逝水のゆくえ


 水を汲む。
 手押しポンプの取っ手を上げ下げして手桶に水を汲みながら、イルミナス・アッキピテルはふと、この朽ちゆくばかりの都市の水が朽ちゆくばかりでないことに気が付いた。
 絶滅都市〈ゼーブル〉、その一角に在るウルグ・グリッツェンの住み処には他と同様に前時代の遺物が多く遺されている。
 ウルグ曰く植物を生やすのを主な目的とした装置>氛汨蛯ォな電球のような形をしたそれ──から出ている太い管が、おそらく砂岩でできているのだろう、灰色に近い白の床を突き破ってその下の地面に刺さっており、その姿は見ている者に異様な威圧を与えていた。
 そんな装置の在る一室には植物の研究に必要だったのだろうか、地下に在るらしい井戸に繋がった手押しポンプが一台備え付けられている。
 そこから出てくる水は、いつも冷たかった。
 さて、滅びかけの都に流れる水が生きていることを知ったイルミナス・アッキピテルである。
 彼女はそのまばゆいほどに冷たい水を手に受け顔に受けながら、先ほどまで間抜けに微睡んでいた自分の頭を叩き起こし、王族とは思えないほどの行儀で──己の服の裾で顔を拭ったのである──大量の書物が立ち並んでおりウルグが主に使っている、つまり彼の自室へと転がるように入っていった。
 かわたれの時代≠ノ描かれたと思われる、あまり状態が良いとは言えないが根気よく解読すれば、かつての大地の地形が何とか読み取れないこともない古い地図と、前時代この辺りで行われた治水関連の事業について〈ソリスオルトス〉が調べられるだけ調べ上げ纏めた資料を見比べながら、イルミナスは齢十八の頭を主に想像力の面において回転させていた。
(この山は今も昔とほとんど変わらずに在る……それとこっちの地方に流れている水脈……)
 絶滅都市〈ゼーブル〉には、豊かとは言えないが涸れているとは到底言い難く、それなりの水が通っている。
 それは、おそらく前時代に人々が此処で植物の研究をする際、〈ゼーブル〉の北に今尚位置する山からの冷たい水を上水として、そして南に位置する河川からの水を下水としてきっちりと整備し、上下水の硬度や水質の異なる二つが決して入り混じらないように、しかしどちらも正しく機能するように高度な技術をもって、この都市の地下に張り巡らせたからだった。
 その恩恵は今も変わらずに続いている──受け取れる水の量は少しずつ減っているとしても。
 詳しい機構の造りまでは自分には解らないが、何にしても凄まじい技術である、とイルミナスはそこまで良くはないと自覚している頭で思った。
(そう……此処に水が流れているということは、北の山も、南の河も生きている……ということ。人が暮らし、自然も生きてゆける方法は必ず在る。人だって、自然の一部なのだから……)
 甘い考え方なのは分かっていた。
 ウルグが帰ってきてこの話の旨を聞いたならば、彼は己のもつ知識と想像力で幾つもの仮説を濁流のような勢いで立ち上げて、無数の反論をこちらの鼻の先へ突き付けてくるだろう、大人げもなく。
 イルミナスはありありと想像できるウルグのその様子に少しばかり可笑しくなっては笑う。
 見ていれば分かるが、彼は性悪説を推しているのだ。その理由を聞いたことはない。イルミナスの場合は性悪説と性善説、そのどちらかを強く推しているというわけでもなかったが、人の中に在るだろう善性が事態を好転させる可能性を信じていた。
 信じるのがイルミナスならば、疑うのはウルグの役目だった。両者とも、そんなことを意識したことはなかったが。
 ふと、玄関の扉が開く音がしてイルミナスは意識をそちらの方へと向けた。
 ウルグが帰ってきたのだろうかと一瞬思った彼女だったが、彼にしては大きい歩幅と、床を叩く靴音に違和感を覚えると剣の鞘に片手を当て、部屋に備えられている、夜が深まったときの空に似た色をしたソファの後ろへ姿を隠した。
(人の魔獣というわけではなさそう……それに足取りに迷いがない。おそらくはこの家に訪れたことがある人……ウルグと関わり合いのある、誰か……?)
 そう思いつつも相手の姿を認めるまでは姿を隠すことにしたイルミナスは、自身がいる部屋の扉を開いて入ってきた相手のその姿を見て、多少なりとも驚かずにはいられなかった。
 思わず彼女はソファの影から身を乗り出して声を上げる。
「ク──クエルクスさま?」
「む?……おや、おまえさん……そんな処で何をやっておるんじゃ?……かくれんぼか?」
 そう笑いながら片手を上げたのは宮廷錬金術師であり、そしてウルグの師でもあり養父でもある、クエルクス=アルキュミア・グリッツェンだった。陽気な梟のように笑うのは相変わらずのようである。
 クエルクスは呆然としているイルミナスにはお構いなしに部屋の中に一つだけ存在する窓辺へと歩いていくと、その周辺に散らばっていた分厚い本たちを幾つか低い柱の如くに積み上げ、本の柱と柱をくっつけてその書物でできた椅子の上に腰を下ろした。
 些か書物への冒涜にも思えるその行為は、何を隠そうクエルクスの弟子であり養子であるウルグ自身もよくやることであり、一度イルミナスはその真意を問いただしたことがあったが、何と彼が椅子に用いるこの本たちの中身はすべて白紙のものらしい。
 主に錬金術の新たな術式を発明した場合や、黄昏についての発見を書き込んでいくための本で、その辺に散らばっているものの半分は未だ書き込まれていない白紙の書物だとウルグは言ったが、イルミナスは今まさにその理屈に一切何の道理も通っていないことに気が付き、クエルクスの方を見て知らず知らずのうちに溜め息を吐いた。
 それもそうだ、白紙の本だからといって椅子にしていいわけではないし、散ばっている本のもう半分は白紙ではなく、一頁一頁に知識の詰まった本である。
 つまり彼も彼の師も、おそらくただの横着なのだ。
 変なところで横着せずに、椅子を買えばいいのにとイルミナスは思わずにはいられない。
 窓の外を眺めるクエルクスにつられるようにイルミナスも窓の外を見た。
 そこに広がるのはやはり倒壊した研究施設や割れた石の道、何かも分からない液体や金属らしきものの塊、黒と白、白と黒、さながら獅子に喰い荒らされた縞馬の亡骸である。
 イルミナスは窓の外を眺めながら、先ほど肌に受けた水の冷たさを想い、呟いた。
「……水が流れているのに植物が育たないのはどうして、なのでしょう」
「そうさな……おまえさん、植物が存在していることによってその存在が証明されるものは何か分かるかね?」
「植物が存在することによって……?」
 イルミナスは植物の力によってその生を永らえていた遺跡のことを思い浮かべ、果たしてそこには何が在っただろうと微かに眉根を寄せた。
 それからしばらくすると、彼女はどこか自信なさげに口を開く。
 クエルクスは面白そうに黒い瞳を細め、記憶を辿り、また辿る少女のことを眺めていた。
「水……それから、空気……?」
「悪くない。それから植物は根付く大地を必要とし、更には自身の命をもって熱の存在を証明する。まあ、植物が在るというだけでその土地は四大元素の存在が証明されるというわけだ」
「ええと、熱はともかくとして……この都市には水も空気も大地も存在します……よね? では何故……」
「水、空気、大地、か……
 この都市周辺は地下に通る水が前時代機構によって生きていても、上下水の機構と関与していない大地はこれ以上ないほどに疲弊している。水が通っているのに涸れているというのも些かおかしなことだが、涸れているんじゃよ、この都市は。大地自体には水も養分も残されていない。
 機構によって飲用水はある程度まかなえているが、それがなかったらこの一帯は人は住めず、地中に水も命を育む養分もない、ほんものの亡骸と化すだろうな。
 ……別室に在る装置を知っているだろう?」
 イルミナスは頷いた。クエルクスの話を何とか腑に落とそうと健闘しているのだろう、彼女の表情は厳しい。
「あれは当時涸れつつあったこの一帯を蘇らせ、後に意のままに植物を育てることのできる豊かな土地にするための研究装置だったらしい。その研究はこの一帯の治水と同時期に始めたのだろう、おそらくは。
 あの装置に微かに付着していた粉末を調べに出したんじゃが、いわゆる……栄養剤だった。地中に含まれる養分を異常に活性化させるため今は使用を禁じられている、とびきり強力のな。
 それの使用により大地が疲弊したと考えることもできなくはないが、だが……我々が思っているより大地の内側というものは強かだったはずだ。
 この装置が使われてから何百年だ? 長らく使われた痕跡はない。それに、この都市の研究施設はどれもほとんど手を入れられずに捨て置かれたものばかりだ。
 ああそういえば、気付いていたか?……この都市の建物はどれも風化によって倒壊している。
 人間のための治水は上手くいったが、植物のための研究は──ひいては自分たちのためともいえるが──始めたはいいが大した成果も上げられずに失敗し、都市ごと捨て置かれたのだろう。装置も使用による劣化ではなく経年によるそれが大きいと見る」
「風化?──わたし、てっきりこの都は人々の争いによって朽ちたものだと……」
「この都市より先に在る天体観測所はそちらの気が強いが、此処は違うな。ほとんどはただの劣化だ。
 これはおれの仮説だが、この都市自体は前時代のものではなく、現代の黎明期……まぁ、何百年も前だが……に建てられた都なのではないだろうかね。
 ……おれは思うんだがな、姫さま。──何かにすべてを吸われているようなんだよ、この大地は……」
 吸われているよう。
 クエルクスの闇よりも黒いその瞳に浮かぶ光が、痛ましいようでいてどこか空虚を孕んでいるように見えた。
 イルミナスは口の中だけでクエルクスの言葉を繰り返す。
 何かにすべてを吸われているようなんだよ、この大地は。
 そうしてみると一瞬彼女の心の中に風が立ち上り、それは銀と緑の刃となって鋭く閃いた。
 ──何かに、すべてを、吸われている?
 この大地は?
 この大地の力を吸い取るものが在る?
 もし、在るとするならばそれは?
 彼女は瞬きの間だけ自分の心に浮かんだ、何とも罰当たりな考えを軽く頭を振ることによって拭い去った。
 クエルクスは一時外へと出してしまった己の弱気を恥じるかのように自嘲交じりの笑いを零すと、しかしそれからその笑いが嘘だったかのように快活な笑い声を上げて、そういえば久しぶりに会ったなあとイルミナスの頭を荒っぽく撫でる。
 イルミナスが半ば困惑した表情でクエルクスを見やれば、彼は本の椅子に座ったまま辺りをぐるりと見回して、口元には朗らかな笑みを湛えたままイルミナスに問いかけた。
「ウルグはおらんようだな」
「あ──はい。近場まで出てくると書き付けが在りました。そろそろ戻ってくるとは思うのですが……」
「そうか。黄昏の研究ばかりして錬金術の方を疎かにしていそうだから、少し活でも入れてやろうと思ったんだがな」
「最近、あまり眠っていないようで……」
 イルミナスがまるで自分に非があるかのように視線を彷徨わせれば、クエルクスは可笑しそうに笑い、それから真珠のように煌めきながらも真白に輝く年齢にしては量の多すぎる髪を蓄えた頭をぼりぼりと掻いた。
 それからわざと明後日の方向を見るような仕草で呆れたように呟く。
「あれはあれで、たいせつなものを守ろうと必死なんじゃよ」
「たいせつ……。わたし、ウルグのことを何も分かっていないのかもしれません、ね……」
 イルミナスは腹の前で両手を組むと、少しばかり寂しげとも言える表情でそう言った。彼女の声は夜明けの風のように静かである。
「もしかしたら、わたしがずっと前にウルグに……半ば無理やりに交わさせた約束が、黄昏の真実を求める旅に出よう≠ニ言ったわたしの言葉が彼を縛り付けてしまっているのでは。ウルグはウルグで在るべきと、そう言ったのはわたしのはずなのに」
「いやどうかな姫さま、ウルグはウルグだぞ。見てれば分かるじゃろう」
「いえ、それは分かりますが……でもそうではなくて」
「いやいや、そうだ。そうなんだよ。事はもっと単純でな。分からないか?……ま、年を食えばおまえさんもその内に分かるようになる」
 ほとんど笑いを堪えるようにしてイルミナスとの応酬を続けていたクエルクスだったが、イルミナスが首を捻り、組んでいた手を解きその片手で顎を支えるようにして考え込みはじめると、彼はいよいよくつくつと喉の奥で音を立てて笑い出した。
 それからその大きな手のひらでイルミナスの頭をとんとんと叩くと、さながら生真面目が過ぎる我が子を、困ったような目で見る親のような表情で彼女に声をかける。
「理屈ではないんだよ。その者にとって真にたいせつなことは、理屈で考えられることばかりとは限らん。ともすると、言葉にすらならないやもしれない。
 ……おまえさんはたいせつなものを守るときに剣を抜くのだろう、それは何故だ? その思いに道理を通せるか?」
「……それは……」
「陛下にそう教わってきたからか? おまえさんは陛下の御言葉をすべて鵜呑みにしているのか? 違うだろう? 確かに陛下はおまえさんに道標を御与えになったかもしれん。だが、道標は所詮道標。道ではない」
 イルミナスは微かに頷き、そして同じように微かに首を振った。
 折れた剣が収められている鞘を左手で触れながら、イルミナスは顔を真っ直ぐクエルクスへと向け、闇をも呑み込んでしまいそうな彼のその黒い瞳を見つめて言う。
「守りたいから。……それだけです」
「……だろう。おれたちはつい小難しく考えがちだが、おれたちが何か行動を起こすときの理由など大抵は思うより簡単で、思うより単純で、思ったように言葉にはし難いものだ。他の生き物が等しくそうで在るように。
 ……まあ、だからといって考えることを放棄していいわけでもないが……これは少し意味合いが違う話でな」
「……心と頭は違う。そういう風に受け取ってよろしいでしょうか?」
「む? 何だ、いいことを言うな、姫さま。なるほどそれでよろしいぞ」
 何かを語っているときのクエルクスは、何となくウルグに似ているような気がする。
 いいや、ウルグの方がクエルクスに似ているのだろう。
 口調、声の調子、言葉の切り方、目の細め方、それから面白いものを見付けたときには瞳をどこか悪戯に閃かせ、意地の悪そうに片方の口角を少しばかり上げる仕草。
 クエルクスがするそのどれもがウルグのことを彷彿とさせ、イルミナスはそれが何だか嬉しいような可笑しいような、何故か照れるような気分になって微かに笑った。
 それから浮かんだ笑みを誤魔化すように咳払いをすると、イルミナスは息を吐き、今しがた自分が解釈した心と頭は違うという言葉を、再度咀嚼するように口の中ばかりで呟く。
 心の視野を広げるためにゆっくりと長く息を吸った彼女は、己の父が言っていた言葉が心の中で力強い風を起こしたのを感じ、はたとして誰に問うわけでもないが問いかけた。
「心と頭は違う……だからなのでしょうか」
「ん?」
「いえ、よくお父さまが──父上が、守るべきものが何たるかを確かめるために自らの足で歩き、目で見、耳で聴き、肌で感じては心で知れ=c…と言っていたものですから。
 心と頭は違う……自らの体で、心で確かめなければ分からないこともある……もしかすると父上の言葉はそういう意味だったのではないか、と今更ながら思い至りまして」
 言えば、クエルクスは半ばむせるように吹き出して笑った。
 彼は笑い上戸なのかもしれないな、と半ば気の抜けた思いで考えるイルミナスである。
 クエルクスは顔の前で手のひらを払い払い、ああ可笑しいと言いながら目元の笑い皺を更に深くしてはイルミナスの方を見やった。
「それは若い頃のやつの──おっと、ああいや陛下の口癖じゃな。何だ、娘にも言っておったのか、いやいや相変わらずだなあ……」
「ふふ、確かクエルクスさまは父上の古いご友人でしたね。父から聞き及んでおります」
「おや、おれのことはクェルでいいと言わなかったか?──自分自身で歩かなければ、ほんとうにたいせつなことを見落としたまま進んでしまうかもしれないから≠ニ若い頃陛下はよく仰っていたよ。若い頃と言わず今もと言えばそうなのだがな」
 クエルクスは穏やかに微笑んでイルミナスの髪を優しく撫でた。
 撫でられながらイルミナスは、ああこの人の手はやはり命のにおいがするのだと想う。
 暖かな樹の香り、輝く葉の香り、強い根の香り、そしてそれを受け止める大地の泥の香り……そのすべてが植物に力を借りている彼の手のひら、ひいては血、いいや命そのものに植物に水が行き渡るかの如く巡り巡っては、彼自身をこの地にさながら大樹のように立たせているのだった。
 緑の香りはどこか懐かしく、どこか寂しく、どこか哀しく、どこか優しく、どこか厳しい。
 彼が植物に力を借りているからか、いいや植物が力を貸す彼だからか、分からないが彼にも確かにそんなところがあり、だからこそイルミナスは彼の節くれだった大きな手のひらに頭を撫でられると、言いようもなく涙が零れ落ちそうになるのだった。それはこんにちも例外ではなく。
 どんな道を歩いてきたのだろう、彼は。
 どんな想いを抱えてきたのだろう、彼は。歩いてゆくのだろう、彼は。抱えてゆくのだろう、彼は。
 そんなイルミナスの想いを悟ってか、クエルクスは今日何回目かの陽気な梟の笑い声を上げると、窓の外の涸れてしまったという大地を眺めながら静かに、そして穏やかに彼女へ声をかけたのだった。
「……しばらく見ない内にいい顔になったな。覚悟を決めたか」
「──はい」
「そうか……。うん、そうだな。ウルグが帰ってくるまでの間、老いぼれの昔話でも聞きなさるかね、ルーミ」
「ほんとうですか? ぜひお聞かせ願います、クェル!」
「おやおや、ははは、そんなに面白くもないのだがね」



20161102

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