愚か者の月


 真昼の月と、目が合った。
 絶滅都市〈ゼーブル〉から少し行った処に在る町で、一人の男のもつ夜の闇よりも黒色をしたうねる前髪と、その間から深い青の双眸が日の傾く熱を孕みつつある太陽の光に照らされて白い光を閃かせている。
 黒い革の手袋をはめた右手の中指では、彼の瞳の色に似た石が填め込まれた指環が、同じように光に照らされて白く瞬いていた。
 その指環の右手には、彼の手記が或る一定の頁で時を止められたまま固まっている。
 左手は錬金術で創られ、鍛冶師が改良したのだろう銀色をした手甲が──その中心に位置している、魔獣の嫌う光を発する機能の付いた鋼の羽がその八枚の翼をすっかり閉じて、今は休息の時間を過ごしながら──彼が手に力を入れるたびに、乾いた微かな音を立てた。
 その手甲の左手には、この世界が歩いてきた大まかな歴史が年表のかたちを持って簡潔に記されている歴史書が一冊と、黄昏と文化及び学問の発展についての見解が述べられた、存命の頃は陽の光を浴びることのなかった、とある歴史研究家の論文の写し、そして錬金術の分厚い本が一冊乗っている。
 ウルグ・グリッツェンは手記を持っている方の手で、時折目に掛かる前髪を邪魔臭そうに払いながら、〈語る塔〉に申請して王都の王立図書館から取り寄せた二冊の本と一本の論文にちらっと視線をやった。
 それから論文を片手の手記と入れ替えるように取り上げると、歩いている内に読み終えたそれにもう一度目を通す。
 この二冊の本と論文は、こんにちこの町の〈語る塔〉にてウルグ・グリッツェンが受け取ったものである。
 これを受け取ったらさっさと帰るつもりだったのでイルミナスのことは〈ゼーブル〉の自宅に置いてきたのだが──ちなみに、彼女は人のソファで眠りこけていた──試しに歩きながらこの論文を読み、そこから汲み取れた部分を歴史書と照らし合わせてみたところ、さながら月明かりのように頼りない一筋の道標がウルグの頭の中に浮かび上がり、そのため彼は先ほどから思考を整理するために町の石畳の上で行ったり来たりを繰り返しているのだった。
 口の中で転がっていた銀薄荷のタブレットを噛み砕き、ウルグは長く息を吐いた。
 ──人は、己の命が危ういと感じたときには思いがけない力を発揮するものだ。身体的にもそれは言えるが、しかしおそらく技術的な面でも同じだろう。そしてそれは人だけではない、國にしてもそうだろう。
 國はいわば人の集合体、巨人のようなものだ。
 民は各々頭であり、手であり、足であり、目であり耳であり口である。
 そう考えると、黄昏が進行してから國の学問が急激に発達していることも頷けた。
 気球という移動手段が廃れ、都市間の移動はすべて飛空艇によるものとなるのは最早時間の問題であり、かつての海──こんにちの塩の大地、〈白き海〉を隅から隅まで踏破できる砂航船の動力を発明する……そういった類の話を夢のまた夢だと一笑に付していた者の方がいずれ嗤われるようになることもまた明白のような気がウルグにはした。
 國も、己の未来が失われそうだと感じたときには思わぬ力を発するのだ。
 ならば、闘争的な面での技術が現代の技術を遥かに遥かに上回り、世界から借りる力と均衡を保つどころか、その強さが両者を天秤にかけた場合、借りものの力≠フ方を高く掲げるほどに技術面が重かった前時代は、その時代のこの世界は、どんな理由でそこまで技術を発展させるほどの危機を感じていたのだろう。
 ウルグは歴史書の表紙を見つめた。
 秘匿となる面が書かれた本は王立図書館からは持ち出せない。秘匿とされる本を持ち出せるのは王と、王から許可を得た者のみである。
 この歴史書は、つまるところ〈ソリスオルトス〉の歴史書であり、この世界全体の歴史書ではない。最も、世界全体の歴史すべてが書かれた本など存在するとは思えないが。
 しかし、簡単なことである。
 前時代、かつて國は一つではなく世界中に無数に各々の領土を持って点在していたと云う。
 技術は必要だから発展する。
 ならば闘争的な技術が発展していた理由はただ一つ、それが必要だったからだ。
 つまり、戦争。
 誰が始めたのかなど今や知る術もないが、やられたらやり返す。それが獣の性である。昔も、おそらくは今も。
 人も獣の一種であることを、ウルグ・グリッツェンはその身をもって知っている。
 この大地を蝕む黄昏と、かつての戦争が無関係だとは到底思えないが、だとすれば何故黄昏はこんなにもゆっくり時間をかけて、真綿で首を絞めるような速度で大地を、命たちを蝕んでいくのだろう。何百年もかけて。
 人が生まれるより太古、この世界には竜≠ニ呼ばれる生き物が存在していたらしい。
 かつての海や荒廃した地に驚くほど大きな生き物の骨が埋まっていたり、また転がっていたりすることがある。それがこの〈ソリスオルトス〉では竜の亡骸だと云われており、竜は天から降り注いだ流星によって一瞬にしてその種を滅ぼされたとも云われている。
 それは、いわゆる伝承というものだが、人だってそんな風でもいいのではないか、とウルグは思う。
 前時代には巨大な星を降らせてその地ごと抉り取るような兵器≠ェ在ったとも云われ、その傷痕のようなものは世界の各地で見られる。
 その想像を絶する兵器たちによって大地が傷付き、回復できないほどに疲弊したとしたなら、人は、この大地に息づく命たちはもっと早く渇き、もっと早く飢え、もっと早く滅びてもいいはずなのだ。
 と、すると、傷付いた大地は戦争の傷痕を外傷としては残しても、内側は一度回復した。黄昏に遭っても、数百年は己の外にも内にも息づく命たちが持てるほどに。
 或いは、内側は人々が想像するよりもずっと強く、傷付いたのは大地の外側だけだったのかもしれない。
 では、何故黄昏は始まったのか。
 そうだ、黄昏。
 黄昏。
 黄昏。
 黄昏。
 黄昏とは、一体何なのか……
 結局、辿り着くのはいつも同じ問いであるウルグの左肩にすれ違いざま誰かの肩がぶつかって、彼の左手に乗っていた本の上の手記がその拍子にどこかの頁を開いたまま、地面へと軽い音を立てて落ちていった。
 それによって思考を地面に降ろされたウルグが顔を上げる。
 瞬間、黄金の瞳と目が合った。
「……申し訳ない」
 やや光の灯っていないように見えるその金色が何度か瞬き、落ちてしまったウルグの手記を素早く拾い上げ、彼に手渡そうと持ち上げた。どうやら先ほど自分の肩にぶつかったのはこの人間だったらしい。
 ウルグは目の前の、背に大きな盾を背負った青年──年の頃はこちらより幾つか下だろう──を見た。
 青年には、右の頬から鼻の頭にかけて火傷のような痕が在った。
 顔の傷痕自体はこの時代そこまで珍しいことでもないが、その傷の付き方はなるほど派手と言えるもので、これは人の目を引くだろうとウルグは心の奥でぼんやりと思った。
 目を引くというのなら彼の瞳や髪の色もそうだった。
 色が金塊ほどには輝かない黄金色の瞳に孔雀緑の髪、その中で左目に近い前髪だけは鎖骨手前まで長く伸ばしており、おそらく地毛だろうがその左側の前髪だけは孔雀緑から段々と色を変え、最後、髪のいちばん先端は菫色に染まっている。
 その風変わりな色合いの髪を見て、何となく孔雀石のそれを思い出したウルグは、いやこちらこそとあまり身の入っていない答えをその孔雀石の髪と黄金の瞳をもつ彼に返した。
 しかし、彼の目線が思いがけず開かれた手記の頁の何か一つの部分で止まっているのをウルグは捉えると、少しばかり眉根を寄せて彼に問いかけた。
「……何か?」
「この、一節──」
「夜に歌う男は歌った=c…? ああ、これは……」
 彼の黄金が見つめていたのはかつて神殿の壁に彫られていた、定かではないがおそらく詩の一種だと思われる文章を書き留めておいた頁だった。
 夜に歌う男は歌った あの亡骸を悼め かわたれに沈んだ 誰そ彼よ 彼は誰か=c…
 ウルグは相手がこちらの知らぬ人間だということを思い出すと、一旦言葉を切り再び彼に問いかけた。
「これについて何か知っているのか」
「知っているというか……似たようなものを一度聴いたことがあるだけで」
「似たようなもの……それはどんな?」
「確か──かわたれに沈んだ誰そ彼よ、彼は誰か、その嘆き、その哀しみ、最早名の知れぬ誰そ彼よ、かわたれに沈み、いつかは人へ還る誰そ彼よ、夜に歌う男は歌う=c…だったと」
 彼は金の目を瞑り、微かに眉間に皺を寄せては一語一語確かめるように発音した。
 ウルグは彼の手から己の手記を受け取ると、それを左手の本の上に頁を開いたまま再び乗せる。そして右手に在った論文は左の脇に挟むと、羽織っているローブの隠しから硬筆を取り出しまるで水が流れるかのような滑らかさと素早さで、手記に先ほど目の前の青年から聞いた詩の一節を書き記していった。
 彼の口からそれは確かに自分が神殿の壁から読み取ったものと類似しており、どちらかをどちらかの前か後に継ぎ足しても違和感はないように思える。
「──ねーえ、それさ、聖歌じゃない?」
 ふと、青年の後ろから明るい声が響き、彼とウルグはその声がした方へ視線をやった。
 そこには、近くの露店で買ったのだろう、かじるたびにパリッとした音が聴こえてきそうな手のひらほどのパンを頬張りながら一人の女が、腰ほどまである長い柘榴色の髪を揺らしてこちらへとやって来ているところだった。
 彼女の長い髪もまた、腰辺りへと向かうにつれて青年と似たように段々と変色し、その毛先の方は竜胆の色を纏わせている。瞳は赤銅色をしており、それは黄昏に浮かぶ雲の赤い色にも似ていた。
 こちらへ辿り着く数歩の間に手に在ったパンは彼女の胃の中に簡単に収まり切ったらしく、彼女は舌で唇を舐めている。
 青年の方が女にまなざしだけで、聖歌とは、と聞いたのが見て取れる。
 ウルグは瞬間この二人が知り合い同士なのであることを悟り、また、ただの知り合いという間柄でもなさそうなことも同時に悟った。目と目だけで分かり合えるほどに信頼関係が厚いようである。
 似たように変色している髪と、その色の少しばかりくすんだ鮮やかさに、もしかすると彼らは同じ土地の生まれか何かなのだろうかとウルグは思ったが、その点に関してはこれ追究するほどの興味も湧かず、それよりかは彼女の発した聖歌という言葉の方に彼の心は引っ張られた。
「旧い聖歌。夜に歌う男っていうのは、その歌を紡いだ遠い昔の吟遊詩人のことらしいわ。あんたたちが言ったのとおんなじ歌が、確か世界樹の北と南に在る祭壇の真ん中に古代語で彫られてたはずよ。
 まぁ、あたしが読んだわけじゃなくて……そのとき連れてた同業が読んだものだから、気になるなら自分で確かめに行った方がいいと思うけど。
 でもそれ、今は歌われていないらしいねえ。この國が建國されたときにはよぉく歌われていたみたいだけど……今は旧い世界樹教徒辺りしか歌わないって言うわよ。
 言っちゃ悪いけどこの國、教会はけっこう数在るけど、その割に信心深いわけでもないし、そこまで流行ってないよね、宗教。でしょ、キト」
「……宗教に心から縋る者も少なくはないと思うが、どちらかと言えば教会なんかは宗教や信者を如何に利用して自分たちが飢えず、滅びずにいられるかを画策している側面が強いだろうな。
 元より誰も、本気で天からの救いが訪れるとは信じていないんじゃないか?……例外はいるだろうが。
 こんな時代だ、生き残るためなら、守るためなら神をも利用するさ──殺しもするかもしれない」
 キトと呼ばれた青年の金色に冷ややかな光が一瞬浮かび、そしてすぐにそれは憂いを帯びた影になったことをウルグは見逃さなかった。そしておそらくは、今やキトの隣で彼の顔を見上げている赤銅色の瞳もそれを捉えたに違いない。
 ウルグは浅く息を吐くと、誰に宛てたわけでもなくほとんど呟くように声を発した。
「こんな時代、か。……人が生き汚いのはどの時代でも、だろう」
「……そうだな」
「──あんたたち、何か知らないけど暗いのねえ。あのさ、生き汚いってそれ、そんなに悪いことなの?
 確かにあたしたちは自分勝手で見栄っ張りで……強欲で愚かで、他の生き物に比べれば弱っちいかもしれなくて、でも、それなのに中々滅びないやたらにしぶとくて世界にとってはもう、邪魔なだけな存在なのかもしれない。
 ……でもね、誰だって何だって、何かに勝手に決め付けられて、はいそうですか分かりましたって死ねないでしょ。そんなことで、死にたかなんてないでしょうよ」
 当たり前のことを当たり前として言ってのけた彼女を見たキトの口から、メグ、という言葉がおそらくは無意識だろうが零れ落ちた。
 ウルグはメグと呼ばれた彼女の心の奥に生への渇望が根を張っていることを漠然とだが感じ取ると、彼女はそれを察してか右手の拳を自分の胸の上に置き、キトとウルグを交互に見ては背筋を伸ばして問いかける。
「キトと、初めましてのお兄さん」
「ウルグ」
「じゃあ改めて……キトとウルグさん。──黄昏って、自然現象なの?」
 問われてウルグとキトの二人は顔を見合わせた。
 ウルグの青を帯びた深い夜の色と、キトの白昼の光を浴びた大地の色との間にぬるい困惑と、浅い息しかできないような沈黙が流れる。メグの沈みかけた太陽が織り成す夕焼けの色が、その沈黙を静かに見つめた。
 しばらくして、どちらからともなく深く息を吐くと、まず最初に頭を振って言葉を紡ぎ、沈黙を破ったのはウルグ・グリッツェンの方だった。
「そういった仮説は無数に在る……が」
「ウルグさんは、黄昏は人が引き起こしたものだと考えるのね」
「俺はそう仮定している。どちらかの説を完璧に否定できる材料は、今のところ揃っていないが」
「じゃあひとまず今はウルグさんの仮説を信じるとして──」
「おい、メグ……」
 何か素っ頓狂なことを言い出すのではないかとキトがメグを制そうとしたが、時すでに遅し。
 メグは姿勢を正したまま凛とした表情でキトとウルグの二人をまた交互に見やると、それから自分に対してだろう微かに頷き、そしてやはり凛とした声で言葉を二人の耳と、それから己の耳へと伝えた。
「もし、黄昏が人の手によって引き起こされたものなのだとしたら、あたしたちはその責任を取らなくちゃいけないんじゃないの? もし、もしも……ほんとうにそうなのだとしたら、あたしたちは全員、自覚しないといけないんじゃないの?
 ……この世界がどんなに美しいかを、どんなに、美しかったかを。この世界に生きていたものたちがどんなに必死だったかを、この世界に生きているものたちが──あたしたちを含めて、今、どんなに必死なのかを。
 あたしたち、この世界で生きたいって、そう思ってるってことを」
 ウルグは一瞬、この女の瞳は夕焼けなのではなく、朝焼けの色なのかもしれないと思ったが、そう言い切る彼女の頬に微かに影の色が忍び寄ったのを見て、やはりこの瞳は暮れる空の色だ、と感じずにはいられなかった。
 色を潜める影のにおい。
 それこそまさしく夕焼けに照らされる人の前に佇む長い影の気配だった。
 ──覚悟が、あるのだろう。
 痛みや悲しみ、己の黄昏と共に在る覚悟が。
 覚悟とは、地面に足を着けて初めて覚悟となる。そして人は、影と共に在って初めて地面に足を着けることができるのだった。
 キトは微かに目を見開いたままメグのことを見つめていたが、そのことにウルグは気付かずにやや口角を上げてメグへ言葉を返した。
「俺たちは、そうして己の恥を知るべきだと?」
「あら、あんたって皮肉屋なの、ウルグさん?……でも、そうかもしれない。ウルグさんの考えが正しいとするなら」
「……メグ」
「キト?」
「まさか……黄昏を止める、だなんて……言わない、よな」
 彼の金色の大地にかかる昼間の雲、その影が更に色濃くなったのを見て取ったウルグは、この辺りが引き際だと考えた。
 未だ開かれたままだった手記を閉じ、静かな所作で右腕に在るすべての物たちの佇まいを正すと、衣擦れ以外の音は立てずにゆっくりと二人の元を後にする。
 二人のことが気がかりでないと言えばそれは嘘になるだろうが、ここから先は最早自分の立ち入る隙間がないことも、たとえ在ったとしても入りようがないことも、最後に聞こえたキトの声を思い出してみれば火を見るより明らかだった。
 こちらとしても〈ゼーブル〉に残してきたイルミナスのことが気がかりでもあったため、この辺りで身を引くのがやはり最良だろう。
 ウルグは町の出口へと歩を進めながら、その冬の夜空にも似た瞳で白い雲の浮かぶ空を見上げる。
 ──真昼の月と、目が合った。
 白い雲と雲の間に、姿は見えないが確かにそこに在るそれをねめつけながら、自身の口角を上げては瞳をも細め、それから心の中だけで笑いかけた。それはそれは、意地悪く。
 そう、生き残るためなら、守るためなら神をも利用し、時には殺すのだ、おれたちは。それは今も昔も、おそらくは未来も。
 ウルグは未だ、月を見ている。
 眺めていたのだろう、そこから。
 嗤っていたのだろう、そこから。
 それは大層面白かっただろう。
 なあ、どうなんだ?
 だが、それももう終わる。
 おれは今までお前に力を借りてきていたが、最早それだけでは足りないのだ。
 生き残るためなら、守るためなら月をも利用し、時には砕くのだ、おれは。
 恥を知るのはそれからでも遅くはない。もう十分、遅すぎるのだから。
 しかし、知っているだろう、人は愚かだと。
 知っているだろう、おれが愚かだと。
 だがお前が選んだのはおれだ、選んだのはお前だろう、いや、それともおれだったか。
 どちらでもいい、どちらでも同じことだ。
 導く光は、目には見えずとも此処に在る。
 月が溜め息を吐いたのだろうか、微かな風がウルグの黒髪を通り抜けた。
 ウルグは徐々にその存在感を増す太陽のことなどすっかり忘れ、さながら見えぬ月の光に導かれるように風の住み処へと向かっていった。



20161029

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