クロノスタシス


 真黒の道を振り返り、闇に塗れるばかりの水面をおぼつかない足取りで戻りゆく。
 洞窟の中は先までさながら星と水晶の王國のようだったというのに、今となっては光の一粒も見えることがなかった。
 全身を焦がす痛みなど、まるでなかったかのように身体から灼ける熱は引き、落ち着いた鼓動ばかりが自分は此処に在るという事実をこちらに伝えている。
 自分だけが此処に在るという事実を、自分が連れ帰った黄昏の中で、自分だけが生き残ったという事実を、それはひどく冷たい温度をもって。
 自分の歩みが黒の水面を掻き、その凍えそうな響きが洞窟に響いている。
 水面が揺れるその音は父と母が迫る黄昏から逃げるときにも鳴っていた音、母が刃を片手にして虚ろに暮れたときにも鳴っていた音、父が両膝を突いて自分を地に降ろしたときにも鳴っていた音、母が父を、父が母を刺すときにも鳴っていた音、父と母が黄昏の中に沈んだときにも鳴っていた音……
 イリスは振り返り、昏い水面の道の中に父と母の紅水晶のひとかけら、獣の砂の一粒をその紅の目を見開いて探す。
 二人が此処に在ったという証を、何か一つでも、ほんの小さな欠片でも見出したかったのかもしれない。
 しかしどれだけ目を凝らして見てみても、そんなものは在るはずもなかった。彼女は歯と歯を強く噛み合わせると、もう一度振り返って進み、それからは一度も振り返ることなく洞窟の外へと出ていった。
 外へと進み出ると、ひゅうと一筋冷たい風が頬を刺す。その冷たさにイリスは凍えない。大地から借る熱を、常に内へ宿すからである。凍えない、だが、イリスはその凍えないという事実に震えた。
 そう、確かに、洞窟を抜けた先に在る里で、生まれた者の手のひらは皆熱かったのだ。
 母は此処で生まれたのだろうか。
 最期に母が自分の頬にやった手は熱く、口付けを落とされたこの瞼、その先に在る瞳はこんなにも紅の熱を宿している。
 きっとそうだ、きっと母は此処で生まれたのだろう。だから父と母はこの里を終の住み処としたのだろう……
 ふと夜空を見上げると星は満天。
 背後には虹の里が立ち、青い星の聖火は無人となったかの里を、あの日からも未だ変わらず照らしていることだろう。世界が何事もなく回るように、時が先へ先へと進んでいくように、星々が違うことなく他のすべてを照らすように、自分が振り返ることなく今日まで歩みを進めてきたように。
 自分が今までそうだったように何も変わらず、何かが失われたことにも気付かず、あの青い炎は照らし続けるのだろう、人の熱を失ったこの里のことを。
 幻聴か、狼の遠吠えが聴こえたような気がした。
 赤い瞳に映る夜空の星々のすべてが、今は誰かが遺したねがいと呪いに見える。空に撒かれて散らばり瞬いては瞳を刺すねがいが、いや呪いが、ああ、ねがいが此処に、わたしの上に!
 今にも空が、ねがいと呪いを引き連れて落ちてきそうな錯覚に囚われたイリスは、きつく目を瞑って空から視線を外した。
「……ヴィア……」
 洞窟の入口から少し離れた場所でヴィアはこちらを見つめていた。
 自分が洞窟に入っていく前と変わらず静かなその黒曜石の瞳に、イリスは一瞬、すべてを見抜かれているような気持ちになって、ヴィアへと向かう自身の歩を一度止める。いや止めてはだめだ、歩を緩めればそこから力が抜けていく。何を怯えている?
 イリスはヴィアの瞳から目を逸らす。
 自分は何を怯えているのか。
 里の熱を奪った黄昏にか、この冷たく凍える夜の闇にか、天上に瞬く星々の鋭い光か、暮れた母の瞳に重なるヴィアの黒い瞳か、いいや魔獣そのものにか、或いは名も知らぬ、名もない誰そ彼の狼の嘆きにか、ああそれとも──それとも自分自身にか?
 両の手のひらが震えていた。彼女はきつくその両方を握り締める。
 おそらくはそのすべてに怯えているのだろう、自分は。
 彼女はひゅっと鋭く息を吸う。
「……だいじょうぶ、だいじょうぶよ、ヴィア……」
 イリスはゆっくりと、ほんとうにゆっくりとだが、震える指先をヴィアの背へと伸ばした。
 ヴィアと視線がかち合ってから、途端に鳴り出した鼓動の早鐘を落ち着けるように、彼女は深く呼吸をしながら、徐々にヴィアの躰と自身の指先との距離を縮めていく。
 しかし、あとほんの少しというところで鋭い風が彼女らの間を吹き抜けた。
 その風に辺りの木々がざわめき、迫る影の如くに鳴るその音たちに怯んだイリスは短く声を上げて、ヴィアへと伸ばしていた手のひらを、怯えを隠すこともできずに引っ込める。
 吹く風のその勢いに、イリスの首にたゆたう虹の首巻が、解けて宙に攫われた。
 彼女は素早く振り返って手を伸ばしたがしかし届かず、かの虹色は柔らかく遊色しながら虹の里へと続く洞窟の奥へと消えていく。
 そう思えば今度は、手を引っ込めたイリスをヴィアが静かな黒で一瞥したのちに、風が吹くような声で一つ鳴き、それから来た道を戻るようにして駆けていった。
 イリスはこちらにも手を伸ばしたがやはり届かない。
 彼女は首巻が消えていった方向と、ヴィアが駆けていった方向を交互に見やり、光の消えた洞窟の入口と、その先に在る熱を失った里を思うと、かぶりを振っては駆け出して、ヴィアのその蹄が向かう方へと走っていった。


*



 黒く輝くその背を追ってしばらく走れば、ヴィアはぼろの街道から少しばかり外れた処で草を食んでいた。いや、あれは低木の葉を引き千切っているのか。
 息をするのも忘れて走っていたイリスは、ヴィアの近くまでやって来ると、何度か咳き込み浅い呼吸を繰り返す。
 先まで、自分のつま先を、洞窟の奥へと押し返すように吹いていた向かい風が、ヴィアが風の声で鳴いてからというもの、こちらの背を押す追い風に取って代わっていた。
「ヴィア」
 少し離れた処から呼びかければ、ヴィアは低木に向けていた鼻先をすっと上げて黒い瞳をこちらに向けた。
 ふと、花祭りの町での少女の言葉と、その少女と共に見た孔雀の瞳のことを想い出す。
 たくさんのものを見すぎて、真っ黒になってしまった瞳……
 それと同時に目の前にいるヴィアが、ただの賢い馬ではなく、アニマという馬の姿をした魔獣ということも思い出した。
 その黒に塗れた瞳の中には、他の魔獣と同じように暮れの響きが巣食っている。それは瞳の色が黒だろうと、赤だろうと、それ以外だろうと、黄昏の獣には違えることのできない事実だった。
 だが、では──このアニマの瞳は、一体何を見て染まった黒なのだろう。
 はじまりのアニマは、一体何を見てこの色に染まったのだろう。
 たくさんのものを見たのだろう、きっと。
 たくさんの痛み、悲しみ、嘆き、切なさ、たくさんの想いを見、感じたのだろう、きっと。
 その黄昏を背負うではなく、かつては一匹の馬だったろうはじまりのアニマは、受け入れることにしたのだろうか。だから、アニマはアニマになったのだろうか。一匹の、おそらく孤独となった馬は魔獣になったのだろうか。
 そんなイリスの想いを知ってか知らずか分からないが、ヴィアはいつもと何も変わった様子もなく彼女の元へ歩み寄り、口にくわえていた低木の葉を、イリスの手のひらの上に乗せては自身の鼻を鳴らした。
 イリスは手に載ったその一枚とヴィアを交互に見比べ、微かな困惑を瞳の中に浮かべたままヴィアの方へと視線を持っていく。
「……食べろってこと?」
 そう問うてみれば、ヴィアは草原を駆け抜ける風の音にも似た声で高らかに一鳴きして美しい青毛を震わせた。
 その静かな黒曜石の中にいつもと別の色を感じたイリスは思う。どうやら食べろということではないらしい。
 ヴィアはもう一度その唇から吹く風の音を歌ってみせた。
 イリスは手の葉を顔まで持ち上げると、当たり前だが結局、ヴィアの言っていることは分からないため、一枚の葉が自分の手の中に在った場合にとりあえずやってみることを、いつも通りにやってみることにした。
 葉の表を内側に折り、その折り目の中央に爪先で軽く穴を開け、それから折り返した葉を人差し指と中指で挟み込むと、その表面に唇を寄せて息を吹き込む。草笛である。どこか調子外れな音が夜の中を吹き抜けていった。
「私は何が起こっても受け止めると、そうマリーナに約束した……だからだいじょうぶよ、きっと受け止めることができる。まだこんなに手も足も動くわ、過去に置いてきたものを背負ったって歩いていけるはず……。だけど、今は──今はもう振り返れないわ、ヴィア。あの洞窟を抜けることが、今の私にはできない……お父さんとお母さんが逝った場所より先へ進むことができないの、足が動かない……まだ来るなって言われてるみたいって、そう思うのは……ねえやっぱり、虫がいいかしらね……」
 草笛を唇から離すと、イリスは今度は躊躇うことなくヴィアの背へとその手を伸ばし、手のひらで黒の滑らかさと、内に宿る生の熱を感じ取った。
 しかし、視線こそヴィアへと向いていたが、彼女が呟く言葉はまるですべて自分に問いかけているよう。
 イリスはヴィアの背にやっているその手の指先に力を込めた。
「此処には何もない、が在るのかもしれない……ごめんなさいヴィア、私、帰りたい……」
 すべてを受け止めるまでマリーナときょうだいたちの元、家には帰らないとそうひっそりと心に誓っていたその想いが、洞窟内から星が落ちるように飛び去っていった虫たちの如くに、いとも容易く瓦解してしまいそうだった。
 イリスはその鮮紅の瞳をきつく瞑り、それより強く唇を噛む。
 そうしてみると、瞼の裏にアインベルとオレハの姿が浮かび、彼女は彼らのその温もりの逃げ道をついに断ち切ることができなかった。
 ヴィアの背に額を寄せ、熱い息を吐く。背後では、青の聖火が燃ゆる気配を感じる。
 だがもう、今の彼女に、そちらを振り返ることなどできるはずもなかった。
「……帰ろう」


*



 足早に狭い廊下を行き来する。
 イリス・アウディオが落ち着きなく足を動かすのは急いでいるときと、何か物思いに耽っているときばかりだった。
 いつも通りに〈クローリク〉に寄ってベラにヴィアを返してきたが、ほんとうにいつも通りにできただろうか。ちゃんと相手の目を見れていただろうか、自分は。
 イリスは、彼女を遠巻きにする人間にはよく、何を考えているか分からないという烙印を押されていたが、どうしてだろう何度か言葉を交わした人間には時折、驚くほど簡単に心中を見抜かれることがあった。昔から共に在るマリーナやアインベルをはじめとするきょうだいたち、オレハなんかは特にそうだ。
 花屋にでも行っているのだろうか、オレハは帰ってきていない。
 わたしは、オレハの前でもちゃんとこうして立っていることができるのだろうか……
「──イリス?」
 その声にはっとして振り返れば、玄関口でオレハが扉を開けて家へと入ってくるところだった。
 イリスは短く、一つの言葉にもならなかった声をオレハへと向けて上げると、呆然と立ち尽くしたままオレハのことを見つめるばかり。何か言おうにも、喉の辺りに絡まった言葉が詰まって出てこないのだ。
 そんな様子のイリスにオレハはやはり目を閉じたまま、しかし優しく微笑んで彼女の肩をぽんぽんと叩く。
 オレハのもう片方の手には、赤い夢百合草の束が群れをなし、彼女が動くたびに花たちもその赤い身を柔らかく揺らしていた。
「おかえり、イリス」
 そう言うとオレハはくるりとイリスに背を向け、彼女の隣に在る階段を慣れているためひょいひょいと軽快な速度で上っていった。
 イリスはオレハが階段を上っていく音を耳で拾うとはっとして我に返り、慌ててオレハの後を追うようにして階段を駆け上る。
「オ、オレハ……私──」
「洞窟を抜けられなかったんだろう? だいじょうぶだいじょうぶ、よくあることさね。あの洞窟は一人で抜けようと思ったらけっこう怖いよ、私も出てくるときは怖かったものさ。しかも虫嫌いにとっては最悪だね、あの場所は」
「出てきたって、じゃあ……」
「まあ、生まれだけはねえ。でも此処にいる時間の方が長いよ」
「あの……なら、オレハ……里に、家族は……?」
 そう訊いたことをすぐに後悔した。
 オレハは、自分の家に滞在しているときにイリスが使っている部屋の扉を開けると、長い間留守にしていた割には綺麗に掃除されたその部屋の一角に在る棚の上、そこに在る花瓶へと赤い夢百合草を差し込んだ。
 花瓶に水を入れるために後で水差しを持ってこなくちゃねえ、部屋は時折こっちに仕事をしに来たアインベルが掃除してくれるんだよ、あの子はほんとうに優しい子だねえ……
 そんな風にオレハはイリスに向かって楽しげにそう呟くと、押し黙っている彼女に少しだけ困ったような笑い声を上げた。
「里まで行けなかったことを気にしてるのかい? 次があるだろう、焦ることはないよ。
 ああ、私の家族だっけ? 両親は早くに逝っちまったから、姉が一人、里にはいるけどね……まあ、あまり連絡も取っていないような仲なんだけれども。
 互いに遠い場所にいるし、こっちは目がこんなで手紙出すのにも一苦労、そんであっちもあっちで塔が里にないから近場の町まで降りてこなくちゃで手紙を出すのにひどく億劫ってね。
 最後に手紙が来たのは二十数年か前かね、マノ──姉さんの子どもがおめでたっていう内容だったよ、確か。マノは無事に子どもを生めたのかねえ……」
「マノ……?」
「あ、そうだ。マノの子どもがしっかり成長していればおまえと同じくらいの年のはずだよ、イリス。その内、里まで行くことがあったら顔を合わせてみるといい。
 マノには、彼女が小さかった頃に一度ばかり会ったことがあるけど、マノの子どもがマノに似ていたら、きっとすごく優しい子に育っていると思うよ。マノの選ぶ旦那さんなら、それはきっといい人に違いないだろうしさ。
 よしんばマノの子に、私の姉さんに似て気が強いところがあっても、きっとすごく優しい子に──いやね、姉さんも根は優しいんだよ、ほんとうは」
 それじゃあ水差しを取ってくるねと部屋を出たオレハに、イリスは声もなく立ち尽していた。
 受け止めようと誓った現実が声を荒げることはなく、しかし確かに凍える温度をもって心の臓を掴んでいる。
 何を言えよう、あんなにも楽しげなオレハに。
 言えるものか、あなたの姉は、そしてその子はとうに逝き、更に子の子までもが陽の光を受けることなく死んでいったなどと。
 子に生を与えられなかったマノは魔獣となり、魔獣となった彼女を自分の母であるヒッツェが、その刃によって殺したのだなどと。
 そしてマノの嘆きが嘆きを呼び、魔獣となった何人かの人間が里の人間たちを血に濡らし、そして自身もまた里の人間たちの手によって、或いは自害することによって、その身を紅水晶に濡らしたなどと。
 その嘆きの歌のいちばんはじめに在ったのは、或る一匹の仔狼の遠吠え。
 そして、洞窟の中で震えていたその小さな狼を里へと連れ帰ったのは、他でもないこの自分だなどと。
 窓から差し込む陽光が、赤い夢百合草を輝かせ、輝く光の粒子すら舞って見えそうなその花の姿に、イリスはどこか、心臓を一突きされたような気分になった。
 その赤々とした花の輝きが、今のイリスの瞳には紅水晶のさざめく光として映っていたのかもしれない。
 花は咲き、光は揺れている。
 その赤い色に視線をやったまま、彼女は壁に背を付いて力が抜けたかのように床へと座り込んだ。きつく噛んだ唇から、鈍い血の味が滲んでいる。
 受け止められるのか、この真実を。
 立ち上がり、そして歩いて往けるのか。
 彼らのこの、失われた熱をすべて背負って。



20170326

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