ヴィエーチルの馬


 白く濃く、そして深い霧は、まるで亡霊が我々をこちら側へ招くように舞い踊るさまである。
 ……ちなみに、亡霊は見たことがない。

 イリス・アウディオは、上着の物入れから取り出した手記にそう記し、それを再び上着の中へ仕舞うと、隣に引いている青毛の馬を眺めた。その首筋を掻いてやりながら、イリスは馬の発する風の音のように涼しい鳴き声を聴く。
 ──美しい馬だ。
 しかし、馬ではないのだった。
 この美しく賢い馬アニマ≠ヘ、れっきとした魔獣なのである。
 アニマ──古い言葉で息吹≠ニいう意味らしい──は、一見してただの黒い馬にしか見えない、しかし馬よりも賢いとされる馬型の魔獣。その青黒い体毛は、彼らが走るたびさながら草原のように波打ち、その気高き声は風が吹き抜ける音のようである。
 アニマは、魔の風を喰った馬と云われている魔獣なのであった。
「もうすぐ、目的地。……ご主人さまの処へお返しするまで、あなたのことをあだ名で呼んでもいい?」
 このアニマは小さき町〈クローリク〉の外れにて、魔獣貸し屋から借りた魔獣である。この世界に魔獣貸し屋なるものが在ることを、こんにちイリスは初めて知ったのだが、これは中々の掘り出し物だった。
 町に着いてすぐ、なるたけ速い馬を貸してくれとイリスは〈クローリク〉の馬貸しに申し出たのだが、何せ人の入りは多いくせに小さな町だ、馬はすべて貸し出してしまっていた後だった。
 どうしてもだめか、と馬貸しに尋ねてみたところ、馬貸しは至極愛想のない顔で〈クローリク〉郊外の方を指差すばかりだった。
 仕方なしにとイリスが示された方へ歩いていけば、そこで出会ったのは一人の女性。今回アニマを借りることになった、魔獣貸し屋である。イリスが名乗り事情を告げると、彼女もベラと名乗り、イリスに一頭の馬を紹介した。
 ──それが今、白霧の街道を共に歩んでいるアニマだったのだ。
 そしてそのとき、イリスは郊外の牧草地で駆けるアニマを見て、思わず息を呑んだ。
 大気を駆け抜ける疾き嘶き、怜悧さの滲む瞳に、その毛並みの何と美しいこと!
 イリスはさっそく宝を見付け出したような顔をして頷いた。こいつは魔獣だよ、と魔獣貸し屋のベラに言われるまでは、そのことに微塵も気が付かなかったイリスである。
 とにもかくにも魔獣と旅路を共にするのは今回が初めてだ。しかも、ともすると馬よりも美しい馬の魔獣と。こんな機会は、そうあったものではない。
 普段から口数が別段多いわけでもないイリスだが、今日ばかりは道中、あれこれやたらとアニマに声をかけているのだった。
「ヴィア≠ヘ、どう?……昔の言葉で、道≠ニいう意味。それに、あなたの主人……ベラとも、発音が少し似ている。ベラと、ヴィア」
 ヴィアと呼ばれたアニマは、そのすべてを見抜くような瞳でイリスを一瞥した。
 これといって魔獣と触れ合ったことのないイリスには、それが肯定なのか否定なのかいまいちよく分からなかったが、とりあえずは肯定と受け取っておくことにした。
「じゃあ、ヴィア……帰りも、よろしくね。私はこの先に用事がある、あなたは此処で待っていて」
 霧のかかる長い街道の先、そこは更に霧が深く、動物も人も気を抜けば何処を歩いているのだか分からなくなってしまいそうだった。それ故、この先に人が足を踏み入れることはまずほとんどない。
 かつては〈マオルヴルフ〉と呼ばれた湿原の里、今では迷い霧の里として恐れられているこの土地に、イリスは足を踏み入れようとしていた。
 そして、まもなく彼女はヴィアに里の前で待つように伝えると、自分は特に躊躇う様子もなく、さっさと迷い霧の里へと進んでいってしまった。
(……確かにこれは、迷いそう)
 街道を外れ、一歩一歩を確かめながら里の中を進んでいくイリスは、その予想以上の霧の深さに眉根を寄せた。
 瞬きをしただけで、どちらから来たのかが分からなくなりそうな白の濃さ。その痺れるような湿気の多さにも、気を抜けば少しばかり頭がぼんやりとしそうだった。イリスはその痺れを追いやるように、浅くかぶりを振る。
 大きな岩をそのまま削ったような階段を上っていくと、霧に埋もれた小さな家が何軒か見えてきた。未だ鍵がかかっていることを見るに、やはりこの地に人は早々足を踏み入れないらしい。
 ……誰しも、自分の命は惜しいものだ。
 そしてそれはイリスも同じだったが、しかし彼女はこの恐怖と期待が一緒くたになったような感覚によって己の命を燃やしては、それにより生き長らえているようなものなのだ。
 未だ手付かずの地>氛气gレジャーハンターにとって、これ以上に心が昂る言葉を、イリスは知らない。
 イリスは昔、悪用しないようにと再三念を押されて頷き頷き、証書まで書かされた挙句、その末に何とか鍵師から買った鍵師の七つ道具≠ナ目の前の扉をいとも簡単に開けてみせると、その小さな家に歩を進めようとした。
 しかし、何処からか水のせせらぎが聴こえてきたような気がして、イリスは一瞬立ち止まる。
(……水が湧き出ているの?……珍しい)
 そうして家に背を向けると、水の流れる音が聴こえてくる場所まで、耳だけを頼りに進んでいった。
 湿気によって肌に張り付く髪を鬱陶しそうにかき上げながら、イリスは目の前が白く霞むのを感じる。深い霧のせいで視界が不明瞭なのだろう。
 それより、この地の水が飲み水になりそうなものなのならば、やはり何処かのギルド──或いは〈ソリスオルトス〉の各地に点在する、やたらに大きい目安箱のような郵便屋のような新聞屋のような機関、もとい〈語る塔〉辺りに報告した方がいいのだろうか。
 しかし、そんなことを考えたことも最早時間の無駄でしかなかったことを、イリスは目の前に広がる水源を視界に映して知ることになった。
 先ほど聴こえた水のせせらぎは、滞り流れることのできなくなった水の微かな呻き声。イリスの眼前に臨むのは飲み水にはほど遠い、内に毒素を秘め紫色を湛えた、腐りかけの小川だった。
 イリスは溜め息を吐く。
 ──それと同時に、身体から力が抜けた。
(……しまった。近付きすぎた……?)
 雪虫が忙しなく飛び交うような視界で、毒の川を見つめる。しかし、近付きすぎたとは言ってもこんなにすぐに毒が回るとは思えない。
 ふと、イリスの靄のかかった頭の中に、一閃稲妻の光が差し込んだ。
(そうか、霧──)
 霧にもこの水源から発せされる毒素が含まれていたのだろう。そういえば、道中何度か視界が白く滲むことがあった。霧によって吸った毒素が、今ちょうど身体全体に回り切ったのだ。しかし、そう理解したところでこの痺れが治まってくれるわけではない。
 だが、これでもイリス・アウディオはトレジャーハンターの端くれである。解毒薬くらいは常に持ち歩いているのだった。
 痺れにより震える手で腰辺りに着けている帯革、そこに装着された鞄の中身を漁ると、解毒薬の入っている瓶が指先に触れる。これだ。
 そう思い鞄から取り上げた瞬間、自分の手に思ったよりも力が入らずその瓶を取りこぼしてしまった。致命的なことに、瓶は地面の上に転がり、割れはしなかったものの霧の中へと消えていった。
 それを一瞬呆然として見つめたイリスはすぐに正気に返り、気を抜いた瞬間気を失いそうな自分自身を戒める。此処で気を失うのは、流石に不味いだろう。
 自分を律しながらイリスは考える。体内から毒素を抜きつつ、痺れから気を逸らす方法は自分が思い付く限り一つしかない。
 イリスは己の真紅に輝く短剣を抜き、自らの左腕上部にあてがった。そして、その剣を迷いなく引く。じりっと燃えるような痛みが一瞬だが頭を支配して、イリスの視界が先ほどよりは鮮明になった。
 後に止血をするときのために使おうと、イリスは自らが着けている布製のアームカバーと、それから黒い手袋を邪魔になったついでに手から外した。
 左腕から流れる血が、中指を伝って地面に滴り落ちる。
 あまり、時間はない。己の身体が限界になる前に何とかして里を出て、街道へと戻らなければ。
 毒素の漂う霧の中で、いつ頃止血をすればいいのか計り兼ねながら、イリスは里の中を彷徨った。
 ──まさしく、迷い霧の里……
 このようでは流石のイリスも危機感を覚えるものである。しかし、そんな彼女の耳が風の吹く音を拾い、イリスははっとして顔を上げた。
 それは、里の霧こそ掃わないが、イリスの視界の雪虫を根こそぎ追い払う疾き風の音だった。
「……ヴィア」
 イリスの目を、青き黒き毛並みを纏った一頭の魔獣が鋭い瞳で見据える。イリスはその目を見て、優しげな息を零すと、里の中に入る前と同じようにその首筋を掻いてやった。
「血のにおいが、したのね」
 イリスはその気高き魔の獣の背に跨ると、白の内に毒が渦巻く霧里を抜け、町へ続く街道から〈クローリク〉への帰還を悠々と果たしたのだった。
 その手の革袋に、いつの間にやら手に入れた迷い霧の里〈マオルヴルフ〉の戦利品を詰め込み、そして、個人的なお礼≠ニしてベラ宛に里で手に入れた、光の当たり具合によって黒に、青に、緑に移ろい色付く、小さいものだが美しい石を収めた布袋をヴィアの首に下げさせて。


*



「──だから、帰ってこれた。普通の馬だったら、無理だったと思う。この子は賢い、いい子……私の道≠セった。里に行くのに借りた馬があなたのアニマでよかったわ。ベラとヴィアに出会えた私は、運がいい。……ありがとう」
 ヴィアを返しにベラの魔獣貸し屋が在る〈クローリク〉の郊外へ真っ先に向かったイリスである。
 イリスの止血は一応されているが、それでも血の跡が残っている左腕を見て、魔獣貸し屋の彼女は一瞬ぎょっとした表情を浮かべたが、特に自分にもアニマにも問題がないことを伝えると、少しばかりほっとしたように息を吐いた。
「そうかい、そりゃよかった──って、ヴィア=H」
「……そう、ヴィア=v
 イリスは頷いて、アニマにつけたヴィアというあだ名の意味をベラに告げる。それを聞いた彼女は一瞬言葉に詰まった後、ぶっきらぼうにしかしどこか照れ臭そうに目線を外し、少しだけ笑って呟いたのだった。
「何というか……あんた、ほんと物好きな奴──だね」



20160914
…special thanks
ベラ・クロウ @hasu_mukai

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