アルカンシエル


 首元にやった手のひらがするりと空を掴んだ。
 自身の手のひらが何をも掴んでいないことを自覚すると、イリスはいつもより忙しなく動かしていた足を一旦止める。そうだ、首巻は失くしてしまったのだった。
 ぼんやりと浮かんでいた思考が周りの音を伴って地へと足を降ろし、道を行く人々の喧騒と、隣を歩くオレハの杖が時折こつと地面を突く音が、やっと耳の中に戻ってきた。
 イリスが立ち止まると、オレハは急に立ち止まったイリスに驚き、しかし彼女と同じように立ち止まる。オレハの息が少し上がっていた。
 オレハの疲れた様子を見たイリスの背骨がさっと冷え、同時に彼女は唇をきつく引き結ぶ。どれくらいこうして歩いていた、自分は? 何をしていた、オレハのことも思わずに……
「オレハ、ごめんなさい……歩くの、速かったわよね」
「うん? いやだいじょうぶさ、軽い運動だと思えばね。考えごと?」
「……いえ……少し、ぼうっとしてた」
「そうかい。じゃあ、私も少しぼうっとしようかね。何処かに座ろうか、イリス。ばあさん、流石に疲れちまったからねえ」
 イリスは頷くと、何か座れる場所を探して、立ち止まった処からぐるりと辺りを見回した。
 この道を少し進んだ場所に脇道が見える。確かあれはこの都の中に多く在る広場の一つへと繋がっているはずだ。広場にだったら長椅子の一つもあるだろう、イリスは今度こそオレハに歩幅を合わせてゆったりとした速度で街の広場へと向かった。
「……オレハは」
「ん?」
「オレハは昔、どんな仕事をしていたの?」
 円形をした広場に幾つか備え付けられている金属の長椅子に腰掛けながら、イリスは広場の中心に在る、こちらもまた花壇が円の形を取ってはその中を一周するように植えられている緑の低木と、その影に隠れるように咲いている狐の剃刀を見つめてオレハに問いかけた。いいや彼女が見ていたのは緑に埋もれる赤の色だったかもしれない。
 オレハはイリスの問いかけに少しばかり笑うと、照れ臭いのか地面を杖で何度か叩いた。
「目が見えていた頃だろう? そのときは、まあ、冒険家をしていたよ」
「冒険家? オレハが?」
 思わずイリスが振り返ると、オレハは口元を少しにやりとしてイリスの方を見上げた。彼女の持つ杖が、さながら石畳に線を引くかのようにさっと動く。
「そう。仲間と各地を渡り歩いてね、地図を描いていたんだ。私らが引いた道も地図の上にはけっこう在ったりするのさ、これが」
「……地図を持ってくればよかった。オレハの歩いた道、教えてほしかったのに」
「教えたらおまえはすぐ、自分も歩きに行ってしまうだろう? それはちょっとばかし寂しいからね、また今度」
「だって、地図の上でもオレハの歩いた道は見えるけれど、オレハが見た景色はその道の上を歩いてみなければ分からないもの。……でもまた今度ね、必ずよ」
 そう言えばオレハは、はいはいと言って笑っていた。イリスは、これはあまり期待できそうにないなと肩をすくめてかぶりを振る。
 オレハと話しているといつも気持ちが和らぐが、今日はその安らぎの中にじりじりとした痛みを感じていた。それは未だ、虹の里についてほんとうのことをオレハに伝えられていないからだろう。
 嘘を吐くのは苦手だ。どうしても相手の瞳から視線を逸らしてしまう。
 それに、見えているはずがないのにこちらの視線の動きすらも聴き取ってしまいそうな、見た目よりずっと鋭いこのオレハを相手にずっと嘘を吐き続けるというのは無理があった。
 そして自分自身、そんなことをするつもりも、したいとも思わない。今日こそ言うのだ。イリスはぎゅっと両手を握った。
「そうだ、イリス、おまえに渡したい本があってね。夜の虹──イリス?」
 オレハが微笑んでは自身の鞄から何かを取り出そうとするのを、イリスは咄嗟に片手で押し止めた。それから深く息を吸うと、吐き出す息にオレハの名前を交ぜて呼ぶ。
 オレハが聞いたその声は、今まで聞いたイリスのどの声よりも震えていた。声と同様、オレハの手の上に置いたイリスの手のひらは小刻みに震えていたが、しかし吐き出す息にはどこか切羽詰まった熱の音と、揺るがせない覚悟の音が滲んでいた。
 それはまるで、恐怖を無理やり喉の奥に押し込もうとしているようだった。今にも、彼女の鋭く脈打つ鼓動の音が聞こえてきそうである。
 イリスのそんな様子に、オレハは微かに身を固くした。
「オレハ、話したいことがあるの。私──」
「……イリス……イリス・アウディオ……」
 オレハへと言葉を紡ぐつもりだったが、しかし不意に前方からくぐもってはいるが確かに自分の名を呼ぶ声がして、イリスはオレハに向けていた顔を素早くそちらへと向けた。
 向けながら、背骨に何か嫌なものが這い上ってくる気配を感じて、イリスが自分の名を呼んだ者の方へと向ける表情は厳しい。
 自分の視界が声の主を捉えると、彼女は自分の瞳に飛び込んできたその姿に愕然としてその紅を見開いた。
「あなたは……」
「ああ、何だ、覚えてるのか……久しぶりだなあ、狩人さま?」
「あなた……黄昏に、呑まれたの……?」
「どうだろうなぁ、自分で確かめてみればいい」
 目の前にいるのは、明らかに魔獣だった。
 淀んだ黒い瞳を見開いて、顔中を毛だらけにしては異常に手足が伸び切り、さながら細長い猿のような姿になっている目の前の男は、人の言葉を発してはいても最早人の姿を成しておらず、時折だらしなく口の端から唾液が零れ落ちるさまは猿とさえ呼び難い。
 不自然に猫背になり、片手に短剣を持つ彼に気付いた広場の人々は、皆悲鳴を上げて逃げ去っていった。男は逃げ去る人々を意にも介さず、焦点の合わないその黒が捉えているのはイリスの赤い瞳ばかり。
 イリスはごくりと喉を鳴らすと、オレハを守るようにして彼女の前に立ち、眠る短剣の柄へと指先を当てた。
 この男が誰だかは分かる。
 トレジャーハンターの集う酒場、そこに溜まっていたハンターの中に潜んでいたすりの盗人だ。この魔獣となってしまった男は、すりをしているところを自分が無理やりに捕らえたら、盗んだものを投げ捨てて酒場から出ていった彼だろう。
 この瞳を血みたいな色≠ニ言った、彼。
 何となくだが、魔獣が着込む禍々しい気配の中に、本来の彼の纏う空気が未だ在った。黄昏た獣の中にはまだ彼が在るが、しかし攻撃してくるようならこちらもあまり甘いことは言っていられない。
 だが何故、彼は黄昏に喰われたのか。
 いいやそれより、オレハだけは守らなければ。
「何で自分にって、そう思ってるだろう? なあ、イリス? だけどな、俺もずうっとおんなじことを考えてきたんだ。分かるか? なあ、何でなんだよ? 何で俺だったんだ? 何でだ? 何で、なあ、何であのとき俺だったんだ!」
「……何を言っているの?」
「何を? ああ教えてやるよ! あのときの金が有ればな──あのときの金が有れば、俺の娘は薬が買えた! あの金が有れば! 何であの日だったんだ? 何でわざわざあの日だったんだ? お前さえあの場所にいなければ……お前さえいなければ、俺の娘はまだ此処に……此処にいたかもしれない! いたんだ、此処に! レーヌはお前が殺した……お前に殺されたんだよ!」
 イリスの瞳が揺れ、男は叩き付けるように咆哮した。
 その声に轟く嘆きの気配を感じて、イリスはもうこの男が人には戻れないのだということを悟る。
 お前が殺した、お前に殺されたんだよ。
 その刃のような響きが、イリスの水晶の守りを失った心の奥底へと突き立ったが、彼女はその痛みを堪えて未だ冷静に相手の濁った黒を見据えている。
 自分の後ろには守らなければならない人がいるのだ、こんなところで怯えてどうする。
 彼女は自分で自分を叱咤すると、鞘から赤い短剣を抜いた。
「けれど、あれは人のお金よ」
「そうだ。けど、だから何だ? 誰の金だろうとそれで人の命が助かれば安いもんじゃないのか? まさか盗んだ金で助かっても娘は喜ばないだとか、そういう寒いことを言う気じゃねえよな? レーヌは喜んだに決まってる! だってあいつは生きたいって言ってたんだ、言ってたんだよ、生きたいって! まだ四歳だった……なあ、何でだよ……おかしいだろ、こんなの……なあ……?」
 イリスが言葉に詰まり、それから何かを言おうとする前に、男は刃の切っ先を彼女へと向けた。
 イリスも抜き身の切っ先を彼へと向けたが、そのときに彼の黒い瞳と目が合い、その色を自覚すると同時に、黄昏に暮れ沈んだ母の黒く淀んだ瞳と男の瞳が重なった。思わず、剣の柄を握る手が震える。
 自分の呼吸が浅くなったことを感じると、イリスは唇を引き結んでちらと後ろを盗み見た。
 その微かな動きを見取った男は歪に口元を緩めると、見開かれたその目でどこか面白げに弧を描く。男のその表情にイリスの肌が粟立ち、だが決して取りこぼさないように彼女は剣の柄をきつく握った。
「はじめはお前を殺してやろうと思ってたんだがな、どうだイリス、俺と同じ思いを味わってみないか?」
「許さないわ、そんなこと。絶対にさせない」
「俺はトレジャーハンター、狩人さまとは違うんでね。そうだろ? イリス、お前がそう言ったんだ。俺は盗人、悪党だ。何かするのに誰の許しだって必要ない。止めたきゃ俺を殺してみろよ、ハンター? 奪えるのか、お前に俺が?
 なあ今、怖いんだろ?……かわいそうにな。苦しみながら逝ったレーヌとどっちがかわいそうかな。でもな、お前がそうやって怯えてる間にお前の大事な人は死ぬんだよ。そう、俺がお前に怯えてたようにな」
 黒い瞳がイリスの鮮紅を見つめた。その黒には憎しみと怒りばかりが悲しく渦巻き蠢いている。
 彼が一歩踏み出したのと、イリスが一歩踏み出したのは、果たしてどちらの方が早かっただろうか。
 男が先に繰り出した刃の一閃が微かにイリスの頬を裂いたが、背後のオレハへの道を開けないようにとイリスは思うように動けない。
 彼が振り下ろした刃を自らの短剣で受けたが、その凄まじい獣の膂力に短剣の方が折れてしまいそうだった。
 彼女は相手の腹を思い切り片足で蹴飛ばすと、軽く呻いた男のその隙を突いてまずは目を潰そうと剣を鋭く水平に引こうとする。
 しかしそこに暮れゆく虹の里の人々の姿を見ると、その躊躇いに今度はイリスの中に一瞬の隙が生まれた。
 それを見逃さなかった男はイリスを石畳に強く押し倒すと、笑いを洩らしては彼女の喉元にその刃を突き立てようとする。
 刃の切っ先とイリスの喉が触れるというその瞬間に、ふと背後で何か棒のようなものが倒れる音がした。
 棒?
 いや違う、これは杖の音だ!
 イリスは地面に押さえ付けられたまま声を荒げた。
「オレハ……オレハ! やめて、動かないで! オレハ!」
 イリスの必死の様子に男は軽く舌なめずりすると、立ち上がって彼女の腹をきつく踏み付けた。
 その痛みと衝撃にイリスの視界が白く一周し、吐き気が胸のあたりまで上ってくる。
 彼女は転がり何とか四つん這いになると、反吐混じりの唾液を唇から吐き出しながら激しく咳き込み、それでも立ち上がろうと握っている短剣を杖代わりに石畳へと突き立てた。
 まだ動けるはずなのに、上手く身体が動かない。
 肩で息をしながら何とか上体を起こすと、男はオレハの方へと歩を進めていた。
 身体は動かない。
 動け。
 立て。
 走れ。
 こんな処に座っている場合じゃない!
 動け。
 動け、動け、動け動け動け!
 身体が言うことを聞かずに逸る気持ちとは裏腹に、視界に映るすべてのものの動きがひどくゆったりしたものに今は見えた。
 それはまるで、しっかりその目に焼き付けておけと、もう二度と忘れることがないようにと言わんばかりに。
「やめ──」
 やっとのことで吐き出した言葉が男の元へ届くよりも早く、男の刃はオレハの腹に突き立っていた。
 言葉が届く速度よりも彼は速く動いているはずなのに、やはりすべての動きが音さえも感じさせずゆっくりに見える。
 陽光に白く閃く刃がオレハの柔い身体に突き刺さり、抜かれていくその光の隙間から彼女の赤い鮮血が飛び散っていた。それは刃に、地面に、男の肌に赤い血溜まりをつくっては厭に鮮やかな色を保って輝いている。
 オレハがゆっくりと地面に崩れてゆき、それから彼女が身動きをしなくなると、男は先の悦ばしげに歪んでいた表情とは打って変わって、ひどく冷たい色をその黒い瞳に浮かべてはこちらを振り返った。
 それはまるで、もう火の灯らない熾の色。
 イリスはその虚空に揺れる瞳を視界に映すと、赤々と光に煌めく短剣を片手に静かに立ち上がり、男の元まで歩み寄ってはその胸ぐらに掴みかかって彼の頭を割る勢いで石畳に男を押し倒した。
 その喉元にはイリスの赤の切っ先が、今にも突き立とうとしている。
「……やってみろよ、やれるもんならな……お前には、そんな勇気もないくせに」
「黙りなさい」
「ほらな、見てみろ。ハンター連中はみんな、お前のその紅水晶みたいな赤目に怯えてたもんだが、今思えばお前なんかの何が怖いんだろうな。魔獣なわけがないだろ、目がやたら赤いくらいでさ……
 イリス・アウディオ、お前は立派な人間さまだよ。魔獣一匹殺せず、自分の大事な人間も守れない、臆病でひ弱なただの人間だ。ああ、まるで俺みたいだな……
 気分が好いよ、なあ、そうだろレーヌ、そうだって言ってくれ……」
 男はイリスの細い手首を掴むと、先ほどまで狂気を全身から滲ませていた獣とは思えないほど静かな声で、イリスに退くように言った。
 男の言葉にイリスは唇を開きかけたが、先ほど腹に重い一撃を喰らって弱っている彼女はそこから言葉が零れる前に、男によって石畳の上に放り投げられる。
 彼は押し倒されたときに取りこぼした、オレハの血に濡れた刃を拾い上げると、しかし地面に寝そべったまま起きる気もなさそうに呟いた。
「……お前に殺されるくらいなら、俺は自分で死ぬ」
 それだけ言うと、男は躊躇うことなく、自分の左胸に深くその刃を突き立て、唇をきつく引き結んで一切の声を上げることもなく絶命した。
 刃と傷の隙間から紅色をした水晶が煌めきながら地面に零れ、男は足先から段々と黄金の砂へと変わってゆく。
 イリスはその様子を最初はぼうっと眺めていたが、はっと我に返るとそれらがすべて風に攫われ黄昏に還るのを見届けることなく、弾けるように立ち上がってオレハの元へと駆け寄った。
「オレハ! ねえ聞こえる、オレハ!」
 返事はない。
 彼女の身体はまだ熱を保ってはいたが、しかし身体のどこかに力が入るという様子もなかった。
 少しでもオレハに近付こうとして膝を突き、それから地面に両手で触れた瞬間、何かぬるりとした感触が両手に伝い、見ずとも分かるその感触の正体にイリスの背骨は凍って肌は粟立つ。
 血だ。
 オレハの血。
 血は未だ絶えず、オレハの身体から流れ出ていた。
 イリスは赤に塗れてはひどく震えるその手のひらでオレハの頬に触れ、皺を刻む彼女のその頬にも赤の痕を残しながら、それでも何度も何度も、何度でも彼女の名前を呼んでいた。
「オレハ……?」
 目眩がし、それから反転していく世界に瞼を閉じるのと同時に、イリスは瞳の奥で、虹の色が黒い雲に呑まれる音を聴いたような気がした。
 緩やかに世界が遠い音だけを伴って戻ってくる。
 黄昏が、やってきた。
 けれどいつも通りだ、それ以外は何もかも。
 そうして彼女は、瞳から輝く虹が、そのすべての色が消えていくのを感じていた。



20170327

- ナノ -