小さきプエルへ吹く風と


 掠れた草笛の音が、誰が為でもなくただ風に流れている。
 町外れに在る、ところどころが欠けている石畳たちに沿うように古い木柵は並び、時折石畳の上を行き過ぎてゆく人を眺めては、流れる時に想いを馳せた。
 そんな柵の一つにイリスは背を預け、一頭の馬を伴っては緩やかに吹く風に髪やその身に纏う電氣石、或いは虹に似た首巻を揺らされている。その手の甲の上に落ちてきた、まだ鮮やかな緑を湛えた葉の一枚を笛にして、彼女はお世辞にも上手いとは言えない楽の音を奏でていた。
 いいやただでたらめに音を出しているだけだから、それは音楽とも言えないのかもしれない。
 一頭の馬の──馬の姿をした魔獣、アニマの黒曜石のように黒い瞳は、音があっちこっちに行ったり来たりしているイリスの草笛を見ていた。
 小さき町〈クローリク〉の魔獣貸し屋ベラからこのアニマを借りるのは幾度目かで、やはりイリスはいつかと同じようにこのアニマのことをヴィア≠ニ呼ぶ。
 そのヴィアがじっと自分の口元の草笛を見ているものだから、イリスは一つ思い付いて、ヴィアの前にその草笛の葉を差し出してみた。
「……食べる?」
 素っ頓狂なイリスの問いかけに、ヴィアの黒曜石が少しばかり冷えたような風に見える。
 イリスはそうよねと呟いて軽く首を振ると、差し出した手のひらを引っ込めて空を見上げた。
 こんにちの空は抜けるような青。
 こんな風に晴れるのは比較的珍しいことで、ああきっと今日の夕焼けは美しいのだろうと、イリスは瞼の裏でそのさまを描いた。
 青い空には鷹が鋭く飛んでおり、耳の奥に微かな鈴の音が聞こえてくる。
 そのため、イリスは近くに鷹匠がいて、あの飛ぶ鳥は鷹狩りの鷹なのかとも思ったが、鈴の音が空からではなく存外自分の近くから聞こえていることを自覚すると、音の方へと彼女は振り返る。
 しかし彼女が何か言う前に、鈴の音の正体が先に口を開いた。
「さっきの草笛、ねえさんが吹いてたの?……何て言うか、下手くそだね」
「初めて吹いた。……音が出せただけ、褒めてほしい」
「あはは、うん、すごいすごい」
 たくさんの鈴が付いた小さな杖を右手に持っている少年は、その軽やかな声とは打って変わって、年を食った竹のように灰味を帯びた緑色の瞳を細めて、そこにからかうような色を宿すと、透き通るような水色と光を受ける金色の髪を揺らして笑った。
 しかし、イリスの隣に黒い馬もとい、馬の魔獣が物静かに佇んでいるのを認めるとはたとして動きを止め、イリスとヴィアを交互に見比べる。
「魔獣……? 野生じゃあ、ないよね。借りものか」
「そう。アニマのヴィアでベラに借りたの」
「アニマのヴィアでベラ? 何か舌がこんがらがるな……」
「一目でよく魔獣って分かったのね、アインベル。私は最初分からなかった」
「いや、そんなのねえさんだけだよ……」
 呆れたように息を吐きながら、アインベルはイリスの隣で彼女と同じように木柵へ背を預ける。ヴィアから遠い側のイリスの隣で、彼は両手を木柵について、上体だけを前のめりにヴィアの方を見やった。
 ヴィアの瞳が微かにアインベルの方へ向き、アインベルはその引き込まれるような、或いは引きずり込まれるような黒色に密かに怯み、少しばかり怪訝な顔でイリスの方へと視線を戻す。
 肝心のイリスはヴィアの首元へと手をやって、彼なのか彼女なのか分からない魔獣の首を掻いてやっているものだから、アインベルは顔に似合わず眉をひそめ、気が付けばついに彼女へ今いちばん聞きたかったことを聞いてしまっていた。
「……ねえさん、魔獣……怖くないの?」
「魔獣?……魔獣は、魔獣自体は怖くない……かも。でも魔獣に襲われるのは怖いわ、それで命を落とすのはもっと怖い、死ぬのは怖い」
「でも、魔獣……ねえさんは、魔獣に──」
「お母さんとお父さんが魔獣になったから魔獣が怖いだろうって、そういうこと?」
 アインベルはばつの悪そうに頷き、何故だか己の言動を恥じるかのように俯いてはひっそりとヴィアの方へと視線を向けた。
 イリスはそんなアインベルの様子に気が付くと、微かに口元を和らげて彼の柔らかい髪の毛を撫で、それから肩を軽く叩いて顔を上げるように促す。
 そうしてから彼の老竹とヴィアの黒曜石を交互に見やり、アインベルの左側に立っていたイリスは彼の右側へと移動し、彼とヴィアの間を塞ぐものを取り払って言った。
「こそこそしない。見るなら見る。……ちゃんとヴィアの目を見たいのでしょう、なら見ればいい──見た方がいい」
 言われてアインベルは、ヴィアとの距離をほんの少しずつ詰めながらゆっくりとヴィアへと近付き、覗き込むようにして、その黒曜石のような深い黒を湛えた瞳を見た。
 それから何故か彼は、イリスには見えない角度で少しばかり哀しげに目を細めて笑うと、ヴィアのその背をそっと撫でる。
 恐る恐ると言うよりは、やさしげに背を撫でる彼のその様子にイリスはおやと思い、自分が聞くまでないと思っていた問いを改めてアインベルへと投げかけてみた。
「私は襲ってこない魔獣は動物と変わらないと、そう思う。……アインは魔獣が怖い?」
「ううん、違う。僕が怖いのは──あのさ、ねえさんはもし……もしね、この……ヴィア?……が襲ってきたら、この子のことをどうするの。殺す、の?」
「……もしそうなったら私は死にたくないから、自分がそうならないようにする。残酷かもしれないけど、当たり前のこと。でもそれは、この子にとっても同じよ。私がいきなりこの子を殺そうとしたら、この子は死にたくないから私のことを殺そうとするでしょう。同じこと、何も変わらないこと……私たちは生きてるのだから、一緒よ」
「僕はそれが怖いんだ。僕が怖いのは失ったり失わせたり、奪ったり奪われたり、殺したり殺されたりすることなんだ。……僕はねえさんみたいに割り切れない、弱いんだ」
 ヴィアの背に手を置いたまま、アインベルが俯く。
 イリスはそんな彼の元へと歩み寄ると、まずヴィアの静かな闇を湛えた黒色を見つめて少しばかり微笑んでから、アインベルの頭を撫でた。
 風は穏やかに流れ、時折石畳の脇の木柵近くに生えている草木たちを揺らしては大地の音楽を奏でている。
 イリスはそんな穏やかな静けさに呼応するように、アインベルへと声をかけた。
「自分が何が怖いかを分かっているということは、じつはけっこう難しい。同じように、自分の弱さを認める強さを持つことも難しいこと。
 ……お母さんとお父さんのことを想い浮かべようとしたとき、魔獣となった二人の姿は、想像でも想い浮かばないの。いちばん最後に見た二人の姿は、そのはずなのに。
 怖い、怖かったっていう記憶がまるでない。怖かったはずなのにね、怖かったに決まってるのに……もしかすると私は怖すぎて、なかったことにしてしまったのかもしれない。
 そしてそれをいつか想い出したら、魔獣のことがすごく怖くなってしまうかもしれない。今言ったことはすべて、忘れたがりの自分が言った綺麗事になってしまう日がくるかも。……向き合えていないのは、ほんとうに弱いのは私かもしれないわ、アインベル」
「……みんな弱いのかな、だから強くなりたいのか。だったらさ、言ってもいいんじゃないかな、綺麗事……僕は言いたいよ。誰だって汚くなりたいわけじゃないだろ?……ねえさんの母さんと父さんは、魔獣になってもねえさんのこと……襲おうとしなかったんじゃないかな。だってねえさんは二人の虹、だったんだろ。虹なんだろう、今も」
「……そうね、そう──」
 イリスは顔を上げ、その視線を石畳の続く先へと移すと深く息を吸い、その一呼吸の間だけ静かに目を瞑った。彼女の鮮やかな橙の髪と共に、電氣石に似た薄い首巻が風に吹かれてはためく。
 アインベルはイリスが向けた視線の先を同じように眺め、ヴィアはイリスの首元で揺れる昼間の虹を眺めていたが、瞼を開いたイリスがおもむろに先ほど笛として使った木の葉の一枚を思い出したように口元に当て、再び草笛として間の抜けた楽の音を奏ではじめると、一人と一頭はどこか冷ややかな色を宿した瞳で彼女のことを見つめた。
 それに気が付いたイリスは困ったように肩をすくめ、片や柔らかな緑色を、片や静かな黒色を交互に見やって誤魔化すように小さく笑う。
「……今ならいけるかもと思ったの、何となく」
「音が本人みたいに飛び回って忙しいよ、ねえさんの草笛は。吟遊詩人なんかが聴いたらぶっ倒れるかもね」
「試してみる?」
「やめなよ……」
 顔を見合わせた二人は仲良く同時に吹き出して笑い、アインベルなんかは目尻に溜まった涙を手首で拭っている。
 そんな二人の前で息吹の名を冠すアニマのヴィアが、そのアニマの名に恥じぬさながら吹く風のように涼やかな鳴き声を一つ上げた。
 そんなヴィアの声を聴いたイリスがちかりとその鮮紅の瞳を輝かせ、どこか自慢げにアインベルの方へと笑いかける。
「こういうのは私よりヴィアの方が得意。まるで風が歌うようでしょう。それにヴィアは走るのがとても速い。……乗っていく?」
「速い……どれくらい?」
「……どれくらい、ヴィア?」
 首元を掻きながらその黒曜石の瞳を見つめて問いかければ、ヴィアはやはり風が歌うような鳴き声を一つ上げて、それから少しばかりその身を揺らし、月光を受け取る草原のように光さざめく自身の青毛を震わせた。
 イリスはその揺らめく光を紅の瞳で受け取りながら楽しげに口角を上げてヴィアの上へと跨がり、それからその手をアインベルの方へと伸ばしながら、まるで宝ものを見付けた少女のように笑った。
「──風よりも!」



20161127

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