わが名はイリス


「あら、随分賑やかね」
 イリスは草原に広がる黄金の光に目を細めながら、その声に振り返った。
「マリーナ。ごめんなさい、うるさかった?」
「此処が騒がしいのは、いつものことよ」
 煉瓦造りの教会の裏側から出てきたマリーナは、自身の修道衣にくっ付いた草の切れ端を両手で叩いて払いながら笑った。
 それから教会の目の前で、楽器を片手に集まっている四人組へと視線を向け、その近くで座り込んでばつの悪そうに笑うアインベルにも顔を向けた。
「何でもいいけど──最近あなたたち四人組が此処に出入りして、好き放題にかき鳴らしていくおかげで、うちのちびたちが自分たちにも何か楽器を買ってくれってうるさいのよ。そろそろ手に負えないから買ってやろうと思ってるんだけど、そのときはちゃんと責任とってちょうだいね」
「えっ、責任?」
 リュートを抱える男が素っ頓狂な声を上げてマリーナを見た。
 マリーナは呆れたように肩をすくめてはかぶりを振り、教会の窓からひょっこりと顔を出している数人の子どもたちの方を、自身の首を軽く動かして示した。
「教えてやってってこと」
「教え──あ、ああ! もちろん!」
「ねえちょっと……あんた、此処に通う口実ができたとか思ってない?」
 喜色に溢れるリュートの隣でハーモニカを片手に持つ女が、平たすぎて怒気をはらんですら聞こえる声を彼へと投げかけていた。リュートがハーモニカの方を振り返り、彼らは目が合うとそこにばちっと火花を散らして睨み合う。その近くに座って、片やバグパイプを膝の上に、片やジャンベを膝で抱えている二人の男は顔を見合わせ、犬も喰わないという風に苦笑いをした。
 アインベルは胡坐を掻いた膝に頬杖をつきながら、未だばちばちと視線の火花で音を立てている二人を見やって呟いた。
「言っとくけど、ねえさんはそこまで頻繁に此処には帰ってこないからね」
「えっ」
 再び素っ頓狂な声を上げたリュートに、ハーモニカがいよいよ怒る気もしないというように溜め息を吐いた。
「そりゃそうでしょ。あれはあたしたちとおんなじ、ハンターなんだから」
「えー……」
「えー……じゃないわよ。あんたさぁ、その惚れっぽいの、そろそろ何とかならないわけ?」
「人生の醍醐味だろ? それに俺は毎回本気だぞ!」
「そりゃ愉快な人生で結構なことね」
「何だよ!」
「何よ!」
 そんな二人のやり取りに、二人以外の者は呆れ返って皆声も出ないような様子である。
 孤児院の教会から少し離れた場所で草を食んでいるヴィアの青毛が、陽に照らされて広がる草原のように光さざめいていた。その姿を眺めていたイリスは、背後で何やらぎゃあぎゃあおっぱじめたのを聞き取ると、少しだけ笑いを洩らしながら振り返る。
 それからハンター四人組の前に立っているマリーナの隣へと歩を進めると、流れが統一されているために、最早一つの曲にすら聞こえるリュートとハーモニカの言い合いを聴いて、小さく笑い声を上げた。彼女の紅の瞳がちかりと輝いている。
「聞いてよイリス、こいつは恋が人生の醍醐味なんだってさ。笑っちゃうでしょ」
「恋?」
「そ、恋。ろくなもんじゃないわ」
 イリスは折り曲げた人差し指を唇に当てて軽く唸った。それから、青い画布に白い絵の具で、自由に想うためのかたちを描いている空を見上げる。
 大きな鳥が翼を広げ、遠くに青く連なる山々へと飛んでゆく。
 風を纏って翔けていくその瞳は、暮れゆく大地を歩む遺跡の影を見ただろうか。
 霧深い、迷いの里の踊る亡霊を見ただろうか。
 植物に支えられ、老いても立つ熱の遺跡を見ただろうか。
 竜の心臓をもった機械の人形が守る、巨大な薬草園を見ただろうか。
 星が墜ちて生まれた山里の夜に架かる、虹色の布のはためきを見ただろうか。
 朝焼けを、
 昼中の光を、
 黄昏を、
 夜の闇を、
 空を、
 大地を、
 海を、
 太陽を、
 星を、
 月を、
 呪いを、
 ねがいを見ただろうか。
 イリスは目を瞑り、今まで見てきたすべてを想うように静かな息を吐いた。
 それから彼女は瞼を上げると、リュートと頬のつねり合いをしているハーモニカの方へと視線をやって、瞳に虹の火の粉を宿しながら微笑み、頷いた。
「確かに、恋は人生の醍醐味ね」
「──えっ」
 今度はマリーナも含むその場にいた全員が素っ頓狂な声を上げ、びっくりしたような視線をイリスへと注いだ。イリスはそんな彼ら彼女らの視線を受けて、しかし事もなげに、いつも通りの言葉を紡いでいく。
「私もけっこう、惚れっぽいから。大体いつも一目惚れなの。たとえば──」
 楽しげに言葉を紡ぐイリスとは裏腹に、リュートが頭から芝生へと卒倒していた。
 そんな彼の様子を見てハーモニカは疲れたように唸りながら額に手を当て、アインベルなどはまだぎょっとしていたが、しかし倒れた彼のことを誰も助け起こそうとしないのは、彼がいつもこんな調子だからである。
「──此処から少し南に行った処に在る果樹園。みんな、見たことがある? 色とりどりの果物が木になっていて、水をたくさん宿したそれらが陽の光を浴びているの。白い光に煌めいて、まるで宝石のようだったわ。収穫した果物を幾つか貰ったのだけれど、いちばん美味しかったのは──」
「ああ分かった分かった、あんたはそういうやつだったわね、分かってるわよ」
「……だって私はトレジャーハンターだもの。恋がなくては動けないし、夢がなくては追えないし、愛がなくては語れないわ。……そうね、浪漫ってやつよ。分かるでしょう?」
「分かりますとも。悔しいけどね」
 イリスはハーモニカの言葉に満足げな表情をして頷いた。マリーナとアインベルは、イリスの恋というものに大体の予想がついてはいたが、それでもどこか安心したように小さく息を吐いている。
 イリスとハーモニカの会話を聞いていたジャンベが、ふと気が付いたようにハーモニカを見た。彼の視線を感じたハーモニカは振り返ってジャンベを見、勝気な眉を片方だけ微かに上げる。
「何よ?」
「いや……イリスの言ってることも分かることは分かるが、お前の言ってたこともあながち間違いじゃないなと思って」
「何それ、どういう意味?」
「ほら、恋はろくでもないってやつ」
 ジャンベは瞳を細めて、にやりと笑った。
「確かに俺たちハンターは、毎度毎度ろくなもんを好きになりゃしねえ。毎回、死に片足を突っ込む命がけの恋ってわけだ。高値の花にも程があるぜ、俺たちのお宝ちゃんはよ」
「……最悪。何であたし、トレジャーハンターなんてやってんだろ」
「恋をしてるからだろ? 何にとは言わないでやるけどな」
「はっ倒すわよ!」
 怒声を上げるハーモニカを横目に、イリスの隣でマリーナが笑った。彼女の青い瞳が、太陽の光を浴びて煌めいている。
「楽しい人たちね、あなたの友だちは」
「みんなが弾く音楽も、すごく楽しい音色をしてるわ」
 イリスの言葉にマリーナは頷き、彼女はその澄んだ青でイリスの輝く紅の色を見た。ただ、そこには少し、翳る水面の色も混じっていたかもしれない。
「イリス、オレハ婆は……」
「……まだ、目覚めないわ」
「そう……」
「でも、約束をしたの。オレハの歩いた道を、私は教えてもらうって。だから、だいじょうぶ。きっとだいじょうぶよ。いつかは──」
 話す二人の周りを、音色が踊りながら過ぎ去っていく。
 風に乗って遠くへと流れゆくその音楽は、いつかのどしゃ降りに奏でた青空を名乗る嵐の歌、星降る洞窟の中を、大声で歌っては夜を越えた嵐の歌。
 イリスがハンター楽団へと視線を向けると、そこにいる四人の誰もが瞳を楽しげに煌めかせて、悪戯っぽく口角を上げて笑った。
 イリスと目が合えば、いつの間に起き上がったのかリュートは相も変わらずに草原の上を奔り出す。それを見越しているジャンベは最早彼よりも先を奔り、バグパイプはそんな二人の様子を眺めながら自分の調子で空を翔ける。だが奔る彼らが誘った雲が雨を呼び、その雨が自身の翼を濡らした瞬間、彼は楽しげにも聴こえる怒りの咆哮を彼らへと向けて発するのだ。ハーモニカはそんな彼らの手綱を握ろうと最初は奮闘していたが、その内に堪忍袋の緒が切れて、彼女自身が竜巻を呼ぶ風となる。
 そして、アインベルの鈴の音と、孤児院の中から響く手拍子も風の中に入り込み、こんにちの嵐の歌は雨と雪と雹が一緒になって降っているような有り様だった。
「……イリス、あなたは相変わらず分かり易いわね。強がっちゃって」
「でも……強がって目を開けてないと、見えないものもある」
「またそんなことを言って……」
「だいじょうぶよ、マリーナ。もう、だいじょうぶ」
 イリスはマリーナの瞳を見て微笑んだ。暮れない彼女のその紅色が、マリーナの澄みわたる水面の色や光さざめく草原の色を受け取って、さながら虹のように輝いている。
 イリスは自身の熱い両手で、マリーナの傷だらけの手のひらを包み込んだ。マリーナの両手は、紛れもなく母の手だった。
「私は独りじゃないって、気が付いたから。ずっと、独りなんかじゃなかった。だからもう、だいじょうぶよ、かあさん」
「イリス……」
「今更だよね、ほんとにさ」
 滲んだ声を洩らしたマリーナの横から、先ほどまで座り込んでいたアインベルがひょっこりと顔を出した。イリスが彼の名前を呼ぶと、彼はハンター楽団の奏でるやかましい音楽を背後に、自身の手に有る鈴の杖をしゃんしゃんと鳴らして笑う。
「そろそろ往くんだろ? ねえさん、そういう目をしてるよ」
「ええ。アインもヴィアに乗っていく?」
「もちろん」
「……アインベル、そろそろ姉離れをしなさいね」
 イリスとアインベルのやり取りを聞いていたマリーナが、どこか呆れたような声で言った。
 アインベルが音も聞こえてきそうなほどの勢いでマリーナに振り返ると、彼は一瞬かあっと耳を赤くしたのち、しかし動揺を悟られないように静かに息を吐いた。それから軽く咳払いをすると、アインベルは折り曲げた人差し指を唇にやってわざとらしく溜め息を吐き出す。
 マリーナはそんなアインベルの様子を見て、イリスときょうだいだなと思わずにはいられなかった。
「……逆だろ。僕じゃなくて、ねえさんが弟離れできないんだ」
 その言葉を聞いたイリスは、なるほどと言うように頷いた。
「ああ……そうね。私もそうだと思うわ。ええ、アインの言う通り」
「そこは否定してくれよ、ねえさん……僕が馬鹿みたいだろ……」
「でも、ほんとうのことだもの」
「分かってる、分かってるよ、ねえさんに訊いた僕が馬鹿だった!」
 アインベルが真っ赤な顔を最早隠すこともできずに声を上げ、そんな彼の様子を見たマリーナは、からかうようにアインベルの頭を撫でて笑った。
 アインベルが何やらもぐもぐ言っている内に、イリスは草笛で気の抜ける音色を奏でては、遠くで草を食んでいるヴィアのことを呼ぶ。
 ハンターたちがやりたい放題に楽の音を奏でているその最中でも、ヴィアを呼んだイリスの言葉は風に乗り、いつもと何ら変わらずヴィアの耳へと届いたらしい。たてがみをさながら風の吹く草原のようになびかせながら、ヴィアがこちらへと駆けてくる。
 その様子を目にしたハーモニカは、ふと演奏を止めてイリスに問いかけた。
「これから何処に往くの、イリス?」
「そうね……」
 イリスが呟きながら、風に乗って音色が流れていく方角を見上げると、そこにはまばゆい太陽が虹の光冠を戴いて、教会の立つこの草原を黄金の色に輝かせていた。
 彼女は虹の光冠へと続いていく風に導かれるようにしてヴィアの背に跨ると、背後のマリーナかあさん、それから教会の窓から顔を出している自身のきょうだいたちに手を振った。
 その中にはトニトルスの顔もあったが、しかし目が合うと彼は怒ったような顔をして、それからついと視線を逸らしてしまった。まったく困った照れ屋である。一体誰に似たのだろう。
「おい、じゃじゃ馬。まさか俺らを置いてこうなんて考えてないよな?」
「あんたは見る目があるし、ベル坊は耳がいい。ちなみにあたしは両方いいから、あんたの宝探しに連れていって損はないわよ、イリス。こいつらはともかくとして」
「……ベル坊って呼ばないでくれよ」
「えーっと俺は……あ、こう見えて細かい作業が得意だ! たぶん何かの役には立つぞ、イリス!」
「……悪いが、こうなったこいつらはもう手に負えん。俺を含めてな。だからまあ、一緒に往こう、歌でも歌いながら!──世界中、何処にいたって聴こえるやつを!」
 イリスの鮮紅の瞳が、虹の火の粉を宿しては陽光の光を受けて、ちかりとまばゆく煌めいた。
 イリスはヴィアの上で身を屈めると、その首元を柔らかく掻き、暮れない色を秘めた自身の瞳をヴィアの静かな黒曜石へと向ける。イリスの虹の紅から色を受け取ったヴィアの瞳もまた、瞬きの間ばかりは、その火の粉に煌めいていたかもしれない。
 イリスは身を起こすと、アインベルが自分の腰に両腕を回したのを感じ取りながら、自分たちの馬を呼んでいる四人組へと視線を向けて悪戯っぽく笑った。
「ヴィアは速いわよ、風よりもね」
「そうでしょうね。でもあたしたちの馬も速いわよ、風よりもね!」
 そう声を上げたハーモニカが、太陽の光と風を受けて、黒の体毛を星々の如くに輝かせている一頭の馬に跨った。他の三人も、同じ血が流れている、黒曜石のような瞳をもつ馬に騎乗すると、イリスの方を見て楽しげに口角を上げる。
 イリスもまた、楽しげに目を細めたのちに笑い声を上げ、頬を滑っていく柔らかな風と、天上に輝く虹色の冠の姿を想った。
「──いってらっしゃい、イリス!」
 マリーナが名を呼び、イリスに声をかけた。
「いってきます、かあさん!」
 そう言葉を発して駆け出した彼女のたそがれの旅路の上には、首元で揺らめく極光から虹色の軌跡が描かれていた。
 暮れては輝くこの大地を、彼女は往く。
 呼ばれるための名前を、その身に宿して。



20170522 了

- ナノ -