ともし火のカンパーナ


 落ちるような感触を覚えて目を覚ますと、外では夕焼けが白む空の中でただ一つ赤々と燃えていた。
 オレハの熱は段々と下がりつつあるらしいが、しかし目を覚ます様子は一向にない。
 おそらくだが、オレハも大地から熱を借る人間だ。熱を借りる者が熱に苦しめられるとは一体何という皮肉なのだろう。
 熱に苦しむオレハへ不必要な熱をおくってしまってはいけないと、手袋をしなければ彼女の手を握ることさえ躊躇われるイリスもまた、熱を借り、そしてその熱に苦しめられる人間の一人かもしれなかった。
 イリスはコエロフィシス薬草園から指定の薬草を持ち帰り、それを薬師に渡してしばらくオレハの経過を共に見ていた。しかし、そろそろ診療所を閉める時間だから帰って休むように薬師から言い渡され、それから帰路についてからの記憶が彼女にはほとんどない。
 ただ、オレハの家へ戻って、彼女が刺される日に淹れもうとっくに冷たくなってしまった香茶に、地下薬草園で男から渡された葉っぱ一枚を浮かべ、それを飲み干し次に目を開けたときには、空に浮かぶ太陽はイリスを置いて一周していたのだった。
 彼女は軽く水を浴びると、茫漠とする思考を引き連れて、赤く黄昏る太陽が燃える外へと出ていった。


*



「──ねえさん」
 ルーミと出会った都の高台から、ぼんやりと夕焼けを眺めているイリスの背後で声が鳴る。その声は静かなものだったが、しかし微かに震えているようにも思えた。
 歩を進めるたびにしゃんしゃんと柔らかく響く鈴の音に、イリスは赤の太陽から視線を外して振り返った。
「アインベル……」
「思ったより早かっただろ、飛空艇で来たんだよ。……酒場のマスターから電報が届いてさ。オレハの様子、見てきたけど……一命は取り留めたんだろ? よかった……」
「でも──目は、覚まさないかもしれない」
 そう呟いてアインベルの方を見たイリスの瞳のくすんだ光に、優しげに微笑む彼の顔からその笑みが消えた。
 アインベルは高台の柵に背を預けるイリスの少し手前で立ち止まると、ほとんど睨み付けていると言っていい視線を彼女へと送る。
 それは怯えや憎しみから来ているものでないということや、何故彼が今そんな風な目をイリスへと向けているのかなどは、傍目には明らかなことだったが、しかし今のイリスにはアインベルの表情から何をも汲み取ることができない。イリスはアインベルの表情を見ながら、そういえば弟のこんな表情は初めて見るな、とだけぼんやりと思っていた。
 彼女はアインベルから視線を外して黄昏の空を見やる。
 彼女の瞳には、燃える赤ばかりが映っていた。
「……〈星の墜ちた地〉へ往くわ。この夢に決着をつけに往く。たいせつな人を守るためにはもう邪魔みたい、過去も夢も」
「何を……。ねえさんがねえさんのたいせつなものを無理やりに捨てて、そんな風にして……そんな風にしてまで守ってもらって、それで……そんなの、一体誰が喜ぶんだ」
「私は嬉しいわ、それでオレハやアインが守れるなら」
「……自分勝手だ、そんなのは。ふざけるなよ」
 アインベルは眉間に皺を寄せ、吐き捨てるようにそう言い放ったが、それでもイリスはどこか宙に浮いた表情で夕暮れに染まる空を見つめ、口元には自分自身への嘲りばかりが滲んでは乾き切った笑みを浮かべている。
 彼女の赤い瞳が斜陽に照らされ、そればかりが血のように爛々と煌めいていた。
 その少し浮ついて見える表情の奥には暮れては閃く狂気、赤に塗れる瞳の奥には紅水晶の煌めきが微かに揺らめく。それをアインベルは確かに見て取り、自分の喉が急激に渇いていくのを感じた。
 これは、堕ちる者の表情だ。
 姉は今、人と獣の間を彷徨っている。
「だって私、もう何も見えないわ。こんな目でハンターを続けていても意味がない」
 口元に笑みまで浮かべてそうかぶりを振るイリスに、アインベルの喉がごくりと鳴った。
 左のこめかみでは手遅れかもしれない、逃げろという警鐘が鳴り響き、右のこめかみではまだ間に合う、こちら側に引き戻せという怒号が鳴り響いては少年に選択を迫っている。
 アインベルは手のひらをきつく握り締め、どくどくと鳴ってうるさい心臓の鼓動に苛立ったように熱い息を吐き出した。
 彼の目の前で何かが弾け、頭の中から太い糸が一本引き千切られる。
 それは、どちらか選べと自分の頭に迫られたからではなかった。
 まず、彼にはどちらかを選ぶ気がはじめからなかったのだ。
 いいや、選ぶ余裕がなかったと言う方が正しいかもしれない。
 アインベルはイリスの方へと音が鳴るほど強く地面を足で叩いて歩を進め、消える虹の如くに揺らめく彼女の前に立ちはだかった。
「そうだね、ねえさんは何も見えてないよ」
 気を抜けば荒げてしまいそうになる声を抑え付けてアインベルはそう言い切った。両のこめかみがうるさい。今すぐ怒鳴り付けて吹き飛ばしてしまいたかった。
 どれだけ抑え付けようとしても感情の滲んでしまった弟の声に、イリスははたとしてようやくアインベルの方を振り返り、そうして彼の表情を見ると息を呑んで唖然とする。
 そう、アインベルは怒っていたのだ。
 此処に来てからずっと、はじめからずっと彼は怒っていた、それはこの上なく。
「ねえさんは見たくないだけだろ。怖いだけだ、過去を見るのが。怖くなっただけだろ、夢を見るのが。それが嫌なんだろ、そう思うようになった自分を見たくないんだろ、怖くなったことが怖いだけだ、誰かを守ることを口実にしてあんたは逃げたいだけなんだろ!」
「アイン──」
「あんた一体、今まで僕らの何を見てたんだ? この髪の色か、この目の色か、名前の響きだけか、鈴の音だけか? なあ、ねえさん。あんたはちゃんと、アインベルを見たことがあったか? 僕を見たことがあった?」
 片手で宙を掻いてそういうアインベルを、イリスは呆然とした表情で見つめていた。
 その表情を見たアインベルははっと我に返って、振り回していた腕を自分の脇へと下ろす。彼は気まずそうに頭を掻いて首を振ると、しかしそれでもイリスの赤い瞳をその老竹色で見つめた。
 彼の瞳に在った怒りの光は、段々と鳴りを潜めていく。
「ご──ごめん、何も見えてないっていうのは言いすぎた……ねえさんは僕のこと、よく見てくれてるのに。でもさ、これは僕もだと思うけど……いろいろ、見えてないことはあるだろ? 目では見えないことって、けっこう多いから……だから、それを知るために言葉は在るんじゃないの、ねえさん」
「どういう……」
「ねえさんは何でいつも何も言ってくれないの? この間マリーナの処へ行ったんだろ、それから自分の故郷へも行ったんだっけ? 何か思うことがあるなら言ってくれればいいのに。頼ってくれればいいのにな、一緒に行くのに……。僕はけっこうねえさんにいろいろお願いするだろ、ほら、嫌いなものを食べてもらったりとかさ。それと同じことだよ」
 アインベルは少しばかり赤くなった鼻を隠すように軽く笑って頬を掻いた。少年の瞳には薄く水の膜が張り、かさついた声には震えの色が交じっている。
 イリスは今にも泣き出しそうな優しい弟の瞳を見つめ、赤ばかりが焼け付く自分の記憶に、アインベルの冬空のような髪の色やその下で顔を出した芽のような瞳の色、その奥に柔らかく宿る臆病にも見えるが優しく強い光、そして人懐っこい笑い声と、彼が歩くたびに涼しげに鳴る鈴の音が帰ってきた。
 背後で黄昏が燃えていることを、イリスはもう忘れていた。
 彼女は戸惑いながら言葉を紡ぐ。
「だってアインのそれは……そんなの、簡単なことで……私のは私の問題で、アインベルに迷惑はかけたくないし……やっぱり、アインのお願いと私のこれは違うものよ」
「同じだよ」
「でも──」
「同じなんだって」
 アインベルはかぶりを振って笑う。彼はイリスの腕を取るとその手のひらから熱を断つ手袋をもう慣れたように取り払って、それから彼女の手を強く握り締めた。
 黄昏の獣が内で笑っていたイリスの手のひらはアインベルにとってちょっとびっくりするくらい熱かったが、しかし少年は平然とした表情でイリスの紅を見る。
 狂気に暮れかけていたその瞳は暮れてしまうことなく、今は彼女もアインベルの瞳を見つめていた。
「ちゃんと見ろよ、僕のこと。僕だけじゃない、オレハやマリーナ、家のみんなのこと。ねえイリス=Aねえさんにとって僕って何? 僕はねえさんにとっては赤の他人なのか? 違うだろ?……僕らはきょうだいだろ、家族だ。家族が困ってたら助けたいって思うのはそんなにおかしなこと? ねえさんは私の問題だからっていうけど、分かってないな。ねえさんの問題は僕の問題でもあるんだよ」
 アインベルは何の迷いもなくそう言い切ると、背負っている背嚢から何か古びた本を取り出した。
 濃い青色をした革張りの装丁、星を連想させる立体的な美しい模様で彩られたその表紙の中心には、何やら虹に色が踊る白くて丸い石が填め込まれている。
 アインベルはその本をイリスへと差し出しながら、柔らかな光を宿しては少しだけ泣き出しそうなその瞳を穏やかに細めた。
「あのさ、ねえさん。怖いっていうのは当たり前のことだよ、過去を知るのだって、夢を追うのだって、どれも怖いことだ。そいつらと向き合えば傷付くかもしれないし、下手したら死ぬかもしれないんだから、そんなの怖くて当たり前なんだよ。この世界で怖いのは、黄昏た死ばっかりじゃないから……」
「……アインベル」
「ごめん、こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、僕はねえさんが自分や誰かが傷付くのは、何かを失うのは怖いってことを想い出してくれてちょっと嬉しいんだ。自分はもちろん誰かが傷付いたり、何かを失ったりするのは怖いことだよ。いつも無茶ばかりするイリス・アウディオの弟の気持ち、ちょっとは分かっただろ。
 ……でも、怖いなら言えばいいんだ。怖いなら怖いって声を上げればいい。そのたびに教えるから、ねえさんが独りじゃないってこと」
 アインベルはイリスの両手に背嚢から取り出した本を置いた。
 深い青に星のような装飾がされた本はさながら夜空のようであり、その中心で虹に揺らめく白い石はまるで夜空に虹が架かっているかのよう。
 イリスは両手に置かれたその青い本とアインベルの顔を交互に見やり、瞳ばかりで弟に問いかけた。
「オレハの鞄に入ってたんだって。それ、ねえさんに渡そうと思ってたんじゃないかな」
「──オーロラ物語=c…?」
 イリスは微かに震える手で本の表紙を開いた。
 そうしてみて最初にイリスの目に飛び込んできたのは、空から無数の星が大地に降り注ぐ様子を描いた挿画であり、さらに頁を捲り捲り、次に目に入ったのはその星が墜ちることによって深く深く穿かれた穴、その衝撃によって生まれた山、そしてその山の中──星がつくった大穴が見下ろせる崖の一つ、その近くで日々の営みをする人々の姿であった。イリスは更に頁を捲る。
 駆け足に物語を進めれば、最後の頁には濃い黒の空に無数の星々が青い聖火も含めて煌々と人々を照らし、その空の中心には薄い布のような姿をした虹が星々に負けず人々を輝かせている様子が、美しい色彩を持って頁の中心に描かれていた。
 イリスは手の震えを抑えきれずに本の表紙を閉じ、本を両腕で抱くと力が抜けたように地面に膝を突いた。
 高台では、黄昏に運ばれた風が熱を含んで吹いている。
 イリスはうなだれながら肩を震わせると、唇を血が滲むほどに強く噛んだ。
 アインベルもイリスの前に膝を突き、彼女の顔を覗き込むと、そこに在った彼女の表情にはっとする。
 イリスの噛み締める唇のその隙間から微かな声が洩れ出した。
「……私の……私の、何がいけなかったの……? 見捨てればよかったっていうの、あんなに冷たい処に取り残された狼の子どもを、私は見捨てればよかったの? 誰かが必死で稼いだお金が盗まれていくのを、私は黙って見ていればよかったっていうの?
 そうすればよかったの、ねえ、そうなの?
 私があのときいなければ、私がいなければって……私は……私に──私に、押し付けるな……! 子どもを守り切れなかったのは、守れなかったのはあなただ! 私だって守れなかった! 私だって守りたかった! オレハを、お父さんを、お母さんを、みんなを守りたかった!
 私だって──私だって、私は……!」
 ぱたと音を立てて、地面に一つ滲みが広がった。
 それを自覚するとイリスは更にきつく唇を噛んで空を仰ぐ。
 しかし呼吸が苦しくて彼女は声もなく口を動かし、何度か浅く空気を吸っては吐き出していた。しばらくそれを繰り返す内に、彼女の唇から苦しげな音が一つだけ零れ落ちる。
 それが、彼女の中で最後の砦だったのかもしれない。
 堰を切ったようにイリスの両目から涙が止め処なく溢れ出し、彼女はついに大声を上げて泣きはじめた。
 彼女の発するそれは泣き声というよりは最早叫び声に近く、本を抱えてイリスは大粒の涙を無数に流しながら慟哭する。
 それを繰り返す内に泣き声はいつの間にかもう一つ増え、彼女の前ではアインベルが小さな声を上げて泣きはじめていた。
 イリスの肩にしがみついて泣き出したアインベルが、ふと我に返って恥ずかしそうに頬を掻いては赤い目を細めて笑うまで、二人のきょうだいは赤い夕暮れに照らされたまま声を上げて泣き続けていた。


*



「──〈星の墜ちた地〉に往く。私は夢を、そして私を掴みに往くわ」
「夢を掴んだらその後はどうするの、ねえさん」
「また新しい夢を、宝と一緒に見付けに往く。それが夢の醍醐味だもの」
 もうほとんど夜の紫紺に沈みかけた太陽を眺めながら、イリスは暮れないその瞳をちかりと輝かせて小さく微笑んだ。
 泣き腫らした赤の瞼はひりひり痛み、涙が貼り付いた頬などは何だか動かすのが難しい。両手は未だ微かに震え、黄昏の道の上に在る過去と夢への旅路を恐れていた。しかし、とイリスはかぶりを振る。
 怖いだけではない、この旅路は。
 失うだけではなかった、今までの旅路は。
 黒い雲を内に抱いて輝くイリスの鮮紅は今までよりも強い意志と想いに燃えている。
 沈みゆく太陽が、往け、だいじょうぶだと囁き、彼女の胸に往く道を照らす炎を灯した。
 彼女は大きく息を吸うと、小さく震える手のひらをアインベルへと伸ばし、それから笑う。
「……ちょっと怖いから、アインもついてきてくれる?」
「もちろん。嫌だって言われても、離れないから。それに僕もそっちでやらなきゃいけない仕事が在る」
「仕事?」
「──ねえさんの、失せ物探し!」
 イリス・アウディオ。
 トレジャーハンター。
 ──これは一人の、夢のために命を燃やす者が歩む、たそがれの旅路の物語である。



20170329

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