光の枷


「まさか……黄昏を止める、だなんて……言わない、よな」
 キトの瞳が翳る。
 メグは視界の端でウルグと名乗った男の白いローブが翻ったのを感じてはいたが、それより今、目の前で困惑とも焦燥とも不安とも言い難い、すべてを一緒くたにしたような表情をしているキトの瞳から目が離せないでいた。
 メグは少し困ったように眉を下げて、どこか弟に言い聞かせるような口調でキトに声をかける。
「あたしだけで? それはいくらあたしだって無理って思うよ、そこまで弾丸みたいな人間じゃないって」
「……けど」
「……なぁに」
「けどお前は今、黄昏を止めてやりたいって顔をしてた」
 その言葉に、メグは一瞬キトの黄金から目を逸らした。
 しかしすぐにその赤銅色で彼の瞳を捉えると、胸に片方の手のひらを当ててキトに、或いは自分に語るように言葉を紡ぐ。
「……あたしは冒険家よ。いろんな処へ行って、いろんなものを見て、記憶は情報として、足跡は地図として人に遺す──それが仕事。
 あんたはあたしに……死んだ人のために生きるなって言った。確かに……あたしがこの仕事を始めた理由はあの日死んだ、みんなの……みんなのためだったかもしれない。
 でも、それはきっと──あんたもそうでしょう、キト」
「……え……?」
 今度はキトの瞳に困惑ばかりが浮かんで見える。
 それを読み取ったメグは少しばかり睫毛を伏せて、どこか切なげにも見える表情で笑ってみせると、自分の胸に当てていた手のひらの先をキトの方に向け、指先で軽くキトの胸板を押した。
「ガーディアン、あんた、守りたいものが在ったんでしょう」
「それは……」
 目を逸らしたキトの手首をメグが取る。
 それからメグは彼に背を向けると、いつもは無駄なく進めている歩の速さを緩めて二人にはゆっくりと言える速度で歩きはじめた。
 キトはそれが意図する先を読めずに未だ困惑の色を滲ませた瞳でメグの後ろ姿を見、引かれるままに歩を拾う。
 ふと、キトはメグの背のヌメ革を見た。
 それは彼女が背負う大きな斧の刃を守るための防護革であり、無論こんにちもしっかりとその刃を守っている。どれだけの重さなのだろうそれらを当然の如く背負い、今日まで旅をしてきたメグの強さをキトは思いがけず感じて、胸の奥がじり、と痛んだ。
 心を骨にしたはずの自分にその意味は分からない。
 いいや、或いは分からないふりをしているだけなのかもしれなかった。
「仕事をしてると、いつもぶち当たるのよ──黄昏っていう、魔獣っていう、馬鹿みたいに大きくて、途方もないものに……うん、きっと誰だって、そうなんだと思う」
 メグは振り返らず、歩を進めながらキトに語りかけた。或いは、自分に語りかけていたのかもしれない。
 町に降り注ぐ陽差しは夕焼けの色を宿しはじめていたが灼くような熱さはなく、吹いている風もどこか穏やかに二人の間を過ぎていった。
 自分のそれと同じように、メグの足の裏から離れてくれない影を何となくキトは見つめたが、そこに何か寂しさのようなものが一瞬ちらついたような気がしてキトは想う。
 忘れろと心は叫ぶ、いや忘れ難いと心が叫ぶ、忘れようもないあの日の夜のことを。
 裂かれる日常、たいせつな者たちの絶叫、彼女の慟哭──そして彼女に影を与えた、自分の言葉を。
 生きろ。
 彼女に生きろと言った、自分の言葉を。
 おそらくそれは足枷だった。あの日からずっと、彼女にとっては。
 それは、彼女をこの地に留めておくための言葉だった。彼女のための、そう思う自分のための。
 彼女が何度傷付いてもこの地面から足を離さずに立ち上がるのは、その足で歩くのは、彼女の足元に影が在るせいなのだ。
 この地で傷付いても立つ、他のすべてと同じように。
 メグは言葉を紡ぐ。
「誇りがあるの、この仕事に。……キトだって、そうでしょ。もうきっと、あたしはこれ以外にはなれないの。これが……あたしなの。この世界で、この仕事をして、生きたいのよ。……黄昏を止めたそうって、言ったわね」
「……ああ」
「止めたいわ、止められるものなら。……この世界に生まれたことを嘆いて、魔獣になって、それで誰かのたいせつな何かを奪うのは嫌……だから。
 でも、だからって冒険家を諦めて黄昏の研究に没頭するのなんてできないし、きっと向いてない。それにあたし一人じゃ、絶対に無理。けど……あたしは、冒険家としてこの世界にできることをしなくちゃって思う。
 いろんなものを奪われたわ、この世界には。でもね、いろんなものを貰ったのよ、この世界には」
 肩越しに振り返ったメグの瞳がちかっと夕焼けの光を宿して煌めいた。揺るがない光。
 キトはその光を心の中で掴むと、唐突に自分が世界から光の力を借りることができる理由を悟った。
 それは、彼女に光を貰っているからだった。
 生きろ。
 生きろと彼女に言われた。
 おそらくそれも足枷だった。光を名乗る足枷。それは、自分をこの地に留めておくための言葉。
 いいや、とキトは心の中だけで首を振る。
 メグだ。
 メグの言葉が、メグの発する光のすべてが、メラグラーナ・ジェンツィという存在が、自分をこの地に留めている。
 彼女という存在がかき消えれば、自分を足元から暖める光は失せ、そのまま爪先から自分は凍り付き、今度こそほんとうに骨となってしまうだろう。
 世界から影の力を借りているメグが、今自分とほとんど同じことを想っていること知らないまま、キトは彼女に引かれて歩を進めた。
「……キトは? キトは、どう思う」
「俺は……」
「うん」
「……知ってるだろうが、俺は元々お前みたいな考え方はできない。
 黄昏が止まれば、ほんとうにすべて丸く収まるのか。黄昏が止まれば、人は、動物は植物は、魔獣にならなくて済むのか。黄昏が止まれば人は飢えなくなるのか、嘆くことがなくなるのか。黄昏が止まることによって魔獣もいなくなるとして、魔獣と争わなくなった俺たちは、今までやつらに向けていた武器を簡単に捨てることができるのか。それで奪われた者の悲しみは、怒りは収まるのか。収まらないとしたら、その矛先は何処へ向かう?
 ……人じゃ、ないのか。魔獣と争わない代わりに、人は人と争うようになるんじゃないのか。そうしたらまた大地は傷付き水は涸れ、たいせつなものを奪われた人は嘆き、そうやってまた誰かが魔獣になって、この世界は黄昏ていくんじゃないのか?──何度も、何度も、何度でも」
 町が一望できる展望台へと続く階段を上りながら、キトは静かな声で誰に問うわけでもないのだろうが問いかけた。
 展望台の在る広場から更に螺旋を描いている階段を上る。
 キトもメグも、それを上りながら先日上った塔の螺旋回廊のことを想い出していた。メグに至っては、その先で見えたあまりに広い、残酷なほどに自由だった景色を瞳の奥に描きながら。
 展望台を上り切ると、二人は眼下に見える景色に視線をやった。
 メグは未だ、キトの手首を掴んだままである。今、離してはならないと彼女の心が叫んでいたのだった。それは彼のためだっただろうか、それとも彼を離したくない自分のためだっただろうか。
 メグは微かに眉根を寄せているキトの顔を覗き込むと、どこか悪戯を思い付いた子どものような顔をして笑った。風が吹いて彼女の柘榴色が揺らめき、瞳の赤銅はやはり夕陽の光を湛えている。
「……そしたらそのときは、そんな風になるんなら、今度こそ人なんて滅びちまえばいいんじゃない?」
「──は?」
「あたしたち人間がそこまで恥知らずなら滅びちまえってことよ。でしょ? でも……思わない? 今みんなが繋ごうとしている未来に在るものが、黄昏た焼け野原でなんてあってたまるかって」
 押し黙るキトの瞳から尚目を逸らさずに、メグはその黄金の色を見つめ続けた。
 根負けしたようにキトが長く息を吐き、メグ以外には分からないほど微かに微かに目を細めて笑う。
 同じように少しばかり弧を描いている口元から発せられた言葉はメグのことを多少驚かせるものであったが、それよりメグは目の前の何よりもたいせつな人だといえる彼が少しでも笑ったのが嬉しくて、同じように目を細めて笑うばかりである。
「焼け落ちて何もなくなった世界で、俺は一体何からお前を守ればいいんだ?」
「……そうよ。あたしだってそう。なんにもなくなった世界で、あんたと一緒に見れるものなんて一つもないもの。塔で見た景色は確かに怖かったけど、それでもあたし、あんたと見るこの世界は綺麗だって……そう思ったのよ」
「なあ、止めるものじゃないんだな、黄昏は。──立ち向かうもの、だったのか。……これから立ち向かうのか、俺たちは。黄昏、に……」
 メグがキトの手首を二人の顔の前まで持ち上げる。
 それから目の前に広がる町並みと、そこに行き交う人々、涸れゆく大地でそれでも尚息づく植物、向かい風に吹かれても空を舞う鳥、そしてそのすべてを今照らしている赤く、赤く燃える夕陽を彼女は眺めた。
 それは熱く瞳を刺す、命の燃える色。
 キトも彼女に倣うように光を放つ赤い炎を一瞥したが、それからはすぐに目を逸らすとその光に照らされるメグの横顔へと目を向けた。
 熱い光に照らされた彼女の頬にも瞳にも、こちらを刺すような色はない。
 そうしていると、自分を見ていることに気が付いたのかそういうわけでもないのかメグがキトを振り返り、その瞳にやはり夕焼けの色を宿して彼に笑いかけたのだった。
 彼女の足元には色濃い影、その上に立つのは彼にとっての光そのもの。
 その光を受けてキトの黄金が人知れず、それは彼自身ですら気付かずに微かに、そして密かに輝いた。
「もう、立ち向かってる。もうずっと立ち向かってたのよ、あたしたちはみんな……この世界に、生まれたときから──」



20161030

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