ファンタスマゴリア


 青い炎が燃えている。
 イリスはクエルクスと共に花祭りの町から出て、行きと同じように道なき道を歩いた。
 そうして元居た街へと戻ってはクエルクスと別れたのち、その街の外で暇そうに草を食んでいたヴィアを、いつも通りに素っ頓狂な草笛で呼ぶ。
 彼女は、この間酒場の店主ギルから貰ってきておいた旧い世界地図をヴィアの横で広げ、その上を小型の角灯で照らすと、道を辿るようにして自分の現在地を確認する。
 赤いインクで丸く印のされた北の果てまでは未だ遠く、遠く、そこへと至る道の輪郭さえも上手く瞼の裏に描くことはできなかった。
 ただ、それでも人間というものは、羽を持たずとも羽をつくることができるのだ。道の上を歩かずとも、その上を飛ぶことが人々にはできる。
 此処から虹の里まで歩けば、それは少なくとも半月はかかりそうな距離ではある。しかし、飛空艇と気球を乗り継いで、虹の里に一等近い場所まで乗り付けてしまえば、おそらく七曜が一周する程度の日数で里へ辿り着けるに違いない。
 幸い此処から〈クローリク〉まで大した距離はないため、今からヴィアを魔獣貸しのベラへ返しに戻ることも可能だった。
 イリスは隣のヴィアの、澄みわたる黒曜の瞳を見る。己が道≠ニ呼ぶ、風を喰い風を歌い風を切る、黒き黄昏の獣の瞳を。
 歩けば半月、飛べば一週。
 イリスの紅がちかりと煌めいた。
「──ねえ、ヴィア」
 ならば、駆けたら?


*



 吐き出す息が白く闇に浮かび上がった。
 太陽が高く照っている間は、地図を眺めながら北へと歩を進め、途中に村や町が見えたならそこを訪ねて、夕暮れまで小休憩を入れる。
 太陽が傾き、青い星が北の空に瞬きはじめたならば、その光を羅針盤にヴィアに跨っては更に北へ北へと駆け続けた。
 進む内に身体にぶつかる風が冷たく、夜の時間は段々と長くなっていった。
 その肌を鋭く叩いて去っていく風さえもイリスの中では熱となり、彼女はその口元に笑みさえを浮かべている。
 ヴィアは速く、速く、速かった。
 普通の者なら怯えるかもしれないその速度にイリスは身を任せ、自らもどこか風になったような気分で、手入れのされていない道の上を駆ける。
 何かが近付いてくる、いや何かに近付いていることをイリスは自覚すると一つ身震いをし、それと同時に熱い焦燥が手足の先を支配した。
 もうすぐ、速く、もうすぐだ、速く!
 頤から一粒汗が零れ落ちた。
「ヴィア!」
 イリスは鋭く声を上げる。
 前方に在る洞穴が、何か青白い光を淡く放っていた。
 そこが、おそらくイリスの目的地なのだということをヴィアも察したのだろう、蹄の運びを段々と緩めながら、前方の宵闇に浮かぶ淡い光をその瞳に映している。
 イリスは、先から燻っていた焦燥が今や全身を支配し、頭が何かを喚き立てる前に、速度は落としているが未だ駆けているヴィアの上から飛び降りた。
 着地するときに強く口内を噛んだため、血の味が舌の上に滲んではいるがそれも今はどうでもいい。
 彼女は、急に背が軽くなって驚いたのか、洞窟の前でこちらを見ているヴィアの元まで走り、そうすることによって自身の中の焦燥や熱をどうにか吐き出した。
「……あなたも行く?」
 イリスはそう言うと、ヴィアの方を振り返ってその静かな瞳を見た。
 ヴィアはぼんやり光る洞窟の入口を見つめ、当たり前だがイリスの問いに対しての答えはない。
 まるで、夜の風さえもその身で喰らったかのようなヴィアの真黒の瞳や滑らかな青毛に、洞穴の柔らかく冷たい光が反射して、それはさながら銀の河の如くに美しかった。
 しかし、洞窟の前に来てから、瞳の奥が痛みを伴う熱に灼かれている今のイリス、彼女のその紅にかの銀の河は映っていない。
 彼女は早鐘を打つ鼓動を誤魔化すように、先ほど地に降り立ったときに砂まみれになってしまった手袋をはたいて、それを手のひらから外す。
 どこからでもいいから、とにかく身体中を強く叩き続けるこの熱を外へと吐き出したかった。
 イリスは軽くかぶりを振ってもう一度ヴィアの方を見た。
「行ってくる」
 それだけ言うと彼女は洞窟の中へと歩を進めた。
 洞窟の中には、ルーミが言っていたように薄く水が張っており、黒く見えるその水面には、確かにさながら星空のような光が無数に落ちている。
 天井はそこまで高くもなかったが低くもなく、イリスが一人立ってもまだいくらか余裕があった。
 見上げた天井にも星空が在り、目を凝らして見ると、それら一つひとつの光の正体は、自ら発光する小さな虫たちだということが分かる。
 視線を下ろして前方に続く道を見てみれば、まるで人が立ち入ることを阻むかのように尖塔、或いは槍の姿にも似た巨大な氷が、そこかしこの壁から突き出ていた。それは、冷たい水晶の群晶にも似ている。
 美しい光景ではあった。
 だが、絶えず身体を熱に侵されているイリスにはその美しさが映らない。
 洞窟に入り、そうして一人になった瞬間、両の手のひらが震え出した。足を運んでいるはずなのに歩いているという感覚も薄く、立ち止まればその途端膝が笑い出しそうだった。
 前者は武者震い、後者は水の中を歩いているからそう感じるだけだと自分に言い聞かせて、彼女は歩を進める。
 ふらつく足で氷の槍たちの前までやってくると、彼女は息を吐いてその氷の上に自身の手のひらを置いた。
「私は、此処を知っている……」
 吐き出す息の中でそう呟いたのとほとんど同時に、彼女が手を置いた氷の塔が溶け、水の塊となっては音を立てて薄い水面の上に落ちていく。
 イリスが驚いて違う尖塔に手をやってみれば、氷の水晶たちはイリスが触れたところから水と溶けた。
 そう、それはまるで、この熱を持つ者を待っていたかのように。
 まるで、彼女を待っていたかのように。
 イリスの鼓動が更に速くなり、彼女の困惑や動揺、或いは焦燥や痛みが一緒くたになった熱が地面に伝わったのか、足元の水面が突然に泡立ちはじめる。
 イリスは両膝を突いて喘いだ。
 目が、喉が、手が、足が、心臓が、身体中が熱い痛みに襲われている。
 急に泡立ちはじめた水に驚いて、壁に貼り付いていた光の虫たちが、ざあと嫌な音を立てては、まるで星座が崩れるかのように洞窟の外へと飛び立っていった。
 水晶の如くに煌めいていた氷の刃たちは気が付くとすべて溶け消え、イリスの前に残されたのは深い暗闇の道ばかり。
 何処かで、鐘が鳴っている。
 それは、里の朝を告げる鐘の音だった。
 鐘が鳴ってる。
 おかしいな、もうすぐ夜なのに朝の鐘が鳴ってるだなんて。
 もしかして、鳴らす人が間違えちゃったのかな。
 でも何だか怖いな、この鳴らし方は。
 強くて、鋭くて、急いでて──これじゃあ、そう、まるで逃げろって言ってるみたいな……
「逃げろ、イリス!」
 視界が揺れる。
 名前を呼ばれた方を見上げてみれば、すぐ上に何やら焦った様子の父の顔があった。抱き上げられたのだ。
 光の虫が水面の道を照らす洞窟の中を、父に抱きかかえられて走りながら、まだ言葉もおぼつかない幼子は、これは一体どうしたことだろうと辺りをきょろきょろと見回した。
 父のすぐ隣には、母が虚ろな瞳で刃を手に、水面を波立たせて走っている。
 父は厳しい表情で前を見据えたまま、柔らかな榛色の瞳に似合わない強い焦りの色を滲ませて言う。
「一体此処に何が起こったっていうんだ、どうして急に……!」
「狼が遠吠えをしてからよ、マノがおかしくなったのは……。狼の──あの子の切ない遠吠えを聴いた? きっと失った母を呼んでいたのね……。マノは……子どもが月足らずで死産だったでしょう……だからきっと、あの声に呼ばれて……」
「狼?──イリスが拾ってきたあの仔犬か……! すると何だ、あの犬っころが魔獣にでもなったっていうのか! それに呼ばれてマノも魔獣に?」
「分からない……イリスが拾ってきたときからもうあの子は魔獣だったのかも……確かなことは分からないわ……そうね、もう分からないわ……分からない、もう何も……」
 道半ばで母が立ち止まる。
 怪訝に思った父も立ち止って振り返り、幼子もまた父に倣うように母の方を振り返っていた。
「ヒッツェ? どうした、急がないと……」
 母の赤宿りの黒い瞳が、虚空を見つめている。
 名を呼んでも動こうとしない彼女の手を、父が空いている方の手で取り、走るように促した。
 しかし母は、黒い赤が一瞬静かに揺れ動いたばかりで父の呼びかけに応えず、いいやまるで何も聞こえなくなってしまったかのように、水の中に膝を突いた。
 そして手に有る刃の切っ先ばかりを見つめ、そこに血も肉も貼り付いていないことを認めると、彼女の瞳の黒は更に深い闇を孕む。
 そこに血や肉が刃の煌めきと共に照っていたとしたならば、彼女はこの暗闇を贖わねばならない己の咎として、抱きかかえることができただろう。
 だがこれは人が咎と呼ばぬ咎、抱くことができない咎、贖うことのできない罪である。
 それこそがまるで、人に課せられた罰とでも言うかのように。
「私は……友だちを殺した……」
「もう魔獣だった!」
「けれどマノを殺したのよ、この手で……友だちを……マノを……」
「ヒッツェ!」
「殺したのよ、私が!」
 刃が閃く。
 気が付くと、彼女の爪先は獣のそれに成り変わっていた。
 自身の喉元に突き立てようとした刃の痛みが、いつまでも襲ってこないことに彼女は気が付くと、薄く目を開いてはその淀んでしまった黒の瞳に刃の行方を映す。
 何処に行ったの、わたしの刃は?
 前方で男が呻き声を上げた。
 彼女はその声に顔を上げ、呻いて何やら乾いた笑い声を上げている男の顔を見る。
 彼のその、優しい榛色の瞳を見て、彼女の瞳に宿っていた黒の嘆きは少しずつ静かになっていった。
 そう、目の前にいる男は紛れもなく自分が愛する男であり、その男が今自分と同じように両膝を突いて、その腕から下ろした小さな少女は紛れもなく自分が愛するわが子だった。
 刃は、男の脇腹に刺さっている。
「グレル……?」
「ああ、そうさ。俺はお前の大好きなグレルだ……お前は昔っからいつもそうだ、熱くなると何も見えなくなる……悪い癖だぞ。これがイリスに受け継がれてないことを祈るね、俺は……
 なあヒッツェ、俺は……お前が熱くなりすぎて泣いちまったり、手が付けられないほど怒ったり、耳まで真っ赤にして笑ったりするのにさ……昔から心底弱いんだよ……でも、いちばん好きなのは最後のやつかな……
 だから、笑ってくれよ……いいだろ、ヒッツェ……?」
 幼い少女は、母と父を見比べて少し首を傾げた。
 母の腕はどんどん獣のそれになり、父の吐き出す声もまるで獣が喘ぐ熱い吐息のようである。
 少女が不安に思っているのを察したのか父が振り返り、榛の瞳を細めて笑った。それは少女の頭を撫でているときの父の顔、いつもと何ら変わらぬ父の顔だった。
「ここまできて最期に人として死ねないっていうのは、少し寂しいものがあるな……。なあイリス、お前が拾ってきたあの犬っころ──狼だっけか──には、もう名前を付けてやったのか?」
「ない……」
「そっかそっか。付けてやればよかったなあ。名付けてさ……そうして家族になってやれば……もうあいつのほんとうの名前を呼んでくれる母親はいないんだから……俺たちが家族になってやればよかったなあ……自分が誰だか分からないのは……きっと、寂しいことだからさ……」
「イリス」
「……うん、そうだな。お前はイリスだよ。他の何を忘れても、それだけは憶えていてくれ」
 そう言って父は微笑んだ。
 それから母の方を見て、自身の脇腹に突き刺さる刃の柄を掴んで引き抜くと、母の瞳を見てその榛に穏やかな光を宿す。それは、沈みゆく太陽の暖かで、けれど寂しい暮れの光に似ていたかもしれない。
 その瞳を見て母の瞳に宿す黒が少しだけ柔らかくなった。それは、暮れの光に照らされたものの背後に在る、優しく深い影の色に似ていたかもしれない。
 刃を引き抜いた父の傷口から、煌めく紅の水晶が零れ落ちた。
「……ごめん、ヒッツェ。愛してる」
「ありがとう、グレル。でも最期に一つだけね。私の方が、愛してる……」
「参ったな。ほんとう……敵わないよ、お前には」
 榛色の両目から絶え間なく涙を流しながら、父が母の胸に刃を突き立てた。
 母は痛みに一瞬のけ反ったが、すぐに力なくうなだれると、その口元に穏やかな笑みを浮かべる。
 そんな二人の様子を見て、呆然と立ち尽くしている幼子の頬へと母の手が伸びてくる。小さな少女は、橙色の髪を揺らして母の元へと歩み寄った。
 そうすると母は少女を見て愛おしげに目を細め、それから、
「──忘れなさい、イリス」
 と言って少女の両瞼に口づけをした。
 その瞬間、少女の瞳は灼け焦げるかと思われるほどに熱い痛みを伴って、少女の幼い心を襲い、その心の中に在る虹の煌めきを、水晶の殻によって守るように包み込んだ。
 それは、忘却というかたちによって。
 瞳の中が、赤い光に燃えている。
 少女は顔を上げ、今しも立ち上がり此処から去ろうとしている男と、その腕の中に力なく抱かれている女の姿を、熱い瞳の奥に焼き付けた。しかし、一度瞬きをすればその姿は薄れゆく。
 それは母のねがいであり、そして呪いだった。
 ──忘れなさい、イリス。
 何を?
 今目の前にいる人たちは誰?
 え?
 何を言っているの、わたしは?
 お父さんとお母さんに決まってる。
 ほんとうに?
 あの人たちはほんとうにわたしのお父さんとお母さんなの?
 だって何だか獣みたいな……
 違う、それでもお父さんとお母さんだよ。
 分かるよ。
 今までずっと一緒にいたんだもの。
 そう、お父さんの目の色は……
 ──忘れなさい、イリス。
 あれ?
 わたし、お父さんとお母さんの顔、想い出せない……
 立ち上がって歩き出した男は、少女から少し離れた位置で壁に手を付いて、何か水晶の槍のようなものを、洞窟の壁から突き出すようにしてつくっている。
 その脇腹からは、絶え間なく紅の水晶が零れ落ちては煌めいていた。
 男は名残惜しげに一度だけ少女の方を振り向くと、しかしすぐに視線を自らが抱いている、最早息絶えてその身体を砂と水晶に化しはじめた女へと戻し、それから彼は切なげに笑って、その瞳に水晶よりも透明な涙を浮かべたのだった。
「俺たちの虹……星の墜ちた地の宝を俺は……なあ、俺たちは……もっと……見ていたかったなあ……そうだ、見たかった……」
 そう言って笑い、洞窟の星空を仰いではゆっくりと崩れていく男の姿を最後にして、己の赤い瞳から灼ける痛みが去る。
 イリスははっと顔を上げると、自身の目の前に在るのが先ほどと同じ暗闇の水面ということを自覚し、母が与えたねがいと呪いによって赤く染まったその鮮紅の瞳をゆっくりと閉じた。
 両手を水底につき、先とは打って変わって厭に冷えていく鼓動を感じながら、彼女は何か一つ遠くで木霊する、寂しげで切ない遠吠えの響きを聴いていた。
「……私は、何をしたの……?」
 夢のために歩んだ道、その先で掴んだのは人が咎と呼ばぬ咎、抱くことができない咎、贖うことのできない罪。
 まるで今までの歩みが罰だったかというように、手にしたのはおのが罪を象徴する見えない冠が一つ、冷たく。



20170321

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