アスカの声を紡ぐもの


 久しぶりの雨は、酷い夕立だった。
 〈ルナール〉の街と、その中に含まれるこの酒場の屋根を容赦なく責め立てる雨粒の音が老いはじめた耳をも叩く。
 その音楽とも言い難い雨の大音声たちを、初老の店主ギルは軽く溜め息を吐きながら聞いていると、自身の背後から雨粒よりも大きな音を立てて、自身が立っている厨房のすぐ後ろに在る店の裏口が開いた。
 ギルはおっかなびっくり後ろを振り返ると、そこによく見知った顔が在るのを見止めて、彼は驚きと安心と不満が混じって何やら忙しい表情をしながら声を上げる。
「──イリス! 何てとこから入って──いやお前、よく帰ってきたな! しょぼくれてると思ってたら仕事も受けてねえのに急に街から出ていきやがるし……それより扉! 此処はおんぼろなんだからもっと優しくだな──」
 思い付いたことを次々に言いながらギルは、裏口からひょっこり顔を出した面子の中に一つ見覚えのない顔が在ることに気が付いて、一度言葉を切る。そこには影よりも濃い黒をもつ馬の顔があった。
 彼は、その深い黄昏の影を湛えた瞳と一瞬だけ目が合い、その色にはたとする。黒い馬。いいやこの存在感は馬ではないかもしれない。
 これは、もしかすると──そんな考えがちらりと頭を掠めたとき、大声を上げて泣き叫ぶ雨音に負けじとイリスが何やらこちらに向かって叫んでいることに彼は気が付いて、今しがた頭を支配した考えをさっさと放り捨てては彼女の言葉に耳を傾けた。
「マスター! 厩! 裏の厩を貸して!」
「厩? あ──ああ、そりゃ構わねえけどよ……もしかしてそいつを? そいつ、何なんだ?」
「アニマのヴィアでベラから借りてる! ヴィア、流石に雨に打たれ続けるのは好くないわ。雨宿りをしましょう、お互いに」
「ヴィア?」
「そう、ヴィアよ!」
 それだけ叫んで厩の方にヴィアと共に去っていったイリスを半ば呆然と見やりながら、ギルは裏口から中へと入ってきていたもう一つの見知った濡れ鼠へとやれやれと溜め息を吐いて、それからすぐそこに在った手拭いを投げ付けた。
「ベル坊、イリスはもうだいじょうぶなのか?」
「だと思うけど、一応用意してあげてよ。あとベル坊ってのはいい加減やめてくれってば」
「用意って何をだ、ベル坊?」
「そりゃ、トレジャーハンターの好物をさ」
 アインベルは溜め息混じりにそう告げて、受け取った手拭いで雨に濡れた顔と髪をわしわしと荒っぽく拭い、それから厨房を抜けて店内へと入ると、赤々と火が灯されている暖炉の前へと歩いていってそこへしゃがみ込んだ。軽く辺りを見回すと、店内には何人かの客が同じように雨宿りをしているようである。
 アインベルは上着を脱ぎ、暖炉へとかざす。かざされた彼の上着が炎の赤色に柔らかく染まっていた。
 奔る雨足に叩かれながら、風のように速いヴィアの騎乗で振り落とされないように長いこと姉にしがみ付いていた疲れからか、彼は隠すこともなく大きな欠伸をし、それから目尻を拭った。
「マスター、雨が止むまでお邪魔するわ」
 奥では厩にヴィアを雨宿りさせてきたイリスが、再び裏口から酒場の厨房へと入り込んできてギルにそう告げていた。
 そんなイリスに彼は、アインベルに渡したものとは違うが、しかし近くに置いてあった別の手拭いを投げて寄越すと、好きにしろとだけ呟いて、それから近くの棚に並んでいた蜂蜜酒の瓶──厨房に並んでいる酒はおそらく店の商品ではなく自分用の酒だろう──をイリスへ手渡す。
 ギルは鍋を火にかけながら、軽く笑って手をひらひらさせた。
「奢りだ。全部は飲むなよ」
 イリスは彼から更に小酒杯を二つ受け取ると、頷いて厨房から店内へと歩いていった。透明な瓶に入っている蜂蜜酒が歩くたびに、その名の通り暖かな黄色を揺らめかせている。
 彼女は椅子にも座らず地べたに座り込んで暖炉に手をかざしているアインベルの姿を見付けると、自分もその隣まで歩いていって彼の隣に腰を下ろした。
 蜂蜜酒と小酒杯を同じように床に置くと、イリスは自分の顔を手拭いで拭った後に、その濡れそぼった橙の髪を手に有る布で包むようにして、そこからなるたけ水気を取る。
 それから彼女は小酒杯の一つに蜂蜜酒を注ぐと、そのグラスをアインベルへと差し出した。
「これ、温まるから飲んで」
「あ、ミードか。ありがとう、僕これ好きなんだ」
「お礼はマスターにね。……寒い、アインベル? 手を握る?」
「いや、そこまで寒くは──ねえさんこそだいじょうぶ? あれ……ねえさん、手袋取ってるんだ」
 小酒杯に注がれた蜂蜜酒を半分ほどあおってから、アインベルは姉がいつもほとんど肌身離さずつけている手袋が今は外されていることに気が付いて軽く首を傾げた。
 イリスはもう一方のグラスに自分用の蜂蜜酒を注ぎながら、小さく笑ってアインベルに頷く。
「もう、必要ないかなって」
「そっか」
「流石に手綱を握ったり仕事をするときには使うけれど。……たぶん、心のどこかでずっと怖がってたんだわ、この熱のこと。この熱がお父さんとお母さんと、虹の里から与えられたものだって想い出すのをずっと怖がってたんだと思う。誰かに触れて、それを暴かれることも、自分の気持ちを伝えることも、すべて。怖いって思いすら、この手袋で隠して誤魔化してた」
 イリスは注いだ蜂蜜酒を少し口にすると、そのとろりとした甘味を舌で味わいながら、緩やかに身体の中を巡っていく温かな熱を感じていた。
 彼女は立てた膝に両の手のひらを預け、その両方で小酒杯を包み込んでは微かに炎の赤に照らされる甘い黄色を見つめる。それは暮れる空の色に似ているかもしれないと、隣のアインベルはらしくもなく思った。
 いいや、蜂蜜酒を見つめる姉の瞳、そこに浮かんだ少し寂しげな色が少年にそう思わせたのかもしれない。
「……里へと続く洞窟を引き返してきたとき、自分のこと、想い出したとき……そのままの手で、この手で……ヴィアに触れるの、すごく怖かったの」
「……うん」
「ヴィアだけじゃない、目に映るものすべてが怖かった……すべてに、責め立てられているような気がして」
 イリスはかぶりを振ると、杯に入った蜂蜜酒をすべて飲み干した。
 彼女は空っぽのグラスを少し傾けて、その透き色に暖かな火の色を反射させると、アインベルの方を見て微かに笑う。
「何かを怖がったっていうことを認めるより、意地を張って何かたいせつなものを失うことの方がずっと怖いって、もっと早く気付けたらよかった」
「ねえさん……」
「でもよりにもよってヴィアを怖がるなんてね。ヴィアはヴィアだって、私はよく知っていたはずなのに。ちょっと反省、ね」
 寂しげにそう呟いて、イリスはおかわりを注ごうと蜂蜜酒の瓶へと手を伸ばす。しかし、伸ばした手のひらに何か別のものが置かれたのを彼女は自覚すると、はっとして頭上を仰いだ。
「ほれ、お待たせ。ハンターの好物の一つ、食いもんだ」
「……マスター」
「ま、茹でただけだし大したもんでもないけどな。冷めない内にさっさと喰え」
「ありがとう──いただきます」
 ギルへ頷きながらそう言って、イリスは手のひらに載った皿の上に大量に盛られたソーセージを、その隣に置かれていた突き匙で一本取り上げて口の中へと放り込む。
 隣から伸びてきた手がひょいと、その盛られた腸詰の中の一つをさらっていったのが視界に映り、イリスはくすりとして皿をアインベルの方へと差し出した。
 彼はまるで悪戯が見付かったかのようにちょっと恥ずかしそうな顔をしてから、イリスに差し出された皿の上からソーセージをまた何本か受け取ると、それから小さく笑ってその腸詰にかじり付く。イリスは香草が練り込まれたソーセージの爽やかな辛味と肉の甘味を感じていた。
「イリス」
「ん……? マスターも食べる?」
「ばかを言うなよ、お前の喰いっぷりを見てるだけでこちとら胸焼けがしそうだってんだ」
 ギルは呆れたように溜め息を吐いて、しかしイリスの皿から一本だけソーセージを掠め取ると、それを口に放り込んでもぐもぐやりながら、水仕事によってたくさんの勲章が刻まれたその大きな手のひらでイリスの頭を掻き回した。
 イリスは自分の髪の毛がみるみるうちにぼさぼさになっていくのを感じ、ソーセージを喉に詰まらせそうになりながら目を白黒させてギルの方を見上げる。
 見上げたイリスの目に飛び込んできたのは店主ギルの意地の悪そうに吊り上げられた唇と、それとは対照的に優しげに細められ皺が刻まれた目元だった。彼は更にイリスの髪をぐちゃぐちゃにしながら口を開く。
「お疲れさん、イリス」
「──え?」
「よく、頑張ったな」
 そう言って更に頭を撫でるギルの言葉はぶっきらぼうだったが、しかし声はひどく優しげなものだった。
 ギルの言葉を聴いたイリスは喉の奥が何かソーセージではないもので詰まりそうになるのを感じ、思わず突き匙を持つ手に力を込める。
 店内に流れては微かに鼓膜を揺らしていた客たちの話し声がイリスの耳に聴こえなくなり、今彼女に聴こえるのは雨がひどく街を叩く音と、暖炉の火がぱちりと一つ爆ぜる音ばかりだった。
 ふと、突き匙を持つ手の甲にぽたりと一粒水滴が落ちてきたが、しかし彼女はそれを拭うこともせず、その震える手で腸詰をまた一本取り上げると口の中に放り込む。
 イリスは鼻をすすっては口の中でソーセージをきつく噛み締め、呼吸も咀嚼も視界もすべて鈍くなりながら何とかそれを飲み込んだ。
 雨音が鳴り、火が爆ぜる。
 水滴が段々と数の減ってきたソーセージの上にもぱたぱたと降り注いでいたが、彼女はそれを二本一気に突き匙で刺しては無理やりに口に押し込んで、片手でその口元を押さえた。
 味ももう分からない。
 分からなかったが、何だか塩辛いような気がした。
「お前、泣くか喰うかどっちかにしろってんだ。……ま、両方同時にできりゃあ上等か。それができりゃ俺たちは生きていける、ほら、生きてるって感じがするだろ?」
「……マスター、これ、辛いわ。喉が渇いた」
「水は手前で汲みやがれってんだ、このじゃじゃ馬」
 ギルは眉根を寄せて意地悪くにやりとすると、イリスの手に有る空になった皿を取り上げて厨房の方へと下がっていく。
 彼は途中でこちらを振り返ると目元の皺を深くして、銀歯交じりの歯を見せて今度は軽く笑い声を上げた。
「あとはまぁ、笑えよイリス。それがいちばんいい。お前は知らないかもしれねえけどな、オンナノコってのは笑ってた方がかわいく見えるもんなんだ。──なあ、ベル坊?」
 アインベルは、そう言って快活に笑う初老の店主へとどこか白けた視線をおくる。
 そんなアインベルにギルは呆れたように軽くかぶりを振って肩をすくめると、ひらりと手を振って厨房の奥へと消えていった。
 それと同時に、弦楽器がかき鳴らされる音がイリスの耳を掠め、彼女は赤い目を擦って更に赤くしながら音の鳴った方へと振り返る。
 リュートの音が鳴ったその近くでは、ハーモニカの若いが郷愁を燻らせる音も響き、更にはバグパイプの楽しげでしかしどこか寂しげな音、ジャンベと呼ばれる、木をくり抜いて作られ、枠には山羊の皮が張られた片面太鼓の鋭い音がイリスの鼓膜を震わせた。
 彼女が振り返った先には、ハンターたちが楽器を抱えて酒場の椅子に座っている。その中でハーモニカを扱う女が、こちらを見やっては悪戯っぽくにやりとし、その唇を開いた。
「さ、泣き虫。ハンターの好物の中の一つだよ、何でも好きな曲を奏ってやる。何がいい?」
 そう言って一斉におのが楽器をかき鳴らした彼らは、花祭りの町で風に呼ばれたかのハンターたちだった。
 イリスは立ち上がって目元を拭うと、天井を見上げる。
 空は夕暮れの雲に隠され、雨は未だ止まない。
 彼女は花祭りのハンターたち一人ひとりの顔を見渡すと、それから頷いて先ほどハーモニカのハンターがしたように悪戯っぽくその唇を歪ませた。
 イリスの鮮紅が、ちかりと光に煌めく。
「──奏りたい歌が在るの」


*



「ああ、今のはかなりいい感じだったんじゃねえかな」
「そうかも。たぶん旋律は今の感じよね、イリスの歌じゃ下手くそすぎてよく分かんないけど」
「下手すぎてどこの音程がおかしいのかが逆によく分かる気もするよな」
「……音痴上手のイリスってわけね……」
 楽器を片手に、四人組のハンターたちに言われたい放題になっているイリスは肩をすくめると、記憶にはしっかり歌として遺っているんだけど、と音痴の言い訳にもならない言い訳をする。
 ハーモニカはそんなイリスに呆れたように笑うと、隣に座っているリュートが何やらかなり真剣なまなざしで先ほどの旋律の確認をしているのに気が付いて、その腕を軽く小突いた。
 ちなみにこのリュートが、花祭りでイリスから両の手のひらの上に花飴の瓶を置かれた悲しきハンターである。
「で、何でこの歌なの? あたしらは誰も聴いたことないけど」
「……雨が、上がらないかなと思って」
「何それ、青空の歌ってこと? ま、あたしたち、そういうの嫌いじゃないけどね」
「むしろけっこう好きだよな?」
「いやかなりね」
 ハーモニカとリュートがそんなやりとりを交わしながら、じゃあもう一回さっきの感じで、と仲間たちに声をかけたのを合図に、酒場の入口が開いて雨の轟音と共にまた一人の濡れ鼠が店内へと入ってきた。
 その物音に、暖炉の前でうたた寝を決め込んでいたアインベルが目を覚まして背後を振り返る。
 イリスや花祭りのハンター一味もアインベルが振り向いた方向を見やり、厨房からカウンターの方へと戻ってきていた店主ギルはアインベルに向けて何やら指先をちょいちょいと動かしていた。
 アインベルはそれを察すると暖炉の前で乾かしていた手拭いをギルの方へと放り投げ、それを受け取った店主はその拭い布を今しがた店に入ってきた青年へと放り投げる。
 ああやれやれ酷い目に遭ったと呟いて頭をわしわしやっている青年に、イリスは今にも笑い出しそうな表情でひとりごちた。
「……いいところにきた」
 イリスは早足に青年のところへ近付いていくと、彼が何か言葉を発する前にその腕を強く掴んでは、半ば有無を言わさぬといった様子で青年をハンターの楽団一味のところまで引きずっていった。
 楽器を片手にしたハンターたちと、その前に引っ張り出された青年は、互いに何事といった風にイリスの方を見ているが、彼女ばかりは今にも鼻歌を歌い出さんばかりに楽しそうである。
 彼女は彼の腕を引っ掴んでいた手のひらを離すと、今度はその手で彼を示すようにして、それからハンター楽団たちに向かって一言声を発した。
「原曲」
「は? ああ……これ、トコソラの歌なのね。いろいろいじくって編曲しちゃったから、あんま原形残ってないかもしれないけど」
「だいじょうぶ、もう一回奏ってみましょう」
「あんた、何で変なところ自信家なのよ」
「……おいおい、一体何の話なんだ?」
 軽く笑って首に手をやったトコソラのハイク・ルドラはそうイリスに問うた。
 イリスは振り返ると、彼のその鋼玉の瞳の中に空にも似た青玉の色を見出しては頷き、それから鮮やかな紅の瞳に楽しげな光を宿して面白そうに笑い声を上げる。
「雨が上がらないかなって、それだけの話!」
 椅子に座り直し、自分の楽器を安定した位置へと持っていきはじめたハンター楽団を見つめて、イリスは折り曲げた人差し指を唇に当ててふむと呟いた。
 それから彼女はその指をぴっと伸ばして何かを思い付いたような仕草をすると、花祭りのハンターたち一人ひとりの顔を見やり、その唇を微かに緩める。
 一体何を言い出すのだろうとハンターたちは思っていたが、それと同時に誰もが嫌な予感を感じていた。
「──指揮をやるわ」
 その言葉に思わず、椅子に座っている四人の内の二人が立ち上がった。
「ばか!」
「やめろよ、結果が目に見えてる!」
 指揮をやるなどと言い出したイリスにハーモニカとジャンベが猛反対し、リュートといえば苦々しい顔を隠すこともできずにイリスを眺め、バグパイプは溜め息混じりの笑い声を上げていた。
 そんな四人にイリスは紅を楽しげにちかちかと煌めかせて笑い、ハーモニカとジャンベに座るように手で促す。二人はほとんど嘆いているといっても過言ではない様子で席につき、掲げられたイリスの手のひらを恨めしげに見つめた。
 イリスが手を振り上げる。
 これから演奏の始まるその気配に、誰の耳にも聴こえたのだ、雨に打たれる店内がしんと静まり返ったように。
 拍子を刻みはじめたイリスの手を追って、最初に走り出したのは軽やかなリュート。
 その足音を楽にするのはジャンベの鋭い音。
 バグパイプは空を翔ける鳥の歌声。
 ハーモニカは進む者のための追い風。
 それはまさに軽やかに駆け抜ける青空呼びの楽の音、しかし順調に思われたのもそのはじめばかりで、イリスの指揮は段々と自由で奔放な熱を纏うようになってきた。
 その熱へ最初に感化されたのはやはりリュート、彼の歩は走りゆく人のものから馬に乗っては大地を駆け抜けるそれへと変貌する。
 ジャンベは辺り構わず奔りゆくリュートの足音を追い追い、しかし段々と苛立ってきたのか、その足音の中に無数に降り注ぐ雨音も混じるようになってきた。
 バグパイプの鳥は歌を口ずさみながら青空を羽を広げて飛んでいたが、しかしジャンベの降らせる突如とした豪雨にその羽を鋭くして、歌が流れていた嘴と同じものとは思えないそこから大空を裂くような咆哮を上げる。
 ハーモニカは追い風も向かい風もごちゃ混ぜにした竜巻を呼び、空を覆ってしまった雲すらも巻き上げようと楽の音を響かせた。
 そのすべてを瞳に映すイリスはほとんど破顔しながら手のひらを閃かせ、それは指揮というよりは最早踊っているようだった。
 雨が上がればいいとは何ともお笑いである。
 彼らが奏でるこの曲はそれとは正反対、まさしく嵐のような音楽だった。
 イリスは手のひらを踊らせ、あちらへこちらへと歩を運び、自らもその足で調子を刻みながら嵐の中へと飛び込んでいっている。
 この楽の音を前に、雨が上がればいいなどと言うのは何度考えてみてもやはりお笑いである。
 だが、イリスは知っている。
 そしておそらくはこの音楽を奏でている彼らも知っていた。
 雲を拓く嵐のことを、その嵐の後に必ず訪れるもののことを、青空のことを、この楽を奏でる誰しもが知っていた。
 駆けゆく足音、降り注ぐ豪雨、咆哮する鳥にうねる竜巻を両手に抱いていた彼らに向かって、店主ギルからやかましいと怒号が飛んでくるまで雨宿りの楽団は嵐の曲を奏で続けた。
 楽の音すら裂く勢いで飛んできた怒号に思わず耳を塞いだ彼らは、しかし互いに目を合わせると、一呼吸置いたのちに先ほどの演奏と大差ないほどの大音声で笑い出す。
 再びギルから怒号が飛んできたがそれも耳に入らず笑い続けた彼らは、ひとしきり笑いを外へ吐き出すと、それから己を落ち着けるように肩で息をした。
 ジャンベの男が未だ笑いの抜けきらない様子で声を上げ、また笑い出す。
「なんだこりゃ、今まででいちばん酷かったなあ、おい! なあ、最悪だよ! 最悪だ!」
「ばかね、トレジャーハンターだったらそこは最高って言いなさいよ」
「いやこれは最悪だよ! 悪いな、トコソラのルドラ! 有り得ないもんを聴かせちまって!」
「ルドラに謝ったらあたしたち、此処にいる全員に謝らなきゃなんないじゃないの」
「謝るべきだろこんなもん!」
 そういうとジャンベはまた笑い、ハーモニカもそれにつられて笑い出した。
 リュートは半ば放心したように椅子に身体を預けて意味もなく天井を見上げ、そんなリュートを眺めながらこの中では一等落ち着いていると言えるだろうバグパイプは机の上のぬるくなった水を飲み干している。
 イリスは汗だくになった顔を熱のこもった手のひらで拭い、額から汗が流れていくのを感じながらハイクへと振り返ってはその紅を細めてにやりとした。
「何が見えた、ハイク? 聴こえたでしょう、あなたの歌」
 言うと、イリスは天井を見上げて、その足は弱まったが未だ振り続ける雨の音を聴いた。それから何か満足したように呟くと、楽しげに瞳を煌めかせて視線をハンターたちへと戻す。
「晴れるわね」
「そりゃ、ただの夕立なんだから待ってりゃじきに晴れるでしょうよ」
「そうね、往くわ」
「はあ?」
 ハーモニカが心底呆れたといった声を出すのと同時に、脱力していたリュートがばっと身を起こしてジャンベは溜め息、バグパイプは苦笑いを零していた。
 ハーモニカは立ち上がってイリスの前まで歩いてくると、彼女の頬をむいと引っ張って笑う。ハーモニカの睫毛の長い、つり目がちの凛とした黒目が楽しげに細められた。
「あんた、忙しいわね。さっきまでぴいぴい泣いてたくせに」
「な、泣いてない。あれは……そう、雨漏りよ」
「流石に苦しいわよ、詩人。というか、まだ雨降ってるけど」
 イリスは恥ずかしそうに咳払いをすると、その場にいるハンター全員の目を見ると心底楽しそうに笑い声を上げた。
 それから店主ギルと共に、いつの間にか暖炉からカウンターへと移動して事の一部始終を眺めていたアインベルの名を彼女は呼ぶと、そちらへと歩いていき、その途中で振り返ってその鮮紅の瞳に弧を描かせた。
 そうしてイリスはハーモニカが言った通りに雨が未だ屋根を叩いていることを自覚すると、しかし彼女へと向かって軽やかに声をかけたのだった。
「──私の名前は?」
 それだけ言ってイリスはその橙の髪をなびかせながら、手をついてカウンターを飛び越え、それを見ていたギルの怒号が鳴り響く中、厨房から裏口へと駆けていった。
 そんな姉の様子に苦笑いをするアインベルは、歩いて店内から裏口へと続く厨房へ向かう途中、呆然とイリスの様子を見つめていたリュートの方を振り返るとどこか自慢げに笑って、自身も裏口へと去っていく。
 リュートはそんなイリスの弟の、去った名残を唇を震わせながらねめつけると、しかしどこか疲れたように背もたれに身体を預けて長い溜め息を吐いた。
「イリスって孤児院育ちだっけ? ってことはあんなのが他にもうじゃうじゃたくさんいるわけだ……敵わねえな、あれ……ちょっとおっかねえよ……」
「あんたってびっくりするくらい意気地がないわよね。ハンターでしょ、火中の栗の一つや二つくらい拾ってみせなさいよ」
「慎重って言えよ……あーあ、俺、お前で妥協しよっかなあ……」
 リュートがそう言い終わるか終わらないかの内に、ハーモニカによる鋭すぎる一撃が彼の脳天に直撃した。
 彼女はどんな感情によるものなのか顔を真っ赤にしてリュートの座っている椅子の脚を蹴りに蹴りまくっている。
「殴るわよ!」
「殴ってから言うんじゃねえよ!」
「殴ったわよ!」
「殴るんじゃねえよ!」
 そんな風に怒鳴り声の応酬を繰り返す二人に、常空のハンターは仲がいいなと軽く笑ってから今日何度目かの苦笑いを零しているバグパイプの方を見やった。
「すまないな、うちはいつもこんな感じだ。少々騒がしすぎるが、まあ……そこまで悪くもないだろう?」
 そう言って彼はすまなそうに肩をすくめると、しかしそれから自身の音の得物を軽く掲げて、ハイクの方を見て面白そうにその口角を上げる。
 雨はもう、ほとんど上がりかけていた。
「さて、どうだ、もう一曲? 暴れるだけ暴れて出て往ったあのじゃじゃ馬へ、雨上がりの旅立ちにぴったりな音楽を聴かせてやろう。……何、ただ酒場にいるだけでもやかましいのが俺たちの売りだ」
 言葉を切るとバグパイプは立ち上がり、その手に有る得物を好き放題に吹き鳴らした。
 それは、酒場に鳴り響いては旅立ちを後押しする、耳をつんざく店主の怒号にも似ていたかもしれない。
 彼は笑い声を上げ、未だ小競り合いを続けるハーモニカとリュートの前で軽く指を打ち鳴らし、自身の隣に座っているジャンベへと目配せをした。
 彼らは楽器を手に立ち上がると、各々が宝を見付けた狩人の光をその目に宿し、好き放題に楽器をかき鳴らした後に声を上げて心底楽しそうに笑った。
 それからバグパイプは口角を上げると、隠すこともできずに悪戯が大好きな子どものような顔をして、ハイクの方を見て再び大音声の笑い声を上げたのだった。
「──何処にいたって聴こえるさ!」



20170409
…special thanks
ハイク・ルドラ @hiroooose

- ナノ -