エーテルならばこの赤に


 アインベルは、聞き覚えのある声にはっとして顔を上げた。風の吹く声が聴こえる。
 音ではなく、声。
 彼はこれに覚えがあった。
 その予感通りにしばらくして、イリスがヴィアの背に乗ってこちらに駆けてきた。アインベルはヴィアに乗る姉の姿を認めると、そのやさしい緑色の瞳に安堵の光を浮かべ、小さく息を吐く。
 彼がその場で立ち止まっていれば、ヴィアに乗ったイリスが段々と速度を緩めながらアインベルの前へと近付いてきた。
 彼女は弟の前でヴィアをぴたりと止めると、アインベルに向かってまるで抱き上げようとするように両手を伸ばす。
 アインベルは姉のその様子を見ると訝しげな色をその目に浮かべ、それから呆れすらも通り越してしまったように聞こえる、からからに乾いた笑いを喉の奥から零した。
「……ねえさんに抱き上げられるの、今の僕が?」
「あ……そうね、確かに無理かも。つい昔の癖で──いえ、案外やってみたら持ち上げられるかもしれないわ」
「やめといた方がいいと思うけどな。……しかもねえさん、また僕を前に乗せようとしただろ」
「だって後ろはかなり揺れるわ。ほら、家にいた頃はよく一緒に馬に乗ったでしょう。私が後ろからアインを抱きかかえて──」
「……呆れたよ」
 アインベルはふっと息を洩らして笑った後、イリスに対してぶっきらぼうにそれだけ言うと、ヴィアに声をかけてからその背の上に馬慣れした者特有の身軽さでひょいと跨った。
 彼はイリスの前を陣取ると、それから振り返ってその唇をにやりと歪める。
「──前、見える?」
 そう言ったアインベルの目元は弧を描き、肩などは小刻みにぷるぷると震えていた。しかしそれは当たり前のことである。何しろ彼は大声を上げて笑い出しそうになるのを抑えるのに必死だったのだから。
 イリスは自分の目線と同じところにアインベルの瞳が在ることを自覚すると、目を輝かせては溜め息にも似た声を唇から吐き出して、それから感慨深そうに頷いて呟いた。
「……大きくなったわね、アインベル」
「そこは大人になったって言ってよ」
「まだ子ども」
「それならまだまだ伸びるな、この背もさ」
 悪戯っぽく微笑みながらアインベルはヴィアの背から降り立つと、それから再びヴィアの背に飛び乗り今度はイリスの後ろ側を陣取った。腰に差した彼の鈴杖がしゃんと涼しげな音を立てる。
「僕が手綱を握ってもいいんだけど、たぶんヴィアは嫌がるだろ? それにこれはねえさんの道だ、往く方向はねえさんが決めないとね」
「……振り落とされないでね、アイン」
「あれ……随分変な心配をするんだな、ねえさんは」
 アインベルはイリスの腰に両腕を回して、その背に自身の額を押し付けると、先ほど堪えきったと思われた笑いをついに喉の奥から外へと飛び出させた。
 少しの間イリスの背に額をくっ付けたままアインベルは笑い声を上げ続け、やっと気が済んだというところではもう、彼はけろりとした表情で彼女へと向かって自信ありげにその唇から言葉を紡ぐ。
「なあねえさん、まさか忘れたわけじゃないよね」
 そう言った彼の表情は、宝の在り処を見出したイリスの顔と、まるですっかり鏡映しのようだった。
「──僕はイリス・アウディオっていう、とんでもない暴れ馬にだって振り落とされたことはないだろ?」


*



 大小様々な石が敷かれ、その敷石の間からところどころ地面の茶が見え隠れしている古い街道を、ヴィアの硬い蹄が叩いて往く。
 淡い夜の気配と、その硬いもの同士がぶつかり合う音に呼応して、街道沿いに設置されている水晶燈の光が次々に灯されていった。
 イリスはアインベルを背後に、ヴィアと共に街道を駆け抜け水晶燈を追い越し追い越し、ほとんど風の目になりながら、目まぐるしく移り変わって点滅すらして見える水晶燈の光の軌跡を鮮紅の瞳に映す。
 その柔らかな橙色の光が次々に視界の隅を過ぎ去るさまは、まるで幻灯機に映し出されては移り変わっていく光のようであった。
 鮮やかな赤の瞳に映るその光たちは、彼女の内に宿る、自分が生まれてから走り続けてきたこれまでのたそがれの旅路の記憶を震えさせ、イリスの視界を微かに滲ませる。
 彼女は光の方へと少しだけ傾がせていた顔を正面へと戻し、往く手を見据えた。
 随分と涙もろくなってしまったものだ。
 しかしイリスは短く息を吸うとどこか納得したような笑みをその唇に浮かべ、それから手綱を握る手に力を込めた。
 街道を駆け抜けながら光の走馬灯を感じていると、遠く先、水晶燈のその白っぽい橙をした光の中に一つ、大きな黒を感じてイリスははっとする。
 その黒が一体何であるかを、目に映る色やそこから発せられる気配から察知した彼女はヴィアに声をかけると、ヴィアの腹をふくらはぎで強く挟み込んだ。或いは人はそれをハンターの勘と言うのかもしれない。
 イリスは上体を引き起こして腰を張ると、手綱を自分のへその方へと引き寄せた。
 ヴィアがぴたりと動きを止めたのを感じたアインベルは、イリスの腰に回していた自分の腕の力を少し緩め、イリスの後頭部とヴィアの躰を交互に見やって不思議そうな顔をする。
「どうしたの?」
「──遺跡の影、よ」
 イリスが鐙から足を外して、騎座から腰を浮かせるような仕草をしたのを見止めて、アインベルはイリスに回していた腕をほどくと、自身も騎座から腰を浮かせて先に地面へと降り立った。
 アインベルが地に足を着けたのとほとんど差もなくイリスも地面へと降り立つと、少し先の道の上でこちらを振り返っている少女と二匹の獣へと軽く手を挙げる。
 それからヴィアとアインベルと共に早足に少女の元へと進んでいくと、道の真ん中で立ち止まっていた少女は面白そうにその赤々とした瞳を細めて笑った。
「フローレ」
「ああ、お姉さん、ご縁があるね。もしかすると星を追ってる?」
「追ってる。聖火を羅針盤に、夢の元へ」
「相変わらずで何より!……今日は失せ物探しのお兄さんも一緒なんだね」
 魔獣と共に星の方へと向かう民はそう言うと、イリスの横に立っているアインベルをちらりと見やった。彼はフローレとイリスを交互に見やると、ちょっと困ったように笑いながら頭を掻く。イリスはアインベルの方を見ると、おやという表情で首を軽く傾げた。
「フローレと会ったことがある?」
「まあ僕、これでも一応失せ物探しで食ってるからね。この仕事、けっこういろんな人に出会えるんだよ。ほんと、びっくりするくらい」
 言いながら、アインベルは腰に差した杖の先に指先で触れる。微かに鈴の音が鳴り、その柔らかな音は街道を吹く風に乗せられて遠く先へと流れていった。
 フローレはまだ色も淡い夜の帳に星の気配を感じたのか、ちらりと空の方を見やってからイリスとアインベルへと交互に視線を移し、それからその瞳の赤をイリスの紅の色へと向ける。
「それで、お姉さん。聖火を追うと何処へ辿り着く?」
「何処へ? そうね……
 かの青き炎を追うならば、夜を畏れよ、しかし夜を恐れるな。この道の先には毎夜冬が訪れ、凍てつく水晶が連なり、幾重にもその体を震えさせることだろう。夜は永い、その夜を畏れよ。しかし夜を恐れるな、その熱を内に抱け、太陽の昇る地に生まれし小さな子どもたちよ。熱を抱きしおまえの中に、夜をも照らす極光は在る。そこは夜に虹の帳が下りる地、七色鳥の名を冠す里=c…」
 イリスは青い革張りに蛋白石が揺らめく夜虹の本、その中に書かれていた言葉たちを諳んじながら、その言葉たちが自分の身体の中にひどく馴染んでいくのを感じていた。
 しかし、諳んじるというのは間違いであるかもしれない。アインベルからイリスへと手渡された本、オレハの持っていたあの『オーロラ物語』という本は、表題から中身まで、これまで一度も目にしたことのない文字で書かれていたのだった。
 読み方も解らなければ、発声方法も解らない文字。
 だが、何故か意味は分かった。
 読んだことも、聴いたことも、見たこともない文字だがその言葉が何を意味しているのかがイリスには分かる。文字の姿を目にすると、その意味がそのまま瞳に返ってくるのだ。
 そう、これはおそらく虹の里〈ミノバト〉だけに伝わっていた旧い文字。
 彼女はその虹の里の古文を、自分の中に返ってきた言葉を元にして、そうして己の言葉として現代語に翻訳してみせていたのだった。
 叙情的な表現を愛する彼女のことなので、若干、言い回しは古臭かったかもしれない。
 イリスは頭の中で本の頁をいちばん最後まで捲ると、そこに書かれている読めず、言えない文字へと視線を向ける。
 だが、そこに書かれている言葉、その意味に彼女はほとんど確信のようなものがあった。
「そこはかつて墜ちし星から、極光と共に生まれ出でし虹の里──〈星の墜ちた地〉=v
 その言葉にアインベルとフローレは思わず顔を見合わせ、それからイリスの方を見やる。イリスは一息吐くと、ヴィアの滑らかな青毛を撫でながら北の空を見上げた。
「〈星の墜ちた地〉──そこにお姉さんの宝ものが在るの?」
「在るわ、間違いない」
「おお、言い切るね。でも嫌いじゃないよ」
 フローレは笑うと、イリスに倣うようにして北の空を見上げる。そんな少女につられてか、フローレの両側に佇んでいる黒き黄昏の獣たちも微かに首を動かして空を見上げていた。
 アインベルはそんな二人と二匹の様子を眺めながら微かに笑いを零した。
 まさかヴィアまでと思ってそちらの方を見やると、その黒曜石の瞳も同じことを考えていたのかその真意は定かではないが、一人と一匹はばっちりと目が合ってしまい、彼は笑い声を上げそうになるのを必死で堪える。
 変な顔をしているアインベルに気が付いて、イリスとフローレがこちらを振り返って不思議そうな表情をその顔に浮かべていたが、アインベルは大きく咳払いをすると何でもないと言い切って、少し恥ずかしそうにかぶりを振った。
 そんなアインベルはさておき、フローレは呆れと可笑しみを一緒にした色をその瞳に浮かべると、それからイリスの方を見やって言った。
「……ま、お姉さんの向かう先に宝ものが在るっていうのは間違いないよね。お姉さん、なんでも宝ものにしちゃうでしょ」
「なんでも……は、流石にないと思うけれど……」
「いやいや。魔獣遣いと魔獣をまるで宝ものみたいな言い方する人、そうそういないって」
「でも、フローレにとって、ルミノクやアウロラは宝ものでしょう?」
 フローレは肩をすくめて額に片手を押し当てると、それから小さく笑った。
 少女は自身の傍らに、さながら少女の影のように佇む大山犬と大鷲の深い色をしたその躰に軽く触れると、それからイリスの瞳を、黄昏の赤に照らされて更に赤く色付いた紅水晶のような瞳で見やる。
 悪戯に細められたその赤の表が、星の光の如くに白くきらりと閃いた。
「じゃ、お姉さんは誰の宝もの?」
「……それを確かめに往くの、この目で」
「まあ……とりあえず一人、お姉さんのことをそう思ってるのはいると思うけどね、此処にも」
 フローレはちらりとアインベルを見やり、目が合うと分かり易く肩を跳ねさせた少年に対してにやりとした。
「べつに、君のこととは言ってないけどね。ほら、私かもしれないでしょ」
「……あのさ、フローレ……きみ、けっこう意地が悪いよな……」
「そう? 商売上手って言ってほしいね。君は人が好すぎるんじゃない?」
「そこは商売上手って言ってほしいかな」
 アインベルがそう軽口を叩いて手のひらをひらりと振れば、その背後の空の中を一筋、光が流れていくのをイリスとフローレは見止めた。
 いつの間にか夜の帳は無数の星の明かりを灯しながら下ろされていたらしい。
 少女はその塗れる赤に流れた光の尾を映しながら、大山犬の魔獣であるルミノクの背に声もなく飛び乗ると、彼女はイリスの方を見て楽しげにその目を細める。
 先ほど流れた一つが呼び水となったかのように、深い青から黒へと染まりはじめた空の中を次々に星が流れていく。それはまるで、先ほど駆け抜けた水晶燈の光の軌跡のようでもあった。
 少女は流れていく白光の星々へと視線を向けると、その中に青く燃え立つ聖火の星を見付け、その赤の瞳で再びイリスの瞳を捉える。
「お姉さんは星を掴む人だ──それはもちろん、私もね!」
 それだけ告げると、黄昏の影をその身に宿す大山犬の背に乗った少女は、同じく黄昏をその羽すべてに宿す大鷲をも引き連れて街道の上を遠く駆け去って往った。
 イリスはそんな、星の方へと向かう魔獣遣いの少女の背を見送りながら、しかし隣でアインベルが遺跡の影、と小さく呟いたのを聞き取ってはその唇に笑みを浮かべる。
 少女の姿がすっかり見えなくなると、彼女はヴィアの背に飛び乗り、それからこちらを見上げているアインベルの方を見て、まるで悪戯好きの子どものように笑った。
「なら、私たちは風になってみる?──この流れ星よりもずっと速い、夜の風に!」



20170407
…special thanks
フローレ・アド・アストルム @siou398

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