ファキュラの花弁


 煙突の街に緑の香りを強く纏った風が吹いている。
 工房都市〈スクイラル〉の、それはさながら栗鼠の登る樹の枝のように、幅は大小様々に枝分かれしている煉瓦の道。その中の一つに立つ、鮮やかな色を纏う姉と淡く優しい色を宿す弟は、背後の樹に背中を預けながら都市中に立ち上る香る風によって、こんにちは色を潜めて見える黒煙たちを眺めていた。
 むせ返るほどに濃い命の香りを宿す風に、時折混じって鼻をつく煤のにおいが、煉瓦道に立つ二人にとっては存外嫌なにおいではなかった。
 そして、時折道を通り過ぎていく煙突掃除の黒く染まった頬の色も、二人にはやはり汚いものには映らない。
 〈スクイラル〉に立つ赤、緑、橙、黄、茶、白……それぞれの家、或いは工房の色が全く統一されないこの都市全体に関しても同様である。この色も形もばらばらな建物が、枝の道にまるで葉のようにまたばらばらと立っているのがこの都の雰囲気やにおいに調和してむしろ好いのだった。
 特に弟──アインベル・ゼィンの方はこの都市をいたく気に入っているようである。
 自分たちの立つ処より遠くの家で勢いよく窓が開き、そこから黒煙と共に顔を出して咳き込んでいる、発明家の老人の姿が見えた。アインベルは、この街では何処ででも起こりうる日常茶飯事のそれにくすりとしながら視線を送ると、咳き込む老人がいつもよりも濃い緑の風にふと顔を上げて、しばらくそのままに風を感じているのを見留める。
 両開きの窓を開け放ったまま再び部屋の中に消えていく老人を眺めながら、アインベルは先ほど彼が想いを馳せていたのだろう風に全身を澄ませた。
 隣の姉、イリスはというと、彼女は彼女で風に揺れる葉の音と煉瓦道を叩く靴音を聴いているようである。
 アインベルは淡い水色が時折金に輝く髪色とは対照的に、年を喰った竹のように灰みがかっているその緑の瞳を開くと、肺いっぱいに吸い込んだ木々の香りを口からふうっと吐き出した。
 イリスはそんな弟の様子に気が付いて、その紅の瞳をアインベルの方へと視線を向けた。
「珍しいよね、ほんと。この都市でこんな風に緑の香りが吹くのなんてさ」
「いつもは逆だものね。煤のにおいに時折緑が混じる……」
「うん、それも僕は好きなんだけどね。けっこう癖になるんだよ」
「ええ、分かる気がする。〈ルナール〉は黒煙というか白煙で、煤よりは石油のにおいがするから少し違うかもしれないけれど」
 煉瓦道を、大きな布袋を両肩で担いでいる旅人らしき男が通っていく。
 それを道の隅で樹に背を預けるアインベルが眺め、つられるようにイリスも足早に去っていく男の姿を見送った。
 アインベルはその旅人に己の姉を重ねたのだろうか、イリスの方に視線を戻して問いかける。
「ねえさん、次はいつ頃出るの? しばらくオレハの処にいる?」
「星が降るっていう洞窟について少し情報を集めたいから、しばらくは〈ルナール〉周辺で酒場に来ている依頼を受けると思う。いつ出るかは仕事によるわ、でも戻るのはしばらくオレハの処よ」
「……あんまり危ない場所へは行かないでよ」
「うん……そうね、努力はする」
 言いながら、肩をすくめてかぶりを浅く振るイリスにアインベルは困ったような溜め息を吐くと、それから今度は不安げな色をその老竹に浮かべて、道を通り過ぎていく子連れの親子の背を見やった。
 右の手のひらには父の手、左の手のひらには母の手を握った小さな少年が、この煙突の街に訪れる歌うたいの奏でていた民謡の一節を楽しげに口ずさみながら歩いていく。
 少年の両手は今、とても温かいのだろう。
 アインベルは無意識に両手をさすった。
「……ねえさん」
「ん?」
「ねえさんはさ、両親がいる人のこと……羨ましいって思ったりしない?」
 イリスは、この義弟の唐突な問いかけに二度三度目を瞬かせた。
 イリスが今、視界に映していた景色は、アインベルのような帰路に向かう親子の姿ではなく、その中心で歌う少年の口ずさんでいた民謡、その詩の風景だった。
 イリスがアインベルの灰みがかった竹の目を覗き込むと、彼は一度目を逸らした後、少しだけ躊躇ったが不安げな表情は隠さずにイリスの鮮紅へと己の緑を合わせた。
 イリスは煉瓦の道を歩き去っていく家族三人の靴音を聴きながら、アインベルがその瞳に映したものをおぼろげにだが察すると、身体を預けていた樹から背をはがして少し遠い場所へと視線を向ける。
 彼女が目を向けた先に在ったのは、白く厚い雲の間から降りてくる柔らかな黄色を纏った光の梯子だった。
「少しも思わないっていうのは嘘だけど……でも、だからといって下を向いてばかりいたり、後ろを見てばかりいたらたいせつなものを見落とすかもしれない。それはよくないわ──私は、トレジャーハンターだから」
「ねえさんは──」
「アイン?」
「……下や後ろには何もないのかな、たいせつなもの……」
「え?」
 アインベルの変わりかけの掠れ声が、地面の低い場所に流れる。
 光の梯子からアインベルの方へと視線を向けたイリスと入れ替わるように、彼は雲の隙間から降りている光をしばらく見つめると、それからこちらへ顔を向けている姉の方を振り返って少しだけ笑った。
 そして、今日は出番が少なかった鈴付きの杖を腰から取ると、今しがた暮れた自分の声を振り払うかのように、その杖を軽やかに振って涼しげな音を鳴らす。
 それから少しばかり気恥ずかしそうに頬を掻くと、イリスの磨き抜かれた薔薇輝石のような瞳を見た。
 イリスもまたその灰の緑から目を逸らさず、いや逸らすことができずにアインベルの瞳を見つめている。
 この子は何か言いたいことがあるとき、迷っても最後はこうして瞳を合わせて自分の言葉を紡ぐ。そして自分は、そういったときのアインベルから目を逸らすことができない。強い瞳だ、怖がりで優しくて、傷の在る強い瞳。
 そしてその瞳と言葉は時折、こちらの心に寸鉄を突き刺していく。
「僕はよく振り返っちゃうんだ。僕はあのとき何が悪かったんだろう、どうすればよかったんだろう──何が悲しかったんだろう、何が嬉しかったんだろう……想い出すんだ、想うんだ……父さんと母さんに、会いたいなって……もう、二度と会えないって分かっててもさ」
「アインベル……」
「ねえさんが危険な処へ行くことに躊躇わないのは、ずっと前を──遠くを見て進めるのは、後ろを振り返らないからだろ? だとしたら少しでもいい、振り返ってよ。
 ねえさんはねえさんの母さん父さんから生まれて、それで此処まで生きてきたんだから、後ろに見落としたものが一つもないなんてことは有り得ないよ、きっと。
 少しは、躊躇ってよ……僕はもう誰かと、理不尽な理由で二度と会えなくなるのは絶対に嫌だ……嫌なんだよ、ねえさん……」
 イリスは言葉もなくアインベルを見つめている。
 曖昧な言葉をかけるのも、不確かな約束を結ぶのも、頭を撫でるのも抱きしめるのも、彼に対して目を背けることに今は等しかった。
 約束は、結べない。
 求めるもののためなら死地へも向かうだろう自分には、死なないという約束は結べないのだ。
 アインベルはイリスの困惑を彼女の瞳から感じ取ると、今度は鈴を鳴らさずに、しかし少しだけ笑った。彼の老竹に、薄く水の膜が張って見えたのは、果たして見間違いだっただろうか。
 アインベルは軽くかぶりを振るとイリスの片手に触れ、彼女がしている黒い手袋をそこから取り外した。それから耳を澄ませなければ、吹く緑の風に掻き消されてしまいそうなほどに小さな声で彼は呟く。
「ごめん、分かってるよ。ねえさんにはどうしても往きたい場所があるってこと、僕は分かってるのに……」
「アイン、私は……」
「ねえ、風が冷たくなってきたね。もう日が暮れるのかな。ちょっと寒いんだ……ねえさん、手を握ってよ」
 アインベルが答えも聞かずにイリスの手のひらを握った。
 イリスはその手を握り返して、いつもより固い表情で遠くに降りている光の梯子を見つめている。
 緑の風は少しずつ鳴りを潜めて、段々と黒煙の鼻をつくにおいが吹く風の中で強く存在を放つようになってきた。
 アインベルは隣に立つ姉の鮮やかな紅の瞳と橙の髪を見つめ、彼女の横顔に先の困ったような色を想い出す。
 アインベルは少し寂しげな表情をその顔に浮かべてから、しかし手には力を込めてイリスの手のひらをきつく握っていた。
 此処にいる。
 ぼくは今、此処にいる。
 ねえさんだってそうだ、今、ねえさんは此処にいるんだ。
 あっちじゃない、あんな遠くに今、あんたはいない。
「……ねえさんの手はいつもあったかいな。というより熱いけど」
「ああ……気を抜くといつもそう」
「熱を借りる人だからな、ねえさんは」
 言われてイリスは、空いているもう片方の手にはめている、薄いが断熱性のある黒い手袋へと視線をやった。
 自分が世界から熱の力を借りる──いや常に借りている者なのだと自覚したのは、孤児院で体温が人よりも異様に高く、そして人に比べて感染症にもかかりにくく、気を抜くと手に乗せた氷を一瞬で水にしてしまうほどの高温を自分が纏っていると知ったときだった。
 この熱は自分の肌から相手の身体へも伝わるらしく、時折こうしてアインベルと手を繋いだとき、彼は額から汗を滴らせていることがある。
 しばらく自分が熱を借りて生きていたことを自覚していなかったために、自分の体温の調節は今のところまだあまり上手くはできない。
 イリスは何とかもう少し体温を下げてみようと心の中で念じながら、ふと思い付いたようにアインベルへと問いかけた。
「……どうして熱なのかしら」
「どうしてって?」
「前に聞いたことがあるのだけれど、世界から力を借りる借りものの力≠ヘ自分の内から世界に在るものへと呼びかけ、呼び起こし、そして共鳴させる力らしいの。つまり心で遣う力ね、おそらく。……と、すると力を借りられるもの≠ヘ少なくとも自分の性格を端的に表していてもおかしくないでしょう? だから、どうして私は熱なんだろうって……」
「ねえさんの瞳は赤く赤く燃える太陽に似ているから……とか?」
 イリスが珍しそうな目でアインベルの方を見ると、彼は悪戯っぽく笑って、誰かさんのがうつったんだよと余った方の手で鈴の杖を振りながら言ってみせた。
 イリスはそんな弟の様子に愛おしげに紅の瞳を細めると、アインベルの手を引いて、枝分かれする煉瓦の道をこんにち帰る場所へと向かって歩き出す。
 黒煙は暮れには目もくれず立ち上り、吹く緑は煤のにおいに溶けかけている。
 家の葉々が散らばる煉瓦の枝を歩くきょうだいの瞳に映る、雲からゆったりとやさしく降りている光の梯子は、しかし少しばかりの寂しさを宿しながら、暖かな光を二人へと零していた。



20170113

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