ルナ・ロッサ、銀纏いの夜に


 燃え立つ夕暮れに、遺跡の影を見る。
 イリス・アウディオは、地平に揺らめく夕陽を眩しそうに一瞥すると、再び自分が今歩いている古い石畳へと目線を戻した。敷石の隙間から、青い芽が顔を出している。
 イリスはその場にしゃがみ、手袋を外して指先でその新たな命に触れた。
 そこから伝わるのは人とは違う温度。血ではなく水の通った身体は熱を持たず、生まれたばかりのそれはひたすらに柔らかな肌をしている。
 斜陽に照らされる芽をしばらく見つめると、イリスは再び手袋をその手のひらにはめ、立ち上がった。
 心の中で柔らかな炎が揺らめくと共に、心臓が熱を纏う。
(……きっとだいじょうぶ、この世界は)
 顔を上げたイリスの目に、夕暮れの逆光に照らされた大きな影が映った。
 遺跡だろうか、と直感的にイリスは思ったがそれと同時に、果たしてこんな処に遺跡が在るという話を今まで聞いたことがあっただろうか、と心の中で首を傾げる。
(しかも、あれは……)
 イリスの目に映っている遺跡は、何やら少しずつ移動して見えた。
 それを自覚した彼女の頭にはいろいろな疑問が瞬間的に駆け巡っていったが、今此処で間違いないのは一つ、動く遺跡など今まで見たことも聞いたこともないということだった。
 イリスは気持ち早足に歩を進めていたが、やはり抑えきれなくなり石畳を蹴って走り出す。
 そもそも、この世界に遺跡を動かすというような技術が存在するのだろうか?
 いいや、もし自分の目に狂いがないのなら、動く遺跡が在るというこの情報だけでもかなりの価値が付くだろう。
 違う。
 そんなことはどうでもいい。
 わたしが見たいのは、わたしが見たいのはあの遺跡だ。
 あの中にはどんなものが在って、あの中ではどんなものが見られるのだろう──イリスは心臓の中が熱いもので打ち鳴らされているのを感じながら、鮮やかな橙と電氣石の薄布をなびかせて、更に走る速度を上げた。
(ん……?)
 動く遺跡のかたちが鮮明に見える処まで近付いたイリスは、早くも自分の目が狂っていたことを悟ったのだった。
 それに気付いた彼女は走る速度を段々と緩めてゆき、やがて普段と変わらない歩みの速度へ戻っていくと、身体中の温度を上げていた熱が、陽が沈むようにゆっくりと引いていくのを感じる。
 それから動く遺跡≠ネどという自分の、あまりにも突飛な考えを少しばかり可笑しく感じて、息を漏らすように軽く笑った。
 イリスの気配に気が付いたのか、遺跡が──大きな魔獣を二匹連れた、赤い服の少女がこちらを振り返った。未だ逆光によって微かに黒い輪郭を帯びている少女の瞳がちかりと瞬く。
 鮮やかな、しかし深くも見える赤色……
「お姉さん、すごい勢いで走ってきたけど……どうしたの」
 大きな山犬の魔獣、さながら黒檀のようになびくその毛皮に背を預けながら、少女が軽く首を傾げた。
 背後から差す光によって魔獣のその色は黒く黒く、更に黒く、濃い闇の色を纏っている。その隣にも、同様の色をした大鷲の魔獣が佇んでいた。
 二匹とも目は銀色の仮面のような装飾で覆われており、頭の頂きには金色に輝く角がそびえている。そういえば、少女も頭に角のような飾りをつけていた。
 ほとんど惚けたように彼らを眺めていたイリスは、熱い陽光が目を刺すのと共に我に返り、間を置いて、それから夕焼けを指差し言う。それは、我ながら苦しい言い訳だった。
「……夕陽に向かって、走りたい気分で」
「夕陽に?……それじゃあ、競争する? ルミノクもアウロラも、ものすごく速いよ」
「あなた、魔獣遣い……なのね」
「そう。フローレ・アド・アストルム」
「アド・アストルム……?」
 その名前に聞き覚えを感じて、イリスは頭の中の手記を捲ってみた。
 それは確か、小耳に挟んだ程度の信憑性の薄い話だったような気もするが──そうだ、この大地には魔獣と共に生きるアストルムの民≠ニいう遊牧民族がいる、ということを聞いたことがある。
 古い言葉で、星の方へと向かう民=c…
 そう、そしてアストルムの民──アストルムアド≠ェ拠点とする街は移動するのだった。
 それはさながら星を追い、夜明けから逃げるようだと、トレジャーハンターの誰かが言っていたような気がする。
 アストルムの民は身体中に、古い時代にかつて意味を持った刺青を刻んでいるため、彼らを見付けることはそう難しいことではないが、問題は街。
 彼らは何処を目指し、何処へ往くのか。
 それを知ることは、まるで逃げる影を掴むよう。
 アストルムアドの集う地、星を追っては夜明けから逃げゆく虎鶫、銀を纏いし魔獣の街……
 ハンター溜まり場の中で一人が言っていた言葉を、心の中で思い返す。
 服から覗く目の前の少女の肌には、意味までは解らないが確かに刺青が刻まれていた。
 イリスは少女の赤い瞳を自らの紅で見つめて、軽く頷く。
「私はイリス。イリス・アウディオ。トレジャーハンター。……あなたは、アストルムの民、ね」
「あれ、よくご存じで! 宝探しのお姉さんは物知りだね」
「この仕事は情報が命だから……いろいろ、話は聞く。あなたが此処にいるということは、アストルムアドの街もこの近く?」
 それを聞いた少女は、背を預けている黒き大山犬から身を起こすと、イリスの前に立ってその燃えるように赤い目を細めた。
「興味ある? 安くしとくよ」
「あなたたちの、動く街〈ヌーエ〉について?……興味は、ある。けど、もっと知りたいことが、今はある。アストルムの民……星の方へと向かう民なら、知らない?──〈星の墜ちた地〉について」
「〈星の墜ちた地〉?」
 イリスが問えば少女は腕を組んでから少しばかり唸って、自身の背後に控えている二匹の魔獣を振り返った。
 夜に染まりはじめた大地に吹く風が、少女の赤い服と黒き獣たちの深い色を静かに揺らす。
 闇のように黒い身体に、金色の角、そして銀の装飾。彼らが纏うその色たちは、さながら夜の空とそこに瞬く星々のようだった。
 そして彼らを導く少女の纏う赤は、例えるならば、それはまさしく赤い月──
 そんな風景を心の何処かで思い浮かべながら、イリスはこのフローレという少女が、おそらく自分の得たい情報を持ち合わせていないことを察すると、小さく微笑んで軽く首を左右に振った。
「もういいわ、だいじょうぶ。ありがとう」
「うーん……星の実なら、知ってるんだけどね」
「星の実?」
「そう、これ」
 言いながら少女は、肩から下げている鞄から何やら紙袋を取り出した。そして今度はその紙袋の中から手のひらほどの大きさの、星というよりは雲丹に近く見える木の実のようなものを一つ取り上げる。
 よく見てみれば、それはこんがり焼かれた菓子であった。
 少女はそれをイリスに手渡すと、もう一つ紙袋の中から同じものを取り出して嬉しそうに一口齧る。
 もぐもぐやっている少女を見つめてから、イリスもこのとげとげした菓子を一口頬張った。
 思ったよりも固くない、さくさくとした食感が心地好い。甘い蜂蜜の香りが舌を転がり、今まで食べたこともない菓子だというのに、これは食べていると何だか少しばかり懐かしい気持ちにさせられる菓子だった。
「星の実っていうお菓子。向こうの町の名物らしいよ、甘くて美味しいね」
「初めて、食べた。……確かに美味しい……ありがとう」
「──ねえ、お姉さん。お姉さんの目って、私とおそろい。私の目、赤い目、魔獣の目!……綺麗でしょ?」
 イリスは少女の瞳を見つめた。
 鮮やかな赤、しかい深い赤、魔獣の赤。
 その赤の中に不思議と夜の訪れを想ったイリスは、ほとんど無意識に言葉を唇に乗せていく。
「……綺麗だと思う。あなたの目は、暗闇の中で燃え立つ炎のように、夜に浮かぶ赤い月のように──」
 それを聞いた少女は小さく音を立てて笑うと、どこか楽しげにその赤色を細めた。
 少女は背後に控えている二匹の魔獣の身体を少しばかり撫で、それから再びこちらを振り返ってはまた笑う。
「お姉さんってトレジャーハンターだけど、何だか詩人みたいな言葉を編むんだね。目と同じですごく綺麗!……お姉さんの目は、夕焼けみたいに赤い──綺麗な目だね」
 少女の言葉に流石のイリスも少しばかり頬を赤らめると、その赤く輝く瞳から目を逸らした。困ったように首巻に手をやり、それで口元を隠してから彼女は微かに笑う。それから話題を逸らそうと、ふと思ったことを口にした。
「アストルムの民の街は、いろんな呼び方があるのね。……アストルムアドの集う地、星を追っては夜明けから逃げゆく虎鶫、銀を纏いし魔獣の街、動く街〈ヌーエ〉……」
「ああ、そうみたいだね。……お姉さんなら、何て呼ぶ?」
 問われて、イリスは顎に指先で触れた。
 自分は、アストルムアドの街を見たことがない。見たことがあるのは、暮れゆく大地の上で逆光を浴びながら進んでいく、赤を纏うフローレ・アド・アストルムと二匹の黒き魔獣、その彼らの姿のみ。
 そしてイリス・アウディオは、確かに、燃え立つ夕暮れに遺跡の影を見たのだった。
 彼らの姿を心に思い描きながら、イリスはぽつりと呟く。
「──遺跡の影=c…」
 その声を拾った少女は満足そうに頷くと、大山犬の姿をした魔獣の上に飛び乗り、こちらを見て笑いかけた。
「へえ……そっか。じゃあ、また会えるかもね」
「え?」
「お姉さんにとって私たちは遺跡の影なんでしょ? だから、また会えるかもね。紡ぐ言葉は詩人みたいでも、お姉さんはトレジャーハンターだから」
 その言葉が合図だったかのように、少女を乗せた魔獣は夜に沈みかけた大地の上を駆けていった。
 大鷲もその大きな羽を広げ、後を追うように飛び立っていく。
 イリスは彼らが夜に追い付いていくのを見届けると、自らは夜に染まりゆく深い青の空を見上げた。
 浮かびかけている月の色は、白く、白く、どこまでも白い。
 彼女は近くに見える、明かりの灯りはじめた町へと向かって再び歩を拾うことにした。
 白い月はこの空の上に。
 そして、赤い月は、黒き獣の背の上に。



20160922
…special thanks
フローレ・アド・アストルム @siou398

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