オーレオール


 静かな寝息を立てるオレハの手を、イリスは握る。それは手袋をしていない、熱を宿すそのままの手のひらだった。
 彼女はオレハの眠る寝台のそばから立ち上がると、虹の蛋白石が輝く夜虹の本を背負い袋にしまって、それから背後に立つアインベルを振り返った。
 イリスの鮮紅の奥では守りの氷水晶が溶け消え恐怖も痛みも想い出した虹が、しかしそれでもすべての色を受け止めようと火の粉を散らして煌めいている。
「アイン」
 その声は以前と同じく迷いのない声、しかしアインベルには以前とは全く違うものに聴こえる声だった。
 彼は視線を姉の手のひらへと移す。イリスの片方の手のひらはきつく握られ、あれでは爪も手の中に立っていることだろう。その手は微かに震えていた。
 アインベルは視線をイリスの瞳へと移すと、そこに宿る決意の色を見、そして頷く。
「分かってる──往こうか、ねえさん」
「……アインベル」
「うん?」
「行きたい処が在る。回り道をさせて──ものすごく、よ」
 その声は迷いのない声、けれど迷わない声ではなかった。
 それは、迷い迷ったのちに選び取った己の道を、その先へと進みゆくことを信じる、迷いのない声だった。
 或いはそれこそが、彼女の言葉だったのかもしれない。


*



 コエロフィシス薬草園≠フ広間では、金属質の躰をもつ大きな蜥蜴の亡骸が力なく石灰岩の床へと転がっていた。
 イリスは微かに眉根を寄せてその転がる機械人形を見つめると、それから同じようにその近くに転がっている、両手に収まるほどの大きさをしたからくり蜥蜴の心臓へと視線を移す。
 大蜥蜴の腹の中に収まっていたときにはぼんやりと淡く発光していたその心臓──竜核は今やその光を失って色もなく、それはまるで、でたらめばかりを言う占い師が意味もなく自身の手をかざす、意志をもたない水晶玉そのもののようだった。
「うわ……容赦ないね。こいつ、生き物のかたちをしてるからこういう姿を見ると……人形だって分かってても何だか、痛いな……。酷いな、誰がやったんだろ……こんなこと」
 眉間の皺を深くしては倒れるからくり蜥蜴を見つめて、イリスの背後に立つアインベルは唸った。
 そんな弟の方へイリスは振り返ると、片方の手のひらを自分の胸に当てる。そうした彼女は眉を下げ、少しばかり悲しげな表情をしていたが、しかしその瞳はアインベルの老竹色の丸い瞳へと向けられていた。
「──私よ」
「え?」
「私。私がやったの。……自分でもちょっと信じられないけれど、でも確かに私がやった」
 呆気にとられて声もなくイリスと地に伏せた機械人形を交互に見やるアインベルに、彼女は緊張を解くように小さく息を吐くと、床に転がる竜核を拾い上げては時の止まったからくり蜥蜴の前へと膝を突いた。
「だから、直しに来たの」
「え……直すって……ねえさん、機械人形がどういう原理で動いてるか解ってるの?」
「解る。機械人形の中に魔術紋様が彫られていて、その紋様が或る種機械人形の行動様式になっているんでしょう。それは人からこの子への、こう動きなさい≠ニいう命令の言葉ね。
 魔術師の手によって内に火を灯された竜核はその言葉に反応して機械人形へ熱をおくり続ける、人形の躰から取り外されるそのときまで、それは心の臓のように絶え間なく。
 この球体はまるで永い時を生きたとされる竜、その心の臓──だから、竜核と呼ばれている」
 竜核を見つめてそう言葉を紡いだイリスに、アインベルは戸惑ったような表情を浮かべて頷いた。
「そうだよ、ねえさん。竜核は火を灯さないと紋様に反応しない。竜核に火を灯すならたくさんの魔術師に手伝ってもらわないと……そいつを起こすにはたくさんの言葉≠ェ必要なんだ。たった一人で起こすなんて、宮廷魔術師だってできるか分からないんだよ。ねえさん、此処に魔術師はいないし──」
 イリスは竜核を顔の前に掲げてその透き色の中を見つめる。その球体は傍目にはただの水晶玉にしか見えない。しかし、虹の火の粉を宿すイリスの瞳には、竜核の中心に在る揺らめく炎の息吹、その気配が確かに映っていたのだ。
 今はその手にしている熱断ちの手袋がなければ、それはもっと分かり易かったかもしれない。そのままの手のひらで触れていたら、彼女は気配ではなく感触として竜核の炎を、その熱い鼓動を捉えることができただろう。
 彼女はアインベルの方を振り返ると、けろりとした表情で言い放った。
「熱を借りる人間と失せ物探しの召喚師なら、此処にいるわ」
「な──何言ってるんだよ、ねえさん……これは、流石に無茶だって。あのさ、たぶんこいつ、塔か王都に持っていけば直してもらえると思うよ。此処に帰ってくるかは分からないけど……」
「アインベル。……遠回りをさせて、私に」
 鮮紅の目がアインベルの老竹色を捉える。その赤の奥では果てることのない炎が爆ぜては虹色を散らして燃えていた。
 火の粉を散らして更に赤く、覚悟の色に輝く姉の瞳を己の瞳に映してしまったアインベルは、もう早くも自身の負けを確信していたのだった。
 イリスは静かな、しかし確信めいた表情でその唇で揺るがない一つの選択をする。
「私がやる。──私じゃないとだめなの」
「……ねえさん」
「やれるところまではやらせて。そうしないと──此処を越えないと、どっちみち私は前には進めないわ。だから……力を貸して、アインベル」
「……参ったな、ほんと……ねえさんには敵わないよ」
 困ったように肩をすくめて笑うアインベルに、イリスはありがとうと目を細めると、それから己の熱を断っている手袋を外し、その両手で竜核を持ち上げる。
 そしてイリスは、その水晶玉の中に微かにだが確かに流れる熱の鼓動を感じ取りながら再びアインベルの方へと視線を移し、こちらの考えていることなどおおよそ分かっているという風に鈴の杖を持っている彼のその手のひらを紅の瞳に映した。
「此処にはたくさんの植物が息づいているわ、さざれ石ほどに小さなものも、空を衝きそうなほどに大きなものも、たくさん。火とは熱、熱とは命……私は彼らの命の熱を、少しずつ借りることができる。……アインベル」
「うん」
「──此処に喚んで、彼らの熱を」
「……一応言っておくと、そんなの僕にできるか分からないよ。やってみるけど、危なくなったらすぐにやめるから」
「それでいい。ありがとう、アイン」
 そう頷くイリスを見ながら、アインベルは自身の指をほぐしながら溜め息混じりの笑い声を上げた。
 彼は身に着けている洋袴の隠しから人差し指ほどの白墨を二本取り出すと、そのチョークの一つを右手の親指と人差し指で掴み、残ったもう一つは人差し指とその隣の指の間に差し込む。元々右手で持っていた鈴の杖は左手へと移動していた。
「ねえさんは強引なんだよ。こんな風に乱暴に起こされたら僕だって怒る」
「だってこの子をこのままにしておいたら、私、きっといろんな人に怒られるわ。正直……それはちょっと怖い、少しね。それに寝起きというものはどちらにしても機嫌が悪いものよ」
「そういうところが強引なんだって」
「嫌いになる?」
 アインベルは背負っていた背嚢を床へ下ろすと、そこから分厚い本を出して左腕に乗せては白墨を持った右手で流れるように本の頁を捲っていく。
 アインベルの瞳が段々と静かになり、頁を捲るその指捌きが速くなるにつれて彼の視線の動きも速くなっていったが、しかしそれでもアインベルは流れてくるイリスの声を聴き洩らすことなく、視線は本に向けたままで軽く溜め息を吐いた。
「それ、トニにも訊いただろ」
「ええ。これ以上は嫌いにならないって言ってた」
「そうだろうね、トニは分かり易く不器用だからな。……僕はねえさんが強引だってことぐらい、ずっと前から知ってるよ。ハンターになるためにいきなり家を飛び出す人間を、強引って言わないで何て言うんだ? そういうさ、ねえさんの強引で不器用なところ、トニとけっこう似てると思うよ」
「そう?……そうかも」
「そうだよ。まあ、僕も──けっこうそういうところ、あると思うけど」
 アインベルは前時代に遣われていた召喚術が載っている頁、そこに在る、熱を一つの場所に喚び寄せる召喚紋様に描かれた、無数の組絵と古代語へと視線を留める。
 その膨大な情報量に、一体先人たちはここまでして喚び寄せた熱を何に遣っていたのだろうと微かな疑問と眩暈を感じながら、彼はその分厚い本をついに床へと放った。
 失せ物探しの召喚師には、失せ物探しの召喚師なりのやり方が在る。過去の召喚師のやり方は、所詮過去の召喚師のやり方なのだ。
 ──今には、今のやり方が在る。
 それは、姉と同様、強引なやり方なのかもしれない。
 だが、竜の心臓を叩き起こすにはこれくらい強引な方がむしろちょうどいいのかもしれなかった。
 彼は手にした白墨で、イリスを囲う一つの円を迷いなく描く。
 その円の内側には大地へと呼びかけるいにしえの言葉、そこに息づく命たちへと呼びかけるいにしえの言葉、彼らの生を讃えるいにしえの言葉を。
 彼は地面に張り付いて、いつも失せ物探しに遣っている土台の陣を手にしたチョークで一言一句違わずに描き記していく。左手に在る鈴は一定の調子を刻み、それはさながら大地を揺り起こす優しい楽の音のようだった。
 それから彼はイリスに向かって、これから強く呼びかけるもの──つまり植物たちの姿を想起させる紋様を、絵を組むようにして円の中に描き、それからその円の外側に、何やら内側に描かれているものとは別の言葉を描き出す。
 それは、失せ物探しである彼がよく遣う失せ物たちへと呼びかける小さな言葉たちだった。
 一つは、川の中に落としてしまった明かりへと呼びかける言葉。
 明かりとは熱。
 一つは、飛ばされていった手紙へと呼びかける言葉。
 手紙とは想い、想いとは熱。
 一つは、迷子になった仔犬へと呼びかける言葉。
 命とは熱。
 そして最後に、すべての召喚師が術の最後に描く言葉を、アインベルはこれまで以上に強い力を込めて円の外側に描いた。
 それは、古い言葉で此処に来い≠意味する言葉。
 言葉とは意志、意志とは熱。
 彼は未だに一定の調子を保つ鈴の音を奏でながら、召喚紋様の上に零れ落ちそうになった自身の汗を、いつの間にか遣い切って一本だけになってしまったチョークを持つ右手で拭った。
「──私、この世界はきっとだいじょうぶだって、そう思うの」
 円の中で、竜核を見つめながら振り返らずにイリスはそう呟いた。アインベルは額を伝う汗を未だ拭いながら息を吐き、イリスの背を見やる。
「ねえさん?」
「……だってこの世界はまだ、夢を追えるもの。これからもきっと、この世界は夢を追える。私、夢を追い続けるわ、誰が夢を忘れても、黄昏が夢を嗤っても。私は夢を追う、受け止めてみせる。きっとそれが私にとって、黄昏に立ち向かうってことだから」
 オレハはその目を閉じないでと、そう確かに自分へ言った。
 イリスにとって目を開けるとは、すなわち夢を見、それを追い続けることに等しい。
 夢を追うとは、傷付き、傷付け、失い、失わせ、怯え、怯えられることかもしれなかった。
 けれど、それだけではない。
 それだけでは決してないことは、自分が歩んだその旅路が確かに教えてくれている。
 それは手放せない記憶、手放さない記憶だ。
 その目を閉じないでおくれね。
 その言葉は呪いであったかもしれない。
 しかし、その言葉はイリスにとっては確かに、ねがいの言葉だった。
 イリスは手にした竜核を見つめ、それを両側で押さえるようにして自身の手のひらから球体へと熱をおくる。
 イリス・アウディオは目を閉じない。
 それは、夢を追うために。
 そして、たいせつな者を守れるように。
 彼女の瞳は、暮れないの瞳。
 イリスの背後でアインベルが立ち上がり、剣を鞘から抜くような仕草で鈴杖の先を素早く引いた。
 そうしてみると彼の持つ杖は彼の身長と同じくらいの長杖となり、アインベルはそれを両手で持ち上げると、自身が最後に円の外側に描いたいにしえの言葉を鋭く叫んでは杖を振り下ろし、円の内側を強く叩く。
 彼の声と鈴の音が、静かな広間に響き渡った。
「……こんなことしたって何の意味もないのかもしれないわ。私のすることすべては、誰からも馬鹿々々しいって嗤われることなのかもしれない。
 けれど──けれど! 夢を捨てたって何も償えない、何も! 失うのが怖いから、傷付くのが怖いから、だから諦めてこの目を閉じるなんてこと、私はもうしない! 私はもう、忘れない!」
 吠えるイリスに呼応するように、アインベルが描いた召喚陣が淡く発光しはじめる。アインベルはこれからやってくる命の熱、その海嘯の気配に思わず全身が粟立った。
 イリスはゆっくりと身体に流れ込み出した熱を、そのすべてを手のひらへと集中させながら、その光輝く冠の輪の中で緩く熱を帯びはじめた竜核を見据える。
「──黄昏……! 私はもう、おまえなんかに何も渡してはやらない。私の記憶、私の夢、私のたいせつなもの、私のすべて……! 私の言葉が聴こえるか、聴こえるでしょう、私は此処にいる! 私の名前は、イリス。ヒッツェ・ラックレインと、グレル・ラックレインの子。マリーナ・アウディオの娘、イリス・アウディオ! その火で、その色で、私のことを灼けばいい。それでも私はもう、私を失ったりなんかしない!」
 ごうと音を立てて熱い光が、風とも感じる重さを背負って薬草園の広間を支配した。
 光の轟音が、長杖を持ってイリスの後ろに立つアインベルの視界だけではなく、耳までもを真っ白に染め上げ、彼はとても耐えられずに目をきつく瞑り耳を両手で強く押さえる。
 鈴の杖は何処かへ倒れ、いつもだったら音が鳴った方向で何処に倒れたくらいは分かりそうなものなのだが、今は鈴の音さえも耳に届かず、届く音といえば轟く光の中でばちばちと爆ぜる火の粉の音ばかりだった。
「ねえさん……何処だ、ねえさん……!」
 アインベルは段々と治まっていく白光の中、薄く瞼を開ける。
 震える鼓膜を感じながら、彼の耳はこつこつとこちらへ歩いてくる靴音を拾い上げていた。
 それを自覚すると同時にアインベルの頬には熱い手のひらが添えられ、彼がはっとして顔を上げるとそこには、荒い息でしかし楽しげに笑う、髪先が少し焦げてしまった強引で不器用な姉の姿が在った。
「だいじょうぶ、アイン?」
「あ──ああ、うん、ちょっと目がちかちかするけど。ねえさんは?」
「だいじょうぶよ、ちょっと目がちかちかするくらいだから」
 イリスはそう言って再び機械人形の前に膝を突くと、転がる大蜥蜴の腹に赤や黄、橙と熱の色に踊っては柔らかく発光しはじめた竜核を元在ったように填め込んで、それからからくり蜥蜴の躰へと視線を移した。
 こんにちまで遺っていた前時代の遺物である、蹴っ飛ばして転がした程度では大した傷も付いていないだろうが、イリスは蜥蜴の躰に微かに残る自分が付けた傷痕を撫でると、それからアインベルにぐいと手を引かれたので、そのまま後ろに少しばかり下がった。
 発光する竜核に共鳴するようにして、機械人形の蜥蜴の躰が淡く光りはじめた。
 ──まさにその瞬間、大蜥蜴はまるで寝坊した子どものように目覚めた途端飛び上がり、それから少し慌てたような様子で彼は辺りをきょろりと見回す。
 それから彼は透き色をした鉱石で造られている自分の瞳に、イリスとアインベルの姿を映すと、そうしてやっと自身の役目を思い出したかのように二人に向かって威嚇をしはじめた。
「吠えた……! 吠えた、吠えたわ、アインベル!」
「……機械人形に吠えられてこんなに嬉しそうにしてる人、僕は初めて見たよ」
 二人はこれ以上吠えられてはかなわないという風に笑い声を上げながら広間を退散する。
 しかし広間の入口辺りでイリスは、未だこちらに向かって威嚇をしているからくり蜥蜴の方を振り返ると、竜の心臓をもつ彼に向かってその紅の瞳を細めた。
「もし今度、私みたいに目が見えてない人が来たら──噛み付きでもして、その目を覚まさせてあげて!」
 そう声を上げると、イリスはアインベルの手を引いて薬草園の長い回廊を駆け下っていった。
 風に揺れる橙の髪と楽しげに前を見やる紅の瞳を、手を引く彼女の斜め後ろから眺めながらアインベルは、無理やりに走らされているために乱れた息を吐き、それでも彼女と同じように楽しげに笑い声を上げたのだった。
「ねえさん、いいこと教えてあげよっか!」
「いいこと?」
「知ってる?──夢を掴むのはね、いつだって馬鹿々々しいことを本気でやる、本物の大ばか者なんだよ!」



20170331

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