ウィンド・チャイム


 ──黄昏が、やってくる。
 夕暮れだ。
 赤く赤く、どこまでも赤く染まり上がった空、その下に立ち並ぶ家々もまた目に熱い色に染まっている。こんにちの夕暮れは特別赤い。
 これでは誰の顔を見ても逆光、或いは赤に橙に染まる光のおかげで、その者の表情をよくは受け取ることができなそうだった。
 人が燃える陽に目を細めるのは、痛いほどに眩しいからだろうか。それとも、恐ろしいほどに美しいからだろうか。
 ──この國の黄昏は、美しい。
 それは、誰もが知っている単純な事実である。夜明けと日の出の名を冠す、しかし暮れゆく大地に立つこの王國の夕暮れはいつも美しかった。
 たそがれの國=Aそれは一体、誰が言い出した皮肉だったのだろう。
 今日が生まれるこの地の夕暮れの色は時に赤く、時に橙に、黄に、桃に紫に白に、そして時にそれは熱く、やさしく、激しく、静かな気配を纏ってこちらへと夜の訪れを告げている。そのどれもがどこか哀しく、寂しく、懐かしい。いつも、いつも。
 斜陽の光が注がれる大地で、イリスは髪だけではなく頬も瞳に宿る光も今は橙の色に染まりながら、柵に両腕を預けて都の高台から沈む太陽を眺めていた。
 商業都市〈ルナール〉のあまり色を感じさせない街並みも、今ばかりは道も建物も通る人すらも夕焼けの色をその身に纏い、それはさながら夕暮れの訪れを身体すべてでこちらへ伝えているようであった。
 黄昏がやってくる。
 昼を見送り、夜を迎える黄昏が。
「──夕陽を見ているのですか?」
 ふと風と共に吹いてきた優しげな声に、イリスは鮮紅を瞬かせながら振り返った。
 陽を見つめていたために視界がちかちかとうるさい。瞬きを繰り返してみたり少し目を瞑ってみたり細めてみたりを続けながら、イリスは何とか声の正体をおのが瞳で捉えようと試行錯誤する。
 どうやら声をかけてきたのは、自分より幾つか下に見える少女のようだった。
 落ち着いてきた視界で認めた少女の姿は、今にも透き通りそうな、さながら翠玉の髪に陽を受けて輝く銀の瞳が印象的で、その色とかたちに先ほど吹いてきた朝の風のような声がイリスの中でぴったり重なった。
 イリスは頷き、少女の目を見た。イリスの姿は今全くの逆光の中に在り、彼女の瞳の紅ばかりが鮮やかに影の中で浮かび上がっている。
「そう。綺麗ね」
「……わたしたちはどうして黄昏と呼ぶのでしょう──この大地に蔓延る、滅びの前兆たちのことを」
「どうして……」
 少女がイリスの隣までやってきて、白い手のひらを太陽の放つ光の方へと伸ばした。イリスはそんな少女の橙に照らされる横顔を見やり、それから自身も夕焼けの方へと手を伸ばしてみる。注がれる光は、少しだけ熱かった。
「……怖いから、じゃないかしら」
「怖い?」
 ところどころ紅交じりに赤く燃ゆる空に視線を向けながら、イリスがぽつりと呟いた。それを聞いた少女は宙に伸ばしていた手を引っ込めてイリスの顔を見る。
 その気配を感じながらも、尚夕焼けを見つめたまま、イリスは落ち着いた声で言葉を紡いでいった。
「美しいものを見ると人は怯む。そしてきっとそれは未知だから。……黄昏も、似たようなものなんじゃないかしら。この世界に散らばり滅びを呼ぶ、謎だらけの未知──そして暮れゆくこの地のひどく美しい夕焼け、それは恐ろしいほどの。だから人はこれを黄昏と呼ぶ、そのどちらも怖いから」
「……あなたも怖い?」
「怖い……どうかしら、分からない」
「わたしは──あなたの言う通り、時折怖いです。いいえ、いつも怖いのかもしれない」
 イリスは少女の声色に何か変化を感じ、夕焼けから視線を外して少女を見た。
 柔らかな風が吹いてきては、少女の髪や羽織っている上掛けを緩やかに揺らしている。陽の光に照らされて少女の銀の瞳が煌めき、それと同時に彼女の腰の辺りで何かがちかりと閃いた。
 イリスはその光の方へと目線だけを動かすと、今一瞬閃いたのは剣の柄に反射した光だということに気が付いて、微かに目を見開く。遠目にはただの町娘に見えるこの少女が帯刀しているとは。
 気が付けば、イリスの口からは問いのかたちを保った言葉が零れ落ちていた。
「私はイリス。──あなたの名前は?」
「あ……そうですよね、申し遅れました。わたしはルーミ、ルーミ・アッティラです」
「ルーミ……」
「はい」
「柔らかな光を纏う風が吹くようね、あなたの名前は」
 言ってしまうと、ルーミと名乗った少女は少しだけ頬を赤らめて笑った。そんなルーミの様子をかわいらしく思ったイリスも微かに目を細める。
 旅人なのかと聞くと少女は頷き、沈む太陽の方角を見た。その瞬間、ルーミの足元から微かに銀を纏う風が立ち上り、それは二人の周りを柔らかく包んだかと思えば、イリスが瞬いたその瞬間に、今度は鋭い一閃として太陽の方へと吹き抜けていった。
 風が夕焼けの方へと向かっていったのは、ルーミが剣をかざすかのように片手を空の赤色の方へ向けたからだろうか。
「でも、まだ旅を始めたばかりなんです。知らなければならないこと、掴まなければならないもの、往かなければいけない処が、わたしには山のように在る。そしてそのためには、剣を抜かねばならないことも多い。──剣を抜くのは、たいせつなものを守るとき……」
「……私はもうそれなりに旅を続けているけど、それでもルーミ、あなたと同じ。知らなきゃいけないもの、掴まなきゃいけないもの、往かなきゃいけない処が山ほどある。私は夢のためだけど、あなたは……少し違いそう。言葉にはその人の意志が宿る。──ルーミ、あなたの言葉は重い。それは良い意味とか悪い意味とか、そういうものじゃなくて」
 ルーミが風を呼んでからというもの、無意識に背筋を正されていたイリスは彼女の方を見て微笑んだ。
 そんなイリスに、ルーミも黙って目を細めるばかりだったが、それでも最初に見付けることができなかった、銀を纏う翼の意志が少女の瞳にありありと浮かんでイリスには見えた。
「日が暮れる方へ往くのね、ルーミ」
「はい、夜明けを灯すために。……イリスさんは?」
「イリスでいい。私はハンターよ、トレジャーハンター。〈星の墜ちた地〉を探してる」
「トレジャーハンター……もしかして、わたしはハンターに縁があるのかしら」
「トレジャーハンターに縁があるなら、きっとそれは、あなたが何かを追い求める人だからね」
 言いながらイリスは目を細める。先の逆光の中に浮かぶ鮮紅とは打って変わって、今は正面から太陽に照らされている彼女の瞳は、橙の光を拾い上げてきらりと輝いていた。
 その隣ではルーミが〈星の墜ちた地〉、と確かめるように復唱している。イリスはそんな少女の声を聴きながら、やはりこの少女の声には、どこか人の背筋や心を一度正させる力があるのだと感じていた。
 そう、それは朝の光と風に似ているのだ。暖かく照らす朝の光と、柔らかいが時折鋭く吹く目覚めの風……
「〈星の墜ちた地〉とは違うかもしれませんが、星が降るような洞窟があるというのは聞いたことがあります」
「星が降るような……?」
「ええ。詳しいことは分からないのですがそこは浅く水の張った洞窟で、一歩足を踏み入れれば、今自分が地に在るのか天に在るのか分からなくなってしまうほど、夜の空に近い場所なのだと。
 世界樹〈カメーロパルダリス〉から北に北に、夜空に浮かぶ一等輝く青い星を追って歩いていけば、その星降る洞窟に着くと聞きます──運がよければ」
「……運には少し自信がある。ありがとう、ルーミ」
 イリスの瞳がちかりと輝き、微かに口角が上がる。
 ルーミが呼んだのではないだろう風が、イリスの横を柔らかく吹き抜けてゆき、彼女の鮮やかな橙の髪と虹色を纏う首巻を緩やかに揺らした。
 それからしばらく二人は黙って暮れゆく今日の空を眺めていたが、赤い空の中に一つの星が浮かび上がるとイリスは静かに息を吐き、高台の柵に両腕を預けてつい零してしまったかのように呟いた。
「この國に高い建物が多い理由、私は分かるような気がする」
「……そうですね」
「今日の夕焼けは綺麗ね、美しいわ──ひたすらに、ひたすら……」
 そう言葉を風に乗せたのちに二人は、太陽が地平の果てに沈み切り、都が静かな色を再び取り戻すその瞬間まで、黙って穏やかな風を受けながら、日の暮れるさまを見つめていた。
 夜明けを灯しに往くという少女は、その銀の瞳に朝の翼を羽ばたかせ、淡く天上に浮かびはじめた月を一瞬見やり、微かに頷いて自身の腰に差した剣の柄に指先で触れる。
 影の中に浮かび上がるそのときまでイリスの鮮紅の瞳はただ、自分の目の色によく似た激しい赤の色を、少女の隣で静かな光を宿して見つめていたのだった。



20170107

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