バース


 太陽は澄みきった夜を呼び、その身を地平の果てへと沈めた。
 イリスはヴィアの足を止め、魔の風を喰った青毛の魔獣のその背から地上へと降り立つと、面前にそびえる巨大な山を見据える。深い夜の闇に包まれたそれは、まるでこちらを押し潰す黒い一枚岩のようだった。
 イリスは息を殺したまま、視線を闇を呑み干す岩石から、目の前でぽっかりと口を開けている洞窟へと視線を移す。
「……此処から、すべてが始まった」
「うん……此処が、ねえさんの故郷なんだね」
 イリスと同じようにヴィアから降り立ったアインベルが、淡く光を放っている洞窟の入口を見つめて呟いた。
 アインベルには、この洞窟の中で自分が見た景色──かつての自分が体験した、すべての記憶を想い出せる限り話した。
 訥々と話し続けるイリスの言葉を、アインベルは鈴を鳴らして茶化すことも、或いは悲しげな顔をすることもなく、ただ唇を噛み締めて聴いていた。アインベルとしては、今更姉の話を疑う気も起きるわけがない。彼はただ、姉の言葉を、その言葉から見えてくる景色を、姉の痛みを受け止めようと必死だった。
 イリスが光を以って手招きする洞穴を見つめながら、小さく呟く。
「ふるさとに帰るのがこんなに怖いなんて……何だか、おかしいわね」
「……ううん、おかしくない」
 イリスが振り向き、アインベルの顔を見た。
「おかしくなんかないよ。ほんとうを知るのは、いつだって怖い」
「……だから、人は真実を隠すのかしら」
「そうかもしれない。その恐怖からたいせつな人を守るために、人はほんとうのことを隠すのかもしれない。たぶん、そこに大きいとか小さいとか、善いとか悪いとかはないんだ……自分の心を、守るためだよ。たいせつな人が傷付くのを見たくない自分の心を、守るため」
「人は、弱いわね」
「うん。独りきりじゃ、生きていけないほど」
 イリスは胸に何か、呼吸を苦しくさせるものがせり上がってくるのを感じて、首元に片手をやった。手袋は外されている。自身の手のひらは凍てつく北の果てでも未だ熱く、だが不安に駆られた心はその手のひらをも粟立たせていた。
 アインベルがそんなイリスの様子を見、自分の腰に差した鈴の杖を取り上げてしゃんしゃんと鳴らす。黄昏に輝く太陽の光さえも覆い隠してしまいそうな夜の闇を、澄んだ鈴の音が駆けていった。
「僕は、失せ物探し。失くしものを探すのが仕事。此処には、ねえさんの失くしたものを探しにきた」
「……見付かるかしら?」
「見付かるさ、僕たちはトレジャーハンターと失せ物探しのきょうだいだ。何かを見付けるのには最強の組み合わせだろ!──ほら、まずは一つ目だ」
 アインベルがしゃがみ込み、杖の先を地面に当てて、冷えた土の上に円を描き出した。その中に彼がさまざまな紋様を組木のように組み合わせて、自己流に編み出しては長いこと使っている失せ物探しの言葉を描く。
 そのこなれた動きの中に、微かな震えが見て取れたのは、しかし寒さばかりのせいではないだろう。イリスもまた、小刻みに震える手のひらを、力を込めて握っていた。
 アインベルは召喚師の言葉をすべて円の中、そして外へと描き切ると立ち上がり、一つの言葉を鋭く叫んでは引き伸ばして長杖と化した鈴の杖でその円を強く叩く。いにしえの言葉で、此処に来い、と叫んだ彼の声にも震えが連れ添っていたように思えた。
「アイン、何を喚んだの? まさか──」
「そう、まさかだよ」
 淡い光の輪郭が円の上に現れて、アインベルはその失せ物が形を伴い重力を得る前に円の内側に歩み出た。鈴の長杖は肘の内側へ水平に置き、両手を光の下へと差し出す。しばらくして、ふんわりとした重みが両の手のひらの上に降ってきた。アインベルはそれを認めるとイリスの方へ振り返り、優しげな竹色をしたその瞳を細める。
「ねえさんはやっぱり、これをしてないとね」
 言いながらアインベルがイリスの首元に巻き付けたのは、あの日風に飛ばされていってしまった電氣石によく似た虹色の薄布だった。イリスは震える手のひらでその首巻に触れると、静かに目を瞑る。
 瞼の裏に映るのはあの日の記憶、打ち鳴らされる鐘、灼ける母の口付け、自分の名を呼んだ父の表情、独りぼっちの狼の震える躰……
 イリスは、瞳を開いた。
 首巻の柔らかな色を受け取るその暮れない赤の瞳からは、まるで虹の火の粉が舞っているようだった。
 彼女は洞窟の入口を見つめ、それからその先にそびえる夜に包まれた山を見る。
 この山は、ただの山だ。分かっている。だが、ねがいと呪いの星々の光を浴びる、たくさんの人の想いが乗ったこの山は、自分にとっては登り越えていくべき虹の麓だった。こうして見上げているだけで、肌は粟立っては膝が笑い、手のひらは震え立つ。
 それからイリスはふと気が付いて、零すように呟いた。
「……オレハも、帰るのが怖かったのかしらね……ふるさとに」
「じゃ、今度はオレハと一緒に来ようよ。それなら絶対、へっちゃらだからさ」
 アインベルは表情を和らげて、明るい声でそう言った。その言葉を発した彼の中には一体どんな想いが鳴り響いていただろう。イリスは頷いて、アインベルのそのねがいを受け取りながら、一歩洞窟の前へと歩みを進めた。
 こんな山、遺跡の影の魔獣遣いならば、二匹の魔獣と共にいとも容易く駆け抜けていくだろう。こんな山、常空の声をもつトレジャーハンターならば、鼻歌でも歌いながら調子を刻んで歩み越えていくだろう。
 それを、わたしは知っている。
 想い出は人を弱くするものだが、しかし人を強くもするものだ。わたしは自分の過去を知って弱くなった、確かに。だが、それでももう、わたしはわたし自身を失うことは二度とない。確かなねがいが宿っているこの自分自身を、わたしはもう手放さない。
 もう決めた。もう、心は決まったのだ。
「私は運がいいのよ、アインベル。ヴィアは知ってると思うけれど」
「何だよ? 僕だって知ってるけどな、そんなことくらい」
「運がいい──それより、これからは幸せ者って言い換えるべきね」
 それから振り返った彼女の瞳は、黄昏に燃える赤い太陽よりも煌々と輝いていた。
「一緒に来て、アインベル、ヴィア。歌でも歌いながら、一緒に!」
「言われなくても! なら、マスターにこっぴどく叱られそうなやつにしようよ。そうだ、みんなのところまで届きそうなやつに!」
「いいわ。それだったら、あの歌しかないわね?」
「──もちろん!」
 歌も、共に歩む者も、此処に在る。


*



 天井にも足元に薄く張った水面にも虫たちが星空を描き出す、とこしえの夜のような洞窟を、虫も逃げ出し水面が震えるほどの大音声で歌いながら抜けて、それからしばらく山道を歩いた。道中看板のようなものはなく、道が二手にも三手にも分かれるような処が幾つか在ったが、しかしイリスは何かに導かれるようにして迷うことなく歩を進めている。
 彼女もアインベルも地面に降り立ち、自分自身の足で歩を拾っていた。最早ヴィアの手綱を引くことすらイリスはしていなかったが、しかしヴィアはその静かな黒を湛えた瞳に何を映しているのか、それでもイリスの隣を彼女と同じように歩いていく。
 アインベルが酸素の薄れを感じてきた頃、イリスが突如として足を止め、アインベルは軽く彼女の後頭部に額をぶつけた。アインベルは謝りながらイリスへと声をかけたが、それすらもイリスは気が付かないようで何やら道の先を一心に見つめている。
 怪訝に思ったアインベルがイリスの背後から顔を出して、彼女の視線の先を追いかけると、あまり広いとは言えなかった山道が拓け、その先に数軒の家が視界に映った。
 虹の里〈ミノバト〉、イリスとオレハの生まれ故郷である。
 そして此処が、此処こそが、イリスがずっと探し求めてきた夢の在る地、〈星の墜ちた地〉だった。
「此処から、すべてが……」
「……うん」
「……始まるのね、また……」
「だいじょうぶだよ、ねえさん」
「そうね──だいじょうぶ。私は、独りじゃないもの」
 イリスは頷いて、里へと歩を進めた。風が緑の弦を弾き、山道に立つ木々の葉を揺らしている。イリスの橙の髪や虹の首巻も風に柔らかく揺れ、冷たいそれは彼女の肌に当たってはその熱を感じ取ってまた何処かへと飛び去っていく。
 普段よりもかなり厚着をしているアインベルは、しかしそれでも刺すような寒さに身震いをしていた。人が立ち入らなくなった道には霜が降り、歩くたびにざくざくと音を立てている。凍てつく風に耐える植物がその身に抱えた夜露が凍り、この一帯はまるで水晶の王國のようだった。
 研ぎ澄まされた厳しい自然の美しさを感じながら、しかしイリスは確かにこの地に黄昏も感じていた。この地の人の黄昏を。
 里の中を、歩みを緩やかなものにしながら進んでいく。手入れのされなくなった虹の里には好き放題に植物が生い茂り、かつて人々が歩いていた煉瓦道はところどころがひび割れ、その隙間から無数の緑が顔を出していた。家屋にはつららが鋭く連なり、この地の全くの無人を思わせる。おそらく畑だったのだろうと思われる場所には錆びついた囲いが在るばかりで、最早その原型は残されていない。
 この地には確かに黄昏が訪れたのだ。虹の里は黄昏に喰われ、そして、陽が傾くようにして滅び去った。
 楽園とは言い難いかもしれない。しかしそれでも自然の園と化したこの里に今響くのは、自分たちが歩みを進める音と、吹く風の音、そして何処かで水が流れる微かな音ばかりだった。それに気が付いたイリスははたとして足を止め、微かに首を傾げる。
 一つも、獣の立てる音がしない。
 イリスは一つ、ずっと心に引っかかっていた思いが喉元まで上ってくるのを感じながら、左右に視線を巡らせた。そうするとふと彼女の動きが止まり、鮮紅の瞳が見開かれる。
 それは一軒の、何の変哲もない家だった。
 その家を声もなく見つめるイリスに、アインベルは自分の鼓動が激しく打ち鳴らされるのを感じた。おそらくは彼女の心臓も同じように強く脈打っているに違いない。イリスが鋭く息を吸い、そして吐いた。真っ白な息が一瞬彼女の視界を覆っていた。呼吸は浅い。
 イリスが右の手のひらを握ってはまた開き、そしてまた握った。その手の中にはきつく爪が立っているだろう。アインベルは深く息を吸い、そしてゆっくりとそれを吐いた。イリスのものよりは色の浅い息が目の前にふわりと吐き出され、そして何処かへと消えていく。アインベルは彼女の強く握られた右手に左手で触れ、それを開くように促した。
 イリスは右の拳を緩く開きながら、アインベルの方へと振り返った。
 姉の紅がこちらを見ているのを感じながらも、アインベルはしかし彼女の方へと顔は向けず、目の前に在る何の変哲もない、何処にでも在る家の扉を見つめていた。今、イリスの瞳を見れば、彼女の目の奥に揺れる恐怖と緊張を自分も受け取ることになるだろう。
 失せ物探しの弟は、姉の方へはやはり視線を向けず、扉を見つめたまま微かに頷いただけだった。
「……此処……私の、家」
「……ほんとうに怖くて進めないなら、無理に入らなくてもいいと僕は思うよ」
「アインベルは私に甘すぎるわ。……それともそれは、もしかして発破をかけてる? だとしたらアインはすっごく私に厳しいってことになるけれど」
「そんな器用なこと、僕にできるわけがないだろ。だって僕、ねえさんの弟だよ」
「手厳しいわ、アインベル」
 軽く笑ってイリスは扉の握りに左手を掛けた。右手はアインベルの左手と繋がれている。
 微かに唸りを上げる扉をゆっくりと開いて家の中へと足を進めると、まるで当時のまま時が止まったようなその空間に彼女は足を止めざるを得なかった。だが、ぎしりと床は軋む。時は確かに動いている。それを自覚するとイリスは深く息を吸って、少しずつ歩を進めはじめた。
 小さな平屋だった。入口を開けて短い廊下を進んだ先に在った居間には、イリスの腰ほどの高さの飴色をした、角の丸い食卓。それを囲むように、卓と同じ飴色をした椅子が置かれ、その三脚の内の一つは座の部分が他の二つより一回りも二回りも小さかった。子ども用の椅子である。机の隅には、重ねられた皿が載っていた。
 此処で、生きていたのだ。
 此処で、お母さんもお父さんも、そしてわたしも生きていた。
 アインベルと繋いでいる手のひらに力がこもる。アインベルはイリスと同じようにじっと空の皿を見つめたまま、掠れた声で彼女に問いかけた。
「……食べて、みたかった……?」
「マリーナの──かあさんの料理も、美味しいわ」
「そうだね……此処は寒いし、マリーナのシチューがあったらな。きっととてつもなく美味しいはずだよ」
「……アインベル」
「ん?」
「食べて、みたかった」
 声が、震えていた。
 アインベルははっとしてイリスを見上げたが、しかしイリスは涙を流してはいなかった。彼女は震える唇をきつく噛み締め、上ってくる嗚咽を深い呼吸で抑え付け、強い色を宿すその瞳で黙って食卓を見つめている。おそらくは笑い声で溢れていただろう、確かな生活の残り香を。
 或いは、傷痕と言ってもよかったかもしれない。これから先、決して消えることはない、あまりに愛しい傷痕と。
「……いつか……食べて、みたかったわ」
 その言葉にアインベルは頷いた。彼もまた唇を噛み締め、その隙間から何とか言葉を発する。
「うん……そうだね」
「でもきっと、食べていたのよね。あまりに小さかったから、上手く想い出せないだけで」
「たぶん、食べた量は多かったと思うよ」
「え……どうして?」
「だってねえさん、食いしん坊だろ」
「……私が大喰らいなんじゃなくて、二人が作る量が多かったのよ。だからこんなに食べるようになった」
 アインベルは呆れたように笑った。イリスは軽くかぶりを振ると、アインベルの手を引いて更に歩を進める。
 居間を抜けた先に、寝室らしき部屋が在った。大きな一つの寝台の上できちんと折り畳まれた毛布は、寒さと経年によりぱりぱりに固まり、触れたときにざらついた感触がイリスの手のひらに返ってきた。彼女はどこか寂しげに息を吐き、寝室をぐるりと見回した。
 そうしてみると、寝台の横に何やら積まれた布が入っている籠を見付け、彼女は巡らせていた視線をそこで止める。
「あれ……」
「え? あ……」
 近付いてよくよく見てみればそれは、乳飲み子が眠るためのゆりかごだった。
 イリスが膝を突いてそのゆりかごへ向けて片手を差し伸べたので、アインベルはイリスのもう片方の手を握っていた自分の手を離し、自分も彼女と同じように軋む床に膝を突いた。
 籐を編み込んで作られたそのゆりかごは、当時のイリスにはもう必要のないものだったのだろう、普段使っていたらしい布類が重ねてその中で仕舞われていた。
 それでも自分がかつてこの小さなゆりかごの中で眠り、泣いていたのだということを想うと、イリスは何かに胸を強く締め付けられるような心地になってそのゆりかごを両腕でかき抱いた。
 そんな自分を見つめる両親は、一体どんな表情をしていたのだろう。
 どんな声で呼びかけたのだろう、この名前を。
「私は、守られていたのね……ほんとうに、いろんな人に」
「うん……でもね、ねえさんも守ってるんだよ、いろんな人のこと。自分で気付いてないだけ。ほら、ねえさんってちょっと鈍いから」
「アインベルだってそうよ」
「え? そうかな」
「ええ、気付いていないだけで。ほら、アインってちょっと鈍いから」
 何か苦虫を噛み潰したような顔をしたアインベルに、イリスは少し笑ってゆりかごを床に置いた。
 そうして立ち上がると、今度は寝台の隣に備え付けてある脇机の前へと歩いていく。そして、その机の引き出しを自らの紅で目にした途端、彼女は何かに惹かれるように窪みに指を掛け、引き出しの中身の時を動かした。
 引き出しの中には、二冊の手記が眠っていた。
 片方は黒い革の手記、もう片方は茶色の革の手記。何となく、黒い方が母の物で、茶色い方が父の物だろうなという気がする。イリスはまず、黒い方の手記に手を伸ばすと、表紙と同じ色をして手記を守っている革紐を解き、彼らの過ごした日々を垣間見るべく開いた頁に視線を向けた。
 ちなみに、この手記の表紙を引っくり返すと、その裏表紙の右下には赤色の文字でヒッツェ・ラックレインとの刻み文字がされている。
 イリスが開いた頁に書かれている、母の文章はこうだった。

 辰の月、五日。
 深い霧の立ち込める森を抜けた。白く視界を覆う霧はまるで亡霊の如くであり、それに見え隠れする無数の木々の姿はまさしく森という名の一匹の魔獣のようである。私は亡霊など信じてはいないが、こういうことを口にするとグレルが怯えてやかましくなるのでこうして手記に留めるだけにしておく。
 もし、自分たちが子どもを授かるようなことがあれば、霧には注意するように伝えなければと思う。ただの霧に見えても、何か毒素が混じっている場合もあるし、傍目にはそうだと見分けがつかないところが霧の厄介なところだ。視界も悪くなる。何もいいことはない。ただ、その先に宝が在るとするならば、グレルは霧に突っ込んでいくだろうし、そうなったら私もやはり霧に突っ込んでいくことになる。グレルだけが宝を掴むのは、少し癪だ。むかつく。
 それはさておき、空気中に混じる毒素に対して効果的なのは銀薄荷という、その名の通り葉が銀のように美しく輝く植物を用いて作られる、毒消しのタブレットらしい。ここ最近に新しく創られたものだと聞く。従来の毒消しよりも即効性と持続性があるらしい。大きな街でならば、薬師の店に置くようになったと聞くから、今度寄ったときにでも買い溜めをしておこう。

 続いてイリスは茶の手記の表紙を開く。

 寅、十八。
 満天に 燃ゆる青星 貴き火よ 熱を与えよ 明けの氷柱に
 ヒッツェの故郷は寒かった。死ぬかと思った。だが、あの程度の寒さで音を上げているようでは俺もハンターとしてまだまだということかもしれない。寒さに対して何を頑張ればいいのかよく分からないが、とりあえず頑張ってみようと思う。

 イリスは思わず、笑い声を上げそうになった。
 実際のところ、微かに笑い声が彼女の唇から零れ落ちたのだが、しかしその楽しげな声が洩れ出すのと同じように、彼女の瞳からは一粒水滴が落ちそうになった。イリスは自身の笑いを喉の奥へと引っ込めると、手首で乱暴に目元を拭う。音もなく長い息を吐き出した。
 引き出しの中には、二冊の手記の他にもいろいろなものが仕舞われている。
 縮小された星図が模様として蓋に彫られている、銀色の懐中時計。夕陽を背後にして輝く、新緑の色に充ち満ちる世界樹が描かれた絵葉書。赤い鰐革で作られた本のための上着、そして同じ素材の栞。その隣に在る小さな菓子の缶を開けてみれば、中には瓶の王冠が仕舞われていた。こうして見ると、様々な絵柄がある。
 引き出しの中もそうだが、この家の中には他にもたくさんの物が散らばっていた。
 がらくただ。がらくただらけだった。だが、そんながらくたもこのラックレイン夫妻にかかれば、たちまち宝ものへと変貌を遂げるのだろう。イリスは熱いものが心臓から指先へと伝わってくるのを感じながら、しかし家の宝たちをすべて検めることはせずに、引き出しの中の二冊の手記だけを取り上げて服の隠しへと仕舞った。
「ねえさん、それだけでいいの?」
「ええ、いいの」
 問いかけるアインベルに振り返り、イリスはまばゆい紅を細めて笑った。
「だってもう、私はいつでも此処に来られるから」
 その言葉にアインベルもふっと優しく微笑み返した。
 イリスは引き出しの中の懐中時計を取り出すと、てっぺんのつまみを引き出して回し、普段自分の持っている懐中時計と同じように時刻を合わせた。それからつまみを押し戻すと、またそれを回して時計のぜんまいを巻き、そうして長針と短針が動き出すのを見届ける。
 かちこちと微かな音を立てて、盤面はイリスとアインベル、そして、イリスの両親でありこの家の主であるグレルとヒッツェにも時を告げた。
 時は動いている。
 時は止まらない。
 いつ、どんなときも。
 いつ、どんなことがあっても。
 イリスは懐中時計を、その銀の蓋を開いたままの状態で脇机の上に置いた。そうして引き出しを元在ったように戻すと、彼女は踵を返して歩き出した。アインベルに向けて振り返ったとき、イリスの首元では電氣石に似た薄布が、柔らかな虹の色に遊色しては輝いていた。
「行きましょう、アインベル。きっと、ヴィアは待ちくたびれてる」
「ヴィアはそこまで短気じゃないよ」
「違いないわ。たぶん、この中ではいちばん気が長い」


*



 獣の立てる音がしない理由は、おおよそ察しがついていた。
 里の最奥へとイリスとアインベル、そしてヴィアは歩を進める。巨大な星が墜ちたことによって生まれ出でたと云われるこの山に立つ里、そのいちばん果てに在るのは、〈星の墜ちた地〉を見下ろすことができる高い崖だった。その崖に近付けば近付くほど、凍てつく風が強く墜星の地から吹き上げてくるのを感じる。
 イリスはまだ遠い崖の果てへと視線をやりながら、ぎゅうと手のひらに力を込めて振り返った。
「アインベル、ヴィア」
「うん?」
「手出しはしないでほしい。何が、あっても」
「え?」
「けれど……けれど、憶えていてほしい。私の──私たちのはじまりを。……酷い、わがままね」
「いや……」
 アインベルはイリスの紅の瞳を見ると、振り返ってヴィアの黒曜石をも見た。ヴィアの静かな目がちらりとアインベルを見やる。夜の深い闇の中でも揺らがずに立ち上がるその黒色を視界に映すと、アインベルは表情を緩めて微笑み、それからイリスへと再び振り返って笑いかけた。
「わがままくらい、いくらでも聞くよ。いくらでも、言えばいい。ヴィアだってそう言ってる──と、思う」
「そうなの、ヴィア?」
「たぶん、やれやれって感じだと思うよ。やれやれ、うちのじゃじゃ馬はいつもこうだ……ってな」
「……そうなの、ヴィア?」
 もちろん、返事はない。ヴィアの黒曜石は、見つめるイリスの鮮紅を見つめ返すばかりである。そんなヴィアにイリスは小さく笑ってかぶりを振ると、しかし振り返っては静かに真っ白な息を吐いて崖の果てを見つめた。
 夜に塗れた空気の中で、地上に墜ちた星の、最期のともし火のような銀の光が、彼女の視界の最果てでは煌めいている。
「誰そ彼」
「え……?」
「名前を知ったら、別れが寂しくなる」
「あ……うん。僕は……情けないけど、名前を知っている相手と別れるのは、知らない相手と別れるより寂しいんだ、いつも」
「それは、悪いこと?」
「悪いことじゃ……ない、とは思う」
 イリスは頷き、一歩を踏み出した。
「私は知りたい。私は、名前を呼びたいわ。アインベル、ヴィア」
 歩を進めるごとに、銀のともし火が近付いてくる。
 風は冷たく吹き付け、彼女たちの瞳すらも鋭く刺していた。しかし、イリスはその暮れない赤色を閉じることはせずに、真っ直ぐ前を見据えて進んでいく。風に煽られた虹の首巻は揺らめき、その様子はまるで地上を虹が流れていくようだった。
 彼女が押し戻そうとする風に吹かれながらも揺らぐことなく立ち止まると、アインベルとヴィアはその数歩手前で同じように立ち止まり、彼女の見つめる視線の先を見る。アインベルはずっと、呼吸を忘れていた。
「──ただいま」
 そう声をかけるイリスの瞳に映るのは、銀のたてがみをもつ、一匹の大きな狼だった。
 風を受けて揺れるその体毛は、イリスの首巻と同じように、さながら蛋白石のように色が踊っている。この里に現れるという、夜の虹の光を受け続けてきたこの銀狼は、彼そのものでまさしく夜の虹のようであった。
「私が分かる?」
 イリスが犬と思って拾い上げた、かつて小さな仔狼だった彼は、ヴィアの瞳によく似た黒色で彼女のことを見つめた。ただ、その黒の中にも様々な色が虹の如くに遊色して見える。
 イリスの瞳に強く映るのは、暮れる太陽の赤、それをかき抱く橙の空、その空の悲しみが呼ぶ紫の色だった。
「ねえ、私ね──」
 イリスが何か言いかけるのと同時に、銀の誰そ彼のたてがみが激しく震えた。銀は虹色を乗せて輝き、燃える空のような色をした火の粉すらが舞って見える。
 彼の慟哭にも似た咆哮が天を衝いた。
 イリスが里を出てから十数年、約二十年にも近い月日が流れている。かつては子どもだったこの狼も、もう老狼と言っていい年であり、いいや普通であれば死している年齢であるはずだった。長い月日を重ねた老獣がこんなにも若々しく、猛々しいわけもない。輝くたてがみの光が、寂しさを伴ってイリスの心へと流れ込んできた。
 今にもこちらへ躍りかからんとする銀狼の魔獣に、彼女は自身の短剣を抜く。
 赤の切っ先が月の光に煌めき、魔の狼の放つ光ですらも輝きへと変えていた。
 狼の黒い瞳を見据える。
 彼の佇まいから感じるのは、熱い黄昏の力。
 黄昏に呑まれた者がもつ、失うものを失った、最果ての身軽さ。
 この魔獣とまともにやり合えば、己は地に伏せ、この墜星の土地にて身体を凍らせることになるだろう。
 背後には、守るべき者たちがいる。
 そして目の前の彼もまた、イリスにとっては守るべき者だった。
「私ね……」
 少しでも動けば躍りかかられ、身体にかの牙が立てられるだろうことは分かっていた。
 それでもイリスは小さく言葉を発すると、あろうことか手に持った短剣をかなぐり捨てて彼の元へと駆けていく。
 背後で一つの喉が息を呑み、二つの瞳が微かに見開かれるのを感じた。
 狼が地を蹴る。
 高く、飛び上がった。
 それでも止まれない。
 イリスはこちらを噛み砕かんと飛びかかってきた銀の狼へと両腕を広げると、その鮮やかな紅で暮れてしまった黒い瞳を見据え、彼の首元に自身の熱い両腕を巻き付けては強く抱き、崖の端まで共に転がった。
 両膝を立ててこちらにしがみ付くイリスの首元に、彼の鋭い牙が突き立とうとしている。
 背後でアインベルが音のない声を上げ、ヴィアが声のない瞳でイリスのことを見る。
「……ごめんなさい」
 首元に牙が突き刺さるその寸前、イリスは彼の耳元で、最早彼にしか聞こえないだろうほどの小さな声で囁いた。
「随分、長いこと待たせたわ。それでも待っていてくれたのね、ありがとう……」
 彼の動きが止まる。
「……聞いて。私がおまえのことを拾ったのは、おまえと家族になりたかったからだよ」
 彼の黒い瞳が、自分を抱くイリスの横顔を見つめていた。
「自分勝手なの。私はおまえのこと、宝ものを見付けたと思ったの。独りきりにさせておくのは悲しいって、そう思ったの。私は、なんて酷い──小さい頃から自分のことばかりで、周りのことなんて何にも見えていやしなかった……私は、おまえと家族になりたいだなんて言っておきながら、今までおまえのことを忘れて、名前を考えることもしなかった。おまえを家族だと呼びかけるための、名前すら」
 狼のたてがみが震えている。それは崖下から吹き上げる冷たい風に晒されているからだろうか。
「──おまえの名前を、考えたわ」
 イリスが誰そ彼の狼の名を、その名を彼の耳元で呼んだ。
「また会えるように。また、会ったときに分かるように。おまえの名を呼ぶわ、何度でも。何度でも、何度でも、おまえに聞こえるように」
 イリスは彼の首元を抱いていた両腕の力を緩め、彼から身体を離してその黒い瞳を見た。虹を宿すその瞳から、黄昏の色が過ぎ去り、今は満天の星を抱える夜空のように静かにまばゆい光を、彼はその目に宿している。
 きっとその目が、本来の彼のもつ瞳の輝きだった。
「また、会いましょう。私は何度でもおまえを見付けるわ、何度でもおまえを見付けて、何度でもおまえの名を呼ぶわ。──だって私は、トレジャーハンターだもの」
 いにしえの言葉で誕生≠ニ詩≠意味する彼の名前を呼びながら、イリスは優しげに目を細め、しかしそこに隠しきれない自信の火の粉を纏わせては、小さく笑った。
「……おやすみなさい」
 その言葉に、銀の狼はふっと目の輝きを和らげ、白い息を吐きながらその瞼をゆっくりと閉じた。
 閉じられた彼の瞼の隙間から、小さな紅水晶が一つ零れ落ち、風に乗って何処かへ去っていく。
 一匹の狼には永すぎた年月が、今ゆっくりと彼の躰を黄昏させ、そして彼をはじまりの夜明けへと運んでいった。
 黄金の砂と化していく彼が、天高く舞い上がり、風と共に遠くへと流れていく。イリスはその黄金色に導かれるようにして、崖のいちばん端から夜空を見上げた。思えば、今日は一度も空を見上げていなかった。
「……ねえさん」
「アインベル、ヴィア……」
「〈星の墜ちた地〉の宝ってさ、ねえさんのこと……だったんだね──イリス=v
「そうね……お父さんと、お母さんにとっては──そして、私にとっては……」
 イリスは空を見上げたまま、言葉を紡いだ。
「──私にとっては、私を此処まで導いたすべてが、そのすべてが、〈星の墜ちた地〉の宝よ」
 見上げた夜空には、聖火を含む星々が呪いのようなねがいを抱えて無数に煌めいている。呪いのようであっても、しかしそれは確かなねがい。その星々を守るようにして、虹色をした薄布が夜空の中で揺れはためいている。
 赤から橙へ、橙から黄へ、黄から黄緑、黄緑から緑、緑から水色、水色から青、青から紫へとゆっくりと変化しては白く輝くその極光は、里に立つちっぽけな三つの命を柔らかな光で照らしていた。地上でもまた、イリスの首元で極光のゆったりと泳ぐ虹色が揺らめき、明かりの灯ることがなくなった里の中で、それは一つのともし火として光を放っている。
 イリスの視界の端で、何かがきらりと輝き、地面へと落ちていくのが見えた。
「……どうして泣いているの、アインベル」
「何言ってるんだ、泣いてなんかない。……ねえさんこそ、どうして泣いてるんだよ」
「ああ、そうね……」
 アインベルが荒っぽく自身の指先で片目を拭うのを見やって、イリスは微かに笑った。それから彼女は夜に架かる虹を、その暮れない色を宿す瞳で見つめ、ただ一つだけ、たった一つだけ言葉を紡いだのだった。
「──あんまり、綺麗だからよ」
 イリスの瞳から、透明な雫が一粒零れ落ちた。その涙に呼応するように、何処かで熱を宿した星が一つ、尾を引いては流れていく。
 此処で今日、一つの命が失われた。
 そしてきっと、また、一つの命が生まれてくる。
 それは、その名を呼ばれるために。



20170521

- ナノ -