エゴ


 強かに賢い狐の双眸、商業都市〈ルナール〉。
 迫りくる黄昏を感じさせないこの都市では、常に人々が都市内部を駆け回り、世界のことなど考えている暇はないといったように忙しなく働いていた。
 出世を目指す者、世界を翔けて仕事をしたい者、夢のために資金を集める者、他人に興味がない者、黄昏のことを考えたくない者などがこの都市には集まる。
 銀灰色の地面、その上に立ち並ぶのは深い緑や青の石壁、或いは灰色の打ちっぱなしに黒い鋼板の屋根を被せた家々。
 何処にいても人々が騒ぎ立てる声が聞こえてくるというのに、しかしまるで自分一人しかこの場所にいないかのような〈ルナール〉は、或る意味で何処かよそよそしい雰囲気の都市ではあるが、この雰囲気を気に入る者は意外にも多い。
 黄昏よりも、財産を!
 世界よりも、この都市を!
 他人よりも、まず自分を!
 どうせ滅びる運命ならばと、彼らは今日も〈ルナール〉を走り回る。自分の心を満たすために。
 だかしかし、もちろん、例外はある。──それは、どんな場所にだって。


*



 硬い地面を靴で叩きながら、イリスは忙しなく人が行き交う都市の中を行く。
 都市の外れへと向かう決して広くはない道の真ん中で、大きな箱を自身の顔よりも高く積み上げて走りゆく、おそらく配達人だと思われる人をぶつからないようにかわし、そうしてイリスは思う。あれはどうやって前を見ているのだろう。
 そう背後を振り返っていると、自分が進むべき方向から今度は、二輪の荷台へ大量に切り出した岩を積んだ男がそれを引いて迫ってきた。イリスは少し焦って道を挟んでいる家壁に身を張り付けると、何とか自分を轢かずに走り去っていった荷台へと視線を向ける。
 その姿は最早遠いが、荷台に積まれた岩に切り出された状態のままでくっついていた鉱石が昼間の陽光に照らされて、その淡く輝く光の軌跡を道へと残していた。灰色の地面や静かな色の家壁に煌めく鉱石の輝きが反射して、それがイリスの瞳には強かな狐の双眸として映る。
 工房都市〈スクイラル〉の、がらくたで奏でた音楽のように少し変わっていてまた楽しげな騒々しさとは違う、この都市の独特の騒々しさが〈ルナール〉の強みでもあり、売りであり、そして或る種の美しさなのだった。
 おそらくこの都市の利便性だけでなく、雰囲気までもを好む者たちは皆、このイリスのように都市のそこここに閃く狐の瞳を見ているのだろう。
 この都市に流れる空気は暖かくもなかったが、しかし決して冷たくもない。それはまるで白い雲の下にいるときのようだと、イリスは心の何処かで想った。
 都市の外れへと向かう道の途中で、イリスは更に細い道の路地へと入り、その先に在るこの都の中では比較的珍しい木壁の小さな家の前に立つと、その黒やら白やら茶色やらが入り交じった組木壁の真ん中に備わっている、焦げ茶色の扉を見やった。
 この小さな家は、両隣の打ちっぱなしの家に両側から挟まれているために身を縮ませては縦に長い。というよりこの都市には、元来家や店や工場が所狭しと立ち並ぶために縦長の家が多いのだった。
 その例に漏れないこの組木の家の、馬の顔と馬蹄をかたどったドア・ノッカーをイリスは叩く。その馬の顔を見てアニマのヴィアのことを想い出したイリスは、毒霧の里で負った腕の傷跡を静かにさすった。
「──おや、イリス。戻ったんだね。いつも言っているけれど勝手に上がっていいんだよ、鍵は持っているだろう?」
「……オレハが出迎えてくれるのが嬉しくて、ついノッカーを叩いてしまうの。これは、もう癖だから許してほしい」
「あらまぁ。とにかくほら、上がんなさい」
 扉を開いて出てきたのは、オレハという腰の曲がった小さな老婆だった。
 白んだ髪は後ろに丸くまとめられており、顔には長い時を生きてきたが故の皺が穏やかに刻まれている。片手には艶のある白い木の杖を持ち、その両目は常に閉じられてほとんど開かれることがなかった。
 彼女の盲いてしまった瞳に、最早他の人と同じように物が映らないことをイリスは知っている。
 イリスはオレハに導かれるままにその小さな家の中へと入り、オレハの背を見つめたまま後ろ手に扉とその鍵を閉めた。
「今度は何処に行ってきたんだい?」
「いろいろ。吹く風のような声で鳴く、風よりも早く奔る黒い馬──魔獣に乗って白い霧の立ち込める里まで行ったり……魔獣貸し屋なんてものがこの世界には在るのね。借りた黒い馬、アニマの黒曜石のような瞳も印象的だったけれど、貸し屋の主の瞳も印象的だった。片方は震えない漆黒の瑪瑙、もう片方は触れれば割れてしまいそうな燐葉石……」
「美しい人なんだね」
「ええ。きっと優しい人なんだと思う。……魔獣と言えば二匹の魔獣と共に駆ける小さな少女にも出会った。最初見たときは遺跡が動いているのかと思ってしまって……今もそう思うのだけれど。でもあれはそうね──その身に金の角を戴き銀色を纏う、赤い月と黒い夜空……。世界は広いわ、オレハ」
 歩きながらまるで詩のような言葉を紡ぐイリスに、オレハは振り返って口元を綻ばせた。オレハの見えない瞳、その瞼の裏にはイリスの紡ぐ色の数々が優しく浮かんでいる。
 居間に在る、木でできた食卓と二脚の椅子が姿を見せたその後も普段口数が多い方ではないイリスにしては珍しく、彼女はずっとオレハへと言葉を歩きながら紡ぎ続けていた。
 もう色も形も映すことのできないオレハのその瞳に、それでも景色を映そうとするかのように。
「歌うような踊るような名をもつ人にも会ったのよ、いえあれこそ彼の歌なのかもしれない。分からないけどそうね、でも……やっぱり私は人の名前を聞くのが好き。そこにはきっと──いつも、ねがいが在るから」
「……イリスは私の名前の意味を知っているかい」
「オレハの? そういえば、聞いたことがなかった」
「耳を澄ませる者=Aだよ」
 オレハはイリスが孤児院を出て、旅を始めてから数日後にこの〈ルナール〉にて、宿を取ることができずに困っていたところを救い上げてくれた優しい老婆である。
 その頃からもうオレハは盲いており、そのためあまり裕福と言える暮らしはしていなかった。
 イリスはトレジャーハンターの資格を得てから行った、初めての仕事で手に入れた銀貨のすべてを老婆に差し出して、これからもこうして生活を助ける手伝いをするから、自分が都市に戻ってきたときにはまた此処で休ませてほしいといった旨のことを、まだ小さな少女だった彼女は切羽詰まった口調でオレハに告げた。
 すると、オレハはほとんど二つ返事で、此処を第二の家と思ってくれていいと言って彼女に鍵を差し出し、そうして今に至る。
 つまり、イリスは旅を始めてからずっと拠点である〈ルナール〉に戻るたびに、この老婆の世話になっているのだった。
 彼女がよく物事に対して比喩的な表現をするのは元々の気質もあるが、大きいのはオレハに、見た景色の形だけではなく色や表情も伝えられるようにと彼女なりに努力した結果──そうして口に馴染んでしまった癖のためだった。
 オレハは椅子に腰を掛けながら、その閉じられた瞳を同じように椅子に座ったイリスの左腕へと向けた。
「怪我をしたんだね、イリス」
「え? ええ──けど大した傷じゃない」
「でもおまえは時折左腕を気にしてるよ。まだ痛むのかい、傷は残りそうなの?」
「痛むといえば痛むけれど……傷はたぶん残らない。それに、残っても気にしないわ」
 オレハは静かに息を吐くと、卓に乘ったティーポットを包む編み込みの被せを外し、その近くに在る布の上で引っくり返っている二人分のカップを正しいかたちに戻して、ポットから落ち着いた香りのする香茶をそこへ注いだ。
 そしてその香茶をイリスの前へと差し出して、それから自分の前にも同じものを置くと、どこか困ったような笑みを浮かべてイリスに問いかける。
「おまえの名前は虹≠ニいう意味だったね。自分に虹と名付けてくれた両親が見たかったものを自分も見たいから、だからトレジャーハンターをしていると」
「ええ、そう」
「──ねがいというのは、時折呪いのようだね」
「……呪い?」
「時折だけどねえ」
 温かい茶に口を付けながら、イリスは何だか哀しげな表情をしているオレハの顔を見た。
 自分は何か、彼女にこんな顔をさせるようなことを言っただろうか。手に持った香茶の水面は、静かに揺れている。
「でもねえ、いくら呪いのようでも、ねがいというのはいつも善意からはじまったものだから……すべてよかれと思ったことなんだよ。そうだねこの世界と同じことさ。
 みんな最初は何かたいせつなもののことを想って始めたことだよ──その結果がいろんなものを複雑にしてしまって、結局自分たちが生きにくくなってしまったとしてもね。
 だからやっぱり、イリスの言うように名前はねがいなんだろう。ひねくれた老いぼれの言う、呪いなんかじゃあなく……」
「人は自分勝手だったっていうこと?」
「そうかもね。でも人のよかれと思う心、善意──何かを想って行動を起こす心を否定してしまったら、きっとこの世は暮れていくばかりだよ。……でも、だけどねイリス、だからってあまり生き急ぐものじゃあないよ」
「生き急ぐ? 私が?……そうかしら、そんなことないと思うけれど……」
 オレハは少し笑って自身も香茶に口を付けると、閉じられた瞳で手の中で揺らめく水面を見つめた。それからカップを卓の上に置くと頬杖をついて、イリスの瞬きを聴くかのように耳を澄ませ、そして瞼は開けずに彼女の鮮やかな紅の瞳を見る。
 イリスは香茶を飲み干しながら心のどこかで、今、自分はオレハと目が合ったのだとそう強く感じていた。
「見えないというのは、姿の綺麗醜いがみんな同じだから、或る意味これはこれでいいのかもしれないけれどね。でも私は、一度はイリス──おまえの目を見てみたかったよ、この目で……」
「……私の目は、紅の色」
「知っているよ。とても鮮やかな紅なんだろう?」
「そう──時折、怖がられるくらいに」
「それでもその目を閉じないでおくれね、イリス。こんなこと、おまえには呪いに聞こえるかもしれないけれど」
 イリスは手にしたカップを置くと、手袋をしたままだったがその両手でオレハの皺くちゃな手のひらを握った。
 それから少しだけ微笑むと静かにかぶりを振り、彼女へと告げる。
「──いいえ、ねがいよ」
 そう言う彼女が自らの身に纏う色たちよりも遥かに落ち着いたその声は決して震えずに、そして彼女が纏う色の中で最も鮮やかなその瞳の紅は、やはり眩しいほどに煌めいていたのだった。



20170102

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