アーレの在り処


 椅子の引っくり返る音が大きく響く。
 それと同時に宙へ踊るのは、鮮やかな橙色とさながら電氣石のような虹色の布。
 ──イリス・アウディオである。
 彼女はトレジャーハンターたちが集う酒場の隅で、この地方の伝承が書かれた書物を読んでいたはずなのだが、どうしたことか、その鮮やかな赤色の瞳で何かを拾い上げると、まるで風を切るような勢いで立ち上がったのだった。
 イリスはほとんど飛ぶように目的の位置まで向かうと、そこに立っている一人の男を全体重をかけて押し倒し、その背に強く膝を突き立てては男の片腕を捻り上げた。
 中身が出てしまうのではないかというほど床にきつくうつ伏せにされた男も、その周りにいたハンターたちも突然の出来事に皆目を白黒させているが、イリスにはまるで目に入らないようだった。
 彼女は静かな声で呟く。
「……今盗ったもの、出しなさい」
「は──はぁ? 俺が何を盗ったって言うんだよ! 俺はハンターだ! 気でも狂ったのか、お前?……ああ、そうだろ! だってその目……血みたいな色≠オてるじゃねえか!」
 イリスはその言葉を意にも介さない様子で、捻り上げている男の腕へ更に力を加えた。
 持ち上がろうとした彼の脚を、自身の余っているもう片方の足で叩き付けると、今度はその背に刃を突き立てることも辞さないというような声で、彼女は男の目を見て問いかけた。
 血みたいな色≠ニ彼が言った、その瞳で。
「聞こえなかった?……今盗ったものを出しなさい、と言ったのよ」
 赤い瞳で見据えられた男はとうとう観念したように、痛みやら何やらの混じった唸り声を上げると、未だ床に強く伏せさせられた状態で上着の内側から古ぼけた布袋を取り出し、力任せにそれを床へ放り投げた。
 そうして大きな舌打ちを一つすると、彼はイリスとは目を合わせずに怒りを抑え付けたような声で言う。
「盗人と、トレジャーハンター……それの何が違うって言うんだよ……どっちも、盗んでる。……盗んでる、だろ……!」
 周りのハンターたちの数人が目を見合わせる。やはりそれにも気付かないイリスは深く息を吸うと静かな、しかし揺るがない声で言葉を音にした。
「違う。私たちは、狩人よ。──狩ることはしても、あなたのように奪うことはしない。……絶対に」
「……ああそうかよ……ちくしょうが……!」
 そうしてようやくイリスが男から身体を離すと、彼は脇目も振らずに扉を乱暴に押し開け、酒場の外へと駆けていった。一部始終を見ていたトレジャーハンターの中の誰か一人が、ひゅうっと軽く口笛を吹く。
 それがイリスに聴こえていたかどうかは分からないが、彼女は小さく溜め息を吐いて男が叩き付けた布袋を拾い上げた。それは思ったよりも軽かったが、しかし多少の銅貨や銀貨が入っている音がした。
 彼女はそれを軽く掲げて辺りを見回し、やはり静かな声で問いかける。
「……これ、誰の?」
 しかし、誰も答えない。
 もどかしくなったイリスが一歩進んでみれば、ハンターたちは更に一歩引いた。
 どうせこのままでは埒が明かない、と悟ったイリスは軽くかぶりを振り、少しだけ息を吐いて酒場のカウンターにその布袋を置く。そしてカウンターに踵を返すと、先の男とは打って変わって落ち着いた様子で扉を開け、そのまま酒場の外へと出ていったのだった。


*



 空はまだ明るい。
 白い雲の隙間から時折覗く澄んだ青い色が、この世界にはまだまだ無数の宝が眠っているということを告げているような気がして、イリスはその色の眩しさに思わず目を細めた。
(あの酒場はしばらく使えない、かも……)
 酒場を出てすぐに、男に飛びかかるまで読んでいた本をカウンターの上に忘れてきたことを思い出したが、周りの目をあまり気にしないたちのイリスも流石に、あの騒ぎの後ですぐに彼らの溜まり場に舞い戻るのは気が引けた。
 幸い、本の内容は何度も読んだものなので頭の中にしっかり書き写されている。
 トレジャーハンターの中には、自分のように本が好きな者もいるだろう。そういう誰かがあの本を拾ってくれるのなら、それはそれでいい。
 イリスはあの本のことは諦めようと、自身の歩を拾いはじめた。
(それにしても……)
 太陽の光が目を刺して、ふと、イリスは男の言った言葉を思い出した。
(人にはそう見えているのね、この目は……血みたいな色=Aに)
 ──イリス・アウディオは変わり者である。
 此処、商業都市〈ルナール〉のハンター溜まり場や、それ以外の場所でも、自分に対してよくそう囁かれているのは知っていた。
 橙の髪に鮮紅の瞳、電氣石の首巻……そういった人の目を引く容姿の割には少ない言動、そして読めない表情、いつも何を考えているか分からず、溜まり場では隅の方で本を読んでばかり。そのくせ動くときには素早く動き、しばしば周りを圧倒する。
 トレジャーハンターになりたての頃は、声をかけてくれる者も多くはなかったが確かにいた。しかし、彼女はあまり愛想がなく、やはり何を考えているのかが掴めないところがあるため、最近では彼女に話かける者もめっきり減ってしまったのだった。
 何を考えているか分からないと言われる理由は分からないが、愛想がないことに関しては当の本人も一応は自覚していることなので、一度は直そうと彼女も奮闘したものだったが、これはもうどうにもならないことらしい。
 友人がほとんどいないまま生きていくのは少しばかり寂しいことのような気がしたが、しかしできないものは仕方がない。要するに、この件に関して彼女はあらかた諦めているのだった。
「──何か失くしたのかい、ねえさん」
 あの騒ぎの後だ、何となく気が抜けたままぼんやりと市街を歩いていると聞き覚えのある声を耳が拾った。
 イリスが目線を声のした方へ持っていくと、そこに在ったのは、金紅石のような色をした二つの三つ編みと、老竹色をした丸くて穏やかな瞳。少年である。
 この少年──召喚師の失せ物探し≠ナある少年は、手に在る鈴の杖を鳴らすと、イリスに向かって軽く手を振った。
「……アインベル? どうしてこんな処に……」
「なんでって僕、今日はこの辺りを仕事場にしてるんだよ、ねえさん。……ねえさんこそ、何で此処に?」
「ああ……〈星の墜ちた地〉の手掛かりを、探してた」
 アインベル・ゼィン。
 それが、この少年の名前である。
 イリスをねえさん≠ニ呼んで慕うこのアインベルは、イリス・アウディオの弟、義理の弟だった。義理の、というのは二人は血が繋がっているわけではなく、かつて同じ孤児院で育ったきょうだいだからである。
 アウディオ孤児院=Bそこで、イリスは育った。
 イリスの両親は、イリスがほんの小さい頃に魔獣となり、住んでいた村の者たちに処分されたとイリスは聞いている。魔獣となった人間の子どもであるイリスは各地の孤児院をたらい回しにされ、やっとそんな自分を受け入れてくれたのがアウディオ孤児院だったのだ。
 やはりはじめの頃は、孤児院の子どもたちに多少遠巻きにされたものの、あの孤児院では勉学に励むことができた上に、なにより後に入ってきたアインベルが自分を敬遠することなく姉と呼び慕ってくれた。それは、今も想い出として宝ものとして、この胸の奥に優しく残っている。
 しかし、そうは言ってもイリスは自分の両親のことは、ほとんど何も憶えていない。声も顔も、温度も、名前も、家名すらも。
 憶えているのは、両親がトレジャーハンターだったということと、二人が自分に付けた古い言葉で虹≠ニいう意味をもつ、このイリス≠ニいう名前、そして、いつか二人が言っていた──
「〈星の墜ちた地〉の宝を見たい=c…」
「……ねえさん……」
 いつか両親が言っていた〈星の墜ちた地〉、その地に眠っているだろう宝──自分に虹の名前を与え、虹と呼んでくれた二人が見たいと言ったその宝を、イリスは自分も見てみたいと思う。
 両親の顔や声や名前を思い出せないのは哀しいことだと、そんな風に誰かが言っていたような気がする。それは、そうかもしれない。いいや、そうなのだろう。
 けれど、わたしは覚えている。二人が自分に虹と名付けてくれたことを、虹と呼んでくれたことを、わたしが二人の虹で在ったことを。それだけ在れば十分だ。それこそが、わたしの宝なのだ。だから、わたしは見たい。
 二人が見たいと言った、〈星の墜ちた地〉の宝を……
「ねえさん、もし……」
 アインベルが不安げな表情でこちらを見上げた。イリスは微かに首を傾げると、彼に言葉の続きを促す。
「もし、もし……だけど。もし、〈星の墜ちた地〉がこの世界に、存在しないものだったら……?」
「……いいえ、在る」
「でも……僕は聞いたことないよ、そんな処」
 目線を逸らしてそう呟くアインベルの髪にイリスは手をやると、その透き色に限りなく近い水色とそこに交じる金色を優しく撫でた。
 それからアインベルと目線を合わせ、己の鮮やかな赤色の瞳に閃光のような煌めきを宿し、そして微かに口角を上げて彼女は頷く。
「──在るわ」
「……それ、トレジャーハンターの勘……ってやつ?」
「そう、かも」
「……ねえさんがそう言うんなら、在るんだろうね。ねえさんは生まれついてのハンターだから」
「……ええ、ありがとう」
 微笑んで、イリスは自分の瞳に片手を持っていった。
 もし、この目が人には血のような色≠ノ見えているものだとしても、その色は、自分にとっての宝なのだ。
 この髪も、この目も、肌も声もすべて、最早想い出せないことの方が遥かに多い、それでも確かにたいせつな存在だった両親からもらった、唯一かたちとして自分の手の中に在る、宝。
 イリスは空を見上げた。
 白い雲の間から見える青色は先ほどとは少し表情を変え、今は微かに柔い黄色を纏っている。
 この空がこうして色を変え続ける限り、わたしは夢を追い続ける。
 どれだけ長い旅路になろうとも、どれだけこの大地が暮れてゆこうとも。
 たとえ、見付けることができなくとも、掴むことが叶わなくとも。
 いいや、見付けるのだ、絶対に。
 掴むのだろう、絶対に。
 イリスの瞳が再び閃光の色に煌めく。彼女は太陽の光に手を伸ばし、それを掴むように手のひらを強く握った。

 ──宝は雲の上にも、大地の上にも、そしてこの、胸の中にも。



20160918

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