アニマ


「そういえば」
 発する声と共に、こつこつと歩みを進める靴音が遺跡の壁から壁へとぶつかり、急ぎ足に奥へと進んでいった気配を聴き取る。
 右、左、右、左。どちらがどちらに合わせているのか、ほとんど均等に鳴る二人分の足音を反響させ、しかし壁も床も天井も、何か言葉を発するということはなかった。強いて言うなら沈黙か。けれどもその沈黙さえ、老いた方が発した声によって破られたばかりである。
「おれは、次に会ったときに決めると、そう言っておったの」
「え?」
 イリスは隣を歩く老錬金術師に怪訝な顔で振り向き、そのまま数歩足を進めた。
 右手は遺跡の古ぼけた壁――しかし、彫り物をされている部分だけは、魔術でもかけられているのか妙に鮮明に遺っている――に触れ、この遺跡を踏破するための暗示や示唆を探している。ただ、彼女としては此処に彫られているのが、それ以外――たとえば、見たことも聞いたこともない言語や、詩、物語の類――でも大歓迎なのだが。今、この手で触れている彫り込みの一つは、最早術でしか遣われなくなって久しい、いにしえの人々の言葉。千二百年ほど前のものだったか、この単語は現代で言うところの名≠意味している。
 それを自覚すると、イリスははたとしてクエルクスの目を見やった。
「……もしかして、あだ名の話?」
「その通り。よく覚えていたものじゃなあ」
「あだ名、か……」
 にやりと笑むクエルクスにイリスはそう呟いて、視線を天井へ向けた。天井にはこれといった装飾もなく、ぱかりと開いて針山や鉄球、或いは大量の水が降ってくるような仕掛けや、そもそも天井自体がこちらをぺしゃんこに潰そうと下がってくるなどという罠もなさそうだった。ちらりと視線だけで隣を見る。まあ、そういった罠に掛かってもおそらくは逃げ切ることができるだろう。この御仁は、典型的な術師の代表と言うような見た目をして、じつのところ、べらぼうに足が速い。
 イリスは視線を前に戻し、右手は未だに壁を辿りながら、ほんの少しだけ困ったように唸った。
「最近、じゃじゃ馬≠ニはよく呼ばれるわ」
「じゃじゃ馬?」
「そう、じゃじゃ馬」
「……ほう、それはそれは。今までのものに引けを取らないほど、不名誉なあだ名じゃの」
「……クエルクス、面白がってるでしょ」
「いやいや、まさかそんな」
 くつくつと喉の奥から笑いを洩らし、緩やかにかぶりを振るクエルクスに、イリスはそれでもふっと微笑んだ。自分のことをそう呼ぶ者たちのことを想い出したのだ。そうして細めた瞼の睫毛から、どれだけの光が零れ落ちていたのだろう。クエルクスはイリスの方を見て、手にしている大樹の長杖でとんとんと遺跡の石床を叩いた。
「なるほど、愛しき不名誉というわけか」
「嫌いじゃないわ」
 今日もいずこかを動く遺跡の影として闊歩しているだろう、どこぞの魔獣遣いかのような物言いをして、今まで右の指先でなぞってきた、遺跡の壁に彫られた言葉を頭の中で繋げてみる。新たな名を恐るるなかれ=A誰そ彼の目より見出したる汝、その姿を=c…
「……同じ処をぐるぐると回っている気がする」
 壁の彫り文字が途切れ、曲がり角に差し当たった。イリスは一度そこで立ち止まり、それに倣うようにしてクエルクスもその足を止める。
「まあ、そういうこともあるじゃろう。遺跡にも人生にもな」
「道は憶えてるわ」
「それは結構。ちなみに……連れてきておいてなんだが、この遺跡ははずれじゃよ、ハンター」
「大事なことは、自分でちゃんと確かめる」
 結構、と再びクエルクスは視線だけで頷き、その黒く知性を宿した瞳をすうと細める。彼の瞳が出会った頃となんら変わらない、大地へ力強く根を張り、命に臨む、奥でぎらりと輝く黒色であることを確かめると、イリスは瞳ばかりで笑んでは自身の爪先を曲がり角の先へと向けた。
「この遺跡の壁……延々と詩が彫ってあるわ。それ以外に特に仕掛けや罠も見当たらない。ただ真っ直ぐに進み、時々現れる角を曲がってまた進み――の、くり返し」
「うん、読めるか?」
「ええ。生まれ故郷から帰って、仕事の合間に勉強してたから。今までよりもずっと。読むのに時間がかかる言語もまだまだ多いけれど……でも、私には術師の弟もいるし、言葉の勉強をする環境は整ってる」
 血の繋がりこそはないが確かに家族で弟だと、イリス自身がそう言って貫けるアインベル――そんな彼の口から滑らかに発せられる古代の言葉、その指先で誤りなく描かれる遠い日の言葉、彼が己の人生を捧げて、一滴、また一滴と辛抱強く満たしてきたその杯の水を受け取ることができるのは、なんという幸運であろうか。
 けれども、アインベルの水は他者に与えても尚堅実に満たされ、確実なものになるばかりで、それが涸れることはない。或いは、火と言うべきか。火は、たとえ誰かに分け与えたとて、そうした者の火が減ることはない。
 弟のことを想いながら細めていた瞳が、クエルクスの底光りする黒とかち合った。見れば、彼の白い睫毛もまた、何かを想い起こすよう微かに伏せられている。イリスは歩を進めながら、今、隣と言うよりは自分の一歩分だけ後ろを歩いているクエルクスの方を見、囁くようにそっと問うた。
「……あなたにも、そういう人がいた?」
 その問いかけに、クエルクスは穏やかな表情を固くすることも、またそれ以上和らげることもせず、遺跡の壁を見やった。新たな名を恐るるなかれ=A誰そ彼の目より見出したる汝、その姿を=Bそれは遺跡を行くこの歩みと似て、同じ詩のくり返し。
「明るい月だったな」
 クエルクスが発したのは、その言葉一つのみ。それはイリスの質問に対する答えだったのか、それともただの独り言だったのかは彼だけが知り――いいや、彼すらも分からないかもしれなかったが、しかしクエルクスの瞳は詩の言葉を呑み、壁の向こうを見透かして、そうして外の景色を見ているかのようでもあった。
「まだ、雨は止まないわね」
「もうじき止むだろう。人もまた、涙と雨の区別がつくようになってきたからな」
「塩辛い雨だなって、そう思ってたの?」
「味のない涙だなと、そう思っていたよ」
「私と逆ね」
 太陽と月の光、両方を浴びては朝も昼も夕も夜もなく降り続ける、雲を求めない光の雨は、未だこの大地すべてに注いでいる。世界は大きく変わったかもしれないが、しかし人ひとりの本質というのは早々簡単には覆るはずもなく、イリスは今日も流れのトレジャーハンターとして遺跡を巡り、クエルクスはまた当てもなく各地をさすらっていた。
 ちなみに、イリスはこれまでの旅の中で、このクエルクスなる老錬金術師とそれなりの回数出会いはしてきたが、未だに彼が錬金術を行ったところを見たことはない。それどころか、家名すらも知らなかった。
 こうなると最早、彼は術師風の格好をした植物学者か何かなのではないかと勘ぐりたくもなるが、けれど彼はおそらく嘘を吐くたちではないし、イリスもそう簡単に人を疑うたちではない。何より、クエルクスの視線の向け方、言葉の発し方、その所作などは、明らかに術師然としたものだった。弟のそれに、少しだけ似ている。
「おまえさんは、生い立ちの割には変にすれていなくていいのう。おれの弟子もそれくらいだったら、多少かわいげがあるものを」
「あ……クエルクス、お弟子さんがいるのね?」
「愚息が一人な」
「……ん……?」
 イリスは耳を自然に流れていった言葉を追いかけるように、ぱちぱちと数回瞬きをした。それから何かあったときの癖で首元の虹色に触れると、上体をのけ反るようにして、クエルクスから一歩下がる。
「結婚していたの……!?」
 クエルクスはイリスの反応に苦笑し、多少その肩をすくめた。
「血の繋がりがなくては、息子とは言えんだろうかな」
 その言葉を聞いたイリスははっとして、即座にかぶりを振る。
「……いいえ」
 そうして彼女は、クエルクスと初めて出会ったときからは考えられないような明るさでにっと笑むと、彼の黒く塗れ、月長石の色に光を放つ瞳を真っ直ぐに見つめ、今度は視線だけで頷いた。
「そんなことはないわ」
 言いきったイリスに、クエルクスはいつもの梟の笑い声ではなく、ふ、とただ一つだけ息を洩らして微笑むと、彼女の瞳を見返した。夜を跨ぎ、朝を浴び、昼を駆け、そうして黄昏すらも越えたイリスの瞳は、しかして尚未だ暮れない紅色である。
 クエルクスはそれを確かめると、彼女の目から視線を外し、すっと前方を見やった。
「さて、ハンター。おまえさんはこの遺跡、どうやって踏破する?」
「とりあえずは進むわ、行き止まりまで」
「行き止まりというものは憎いようでいて、しかし真実、たびたび我らを助けてくれるものよなあ」
 右手を壁に当て、伸びる道を真っ直ぐに、曲がり角があれば曲がってまた進みをくり返すイリスに、杖を突くクエルクスがそうひとりごちた。右手の感触も、先ほどからずっと同じもののくり返し。新たな名を恐るるなかれ=A誰そ彼の目より見出したる汝、その姿を=c…
 イリスは立ち止まり、クエルクスの方を向く。クエルクスは右の壁、左の壁、天井、床と視線を運んだ後、イリスを越えて、彼女の先へずっと続き、そしてまたいずこかで曲がるのだろう回廊の見えない果てを見やった。
「行き止まりは、引き返すべき場所をすっかりそのまま教えてくれる」
「この遺跡には、行き止まりがないわ」
「或いは、もうずっと行き止まりなのか」
 口角を緩めるでもなく、はっきりとした声色でそう言ってのけたクエルクスは、しかしすぐにその表情を和らげると、今度は壁の詩へとその目を向ける。そんな彼に、イリスは半ば無意識に言葉を発した。
「この回廊は、台風のようね。まるで、中心の目を守るかのような……」
「当たらずといえども遠からず」
 言って、彼は目を細める。
「――この辺りに存在した村里では、昔、字を子どもに付ける習慣があってな」
「あざな?」
「呼び名として付ける、本名以外の名前のことだ。その習慣に倣った者は、基本的に字を名乗り、字で呼ばれるが……家族と、自身がほんとうに心の底から信頼に足る――生涯を共に寄り添いたいと想った者にだけ、その真の名を明かす」
 ちと古くさい話だが、嫌いではないだろう、とクエルクスはイリスに向かって片方の口角を上げ、少しばかり皮肉っぽく笑んだ。
「字はその子が生まれる前に決めておくものだが、真の名は子が八つになったときに初めて決められる。七つまでは神のうち、と言ってな。名付け女は、子どもが八つになるまでの間に、その者の心がどのような石で形づくられているのか、そして、魂にどのような色の意志を抱き、その二つのイシ≠ナ世界からどのような力を、どのように借りられるのかを見極めなくてはならない。何せ、一人の人間の真を名付けなければならないのだからな」
「新たな名を恐るるなかれ=A誰そ彼の目より見出したる汝、その姿を=c…」
「ああ、見えたかな、ハンター?」
 にやりと笑うクエルクスに、イリスもまた悪戯っぽい笑みを浮かべて辺りへと視線を巡らせた。それからゆっくりと瞬きをし、自身の指先が触れている壁の詩、その一節を見やる。
「その真の名を与える場所ね、此処は」
「ご名答、流石だな」
「何処にも辿り着かないこの回廊……これ自体が罠ということかしら」
「まあ、罠と言うほどでもないがな。ただの目くらましに過ぎんよ。だから何処にも辿り着かない」
 出そうと思えばするりするりと答えが発せられるクエルクスを見て、イリスは少しだけ肩をすくめてかぶりを振る。そして、いつかのように一つ言葉を発した。
「……なんだか詳しい」
「おれが連れてきたのだから、多少そうでなくては老人甲斐がないだろう」
「前にも来たことがあるの?」
「ああ、昔のことだが」
 その昔は、近い方の昔なのか遠い方の昔なのか、果たしてどちらなのだろう。この老錬金術師は、三日前のことすら最早、遠い昔≠セと言ってのけかねない。
 だが、そんなクエルクスの瞳が一瞬、折れた月長石にそっと指先で触れるかのように、淡く郷愁の色を帯びたのを、虹鮮紅のトレジャーハンターは見逃さなかった。彼は時々、このような表情をする。それは、まるで過ぎた日の黄昏を想うような瞳だと、イリスは心臓の底で思った。
「少し、知りたくてな」
 ふと、静かな言葉。たびたび出没する、どことなくわざとらしい老人言葉がすっぽり抜け落ちたこのクエルクスは、イリスが触れている壁の詩を見やった後、ただ進むだけではただ永遠に続いてゆくばかりの回廊を視界に映し、そうして遺跡の中でも強く色を放つ、イリスの紅より紅の瞳へと顔を向けた。
「――おまえがこの遺跡で、一体何を見るのかを」
 その言葉に、イリスが再び無限回廊の歩を拾いはじめる。立ち止まっているのは性に合わない。それがたとえ、何か考えを巡らせるときだとしても。
 イリスは視線を前に向けたまま、手探るように言葉を紡いだ。
「……何か大きなものの周りを、ぐるりと一周させられているわ。この遺跡は四角形。高台から確認したから間違いないわ。天井、外壁は確かに存在している。遺跡の入り口に二つ、腰ほどの照明が在ったけれど、てっぺんに備えられた大きな水晶玉……あれは竜核≠ヒ。だから、もしかしたら建物自体に魔術が掛かっているかもしれないと思って、小石を外壁にぶつけてみたの。軽くよ。でも、跳ね返った。ということは、これは魔術による錯覚ではなく、きちんと建てられた遺跡ということ。けれど、この回廊が目くらましだとするなら……」
 言いながら、イリスは置いている手で軽く右の壁を叩き、
「外に面しているのは右側の壁」
 一人頷いて、回廊の左端へと寄り、
「なら、つまり、左側はまやかし……!」
 ――そうして、左の壁にぶつかった。
 そんなイリスの少し後ろで、クエルクスの梟のような笑い声が洩れている。彼は、時折猛禽の類のようにぎらりと光るその黒目をすう、と細めると、戸惑った様子で振り返ったイリスに対して笑みを更に深くした。さて、どうする?
「まやかしだけど、触れる? それとも、私の当てが外れた?」
「まあまあ、そう焦るな。続けてみろ、ハンター」
「……小石を持ってくればよかった」
「ないものねだりをしたところで仕様がない。それより頭を使った方が有意義だぞ。そいつは、飾りにするには少々大きすぎる」
「ふ……辛口ね」
 このような物言いと、それに対する自分の返事にどこか既視感を覚えて、イリスは記憶の頁が一瞬、風に吹かれて捲られるのを感じた。そうして開かれた頁を照らすのはクエルクスの瞳に宿る月長石か、或いはその背後に在る月か。月の色は金だったろうか、白だったろうか。
 イリスはこれまでの旅の一頁へと視線を落とし、心で微かに瞼を瞑って、また開いた。それはまさしく、呼吸のように。そして、そうか、と想う。ああ、そうか、薬草園の地下――
「荷物は重くないかな、イリス」
 過去に打たれた点と点が線となり、真実を描く星座を編みかけたところで、クエルクスの穏やかな声に視線が空から下ろされる。月の光を受け、柔らかな音を立てて揺れる、夜の大樹のような彼の声は、イリスの意識を過去から今へと向けさせた。
「……けっこう重い」
 小さく頷いて、彼女は肩に掛けた背負い袋の紐を軽く引っ張った。けれどもイリスはすぐにその手を離すと、再び背負い袋にのし掛かった重力を感じながら、ふっと微笑んで緩やかにかぶりを振る。
「でも、あの子は全部背負ってくれていたから。荷物だけじゃないわ、私のことも」
 時々、弟のこともね、と言って、イリスはくすりと――しかしほんの少しだけ寂しそうに笑った。そんなイリスにクエルクスも微笑み、そうして深く呼吸をする。
「足が速いだけでなく、大層な力持ちだった……というわけじゃの」
「そういうこと。一人に戻ってから気付いたわ。そういうところはいつも遅いの、私」
 イリスは肩をすくめ、自分自身に呆れるようにだめよね、と呟くと、未だ延々と続く道を進み、十何回目の曲がり角を曲がって、すっかり自分の後ろを歩くようになったクエルクスへ視線を向けた。
「荷物は重いわ」
 そうして彼の黒い瞳を、まるで黒曜石を見つめるような瞳でイリスは見やり、ゆっくりと一つ瞬きをする。
「だけど、孤独じゃない」
 言った彼女の睫毛から、ぱっと虹の火の粉が舞った。クエルクスはその熱を瞳で受け取ると、ふ、と息だけで笑み、杖の石突で軽く遺跡の床石を叩く。
「夢の旅人、宝の狩人よ=v
 つと、クエルクスの唇から、滑らかに古代語が紡がれた。それは、魔術で扱うような短い一節、或いは単語でもなく、そして詩でもなく、歌でもなく、ただ、彼が発しただけの言葉として遺跡の中に木霊する。
「さあ、そろそろ答えを見せてはくれないだろうか? わたしの足は木の枝にも似て、もうじきぽっきりと折れてしまうやもしれない。風を喰らい、風を歌い、風にすらなった相棒と共に在ったあなたなら、蹄の代わりにその靴底を鳴らして、この壁をも越えてゆけるだろう。そうではないかな、虹の子よ=v
 クエルクスは未だ古代語をするりと操れるわけではないイリスにも聞き取れるよう、確かめるようにゆっくりと言の葉を発していった。それは遠い時代、この辺りの地域で使われていた言葉。彼の言葉を、まるでこの遺跡の回廊のように短い間で何度も反芻し、なんとか意味を理解したイリスは、クエルクスが自身のものとして発する、その言葉の編み方の柔らかさに驚いて、すっと息を吸い込んだ。
「おれはこのような物言いを、おまえさんは道の駆け方を教わったが……誰かから教わったものを己のかたちに落とし込むのは、中々どうして難しいものよな」
 ゆるりとかぶりを振って、クエルクスは微笑んだ。
「だが、確かに――孤独ではない。荷物は重いがな、それなりに」
「何か持ちましょうか?」
「では杖を」
「分かった」
 にっこり笑って、自身の身の丈ほどもある巨樹の杖を片手で差し出すクエルクスに、どことなく含みを感じながら、しかしイリスは素直にその杖を彼の大きな手のひらから受け取った。
 そうして手にした樹の長杖は、想像していたよりも少しだけ重く、それはまるで大樹の命が気配として杖の上に乗っているかのよう。イリスは杖を両手で握って、視線をそのてっぺんに生い茂る枝葉へ向け、それからふと視界に入った左側の壁へと一瞬やった。そうしてはたとする。彼女は赤々い瞳に潰えない好奇の色を宿して、クエルクスへとその顔を向けた。
「その杖はおれの足より頑丈だぞ」
「なら相当ね」
「おや、まだ古代語の勉強が足りていないか。おれは自分の足のことを木の枝≠ニ言ったのだがな」
「大樹の、でしょう?」
 悪戯っぽく笑みを浮かべて、イリスはその杖を軽く左側の壁へと当ててみる。跳ね返った。やはり、当てが外れたか? そうしてふっと力が緩んだ両手から、杖がふわりと浮かぶように離れ、しかしそれは浮かぶどころか、ごとり、という重たい音を立てて床に転がる。今度は何かに遮られることもなく、左側の壁をすり抜けて。
「……人には、意識というものが在る」
 壁をすり抜けては床に落ちた杖に、目を微かに見開いて驚愕の表情を隠せずにいるイリスを見やって、クエルクスは腕を組みながら静かにそう告げた。静かに――面白げに。
「在ると想えばその者の中では在る≠オ、また、ないと思えばその者の中ではない=B物に、人と同じような意識はないからな。だから、人の手を離れた物は、見えるものの間をすり抜けることもできよう」
 言いながら、クエルクスはどうやったのか、こちらとあちらの間に落ちた杖を拾い上げて、その石突でとんとんと遺跡の床を叩く。反響するほど高くはないそれを助走にしたかのように、彼は左壁へと向かって歩き出した。壁とぶつかるという躊躇も見えず、彼のその歩みには一点の迷いもない。
 イリスが、あ、と思ったときにはもう、クエルクスは壁の中へと進んでいってしまった。そうして壁の中――向こう側から楽しげな梟の笑い声が響いて、イリスの鼓膜を震わせる。
「待っているぞ、ハンター。名が生まれる場所にて」
 しばらくイリスはその場に無言で立ち尽くす。しかし、彼女はふとその意識を浮上させると、両手をクエルクスがすり抜けていった壁へと伸ばした。触れられる。紛うことなき壁であった。
 イリスはかぶりを振って壁から両手を離し、そしてまた無限回廊の中を歩きはじめた。こつこつと控えめな靴音を鳴らして、さて一体どうやってこの場を切り抜けようと考えを巡らせる。とくとくと鳴っていた心臓がどくどくと脈打ちはじめ、彼女の靴音は先より強く、先より高く響いた。これはおそらく焦り、そしてそれを飛び越えていく期待。向こうに行くにはどうすれば? 此処には、一体何が在る? この壁の先には一体何が? どうすれば? わたしは何を見られる? 見るためには? ああ!
 ――見たい!
 イリスの靴底が、強く遺跡の床石を蹴った。そこに響いたのはまるで、駆け出した馬の蹄の如く。
「ヴィア!」
 彼女は続く回廊を駆けながらほとんど無意識に、かの相棒を呼んだ。自身の道を共に駆け抜けた、一頭の魔獣。魔の風を喰った馬の名――そのあだ名を。
 イリスは走りながら大きく息を吸い、その目を瞑った。
 同時に、呼吸も止める。在ると想えば在り、ないと思えばない。閉じた瞼の裏に、壁も天井もない、ただ道だけが浮かび上がった。どれだけこの回廊を進み、同じ場所で曲がったことか。何処までが直線で、何処に曲がり角が在るのか、そんなことはもう見なくても見える。
 イリスは走るその足を速め、強く石床を蹴り、駆けては曲がり、また速度を上げ、駆けては曲がりをくり返した。耳は、相棒がかつて鳴らした蹄の音を追っている。駆けながら、イリスは小さく笑い声を上げた。
 ――風になればいい!
 そうだ、いつだってそうだったろう。褪せた大地、涸れた海、古びた石畳、欠けた煉瓦、苔むした岩肌、崩れ落ちそうな崖、ひび割れた石山、獣道、毒の霧、凍える路、雨上がりの道、星座の洞穴、星の墜ちた地――日差しが痛む朝を、すべてを暴く白昼を、暮れた心の黄昏を、眩しすぎた星の夜を、また、淡い木洩れ日の昼中を、辿る帰路を照らす夕暮れを、注ぐ月ばかりが照らす柔らかな夜半を、命を歌い上げたはじまりの日の出を、そのすべてを奔り、駆け抜け、飛び越えてきた。
 イリスはその唇に笑みを浮かべ、瞼を閉じたまま、駆けていたその靴底の蹄を突然止め、そうして左側の壁に向かって方向転換をした。彼女はそれから間髪入れずに床を蹴り上げ、壁へと飛び込む。そこに最早躊躇などというものは存在していなかった。だって、もう見えたのだ。この遺跡の壁は飛び越えられると!
「やあ、よく走ったな。準備運動とするには、ちと長すぎるが」
 着地した靴底に、草の感触を覚える。イリスはそこで初めて目を開けて、胡座を掻いた膝に頬杖をついてこちらを見ているクエルクスを視界に映した。辺りは未だ四方に壁が巡らされているが、先ほどまで床石だった地面には、緑の草が足首の少し下くらいのところまで生い茂り、見上げる天井は吹き抜けて、視界いっぱいに青い空が映り込む。頬に時折、光る透き色の雨が当たった。
「此処は……」
「字ばかりの誰そ彼に、真の名前を与える場所」
「……孤独ね、此処は」
「強く感じるだろう、自分≠。孤独の中で、人は己ひとりの存在を強く感じる。だからこそ、此処なのだ」
 言いながら、クエルクスは立ち上がった。今は静かな光をその黒目に宿しながら、彼は微笑むようにそれを細める。
「だが、過ぎた孤独は人を暮れさせる。その孤独を払う確かな力が在るのが、おそらく、名前――たいせつな者に、名を呼ばれることだろう」
 それからひとりごちるように、名を呼ばれていたという事実が逆に孤独を呼ぶかもしれんがな、と呟いて、大広間と言うには狭く、しかし小部屋と呼ぶには広い名付けの場をクエルクスは軽く歩いた。さくりという草の音がイリスの耳に木霊し、その場から香る緑のにおいに、草を食むヴィアの姿が浮かんで消える。
「私の弟も、似たようなことを言っていたわ」
「ほう?」
「名を知ったら、もっと寂しくなるかもしれないって」
「では、おまえさんはどうかな、ハンター?」
「それでも知りたいと思う」
 そこまで大きくはない広間にぽつぽつと雨を降らせる青空を見上げて、イリスは小さく息を吐いた。この部屋には、壁と草原、そして空を除いては何も置かれていない。風がないことが更にその孤独感を増すのだろうか、いいや、風が吹けば更に孤独を感じるのだろうか。
 イリスは視線を下げて、一歩前に踏み出した。
「私は、あの子のことをずっとヴィア≠ニいう愛称で呼んでいたけれど、ヴィアの本当の名は知らないままだった」
「知りたかったか?」
「分からない。けれど、私はずっと訊かなかった。今だって、訊こうと思えばベラに訊けるけれど、それを訊こうとはほとんど思えないの」
 振り返ったクエルクスに、イリスは困ったように口角を上げてはその紅を細めた。
「怖いのかも。ほんとうは要らないんだって言われるのが」
「要らない、か」
「ヴィアに、ヴィア≠ニいう名前が」
「馬は物言わんがな」
「分かってる。言葉の綾よ」
「分かっているとも」
 ほとんど同時に、ふ、と息を洩らして笑う。それからクエルクスの方は静かにかぶりを振り、今度は長く息を吐き出した。溜め息である。
「そんなことでは相棒に失望されるぞ。あの魔獣にとって、ヴィアという名がたいせつなものだったということは、おまえさんがいちばん分かっているだろう」
「……じゃあ、嫉妬かも」
「何?」
「私の知らないヴィアは確かにいるってことに対する」
 クエルクスは肩をすくめ、生ぬるい目でイリスを見た。
「家族に対して嫉妬するのは相当だぞ、ハンター」
「だって私、ハンターでしょう、相当」
「なるほど。おれからはもう何も言うまい」
 言いながら、クエルクスは黒いローブと白く輝いては揺れる長い三つ編みを揺らして、広間の中をゆるりと一周した。そして、その身に淡く降る雨を受けながら、白い睫毛を微かに伏せる。
「この地域における旧い慣習に倣うならば、後から与えられた名がその者にとっての真の名だ。或いは、おまえの相棒もそうだったのかもしれんな」
「私にとって、ヴィアはヴィアよ。それだけ在ればいいの、ほんとうは」
 静かにだがはっきりとそう言いきったイリスに、ふとクエルクスが睫毛を上げて問うた。
「おまえさんにとって宝足るか、この遺跡は?」
「もちろんよ。だって、ヴィアとまた風になれた」
 頷き、照る朝焼けにも似て、彼女は痛むほど真っ直ぐにクエルクスの瞳を見た。
「在る≠」
 言って、イリスは走ったことによって大分髪が乱れていることに今更気付き、指で梳いた橙色の一房を耳の後ろへと掻き上げる。そうして鮮紅の瞳の奥に、虹の火の粉を抱いては色付く電氣石をちかりと煌めかせ、少しだけ寂しさが滲んだ、しかしあたたかな笑みをその顔にふわりと浮かべた。
「それに……きっと近く、また来ることになるわ。みんなで、あの子≠フ名前を付けに」
「おかしな名前を付けて蹴り上げられんようにな、イリス」
「肝に銘じておく」
 イリスは四方の壁、緑色に茂る足下、そして光の雨が降る青空を見上げて、この場に満たされた空気を味わうようにすうっと深く息を吸った。それから数回呼吸をくり返すと、くるりとクエルクスに踵を返し、遊色する虹の首巻を美しく宙に浮かせる。
 そんなトレジャーハンターにこの老錬金術師は特に驚くこともなく、ただその背を見やり、ふと顔だけで振り向いた彼女の紅と自分の黒を合わせた。当のイリスは、そういえばという調子でその口を開く。
「この遺跡、高台から見たときは吹き抜けなんてなかったわ」
「そうだな。しかしおまえさん、上から小石は投げてみたか?」
 その皮肉っぽい言い方にイリスは口角を柔らかく緩めると、今度こそ広間の壁へと向かって歩き出した。
「往くわ」
「往けるか?」
 歩き去ろうとする背に投げかけられた問いに、しかし振り返りはせず、彼女は答えを発する。
「だいじょうぶ。――飛び越えられるって、分かったから」
 そう言い終わるか終わらないかという内に、イリスはその靴底の蹄で思い切り地面を蹴り、そうして壁をすり抜け越えて、向こう側の回廊へと着地した。未だ広間に立つクエルクスの耳には、彼女は次の宝を求めて駆け出した音が壁の向こうから聞こえてきて、彼は思わず梟でもなんでもない、ただの笑いを洩らさざるを得なかった。なんというじゃじゃ馬!
 ややあって、くつくつと笑いを零していたクエルクスもまた歩みを拾おうと一歩を踏み出し、しかしどこからか風の音、或いは素っ頓狂な草笛のような音が聞こえた気がして、その足をつと止める。吹き抜けの空を見上げれば、そこからぽつりと頬に雨が当たり、そして、そこには微かに夕暮れの気配が宿っていた。黄昏。往くのだろう、彼女は。往くのだろう、きっと、共に黄昏を駆けたすべてと共に。
 彼は眩しそうに目を細め、そうしてふと、彼女をあだ名で呼んだ。
「アニマ」
 ――と。



20180611 執筆
*同年に発行した紙の本に収録していた書き下ろし短編のweb再録になります。ご購入いただきました皆様においては多大なる感謝を込めて!
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