竜の落とし子


 剣が折れた。
 一つを守れぬ剣が。


*



 工房都市〈スクイラル〉から二日ほど歩いた処に、小さな農村が在る。
 柔らかな土のにおいを感じるこの村で、近くの町に物資の補給をしに向かったウルグの帰りを待ちながら、イルミナス・アッキピテルは或る一人の少女と出会ったのだった。
「おねえさん、花冠って知ってる?」
「花冠?」
「そう、お花の冠。こうやって作るんだよ」
 言いながら、少女が器用に白色と緑色を輪の形に編んでいく。
 イルミナスはそれを感心しながら眺め、それに気付いた少女は顔を上げると、花に負けないほどの笑顔で笑った。そんな少女を見たイルミナスは心に何かあたたかいものが広がっていくのを感じて、思わず目を細める。
 少女の日に焼けた肌に、髪と瞳の黒色が映えていた。
 今、彼女が編んでいる白い花と若草の花冠も、その美しい黒色によく映えることだろう。
 もし自分に妹がいたのなら、こういった感じなのだろうか……
 そんなことを心の奥の方で思いながら、イルミナスは少女の頭をやさしく撫でる。
 この少女とイルミナスは、村の入り口で出会ったのだった。
 村長に、仲間が帰ってくるまで村の入り口辺りにしばし滞在することへの許可を取ったイルミナスが村の入り口に戻ってみると、そこには村のすぐ手前に在る小さな花畑で摘んだのだろう、白い花をたくさん腕に抱えた少女が立っていた。
 少女はイルミナスと目が合うと、ぱあっと花の咲くように嬉しそうな顔をして、
「お客さん?……この村にお客さんが来るなんて、すっごく久しぶり! こんにちは、おねえさん!」
 と声を上げながら、イルミナスの胸へ自身が摘んできた小花たちを押し付けて笑い、今に至る。
「わたしねぇ、家族がいなくて……この村でいつもひとりぼっちだったから、おねえさんに会えてとっても嬉しいんだ」
「ふふ、わたしも嬉しいです。あなたと出会えて」
 花冠を編み終えた少女が、それを太陽の光にかざしながらその出来具合を確かめている。
 光に照らされた白と緑は、少女の手によって本物の王冠となったようだった。
 満足した少女はイルミナスの方を向いて、その丸く、知性を秘めた黒色を幼げに細める。
 その何と愛らしいことか、イルミナスはこのかわいい少女を今すぐ抱きしめてしまいたい気持ちに駆られながらも、何とかそれを我慢しては少女の頭を再び撫でた。
「はい、おねえさん、どうぞ」
 少女がイルミナスの頭に、そっと花冠を乗せた。
 それに気が付いたイルミナスは視線を自分の頭の方へやりながら、少しばかり照れ臭そうに笑って、今しがた自分の頭に乗った白と緑の王冠を、目の前の少女の頭へとかぶせた。
「ありがとう──でも、あなたの方が似合います」
 ──やはり、少女の黒にこの太陽の光を戴く草花の冠はよく映えるのだった。
 イルミナスはほうっと息を吐くと、少女は顔を桃色に染めてイルミナスから目線を逸らすように俯いてしまう。
 いじらしいその姿すらも愛おしいその少女は、しばらくしてから思い立ったように顔を上げ、イルミナスの方を見ては両手を拳にして頷いた。
「なら、おねえさんの分も作ってあげる! そうしたら、おそろい!……姉妹のお姫さまみたいに、なれるかなぁ」
 その言葉に、イルミナスの顔はほとんど蕩けた砂糖のようになってしまった。そんなイルミナスを見た少女は可笑しそうに声を上げて笑い、再び花冠を作ろうと余った草花たちに手を伸ばす。
 ──その瞬間、肌が粟立ち、背骨を毒蛇が這っていくような感触が二人を突然に襲った。
 二人が反射的に背後を振り返ると、そこには羊が一頭、二頭──ざっと見ても十頭は堅く、それらがこちらを見据えて今にも走り出さんばかりに足を踏み鳴らしていた。
 そう、羊。
 彼女たちの目の前にいるのが、ただの羊ならば問題はなかったのだ。
 しかし、魔獣である。
 見たところ、彼らは比較的最近魔獣となった元、羊≠スち。血のように赤い瞳をぎらぎらと濡らし、その大きな口から長い舌を出している彼らは傍目にも、自我を失うほどに飢えて混乱していることが見てとれた。
 飢えの理由はおそらく、何処かの牧場から何らかの手違いで脱走してしまいこの涸れゆく地を当てもなく彷徨ったからか、或いは彼らを率いる羊飼いが魔獣に襲われるか何かして亡くなったからだろう。
 イルミナスは剣を抜いた。
 地鳴らし=B
 彼らは人々からそう呼ばれている魔獣である。
 一頭だけならばさほど危険はなく、比較的簡単に屠れる類の魔獣であるが、二頭、三頭と数が増えていくほどに彼らは厄介な相手になっていくのだった。
 元が羊だからなのか、地鳴らしは群れれば群れるほどその力を増す。
 大群の彼らが縦横無尽に走り回ると、その名の通り地が鳴る≠フだ。揺れる地面の上で、彼らの鋼鉄のように硬い角や蹄を相手にするのは容易なことではない。
 イルミナスは剣を構えながら少女を己の背の方へやると、静かに息を吐き、向こうの出方をうかがった。
(……十頭……)
 十頭なら相手にできない数ではない。
 ウルグがこの場に、いたのならば。
 イルミナスの得物は、彼女が今しがた鞘から抜いた剣だが、地鳴らし相手に剣は分が悪いのだった。彼らの硬すぎる角や蹄は、更に厄介なことに普通の羊よりも大きく発達している。それを避けて地鳴らしの比べて柔らかい胴体の部分に刃を突き立てることは、ウルグの援護なしではやはり難しい。
(──それでも、この子のことを守らなければ)
 イルミナスが覚悟を決めると同時に、一頭がこちらに向かって凄まじい勢いで駆け出してきた。
 それをイルミナスは落ち着いてかわすと、少女に走って逃げるよう声を上げ、地鳴らしの胴体を真っ二つに斬り捨てる。
 そのようにして何とか息も切れ切れに七頭ほどを片付けたとき、果たして少女は逃げ切ったのだろうかという思いが、イルミナスの頭を掠めた。
 そしてそれが、一瞬の隙となったのだった。
 ──ほとんど致命的な隙に。
 イルミナスが一瞬宙に浮いた思考を地に降ろすと、目の前に迫るのは一頭の地鳴らし、その大きな鋼鉄の角。
 イルミナスにそれをかわす時間は残されておらず、彼女はほとんど直感で、その自らの剣にて相手の角を受けることを決めた。
 それは、自分の身を守るためには良い選択だったが、しかし魔獣を倒すという点においてはあまり褒められたものではなかったのだ。
 金属と金属が強く打ち合うような音が耳をつんざく。
 そして、その音を聞いたイルミナスが不味いと思った瞬間に、事はすべて決まってしまったのだった。
 ──剣が、折れた。
 鋭い泣き声を上げて、剣は中心から先ほど斬り捨てた地鳴らしのように真っ二つに折れ、その切っ先の刃は鈍い音を立てて地面に突き刺さる。
 それを自覚したイルミナスの肌がより粟立ち、背骨はさながら氷のように冷えていった。
 打開策が全くと言っていいほどに浮かばない。
 頭の中に浮かぶのは、こんなことなら二本の剣を常に持ち歩くことにすればよかっただとか、剣を盾に使うことなどしなければよかっただとか、そういった詮もない後悔の念ばかりだった。
 太陽の光が虚しく折れた剣の表面を照らし、それを翠玉のように輝かせている。
 迫りくる魔獣たちをひたすらかわすことばかりを繰り返し、自身の頭の中を引っ繰り返す。
 何か、あるはずなのだ。
 一つくらいは、何かが。
 何か、何か──
「おねえさん!」
 そう声が響くとほぼ同時に、人の半身ほどの大きさの岩が、イルミナスを襲おうとしている地鳴らしを目がけて降ってきた。
 それは彼らには当たらなかったが、地面を抉って深く突き刺さったそれを見て、自我はなくとも多少怯んだらしい。
 イルミナスは振り返らずに、すぐ近くに立っているのだろう少女に向けて声を上げた。
「──逃げなさいと言ったでしょう……!」
「……お願い、助けて……力を貸して、わたしがみんなの盾となれるように……」
「逃げなさい!」
 イルミナスの必死の声も聞こえないのか、或いは聞かないようにしているのか、少女は祈るように、ねがうように手を組み合わせて言葉を紡いでいく。
 それに応えるように、村に散らばる石たちが岩となって魔獣たちに降り注いだ。
 少女は手を組み合わせたまま顔だけイルミナスの方へ向けると、静かだか有無を言わさぬ瞳をもって彼女に言葉をかけた。
「おねえさんは、村のみんなに逃げるように言って。……わたしが言っても、やっぱり変な子なんだって、信じてもらえなかったから……お願い」
「そんなの……!」
「お願い。此処はわたしの、たいせつな故郷なの。……だいじょうぶ、きっと三匹くらいなら、こんなわたしでも何とかできるから……どっちにしろ、おねえさんの剣は折れてしまったんだよ。だいじょうぶだから、任せて」
 それでも迷うイルミナスの心に、あの日〈スクイラル〉で聞いたクエルクスの言葉が蘇ってきた。
 それは、クエルクスが発したその声よりも彼女の心の中では冷たい温度をもって、イルミナスの心臓に折れた剣の切っ先を向けてはよりよい¢I択を迫ってきた。
 ──あなたは誰かの騎士には成り得ない。あなたの剣は、進むための剣なのだから。……強いて言うならば、あなたは自分の騎士でなくてはならない。そして、世界の騎士でなければならない。一か千かと問われたら、千を取らねばならないのだ……
 折れた剣を一瞥し唇を噛み締めて、イルミナスは村の中心に向かって走り出した。
 そこで大声を上げて村の人々へ呼びかけると、家から出てきた一人の若者が、イルミナスの折れた剣に目を留める。
 事の重大さに気付いた若者は、イルミナスよりも更に大きな声で村の人々へと呼びかけた。
 家から飛び出し、次々に村の入り口とは逆の方向へ走っていく人々を見届けると、イルミナスは急いで踵を返し、入り口で今も魔獣と戦っているだろう少女の元へと急いだ。
 そして息も絶え絶えに少女の元へと辿り着いたとき、イルミナスは強く、痛みすら感じぬほどの痛みで強く思ったのだった。
 剣が、折れた。
 道を、違えた。
 村の入り口に辿り着いたイルミナスの目にまず飛び込んできたのは、紅水晶になって黄昏へ還って往く二頭の地鳴らしと、ぼろ雑巾のように地面に倒れ込んだ少女の広がる黒い髪、そして、その美しい髪から落ちた花冠。
 一頭の魔獣が、少女に止めを刺さんとばかりに足を踏み鳴らしている。
 イルミナスは地に落ちた草花の王冠を瞳に映すと、その近くに突き刺さっている折れた剣の切っ先を手で引き抜いた。
 自身がはめている手袋と共に手のひらの皮が破け、赤い血が地面へと滴り落ちる。
 泣きたいほどに痛かった。
 どこが、だろう。
 手か。
 胸か。
 それとも心臓か?
 剣を引き抜いたイルミナスは、怒りや悲しみや後悔が一緒くたになったような、到底言葉に成り得ない感情だけをその瞳に宿し、顔はほとんど生気を失ったまま、魔獣の血の瞳を見据えた。
 それから自分でも訳の分からないまま、獣にも劣らぬ叫び声を上げると、その噛み付かんばかりの勢いを殺さないまま地鳴らしの胴体へ飛びかかり、そこへ最早血だらけになった己の刃を深く、深く突き立てた。
 地鳴らしは声を上げることすらできずに絶命し、紅水晶となって黄昏の空へと還って往く。
 正気を取り戻したイルミナスは魔獣のそれをすべて見届けることはせずに、急いで少女の元へと駆け寄った。
 幸いなことにまだ、少女の息はある。
 しかし、これでは──
「おねえさん……? 魔獣、全部、倒せた……よね……?」
「ええ、もうだいじょうぶです。だいじょうぶですから、喋らないで……! 今──」
「この村に、お医者さんなんていないよ……そうだ、おねえさんの名前、まだ……聞いてなかったなぁ……何て、いうの……? わたしの、名前はね……ミェーフって、いうの……昔の言葉でね、守るもの≠チて意味……なんだって……ねえ、おねえさん、わたし……守れた、かなぁ……守れた、よね……おねえさん、わたしが死んだら……」
「ミェーフ、あなたは死なないわ……!」
「死んだら、村の外の……少し行った処に在る……大きな、骨の……花畑に……わたしを……村の、人は、魔獣と戦って死んだ、わたしのこと……怖がる……と……思うから……お願い……おねえさん…………出会って、くれて、ありがとう……」
 その言の葉と共に、少女の身体から力が抜けた。
 イルミナスが声すらも失いながら、震える手で少女のことを抱き上げると、少女の身体は何かがそこから抜けたように軽くなっていた。
 少女を抱き締める己の手からは、未だ血が流れ落ちている。
 この血をいくらこの少女に与えたとて、この守るもの≠フ名を冠す少女──ミェーフが再び目を開くことは、二度とないのだった。
 イルミナスはミェーフをきつく抱き締めながら、絞り出すような声で呟いた。
「──イルミナス・アッキピテル……」
 確かに、あのとき村の人々へ声をかけなければ、ミェーフ一人だけではなくもっと多くの人が亡くなったかもしれない。
 わたしは、一ではなく千を取ったのだ。
 しかし、それで一人が、ミェーフが死んでいい理由にはならない。
 そうだ、今頃気付いたとて遅いのだ。
 しかし、ミェーフが死んでいいわけがなかった。
 何が、騎士だ。
 何が、世界の騎士だ。
 一人すら守れぬ騎士が、千人を守れるわけがない。
 両目からぼたぼたと涙を零しながら、イルミナスは口の中だけで呟いた。
「……わたしは……騎士ではない……」


*



 再び花冠を戴いた少女は、村から出てすぐの場所に在る花畑に埋葬された。
 そこは、かつて竜≠ニ呼ばれた生き物の骨が、そのまま横たわる竜のかたちに遺っており、その骨から白と緑の草花たちが光を抱いては咲き、痛いほどにやさしく揺れている。それはまるで、ミェーフの心のように。
 竜に守られるように埋められた少女の墓石を見て、イルミナスは声もなくそこに佇むことしかできなかった。
 町から戻ったウルグは、イルミナスが血だらけの手で少女を抱えていたことに対して何も言わず、ただ村人と共に少女の墓を掘る手伝いをしたのみだった。
 いっそ、いつものように叱咤してくれれば……と、思う。
 何て甘えだ。
 しかし、そうしてくれればおそらく、少しは心が軽くなるのだろうと思わずにはいられなかった。
 責められないことが、君は悪くないと言われているような気がして、余計胸が痛んだ。
 イルミナスは鞘の中に在る折れた剣に触れて、墓石を見つめる。
 
 そこでは、花が揺れていた。
 白と緑の、太陽の光を戴く王冠のような花たちが竜に守られるように、或いは竜を守るように風に吹かれては、やさしく。
 少女もまた、その二つに守られるように、そしてその二つを守るように、このあたたかな大地の下で眠っている。



20160911

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