言の葉の化石


 回廊には、ほのかな火が灯っている。
 見上げれば、こちらへ倒れてくるのではないかと不安になるほどの大きさでそびえる高い塔の内側は、その中で人々の思いが渦巻くさまを表すかのように、一段一段幅を広く取った階段が螺旋を描いて、上へ上へと続いていた。
 キトは相変わらずの無表情で黙々と階段を上っていくばかりだが、彼の前で先ほどまで意気揚々と螺旋回廊を上っていたメグの額には、分かりやすく疲労の色が浮かんでいる。
 キトは段々と小言が多くなってきたメグの背中からふと視線を外すと、螺旋回廊の壁に直接彫られている、外は見えないがどこか小窓のような形をした台座の上に置かれた燭台に灯っている火をその鈍い金をした瞳に映した。
 此処は、〈語る塔〉。
 日の出と夜明けの王國〈ソリスオルトス〉各地に点在し、國が管理している、目安箱と郵便屋と新聞屋がごちゃ混ぜになったような機関である。
 正ギルドの隣に建設されていることが多く、キトも所属する正ギルドとの関わりといったら主に、國からの依頼を各地に点在するその塔すべてを統括する中央──王都〈アッキピテル〉のことである──の〈語る塔〉が受け取り、その中央の〈語る塔〉が、これもまた各地に点在する正ギルドの中から然るべき正ギルドへと依頼手続きをし、正ギルドの方はその依頼を受け、全うする──といった具合だった。
 ちなみに、その橋渡し役が正ギルド支部の隣によく在る〈語る塔〉の支部である。
 基本的に〈語る塔〉内部はどの塔も賑やかなものだ。
 黄昏についての情報を役人に伝えに来る旅人や、國からの支援を求めて手続きをしに来る村人、手紙を出す者、手紙を届ける者、新聞を書く者、それを配る者等々で常にごった返している。
 目安箱、郵便屋、新聞屋が一つの処で一緒にされている理由はキトにはよく分からないが、彼らの中にも共通することはある、と彼は思う。
 一つは、〈語る塔〉で働く者は皆誰もが常に書類、手紙、原稿といった大量の紙と戦っているということ。
 そしてもう一つは、彼らは皆、誰かの言葉を聴き、その言葉を誰かに届けている、ということだった。
 つまり、〈語る塔〉とは、そのまま言葉を語る塔≠ネのである。
 階段を上る二人の靴音ばかりが響く塔の中、壁の燭台を見つめているキトを怪訝に思ったメグが彼の数段先で振り返った。
「静かな〈語る塔〉って、何か不思議ね、キト」
「不思議?……不気味の間違いじゃないのか」
「ま──まぁ、そうとも言うかもしれないけど……」
 二人が今現在足を踏み入れているのは、最早機能しなくなった〈語る塔〉である。遠い日に滅びた街の郊外に建っていたこの塔の姿は、暮れていくばかりの街をどこか見守るかのようにも見えた。
 キトは浅く溜め息を吐いてメグに言う。
「大抵の〈語る塔〉は十階建てだ、今はちょうど五階の辺りだが……寝泊りのできる場所が在るのは、他と同じならおそらくこの辺りだろうな……ほんとうに上まで行くのか?」
「ええ? まだ半分なの? どんだけ上らせる気よ……。ううん、いや、とにかく上まで行くよ、キト。〈語る塔〉のいちばん上だなんて、早々立ち入れる場所じゃないからね!」
 〈語る塔〉の内部事情にはさして明るくもないキトだが、〈語る塔〉という機関が先王よりも先王、その先王よりずっと前の先王が大層な高い場所好きで世界各地にこうしたやたらに¢蛯ォな建造物をやたらに′嘯トたばっかりに、その次の王が巨大な建造物たち──主に高い塔である──の扱いにほとほと困り果てて、とりあえず國への要望や黄昏の──当時はまだ被害も少なかったらしいが──情報を國へ集めるための目安箱的な存在にしたというのが、そもそものはじまりだということは知っていた。
 つまり正しく言うならば、正ギルドの隣に〈語る塔〉が建っていることが多いのではなく、〈語る塔〉の隣に正ギルドを建てることが多い……というよりそれがほとんどなのだった。
 それから時代が流れるにつれて、先王たちは高い塔の中に國管理の郵便屋や新聞屋まで持ち込み、今やただの高い塔は言葉を〈語る塔〉となり、しかしキトに言わせればあれは最早〈語る塔〉というよりは騒ぐ塔≠ニいう名前の方がしっくりきそうな処になっている。
 ちなみに現ソリスオルトス王は、〈語る塔〉に安価な値段で寝泊まりができる旅人の宿を詰め込んだ。その恩恵をもう何度も受けてきたキトだったが、何を隠そう今回もその恩恵にあずかるつもりである。
 いくら滅びた街の機能しなくなった〈語る塔〉とはいえ、寝泊りできる場所くらいは在るだろう。そうでなくても、雨風をしのげるだけでも十分有り難いのだ。
 〈語る塔〉についてのあれこれを頭の片隅で思い出しながら、キトは未だ燭台を眺めたままメグに声をかけた。
「……昔はよく、王も各地の〈語る塔〉に顔を出したらしい」
「えっ……陛下が? じゃ、じゃあキトは〈九陽協会〉……正ギルドのガーディアンだし、ギルドの一員として陛下とお話したことがあったりするわけ?」
「あのな、昔って言っただろ……王は今、黄昏の進行の影響で、その対策を練るために王宮からあまり出てきていないらしい、聞いた話だが。
 それにお前、正ギルドに何人の人間が所属してると思ってるんだよ。本部も支部も全部集めたら街が一つなんて簡単に建ちそうな人数だろ。
 それに、俺は塔にはほとんど顔を出したことがない。支部に来た依頼を受けていればそれで事足りるしな」
「ねえキト、さっきから蝋燭なんて見てどうしたの?」
 こちらの話を聞いているのかいないのか、メグが心細く燃えている炎を見つめるキトに問いかけた。
 そんなメグにキトは軽い一瞥と呆れたような色が混じっている溜め息を寄越してやると、それから再び風が吹いたら消え入りそうな灯へと視線をやる。
「少し前に、魔術師が此処を通ったみたいだな」
「魔術師? 何で分かるの?」
「簡単だよ、これは炎じゃない。物を燃やしもできないし熱くもない、かりそめの炎……言い換えれば炎の形をした光の集合体だ」
 キトが台座に置かれた燭台を持ち上げ、揺らめく炎に手のひらで触れた。
 メグは一瞬ぎょっとした顔をしたが、炎からどかしたキトの手のひらに火傷がないことを見てとると安心したような表情を浮かべ、それから小首を傾げる。
「よく分かるね、魔術師の護衛でもしたことあるの?」
「一度だけな」
「へえ! あたし、魔術師って見たことないや。どんな感じ?」
「……膨大な量の呪文を覚える記憶力と根気、それを唱え切る集中力、魔術に遣う触媒を手に入れる金、或いは体力、運……然るべきところで魔術を活用させる対応力──辺りが特に必要な風に見えたな。
 魔術というものは呪文と触媒が組み合わさって初めて微力な術式が完成するらしい。主に借りものの力≠使わずに炎のような光を生み出すだとか、湿気た食いものを元に戻すだとか、本棚の本を名前順に並べるだとか……まぁ、そんな感じらしい……基本的には。
 ああ、魔術は術式を遣うすべての術の根源とも云われているな、錬金術や召喚術なんかの。今はもうほとんど別の学問として各々独立しているが、どれも術式の中に古代語を多く含むから学びたいなら古代語が分からないと話にならないだろう。
 魔術を根源とするものはすべて言葉から成るが、錬金術や召喚術の類は主に目で見る言葉から成り、反面魔術は主に声で聴く言葉から成る……ま、描くか言うかの違いだな。
 とにかくお前には無理だよ。諦めろ、メラグラーナ」
 キトが真顔ですらすらと言葉を並べている途中で苦虫を噛み潰したような顔になっていたメグは、そう捨て台詞を吐いて自分を追い抜き螺旋回廊を上りはじめたキトに向かって大袈裟な溜め息を吐いた。
「キトって昔からそういうところあるよね、けっこう理屈っぽいの。割と好きでしょ、こういうことになるとよく喋るし」
「俺は元々、お前みたいに感覚的、楽観的に物事を考えられないんだよ」
「あたし、古代語って苦手なんだよなあ……何かいっぱい種類があるし、地方によって違いとかもあるし……あっちの地方の古代語で好きって意味の言葉が、こっちの地方の古代語だと嫌いって意味の言葉だったりするしさ」
「地方によっていろいろ違いがあるのは今だって同じだろ。……さっき言ったのと似たようなものだよ、根源となる言葉は一種類だ。その一つの言葉から枝分かれして、いろんな地方でいろんな言葉が生まれた……それだけのことなんだよ。大元になる一種類の言語さえちゃんと理解できていれば、大抵の古代語の大まかな感触は掴める。
 ……好きも嫌いも、根本的には似たような感情だろ」
 メグは主にキトが発した最後の言葉について首を傾げたらしかった。
 その言葉の意味を説明しようとキトは口を開きかけたが、今しがた理屈っぽいと言われた手前もあり、理屈っぽい自分のあまりに淡泊すぎる至極つまらない言葉を声にするのはやめにすることにした。
 それに、頭で肯定した己の考えを同じように心も肯定しているとは限らない。
 キトは階段を上る。
 背後で、蝋燭の光が消えたのを感じた。
 なるほど少し前に魔術師がとは言ったが、どうやらそれは大分前の話だったらしい。術式の効果が切れたのだ。
 用いた呪文は魔術に対して詳しいわけでもないためよく分からないが、おそらく触媒は蝋燭か、〈語る塔〉の燭台自体に何か触媒となる仕掛けでもしてあるのだろうと思われた。或いは両方か。
 そういえば、蝋燭自体は全く溶け出していなかったような……
 〈ソリスオルトス〉に溢れる魔術含む多様な学問は、どの分野も日々進化していると言う。学問や文化が発展すれば、暮れてゆくこの世界でも多少は生き易くなるだろう。
 それらが発展し、借りものの力≠ウえもしのぐほどになれば、自分たちが世界に借りているこの力は徐々に衰退し、忘れられていく力となるのかもしれない。
 しかし、発展に発展を重ねた先に在るのは果たして希望ばかりだろうか。
 キトは思う。
 もしかすると、前時代の人類と同じ轍を踏もうとしているのではないか、おれたちは……
 キトは軽く頭を振り、息を吐く。
 もう随分上ったせいか、吸える空気が薄いような気がする。それとも外の見えないこの塔の息苦しい造りのせいか。
 ……守れるものだけを、守りたいものだけを、守れればそれでいい。
 キトが心の中だけでそう呟いていれば、いつの間にか隣に来ていたメグが微かに睫毛を伏せ、どこか切なげに、しかし声は明るいままで呟いた。
「何で言葉には死んでいくものがあるんだろうね、この間まではみんなが使っていたものだったはずなのに」
 その声にはどんな想いがつまっていただろう。
 心臓の奥で静かに佇んでいる水面が孔雀石のような波紋を一つ描くことをキトは感じた。
 ──魔術を根源とするものはすべて、言葉から成る。
 だがもしかすると逆かもしれない、とらしくもなくキトは思った。
 魔術から成るものが、言葉なのかもしれない。
 言葉一つで、もう揺らさないと思った、彼女を守ることだけをしよう、それが自分を生かすことにもなるからと思った、そのために何も感じずにいようと思った、そのはずの己の心が彼女の言葉一つでこうも簡単に揺れ動くのだ。
 言葉一つで人の心を動かせるのなら、膨大な言葉を組み合わせた魔術師の言葉が光を灯し、錬金術師の言葉が物を創り、召喚師の言葉が何かを喚ぶのも至極当然のことのように思える。
 塔の最上階に位置する扉に手をかけて、重たいそれに力を込めて後ろへ引いた。
 瞬間、一陣の強い風が二人の髪を大きく揺らして去っていく。
 背後のメグがその勢いに可笑しそうな声を上げて笑った。
 過ぎ去ったのは微かに銀と翠を纏う風。
 そしてその風が、扉の先に浮かんでいた白い雲たちを皆、遠くの空まで吹き飛ばしたようだった。
 二人は息苦しかった塔内部の風景から、急に残酷なほど自由になったそれに目を奪われたまま、扉から一歩だけ足を踏み出した状態で立ち止まる。
 そう、此処は残酷なほどに自由な世界だ。
 雲の先に在る空の色は青く、青く、なんて青く、雲の先から見える大地は広く、広く、なんて広く──
「──言葉は生き物と同じだ。時が過ぎて、環境が変わって、人も変われば……言葉だって、進化するんだろう。俺たちがずっとそうしてきたように、そうだったように、これからもきっと、そうで在るように」
「……キト……ねえ──綺麗だね、世界」
「ああ、怖いな、世界」
「──うん。そうとも、言うかもね」



20161027

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