首の付け根で荒っぽく目元を擦り、瞳の赤銅色を更に熱くしながらメグは鋭いまなざしでキトの黄金色を見た。
 その姿に何となく気圧されながらキトは、それでも彼女の瞳からは目を逸らさずにどこか困ったように、そしてどこか寂しげに言葉を声のかたちにしてゆく。
「……泣き方を忘れちまったのは、上手い笑い方ができなくなったのは、ほんとうのことだよ」
「想い出せるよ、ううん──想い出すよ、きっと、嫌でも。……想い出したくない?」
「……そうかもしれない、少しだけ」
「怖がりさんだね、キトくんは」
「だから生き残ったんだろ、俺も──お前も」
 二人はどちらからともなく湖畔の水面に視線をやった。
 水上に吹く風の音、穏やかに岸辺へとぶつかる水の音、揺れる木々の葉音、遠くで響く汽笛の音、人々の話し声、歩く音、煮炊きの音──そのすべてが今やっと、二人の元へと帰ってきたのだった。
 メグは右腕を真っ直ぐ湖畔の方に伸ばすと、空中で水を掬うような動作をしたのちに天上でまばゆい光を放っている太陽の方へと手のひらを翳しては、指の間から瞳の奥を突き刺すように入ってくるその光に、目を細める。
 それから両手を桟橋の上につくと、両目を閉じて水の上を翔ける風と水の揺らめく音を感じた。
 海の潮騒も、其処に吹く風の香りも戻ってはこない。
 けれど、知っている。
 わたしたちは、知っている。
 海を。
 海、は……
「あたしたち、取り戻せるんじゃないかな、海を。……戻ってくるんじゃないかな、海、は──」
「根拠は?」
「ないよ。理由なんか、ない。……笑っちゃえるほど、あたしは馬鹿だもの」
「いや……戻ってくるんじゃないか?──俺たちの中に、海が在る限り」
 思いがけないキトの言葉に、メグは再び振り返って彼の瞳を見た。
 彼女の赤銅とかち合うとキトはその黄金を微かに細め、軽くかぶりを振っては水面へと視線をやり、呆れたように呟いた。
 そんな彼の声が少しばかり震え、少しばかり哀しさを、そして寂しさを宿し、少しばかり痛みを抱えていたことを、まさか彼女が見落とすはずもなかった。
 黄金に暮れる彼の心、ああそうか、これが──これが、これこそが彼の黄昏……
「安直だな、父さんも、母さんも……」
「あたしは好きだよ」
「……少し会いたくなっただろ、みんな、に」
「うん、会いたいよ。──いつも、いつだって」
「……ああ」



20161105

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