或る梟のこころ


「あんたみたいなお嬢ちゃんも剣を振り回すのか。……嫌な時代だよ、まったく」
 整備を終えた剣を水平にし、その調子を確かめながら、鍛冶屋の主人は独り言のように呟いた。
 イルミナス・アッキピテルは、己の剣を見つめる主人の目にどこか悲しみの色が浮かんでいるのを、その翠玉の睫毛の下で光さざめく銀の瞳で拾い上げると、だから自分は黄昏を止めたい、そのために戦うのだという己の心を、強い意志をもって彼に伝えた。
 鍛冶屋の主人は冗談に受け取ったのだろうか、その顔にふっと小さく笑みを浮かべると、それから突然真面目な顔になって静かに首を横に振ってみせた。
「やめときな。そうやって飛び出して往って、未だ帰ってこないやつを俺は何人も知ってる。……身の程をわきまえるってことも、大事なことなんだよ」
 ──知力を頬袋に詰め込んだ栗鼠の前足、工房都市〈スクイラル〉。
 それが、イルミナスが今現在滞在している都市の名前である。工房都市と呼ばれているだけあって、この〈スクイラル〉は右を向いても左を向いても工房、工房、工房──工房ばかりの都市だった。
 此処に居を構えている者には変わり者が多く、それは主に研究者、探求者、発明家、錬金術師などといった顔ぶれである。だが、彼らが歴史を研究することにより使い方が明らかにされた前時代の武器や防具、或いは突然思い付いて新たに創り上げたそれらをいち早く手にできるという利点に惹かれて、此処に店を構える鍛冶屋も〈スクイラル〉には多い。
 いつも何処かの煙突から黒煙が上がっており、がちゃがちゃとした埃っぽいがらくたのような雰囲気を纏ったこの都市が、イルミナスの目には原石が見せる楽しげな光として映った。
 発展の先にこそ希望があるのだ≠ニ彼らの中の誰かが言う。
 道を歩きながらそれを聞いた旅人は、この都市を出るときに振り返り笑い、また旅立って往くのだ。
 世界を変えるのは、いつだって大ばか者だ=c…そう呟いて。
 手入れの終わった剣を鞘に収めた鍛冶屋の主人を見つめて、彼の先の言葉への返事をしようとイルミナスは両手に力を込めて口を開いた。
「わたしは──」
「旦那、その娘を止めようったって無駄だ、無駄。そいつは危険だからといって黙って何もせずにいられるほど、大人じゃあないからの」
 背後から唐突に吹いてきた声に、イルミナスは驚きで肩を震わせる。
 振り返りながらイルミナスは、まるで夜のような──ウルグとは違う、赤紫と青の狭間の、穏やかであたたかく、それでいてそのどこかに寂しさと冷たさを宿しているような夜の声をもった人だ──と心の深いところで思った。
 声のした方を向いたイルミナスの瞳に映ったのは、さながら黒檀のように黒い肌とそれに対照的な、一つに編上げられている長い、まるで真珠を思わせる真白に輝く髪の毛。男性である。
 見たところ年齢はとうに五十を過ぎてはいるだろうが、笑った梟のように細められている瞼から覗く黒の瞳がぎらぎらと強く輝いていたため、イルミナスには実際のところ、何一つ確かなことは分からなかった。
 身長はイルミナスより高く、おそらくはウルグと同じくらいであると思われたが、それにしては高圧的に見下ろすような感じがこの知命にはない。
 見上げると、物語に出てくる魔術師が被る、典型的な三角屋根のようにも見える黒い帽子が目に映る。それと同じ色をしたローブを目の前の彼は羽織っており、その大きく黒い手には、大樹を形はそのまま彼の身長と同じくらいまで縮めたかのような杖が握られているのが認められた。
 イルミナスは、彼のことを何となく懐かしいような気持ちで眺め、同じように彼を認めた鍛冶屋の主人は喜色を隠さずに彼に声をかけた。
「クェルさんじゃねえですか! この前の手甲の調子、性能も売り上げも順調順調、うなぎ登りってやつですよ! いやぁ、また面白いものを創りましたねえ、身につけただけで腕っぷしが強くなる手甲なんて!
 ……このお嬢ちゃん、あんたのお知り合いですかい? ならしょうがねえや、クェルさんの連れならなぁ、そういうこともあるんだろ。ほら嬢ちゃん、あんたの剣、手入れ終わったぜ。こいつはまだまだだいじょうぶだ、定期的に持ってきて、無理な扱いさえしないでくれればな。
 ……ところでクェルさん、今日も何か創ったものを?」
 剣をイルミナスに手渡しながら、鍛冶屋の主人は好奇心でいっぱいというような表情をその顔に浮かべた。
 イルミナスはそんな主人の様子にこの〈スクイラル〉の片鱗を見たような気持ちを抱きながら愛剣を受け取り、そしてクェルと呼ばれた男の顔を再び仰ぎ見る。
 男は陽気な梟の笑い声を上げると、少しばかり申し訳なさそうに首を横に振った。
「いやいや、今日はたまたま〈スクイラル〉に来たから、ついでに旦那の処に寄ってみただけじゃよ」
「そうか、それでも十分嬉しいよ。クェルさんが元気そうでよかった」
「おれも旦那が元気そうで嬉しい。だが……今日はもう行くとしよう。少々、面白いものを拾ったのでな」
 そう言うとクェルはイルミナスに目配せをして踵を返し、鍛冶屋の扉を開けて外へと出ていった。イルミナスも主人に一礼すると、慌てて外へ躍り出る。
 そうしてクェルの姿を瞳で探すと、彼は〈スクイラル〉で一等大きいと言われる樹の幹に杖を立てかけ、自らはその前に腕を組んで佇んでいた。
(……ウルグに、似ている)
 彼のその姿を見て、ウルグ・グリッツェンのことを思い出した自分がどうにも可笑しく、イルミナスは心の中だけで笑った。
 クェルと呼ばれた彼と、錬金術師ウルグはまるで違う人間だと思えるというのに。
 イルミナスは彼の元まで歩いてゆき一礼だけをすると、それから単刀直入にクェルに問うた。
「……わたしをご存じなのですか?」
「そりゃ、知っとるよ。イルミナス・アッキピテルさま」
 言い当てられて、流石のイルミナスの瞳にも相手を訝る光が浮かんだ。声を潜めて更に問う。
「……失礼ですが、あなたのお名前は……」
「クエルクス=アルキュミア・グリッツェン。どうにも呼びにくいからクェルと呼ばれることが多いなぁ」
 何でもないように答える相手に、イルミナスはたじろぎつつも聞き覚えのあるその名前に目を見開いた。
「アルキュミア……? では、あなたは……!」
「宮廷錬金術師だよ、姫さま。そういえば、直接会ったことはなかったか……おれはおまえさんのこと、知っておったがね」
 アルキュミア≠ニいうのは、王に仕える宮廷錬金術師にのみ、王から与えられ、名乗ることを許されている名前であった。
 宮廷錬金術師というのは基本的に國に一人しか存在しない、すべての錬金術師の頂点となる一人の錬金術師である。
 それに気が付いたイルミナスは勢いよく頭を下げ、その焦りから少しばかり早口にクエルクスへと謝った。
「存じ上げなかったとはいえ、大変な失礼を。申し訳ありません……! お会いできて光栄の限りです……!
 あと、あの……差し出がましいのですが……できれば、王宮以外の人の多い処でイルミナスや姫と呼ぶのは……と、申しますか……わたしを王家の者と思って頂かなくて結構です。
 今、わたしはただの剣士──ルーミ・アッティラですから。そのように接して頂ければと思います」
 クエルクスは鍛冶屋でも発していた陽気な梟の笑い声を上げると、面白そうに何度か頷いた。
 彼のその様子を見てほっと胸を撫で下ろしたイルミナスは、彼の名を聞いてからずっと気にかかっていたことを口に出してみた。
「あの、クエルクスさま……グリッツェン、というのは……」
「クェルで構わんよ。まぁ、おまえさんがいちばん聞きたいのはこれだと思っておった。
 そうだ、ウルグ・グリッツェンとおれは親子だよ。義理だが、親子ということになっておる、一応は。
 あいつが保護されて王宮に滞在していたときに、引き取り手が見付からなければあれは孤児院行きになると聞いたのでな、引き取り手に名乗り出た。あれには錬金術の才覚があると見たからな、孤児院行きにするのも惜しいと思ったわけよ。
 悪運は強そうだから基礎だけ叩き込んで外に放り出してみたが、うむ、どうだ、中々の錬金術師に成長しただろう」
 そう語るクエルクスはどこか自慢げだった。
 イルミナスは好ましげに目を細めてそんなクエルクスを見ていたが、ふと或る疑問を抱いて首を傾げる。
「……よく、わたしとウルグが共に行動していることをご存じですね」
「宮廷錬金術師アルキュミア≠ヘ王の想像力であるからの。王が必要だと思ったものを創るんじゃよ……こういうものをな」
 クエルクスは片手を上げると、指環のはまっている人差し指だけを軽く浮かせてみせた。
 金に白真珠のような小さな球体がはめ込まれている指環が一瞬ちかりと煌めき、するとそこからまるで星の瞬きのような光を放つ、一筋の細い線が真っ直ぐに伸びていった──イルミナスへと向かって。
 それからもう片方の手を先と同じように上げると、やはり指環──こちらは銀に黒真珠である──のはまっている人差し指から、何処か遠くの方角へと光の橋が伸びていった。
 思わずイルミナスは自分の方へと伸びている光の、その一粒に触れようと手を伸ばす。
 しかし光は手のひらをすり抜けて少しも揺れることのなく、ただイルミナスの心臓に向かって真っ直ぐに伸びたままだった。
「この光を辿っていけば、おまえさんのいる場所に辿り着ける。この光はな、おまえさんの鼓動以外に阻まれることはないんじゃよ……
 それで、こっちはウルグの光だ。おれは案外心配性だからの、私的にウルグのも創ったんじゃ。
 まぁ、二人は大体いつも同じ方角におるからな。これでおまえさんらが共に行動しているということが分かった──というわけでもないのだが」
「……えっ?」
 どこか悪戯っぽい笑い声を上げて、クエルクスはその朗らかな黒い顔を破顔させた。
 大きな手のひらで荒っぽくイルミナスの頭を撫でると、彼女の銀翼の瞳を見つめる。彼の細められた瞼から覗くその黒い瞳に、どこか柔らかな光が浮かんだ。
 親が子どもを想い出すときには、きっとこういう顔をするのだろう──イルミナスはそんなことを心臓の奥の、もっと奥の方で思った。
「今のはただの自慢じゃ。
 ……ルーミ・アッティラ。おまえさんは王が己の子どもを……しかもまだ少女と言える年頃の娘を、だ。護衛もつけずに剣一本……ほとんど丸腰のような状態で王都の外の、危険極まりない世界へと放り込むと思うのか?
 ……だとしたら、昏君であるぞ。私≠フ仕える王は勇気と蛮勇を履き違えるような昏君ではなく、むしろ賢王だったと思うのだが。
 ──イルミナス・アッキピテルを往かせても問題ないと思える理由が、王にはあったのだ」
「それは……?」
「少しは自分で考えることをしろ……と、ウルグ相手になら言っているところだがな。簡単じゃよ、ウルグ・グリッツェンをイルミナス姫の処へ送り出したのは、このおれなのだから。
 あれはほとんど一人で生きてきたために強いだろう? 錬金術の心得もあれば、多少の黄昏の知識ももっている……この國の大まかな地理を把握しているところも大きいだろうな。地図を見るために立ち止まったその瞬間が命取りになることも、この大地の上では珍しいことではない。
 あとは、ウルグ・グリッツェンは宮廷錬金術師の後押しする人物であり、養子であり、弟子だ。こんな世の中でここまで分かり易く揃う人間はあまりいないぞ。
 ……ところで、おまえさんの騎士は元気かな、ルーミ?」
 問われて、ルーミは片手で剣の鞘に手を触れた。顔を上げ、クエルクスの瞳を真っ直ぐ見つめて口を開く。
「彼の騎士は、わたしです」
 それを聞いたクエルクスは、大きな身体を揺らして今日何回目かの陽気な梟の笑い声を上げたが、すぐに真面目な表情になると、立てかけてあった大樹の杖を手に取り、それで地面を強く叩いた。
 その音が大地に張る根を眠りから目覚めさせ、目にも留まらぬ速さでイルミナスの片足に絡まる。
 イルミナスは即座に剣を抜いてその根を地面から切り離したが、切り離すと同時にその根は跡形もなく消え失せ、残されたのはクエルクスの満足げな笑顔だった。
「あなたは誰かの騎士には成り得ない。あなたの剣は、進むための剣なのだから。
 ……強いて言うならば、あなたは自分の騎士でなくてはならない。そして、世界の騎士でなければならない。一か千かと問われたら、千を取らねばならないのだ。……ウルグ・グリッツェン一人か、知らぬ千人かと問われたら、知らぬ千人を取る。
 黄昏に抗う鷹の爪アッキピテル王──アウロウラ・アッキピテルの娘、イルミナス・アッキピテル……もし、ウルグが今のようにおまえさんの命を侵すような真似をしたならば──迷わず斬れよ」
 イルミナスはそれには答えず、ただ固く唇を引き結んでクエルクスの瞳を見つめていた。
 それから剣を鞘に収めると、その透き通るような翠玉の睫毛を伏せて、静かに言葉を風に乗せる。
「わたしは先日、廃教会にて魔獣と化した人と戦い、その命を奪いました。……魔獣となった生き物を、元に戻す方法はないのでしょうか」
 クエルクスは小さく息を吐くと、大樹の葉の間から暮れゆく空を見上げた。
 雲がゆっくりと流れていくのと同じように、クエルクスもまた、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「おれたちは、様々なものの力を借りることができるだろう。おまえさんは風、ウルグは月光、おれは植物だ。これの原理を知っているか?……太古から当たり前に使えるものだから、知らない者の方が多い。
 これは、心の力=Aだ。おれたちの心に呼応して、この世界のものたちはおれたちに力を貸してくれる。それが、どんな心だとしても──だ。
 歓びにも嘆きにも、彼ら≠ヘ応える。感情に心を奪われすぎれば、おれたちは理性を失い、そのたかが外れた心に応えて彼ら≠ヘこちらの身の程を超えた力を与えてくれやがるのだ。その力に身体を委ねてしまうと、おそらくは皆、魔獣となる。そして心まですべて委ねたのなら、もう後戻りはできんだろう……
 心まで力に委ねた者の息の根を止め、暴走を止めてやるのは、或る種の救いかもしれんの」
 イルミナスはばっと顔を上げた。彼女の瞳の銀翼が、光を受けて強く輝いている。
「では……心をすべて委ねてさえいなければ、きっと手を掛けなくても魔獣化を止めることができるのですね」
「おやおや、前向きじゃの」
「わたしは、傲慢でしょうか?」
「おれの語る傲慢は、求めることではない。はじめから諦めて、何もせず、何をも求めないことだ。──自らで、自らの命を絶つように」
 そう語るクエルクスの瞳に、ウルグとは違うが、それと似た色が浮かぶのをイルミナスは見た。
 ウルグ・グリッツェンを夜の鷹とするならば、クエルクスも、やはり夜の梟なのだった。違う、血の繋がらない、それでも親子である二人の瞳に浮かぶのは夜の色……
「まぁ、ルーミ、おまえさんが魔獣化したものの心を鎮め、元在るべき姿に戻したいと考えるのは悪いことではない。どうにも最近は魔獣の数が増えたせいか、人はやつらを殺しすぎる」
「殺しすぎる……?」
「心、というものは連鎖をするものじゃよ、ルーミ。嘆きは嘆きを、悲しみは悲しみを、死は死を、黄昏は黄昏を……殺せば、殺した分だけ連鎖しないとも限らない。
 死の嘆きというものは、恐ろしく強いぞ。強い嘆きの心が彼ら≠呼び、心を委ね力を暴走させればこの大地に在る命など簡単に滅びる。
 実際、その内にそうなるかもしれない──世界を歩いているとそう思わざるを得ないな」
 聞きながら、イルミナスは以前己が斬った、魔獣化した白ローブの女性が言っていた言葉を思い出していた。
 ──黄昏こそ我ら人を救う真の光、ああ、黄昏を受け入れれば心も楽になれるというのに!=c…
 あれは、そういう意味だったのだろうか。
 心の黄昏に呑み込まれ、自分たちが普段力を借りている彼ら≠ノ身体も心も委ね、すべてを力として解放してしまえば苦しむことも悲しむこともなくなり、或る種救われる……
 クエルクスが眉根を寄せているイルミナスの頬に片手を当てて、それから彼女の肩をとんとんともう片方の手に在るその杖で叩いた。
 すると、じんわりとあたたかなものが血を巡っては、全身を潤すように流れていった。
 柔らかな新緑の香りが、力強い黒檀の香りが、イルミナスの心を吹き抜けていく。植物の生命力が根を張るように、葉を揺らすように、心をやさしく揺り動かした。
 イルミナスの片方の瞳から一粒涙が落ちたことに、彼女は自分で気付いただろうか。
「……心の力というものは、このために在る。彼ら≠ェおれたちに力を貸してくれる理由もそこに在ると、おれは信じている」
「わたしも、そう……信じたい」
「……一つ、教えておこう。死の嘆き≠ノ勝てる心の力というのは、いつでも生への渇望≠カゃよ。嘆きの扉をこじ開けるのは、いつだって生きたいと思う心。扉を激しく叩き、蹴破るような強さが、それには在る」
「クェルさんは、一体どこまで──」
 イルミナスが発しようとした言葉のすべてを聞かず、クエルクスは細い目をさらに細めて悪戯で陽気な梟の鳴き声で笑った。
 彼は己の真珠髪と大樹の杖の葉を揺らし、黒いローブを翻してイルミナスの元を去っていく。
 しかし、その途中で思い出したように彼は振り返り、まるで悪戯の成功した少年がするような顔でイルミナスに声をかけたのだった。
「──まるですべてを知っているように振る舞うのは、老人の特権なのじゃよ」
 それから人は魔獣を殺しすぎる≠ニ言ったときの話も、一部の魔獣遣いの間では割と知れている話なのだと言い残し、今度こそクエルクスは〈スクイラル〉に多く在る路地の中の一つへと消えていった。
 イルミナスはどこか、今まで言葉を発する梟と会話をしていたような気持ちで彼の背を見送っていたが、肩に未だ残る新緑と黒檀の力を心で感じると、やはり言いようもない懐かしさを感じて少しばかり涙が滲みそうになるのだった。
 彼女は、彼の大樹のような心が多くの人に伝わればいいと、目の前の樹を仰いで強く思った。
 すると、彼女の足元から柔らかく光る銀の風が立ち上り、その風は大樹の枝葉をやさしく揺らしてはその命の香りを背に乗せて辺りに降らせた。
 〈スクイラル〉を歩く旅人が、いつもと違う街の香りに顔を上げる。
 部屋中を煤だらけにした変人発明家が咳き込みながら窓を開けると、外から入ってくるその爽やかな香りに思わず目を細めた。
 それは、この街に訪れる誰もが随分と久しぶりに嗅ぐ、濃くて力強い、それでいて懐かしさを感じる、まるで心が醒めるような命のにおいだった。
 その日ばかりは〈スクイラル〉に立ち上る黒煙も色を潜めて、街はその吹き抜けてゆく心の風を両手を広げ、そして全身で受け止めていたのだった。



20160904

- ナノ -