いざないの光


 美しい、だろうか。
 錆びた金の瞳は、そのあまりに大きすぎる巨樹が、まるで呼吸をするかのように自らの葉を揺らしているところを、見るともなくぼんやりと見つめていた。
 大樹。
 黄昏ていく世界を慈しみ、そして希望を歌う麒麟の濡れた睫毛──そう謳われている、世界樹〈カメーロパルダリス〉。
 それが、ほとんど光の灯らない青年の瞳の先にそびえている。
 青年──キト・アウルムは、その大樹よりも遥かに大樹な世界樹の根元で何やら歓声を上げている柘榴色の方へと視線を持っていくと、彼女のその赤く燃ゆる銅の瞳が世界樹の影の下でも生き生きと輝いていることを認め、それに安堵したのかほんの少しばかり表情を緩めた。
「うわあ、すごい。あたし、世界樹をこんなに近くで見るのは初めてよ。ねーえキト! あんたもこっち来て、下から眺めてごらんなさいよ!」
 両の手を樹に向かって伸ばしながら、メグが大声でキトの名を呼んでいる。
 キトは浅く溜め息を吐くと、それでもメグの元へ仕方なしと歩いていった。
 メグ──メラグラーナ・ジェンツィは、キトが自らの隣にやってきたのを横目で確認すると、両手を広げ、ここぞとばかりに世界樹について知っている知識を披露しはじめた。
 ──世界樹〈カメーロパルダリス〉は大きい、あまりにも大きい、たそがれの國〈ソリスオルトス〉の中心──実際には、おそらく中心≠ニ云われている場所にそびえている。
 〈ソリスオルトス〉は陸続きの広大なる大地、更にその果てなくも思える大地をぐるりと囲む海を越えた先にも、更に広い新天地が在ると云われている國なため、その全貌は王ですらも未だ把握できてはいない。
 そして、そんな巨大な大地に悠々とそびえ立つ、迫りくる黄昏た滅びすらも感じさせない姿から、〈カメーロパルダリス〉は希望の象徴として世界樹と人々から謳われる大樹である。
 全長は、一般的な二階建ての一軒家を五つ縦に重ねたとて、それより樹の全長の方が多く余るほどで、その姿はさながら天を衝くようである。
 直径は定かではないが、樹の周りを徒歩で一周しようと思えば軽く五日はかかる程度の太さがこの幹にはあった。
 世界樹の北と南には、世界樹に祈りを捧げるための祭壇が設置されており、黄昏が迫りくるこの時代では滅びた前時代の神≠謔閧焉A今を生きる世界樹≠信仰する教会も多いとも言われている。
 世界樹の北と南──といっても祭壇よりは離れた位置だ──にも遊牧民の集落や小さな村は存在しているが、西と東にはそれらが更に多い。
 集落、村、小中の町々が世界樹の下には点在しているのだ。
 それはそもそも、世界樹の下には魔獣がやってこない≠ニいう嘘か真かも分からない謂われが人々に伝わっているためであり、世界樹の下というものは影になっており常に薄暗く……
「……メラグラーナ」
 何かの文献で読んだのだろう、その内容をどこか自慢げに諳んじていたメグだったが、突然キトから声がかけられたことによって、彼女の暗唱朗読は幕を閉じることとなった。
 彼女は振り返って、キトの黄金色の瞳へと視線を移す。
 それからキトが少しばかり困惑しているような表情を浮かべているのをメグは素早く拾い上げると、彼に言葉の続きを促した。
「何か……歌が、歌のようなものが聴こえないか」
 問われて、メグは目を閉じ耳を澄ませてみた。しばらくしてから瞼を押し上げると、かぶりを振ってキトに言う。
「んー……聴こえ、ないけど。何だろう、教徒たちが歌ってる聖歌でも聴こえたんじゃない?」
「まさか……祭壇まで此処からどれだけ距離があると思ってるんだ」
「人より耳が良いのかもよ、あんた」
 むしろ耳すらもおかしくなったのかもしれない、とキトは心の中だけで呟きながら、先ほどメグがやっていたように世界樹を見上げる姿勢をとってみた。
 そして今しがた、どうやら自分にだけ聴こえたようである歌のようなものの一節を口の中だけで呟いてみては、その意味不明な言葉の羅列に困惑する。
(かわたれに沈んだ誰そ彼よ、彼は誰か、その嘆き、その哀しみ、最早名の知れぬ誰そ彼よ……かわたれに沈み、いつかは人へ還る誰そ彼よ……夜に歌う男は歌う……)
 軽く首を振って、息を吐く。自分は、歌や詩といったものに明るくない。
 心打たれる≠ニいうことが極度に少なく──いいや、最早なくなったと言っても過言ではないほどに、自分の心がつまらなくなってしまったためなのだろうか、そういった言葉や音の美しさに少しも心が惹かれないのは。
 世界樹の大きな葉がゆっくりと風に包まれて揺れている。
 こういった些細な音にさえ、美しさを見出す者は見出すのだろう。こういった何でもないことを何でもないこととせず、風の調べや木々の囁きに耳を傾けては、そこに美しさを見出す者も、この世界にはいるのだろう。
 それでも、キト・アウルムがこの樹を見上げて真っ先に抱いた気持ちといえば、ただの一つばかりだった。
(あまりにも……)
 世界樹〈カメーロパルダリス〉はあまりにも、そう、あまりにも大きすぎるのだった。
 だからなのか、遠くから眺めていた頃は感じなかった違和感が、今、目の前でこの樹を見上げたときには薄気味悪く彼の胸の奥で広がったのだった。
 まがい物の光を見つめたときのように、瞳の奥が鈍く痛む。
 役立たずの光。
 朽ちた道に佇む街灯。
 その光に集まるものは。
 蛾。
 無数の、蛾。
 おれたちは、蛾か。
 おれたちは、まがい物の光に群がる蛾か。
 ふと、キトは自分の考えの異質さに目を見開いて、世界樹から一歩後ずさった。
 それでも思考は鳴り止まず、あの日骨のようになった心が冷ややかに彼の鼓動を握り締める。
(異質と、言えば……)
 異質と言えば、この樹も美しいものへの感動や、懐かしいものへの感傷をほとんど忘れた自分には異質な存在に映る。
 大きすぎるその身体、この涸れゆく大地の上でも全く衰えを見せないその生命力、気が違えたように一日中祈ってばかりいる教徒たち、樹の下には、魔獣がやってこない、という謂われ……
(美しい、だろうか)
 キトは再度世界樹を見上げてみる。
 おかしいのはきっと、こちらの方なのだ。それは分かっている。それでも彼は、思わずにはいられないのだった。
 この樹は、さながらこの大地からぽっかり浮き出てしまっているようだ──と。
 風が吹き、樹の葉が揺れる。
 その瞬間、彼はこの大地の上で、おそらくは今まで誰も気が付かなかったことにたった一人だけで気が付いてしまったのだった。
(……香らない)
 風が吹いた、葉が揺れた。
 そうだというのに、香らないのだった。
 それは、葉の香り、樹の香り、緑の香り、命のにおい。
 或る日の工房都市に吹いていた風が伝えてくれた、あのむせ返ってしまいそうな、それほどに力強く、心ごと醒めるような命のにおいが、この大きすぎる樹からは香ってこないのだ。
 今、此処に漂うのは砂塵を巻き上げる風のにおいと、ぬるい温度を保った影のにおいばかりである。
 メグ、と開きかけた口を叱咤するように一文字に結ぶ。
 これを彼女に伝えたところでどうなるというのだろう。どうすることができるというのだろう。
 耳だけではなく鼻までおかしくなったと思われては、流石のキトにも堪えるものがあった。実際、そうなのかもしれない。
 キトのいつも固い顔が更に固くなっているのを、視線を彼の方に持ってきていたメグが見てとると、彼女は理由も分からないまま元気付けようとしたらしい、非常に彼女らしくぺしぺしと片手で軽くキトの頬を叩くと、からりと楽しげに笑った。
 この笑顔を見ると安堵する自分がいることは、自分の中だけでは否定するつもりのないキトである。
 彼は息を吐き、おそらくはメグにしか伝わらないほどの微かさで、傷痕のせいで鳴りを潜めてしまっているが、それでも形の良い口元に笑みを浮かべた。
「うーん、どうする? あたしたちも教徒の真似っこして、世界樹にお祈りでもしてみよっか?」
「……」
「キト?」
 キトは黙ったまま、仕事柄腕まで包帯の巻かれているその手のひらでメグの細い手首を掴むと、世界樹に踵を返し、しばらくそのまま一言も発さずに歩を進めた。
 堪らなくなったメグが歩を進め続けるキトに行き先を問うと、彼は少し悲しげにメグの目に映るだろう瞳で、
「……世界樹への祈りは、いい。元々柄じゃない……そういう、気分でもない。悪い……」
「何よぉ、別にいいのに。あたしだってはなから祈る気なんてなかったよ」
「そう、か……じゃあ、このまま、ギルド連中の野営地に行こうと思ってるんだが、いいか。一応、お前の護衛は仕事として受けてるから、寝床くらいは貸してくれるだろ。宿をとるより安く上がる」
 そう言いながら、キトは真鍮の腕輪をはめている右の手首を軽く上げた。
 幅の広めな真鍮の腕輪は、正ギルドのガーディアンが仕事中≠ナあるということを周囲に伝えるために身につける装飾具である。
 キトは、喰い繋いでいくために、村が魔獣に襲われた後真っ先に〈九陽協会〉──正ギルドと呼ばれている、國が正式に支援している対黄昏対策協会である──の試験を受け、正ギルドのガーディアンとなったのだった。
 試験がないことの多い非正式ギルドより、報酬の多い正ギルドである。國から仕事を依頼されることも少なくはないため、危険も非正式ギルドより多いと言えるところもあるが、自分が身体を張ることによって自分とメグが生きていくことができるのだったら安いものだと、当時の彼は考えていた。
 が、メグもメグで同じようなことを思っていたのだろう。
 彼女も冒険家としてさっさと身を立ててしまったために、黄昏を止めたいわけでもないキトが、今も正ギルドに身を置く必要性は特に言ってないに等しいのだが、これ以外にこなせそうな仕事がないのもまた事実であるため、おそらくは死ぬまで身を置き続ける仕事場になるのだろう……と薄々彼は感付いている。
 メグはキトの腕輪を一瞥すると頷いて、ならば急ごうとキトを追い抜かす速さで歩き出した。
「寝床貸すついでにお酒も出してくんないかなぁ、あたし、あっつい蜂蜜酒が飲みたいや」
「……お前は酔うとめんどくさい」
「いいじゃない、あんたもたまには付き合いなさいよ」


*



 ギルドの野営地に着くと、キトはギルドの仲間が大声で笑いながら、
「また虚ろいが世界樹の近くで出た」
 だの、
「虚ろいばばあはモウロクしてるから、人には見えない魔獣が見える」
 だの、
「魔獣がいる! 魔獣がいる!」
 だのと酒に酔ったせいで、ほとんど下品と言える態度で口々に噂話を飛ばし合っては馬鹿騒ぎをしているのを尻目に、借りた寝床の一つに自分も飲みたいと騒ぐメグを押し込むと、自分はその隣の寝床へと転がり込み、わずか数回の呼吸で深い眠りへと誘われていった。
 その日の夜、彼が発した不可解な寝言を聞いたものは果たして彼自身以外、この大地の上に在ったのだろうか。

 ──おれたちは、まがい物の光に群がる蛾……


20160908

- ナノ -