ダスクを越えて


 身体の中を、嵐の歌が吹き抜けてゆく。
 イリスは、もう耳には届かないが、しかし遥か背後で奏でられているだろう、自由奔放な音楽をその身で感じながら、ヴィアとアインベルと共に雨上がりの街道を走っていた。
「ねえさん」
 ふと、こちらの胴に両腕を回しているアインベルが小さくイリスに声をかけた。
「どうしたの? アイン、あまり話すと舌を噛むかも」
「うん……あのさ、ねえさん」
「ん?」
「さっきの曲……あの曲がまだ、聴こえるような気がするね」
「……ええ。私も」
 イリスは前を見つめたまま答えた。景色は過ぎゆき、かの酒場まではもうずっと距離がある。だが、それでもギルの怒鳴り声すら、心の中には響いて聴こえるようだった。
「そうか、あれが……」
 アインベルが再び小さな声で呟く。
 その声にはまるで、誰かからこっそりと、自分だけに秘密を教えてもらったときのような色が交じっているように、イリスには聴こえた。
「──あれが、ねえさんの宝ものなんだね」


*



 行く手に何か、岩のようなものが見えたためにヴィアは段々と速度を落とし、それから立ち止まった。街道の真ん中に岩が飛び出しているというのも可笑しな話である。前方を見据えてイリスは息を吐き、その岩から漂う昏い気配に背後のアインベルが身を固くするのを感じた。
 ──魔獣。
 こちらに気が付いて、地面からのっそりと起き上がったそれは、焦げ茶と白がまだらに混じり、ところどころは抜け落ちて皮膚が見えている、未だイリスの腰ほどまでしかない仔熊の魔獣だった。
「そこにいて、アインベル、ヴィア」
 そう言ってヴィアの背から降り立ったイリスは、同じように地面に降りたアインベルにヴィアの手綱を渡し、それから音を立てないように気を付けながら、深い呼吸をした。
「戦うの? 逃げた方がいいんじゃ……」
「いえ、もう気付かれてる。馬首を返すには距離が近すぎる、いくらヴィアでも後ろ向きには駆けられない。来れば、戦うわ」
 まだ仔熊と目は合っていない。腰に差している短剣の握りに右手は届いていなかったが、しかし左の親指は鍔に届いている。
 イリスはちらとアインベルの隣に立つ、ヴィアの瞳を見た。
 静かな目。黒曜石のようなヴィアの黒々とした瞳は、声もなく仔熊の雨露に濡れた躰を見つめている。
 ──今、何を思っている?
 訊いたところで、答えはないだろう。いいやもし答えがあったとしても、それを聴き取ることは、おそらく自分にはできない。それは、自分たちの間に同じ言語が存在しないからだ。そのために、魔獣と人間、その両者の多くは互いに分かり合うことができない。
 だから、自分たちは憎しみ合うのか。
 ──だから、殺し合うのか。
 だが……
 イリスはヴィアの方を振り返らずに、しかしこの黄昏に生きる馬へと声をかけた。
「──ヴィア、私の道。引きずられないでね、あのたそがれの夜に」
 だが、それは、同じではないのか?
 魔獣と人間は、同じ言語をもたない。だが、同じように動物と人間も、同じ言語をもっているとは言えない。そして人間同士だって時には、同じ言語をもたない場合もある。
 だが、わたしたちは憎み合っているか?
 だが、わたしたちは殺し合っているか?
 時には、憎しみ合うこともあるだろう。時には、殺し合うこともあるだろう。だが、すべてがすべて、そうだというわけではない。同じ言語をもたないからといって、出会い頭にいきなり刃を向けるなどということは、相手が動物であろうと、人間であろうと、早々あるわけはない。
 魔獣は別だろうか?
 いいや……
 憎しみ合うのには、理由が在る。殺し合うのにも、理由が在る。理由なしに、相手を憎むことができるだろうか。理由なしに、相手を殺すことができるだろうか。できるとするならば、それはもう、狂っている。それはもう、黄昏の獣だ。だがそう、狂うのにだって理由がいるだろう。皆、何かがあって、魔獣となるのだ。何かがあって、それが黄昏として心を蝕み、魔獣となる。魔獣には魔獣となる理由が在り、それをもって他の命を襲うのだろう。
 ヴィアは、アニマの子。アニマから生まれた生まれつきの魔獣だと、イリスはベラから聞いている。ヴィアがこうして人を襲うこともなく、自分を乗せて駆けるのは、その理由がないからかもしれなかった。他の命を無為に喰らう理由が、ヴィアにはないのかもしれない。
 だとすれば、やはり、自分たちと何が違うというのだろう?
 仔熊の生気のなかった瞳が見開かれ、血走った白目と光を遮る黒目が露わになる。締まりなく半開きになっていた口元は、がばりと音を立てそうなほど勢いよく大口を開き、犬歯ばかりが異様に長く鋭いその歯牙を白雲の下に晒した。両唇は小刻みに震え、街道のひび割れた石畳にぽたりぽたりと涎が零れ落ちている。もう、魔獣除けも効果はないだろう。
 仔熊の前足がざり、と石畳の地面を擦り、そこに触れていた爪が微かに浮かんだ。
 来る。
 イリスは鍔に触れている左の親指を押し上げ、右手で握りを掴んではその赤い短剣を鞘から抜いた。
「……どうしてあなたは、黄昏に呑まれてしまったの?」
 答えはない。
 仔熊が地面を蹴り、こちらへ向かってきた。イリスは短く息を吸うと唇を引き結び、噛み締めて跳躍しようとしている熊の仔を見据える。同じように、濁った黒に染まった瞳がこちらを見据えていた。いいや最早、あの瞳には何者も映っていないのかもしれない。あの仔にとって自分は、星も月もない、明かりのない夜に立つ、おぼろげにしか見えない岩の一つに過ぎないのかもしれない。
 仔熊が、イリスの背よりも高く跳ぶ。
 振り下ろそうとされた彼の爪が、面前に迫る。
 背後にはアインベルたちが固唾を飲んで立っている。そのためイリスは後ろに退くのではなく、むしろ前に飛び込んで仔熊の腹の下に入り込み、滑るようにそこを抜けながら、彼の腹を斬った。これはかすり傷に過ぎないだろう。
 イリスは仔熊の腹の下から、彼の真横の位置へと抜け出ると、素早くそこで反転し未だ地面に着いていない熊の仔の後ろ足の片方を斬り落とした。
 肉と骨を断つ感触。これが初めてではない。だが、剣を握る片腕の肌が叫ぶように粟立った。
 仔熊は地に落ちる。
 イリスは素早く仔のその背を片足で叩き付けると、油断なく仔熊の首を斬った。
 紅水晶が飛び散る。
 そうして命のともし火が掻き消える瞬間、仔熊が微かにこちらを振り向いた気がした。
 イリスの紅が、瞬きもなくその黒く濁った瞳を見つめる。だが、飛び散る紅水晶のひとかけらが目に突き刺さったような痛みを感じてイリスは一度だけ瞬きをした。
 そこに見えたのは、枯れた森。
 逃げ去る獣たち。
 取り残された母親。
 病に侵され、乳も出ず、その薄く開いた口元からはひゅうひゅうと苦しげな呼吸が聞こえるのみ。
 何もなくなった森に、何もなくなっていく母……
 次にイリスが目を開いたとき、仔熊の躰はゆっくりと黄金の砂に化していた。紅水晶と共に風に巻き上げられ、かたちも遺さず、何処か遠くへと彼は旅立って往く。
 イリスは震える手のひらで短剣を鞘に収めると、口元を押さえては地面にうずくまり、自分の胃がせり上がってくるのを感じた。まもなく反吐を吐き、彼女は苦しげに咳き込んだ。
 肉を斬る感触、骨を断つ感触、命の火を踏み付ける感触すべてが今、自分の身体に戻ってきている。今まで自分がどのようにして魔獣を屠ってきたかはもう、思い出せなかった。
 そして、紅水晶に微かに閃いた、仔熊の記憶の切れ端。それは怖いでも、悲しいでも、苦しいでもない。胃液と共に喉元にせり上がってきたのは、たった一つ。
「……どうしてなの……?」
 イリスは振り返り、今にもこちらへ駆け出そうとしているアインベル、そして静かな目で、黄昏に還って往った仔熊の姿を見つめていたヴィアの方を見た。
 自分と、アインベルと、ヴィアと、今の仔熊に一体何の違いがあっただろう。
 一体、何が違うのか。
 その命の重みに、何の違いがあるというのだろう。
「……どうして?」
 イリスは去り往く黄金の砂と紅水晶の目で追った。世界樹が、青く薄布が掛けられたように遥か彼方にそびえている。
「往こう、ねえさん」
「……ええ」
 アインベルに腕を引かれたイリスは立ち上がり、ヴィアの元まで歩いていくとその背に跨って、今まで忘れていたようにも思える呼吸を深く繰り返した。その間にアインベルもヴィアの背へと乗り上がり、イリスの腰へ両腕を回して息を吐く。
 ヴィアはいきなり走り出すのではなく、街道の上をゆっくりと歩き出した。その蹄の音を聴きながら、イリスは先ほど殺した仔熊と、それから自分がかつて拾い上げた幼い狼のことを想い出す。
 あの仔は、彼は、まだ虹の里にいるのだろうか。それとも、もう……
「……なんて、名前だったんだろう」
「え?」
「名前も知らないまま別れるのは、寂しいことのような気がするわ、アインベル、ヴィア……」
「……うん、そうだね」
 アインベルが回している両腕の力が強くなった。ヴィアは依然ゆっくりと歩を進め、イリスはその紅でただ真っ直ぐに前を見つめている。夕暮れも夜もそう呼ぶにはまだ早く、風は静かに吹いている。
 何処か遠くで、狼の遠吠えが聴こえたような気がした。
「……寂しいね。でも、名前を知ったら、もっと寂しくなるかもしれないよ」



20170505

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