集めよ、乙女よ、バラの花を


 何処へ向かっているのか、というクエルクスの問いにイリスが北と答えると、老錬金術師は彼特有のどこかわざとらしい梟の笑い声を上げ、それならいいものが在るからついて来いと言い放った。
 そのようにして明け方頃に酒場を出た二人は、前をクエルクス、後ろをイリスといったかたちで、軽快な足取りをもっては歩を進める。特に、クエルクスに至っては夜通し飲んでいたはずだというのに、しかし全く疲れが見えなかった。この御仁は一体いくつなのか。
 ぼうっと歩きながら、熱滞林でも浮かんだ疑問が再びイリスの頭を掠めた頃、彼女はクエルクスのつま先が向いている方角に対して、ここでようやくはっとした。
「クエルクス……そっちは、私が向かっている方角とは正反対」
「おやおや、そうだったかの。まあいい、急ぐ旅でもないだろう?」
「けど──」
「まあまあ。急がば回れとも言うじゃろう」
「……それは使い方が違うわ、クェル」
 イリスは軽く溜め息を吐いて肩をすくめた。オレハの影響からか、どうにも人生の先輩には弱い。
 それに、クエルクスはそのいいもの≠フ処まで一緒に行かない限り、逃がしてはくれなそうだった。彼の言葉や声色はいつもやさしげだったが、そこにはどこか有無を言わさぬ力がある。
 それが彼の年齢から来るものなのか、彼の瞳に在る、割れて横たわった月長石、それとも内に宿る強かな大樹から来るものなのか、或いはそのすべてが彼の言葉の力となるのかは分からなかったが、しかし彼の発する言の葉に、何か力が宿っているのは確かなことだった。
「焦るな、焦るな。熱というものには使いどきがある。何も入っていない鍋を強火でかけたらどうなると思う、イリス?」
「それは……焦げ付くでしょうね」
「中身もなく焦げ付いた鍋から一体何が見出せる? おまえさんの熱、それは自らを灼く炎か? いいかイリス、一度冷静になれ」


*



 酒場を出て街から抜けたクエルクスは南へと向かう。
 彼は手に持つ、さながら大樹のような威厳を放っている、クエルクスと同じくらいに背の高い杖で時折遊び半分に地面を叩きながら、イリスも流石に閉口するような道なき道を、自分ばかりは心得ているように進んでいった。
 深い草むらを掻き分けながらイリスは、これだけ街道から外れに外れた場所を意のままに歩いているというのにも関わらず、先ほどから一匹たりとも魔獣と相見えることがないことにはたと気が付き、前をゆくクエルクスの背へと視線を巡らせる。
 やはり彼は時折地面を大樹の杖で叩くのみで、他に特別なことをしているようには見えない。
 そう、一見するばかりでは。
 イリスはクエルクスの背から、彼が持っている杖へと自身の紅を定め、今度は歩く彼ではなく彼が振り下ろす杖の様子をじっと見つめた。
 彼が杖を叩くと微かに地面が振動し、自分たちが進むことによって立てる音とは別に、草が揺れ動く音がイリスの耳に小さく届く。
 彼女は少しの間立ち止まって、茂みの間から音のした方を覗き込んでみると、そこではおそらく魔獣だと思われる小さな獣が、地面から伸びる緑の茎にがんじがらめにされては身動きが取れなくなっていた。
 なるほど、これはクエルクスの借りものの力である。
 自分と比べられては相手も不服だろうが、彼はそれを随分と上手く遣いこなすものだった。これも彼の長年の旅による成果のものか、それとも何かこれを上手く遣いこなすこつを知っているのか、どちらにせよ年の功と言って差し支えなさそうなものである。
 イリスは足早に彼の背を追いかけて、今度は枝葉が生い茂っている杖の上部へと視線を送ってみた。
 軽く地面に叩き付けられて枝葉から微かに舞うのは、花粉にも見える白く輝く粒子。そしてその白の粒子から感じるのは──ああ、これは襟巻薊の香りか!
「イリス、着いたぞ。……何じゃ、面白いものでも見付けたのか?」
 クエルクスの瞳が楽しげに弧を描く。白々しくも笑い声を上げた彼に、イリスはこちらもこちらで口元を軽くにやりとさせた。
 煉瓦の積み重なる塀に足を引っかけて、見た目からは想像できない軽やかさでそれを飛び越えるクエルクスの翻る黒いローブに続いて、イリスもひらりと虹の首巻を揺らめかせては塀を飛び越えた。
 軽く音を立てて着けた靴底から柔らかな土の感触と、生え広がる草花の香りを感じたイリスは、さて自分は一体何処に連れて来られたのかと辺りを見回す。遠くからはがやがやとした声の広がりと、楽しげな音の連なりが聴こえてきていた。
 そんな風に辺りに視線をやりはじめたイリスをよそにクエルクスは歩を進め、その先に在った、暖かな茶の色をした木造りの扉を片手で開く。
 開いたそこは薬師の小さな薬種屋の裏口であり、クエルクスとイリスが塀を飛び越えて降り立った先はその薬種屋の小さな薬草園だった。
 イリスはといえば、彼女は自分が置いていかれていることに気が付くと、傍目にはそう見えないが、慌ててクエルクスの背後まで歩を進めてきていた。
「ああクェルさん、もうじき来ると思いましたよ! そろそろ娘たちが花を投げる頃だ、この祭りいちばんの山場! もちろんクェルさんも踊っていくでしょう?」
「こらこらあまりばかを言うものじゃないぞ、おれみたいな老いぼれが踊って誰が喜ぶ」
「まあ、少なくともこの俺はね!」
 カウンターに膝をついて、何やら鮮やかな青色の水を飲んでいる、おそらくこの薬種屋の主だと思われる男とクエルクスは軽口を交わす。
 虫も獣も顔をしかめ、息を止めては去っていきそうなほどに鋭く、また冷たく鼻を刺す薬草の香りが充満するこの部屋を、イリスはぐるりと興味深そうに視線で見回した。
 しかしクエルクスが歩を進めてはもう薬種屋の正面扉に手を掛けていることに気が付くと、彼女はまた自分が置いていかれていることをようやく察して彼の背を追った。
「お嬢さん」
 そんなイリスの揺らめく首巻の虹色を視界に映した薬師は、足早に去ろうとする彼女の背へと声をかける。彼女は呼ばれていることを自覚するとはっとして振り返り、その鮮やかな赤い瞳で薬師の優しげな瞳を捉えた。
 そうしてみると、彼はその鮮紅に一瞬怯んだようだったが、しかし外から聴こえてくる楽しげな声と音たちと、彼女がクエルクスの連れということを想い出すと、その柔らかな光を宿す瞳をやさしく細めて、手にしている色鮮やかな青の水が湛えられた瓶をイリスに向かって掲げて見せる。
 その水面には、花びらが幾つか浮かんでいた。
「お嬢さん、楽しんで!」


*



「──イリスさん!」
「ルーミ!」
 薬種屋の外に出てみると、そこでは暖かな陽光を受けては踊る町娘たちが、頭上に戴いていた花冠を宙へと投げていたところだった。
 町娘たちを囲むようにして眺めていた人々が、手にしている色とりどりの水を投げられた花冠に向かって掲げる。
 そんな人たちの中に見覚えのある顔を見付けたイリスは、その驚きに微かに目を見開き、思わずその名を呼んだのだった。それは相手もおそろいの様子であったが。
 ルーミと、そうイリスが呼んだ少女は、その光を受けて輝く翠の髪を揺らして嬉しそうに手を振っている。そんな彼女の隣には、先ほど自分を此処まで導いたクエルクスの姿があった。
 イリスは二人に近付いていくと、ルーミとクエルクスの顔を交互に見比べて微かに首を傾げる。言わずとも彼女の紅の瞳がこう問うていた、二人は知り合いなのか、と。
 その問いに対してクエルクスは、いつも通りに笑っては軽い様子で答えを返した。
「まあ、そんなところじゃな。……ところでルーミ、あれはどうしている?」
「あちらの喫茶店に入っていますよ。彼にも花飴≠持っていこうと思ったのですけれど……やっぱり嫌がるでしょうか、これは物凄く甘いですし……」
「いやあれは……おまえさんが持っていけば大抵は何でも受け取ると思うがの……しかしまあ、かわいげのないがきにそんな風にかわいらしいものをくれてやる必要もないだろう。イリス、おまえさんが飲むといい。おれはあやつをちょいと突っついてくる」
「えっ……私?」
 思わぬところから話題を振られたイリスはちょっとびっくりして、黒ローブを翻してすたすたと去っていくクエルクスを見、それから花飴≠ニ呼ばれていた色鮮やかな液体の方へと視線をやった。先の薬種屋の主が飲んでいたものと色は違うが同じに見える。
 視線を巡らせると、辺りの人々が手にしているのもどうやらその花飴という飲み物のようで、ならば先ほど町娘が投げ放った花冠へと掲げていたのはこの花飴だったのか。
 イリスは、楽しげにこちらへと花飴が入った瓶を差し出すルーミの手からそれを受け取ると、そこに湛えられた鮮やかな色を太陽の光に透かして見た。
 当たり前だが、その色付き水を覗いてみると向こう側までもがすべて一色に染まって見える。色の水面にはやはり何枚かの花びらが浮かんでいた。
「花飴は、水飴を溶いたものにニッキで香りを付けて、それを食べられる花の染料で色付けしたものだそうです。ちょこっと癖のある味ですけれど、甘くて美味しいですよ」
「ありがとう、ルーミ。頂くわね。……えっとそれで、今日はお祭り?」
「ええ、花祭りと呼ばれるものです。この町周辺の環境は薬に遣う薬草や花が育ち易く、それに伴ってこの町では薬師も多く育つそうです。そのため芍薬の満開期になると、芍薬をはじめとした様々な花や薬草で町を彩り、身を彩り、飲み水さえも彩っては今年の無事の収穫を祝い、そしてこれからの無病息災を祈っては歌い奏で踊るというこの町古くからの風習です。
 最初は町の女の子たちが花冠を頭に踊るのですが、彼女たちが花冠を空へと投げると他の人たち、町の外、内の人間誰もが関係なく自由に踊ることができるようになるんです。
 そして、彼女たちはもう空へ冠を投げたので──」
 イリスが花飴を一口含んだのち、一気にそれを飲み干しては喉が焼け付くようなその甘さと、鼻を刺激するニッキの香りに噎せ返りそうになっているところを、ルーミが勢いよく空いている方の彼女の手を引っ張りながら、人が集まっている広場の方へと連れ出した。
 イリスはひたすらに甘い色付き水飴の味と、自分を引っ張るルーミの力が存外強いことに赤い目を白黒させながら、しかしなすがままになっている。
 ルーミは自分より背の高いイリスの手のひらを掴んだまま、それを持ち上げて、やり方を心得ているのか彼女をくるっとその場で一回転させた。
 そうして彼女は、少しだけ悪戯の成功した子どものような表情を浮かべて笑い、それから言った。
「踊ることができます、わたしたちも!」
 ルーミの澄んではよく通る声がイリスの耳に届き、そしてその言葉の意味を自覚した途端彼女は少しばかり笑い声を上げ、参ったと言うように肩をすくめる。
 そして今度はイリスがルーミの手を持ち上げ、さっきのお返しと言わんばかりに彼女をくるりと一回転させた。
 踊ることができると言ってもイリスとルーミ、その両人の片手には花飴の瓶が有る。
 ルーミに至っては未だ中身が入ったままだったが、彼女はこのまま踊ったらおそらく地面にすべて溢してしまうだろう花飴を、先のイリスと同じように一気にあおると、その甘ったるさに微かに眉根を寄せて笑った。
「さてイリスさん、わたくし≠ニ踊って頂けますか?」
「イリスでいいわ。喜んで」
「ならイリス。御手をどうぞ」
「お手柔らかにね」
 ルーミは空いている片手をイリスへと差し出し、そしてイリスもまた空いている片手でルーミの手を取った。
 広場では人々が各々、奏でられている音楽に合わせてこの辺りの土地に伝わる民俗舞踊を踊っている。
 イリスとルーミはその中で互いの片手を引っ張ってみたり、或いは引き寄せてみたりと、回ってみたり回してみたりと驚くほどに自由だった。
 一つ歩を運べば、イリスの瞳に映るは笑い合う人々の表情、町を彩る花々、その花びらさえもが今は空もを色付けしているさま、草花の刺繍が刺された町の人たちが纏う衣装、彼らが踊る調子に合わせて翻るその裾、揺れ動くルーミの細く美しい翠髪、楽しげに輝く銀の瞳──イリスの紅が、宝ものを見付けたときと同じようにちかりと煌めいた。
 柔らかな風が二人の間を吹き抜け、イリスの纏う布が虹の色に揺らめく。
 踊る人々を眺めていた観衆は、それぞれが色鮮やかな花飴を手にしたままに、あまりにも自由に、あまりにも勝手に、あまりにも好き放題に踊るイリスとルーミを見ては各々息を吐いたり目を細めたりしていた。
 それは怒りや嘲りからではない。靴音を鳴らしては片手と片手で光と色を振りまいている二人を見て、人々はこう思っていたのだ。
 こんなにも自由で、こんなにも勝手で、こんなにも好き放題だというのに、どうしてこんなにも美しいのか!
 二人の近くで踊っていた男女の一組が、相方と目を合わせてはにやりとする。
 そのようにして光と色を宿す風が人々の心に伝播し、踊る彼らの足の運びや打ち鳴らされる靴音、奏でられる音楽や宙に舞う花の色、瞳に宿す光さえもが段々と自由なそれに染まっていった。
 それを自覚するとルーミは眩しそうに目を細めたのちに、口元を楽しげに少し歪めてやはり悪戯が成功した子どものように笑う。イリスもたまらず笑い声を上げ、瞬きする時も惜しいと言うように辺りを虹の光を宿す紅で見渡した。
 ふと、広場をぐるりと囲む観衆の中に、見覚えのある顔ぶれが揃っていることに気が付いてイリスははたとする。
 その見覚えがある顔ぶれの四人組──彼らは、自分が時折顔を出すハンター溜まり場でよく揃って飲んでいるトレジャーハンターの一味だった。
 イリスはその中の一人と目が合い、しかしすぐに逸らされる。
 目が合った彼は隣の仲間へと何やら密やかに耳打ちをし、それから窺うようにこちらの方を見やった。彼の仲間たちも訝るようにイリスの方を見、その刺すような視線に、イリスは一瞬思考を現実に引き戻される。わたしは……
 力が抜けて離れかけたイリスの片手をルーミが強く掴み、そしてぐっと引き寄せてからまばゆい光をその瞳に宿しては面白げに目を細めた。その表情は今まさに悪戯を思い付いた子どもの顔によく似ているように思える。というよりそのものであった。
 どうやらこの少女、清廉な見目にしてかなりのお転婆、数多もの修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の悪がきのようである。
 ルーミは、イリスに視線を送っているハンターたちへと向けて、朝告げの鐘の如くによく通っては背筋を正させる声で言葉をおくった。
「──踊りましょう、あなたたちも!」
 その言葉にイリスは、ルーミとハンターたちを交互に見やっては目を瞬かせた。
 肺の辺りから勢いよく熱が昇ってきて、彼女はその熱をついに大きな笑い声として外へと吐き出し、笑いが治まらないままに石畳の地面へとしゃがみ込む。普段物静かなイリスが大笑いをしながら目尻に溜まった涙を拭いはじめたので、今度はルーミとハンターたちがびっくり仰天して彼女の方を凝視する番だった。
 イリスは手を軽く振りながら立ち上がり、ルーミの方を見てはその目に宿す輝く光を自身の瞳に映した。
 それから彼女はハンターたちの方を振り返ると心底楽しげに目を細めて、
「そうね、踊りましょう!」
 と笑った。
 はじめに目が合った男が仲間に背を肘で突っつかれながら、視線を宙に彷徨わせて軽く頬を掻きながらイリスの方へと一歩足を踏み出す。が、それとほぼ同時に彼の足の間から何やら小さいのが飛び出てきて、イリスの前へと素早く走り寄ってきながら彼女の方へと両手を差し出した。
「おねえさん、わたしと踊って!」
 どこか舌足らずにそう言いながら目いっぱい両腕をこちらへと伸ばす、小さな少女のかわいらしいどんぐりまなこに、イリスとルーミは一瞬で骨抜きにされた。
 最早言わずもがなだが、孤児院に家族の多いイリスは、自分の人生の先輩にも弱いが、同じように人生の後輩にもほとほと弱かった。
 イリスは頷いてルーミの手から空きの花飴瓶を取ると、こちらへと一歩踏み出していた男の方へと近付いて、彼のその空いている両手に空き瓶をぽんと二つ置き、そして口元をにやりとさせて笑う。
「よろしく」
 それだけ言って男から踵を返すと、イリスは少女の前まで戻ってきて彼女の白くて小さなかわいらしい片手を取った。もう片方の手はもちろん、先ほど少女に骨抜きにされたルーミが取っている。
 背後では両手に瓶を置かれた男が羞恥によって耳まで真っ赤にして何やら叫んでいたが、仲間たちが彼を指差し大声を上げて笑っているためによくは聞こえてこない。
 流石に多少の罪悪を覚えたイリスが彼の方に視線を巡らせると、彼はこちらを指差して真っ赤な顔でイリスの名前を呼んでいた。
「おい聞いてんのか! 覚えてろよ、イリス! 覚えてろよな!」
「……忘れるまでは!」
 そう言って笑い声を上げれば、彼も彼をからかっていたハンターたちも急に黙りこくってイリスの方を見た。
 そのときにはもうイリスはルーミ、そして少女と共に羽の生えたような足の運びで自由奔放に踊っていたために、彼らの表情には気が付くことができなかったが、傍目に見ても彼らの顔はありありとこう語っていた。
 おれたちは今まで一体何を怖がっていたんだ?
「虹のおねえさんは綺麗な色とたくさんを見る目をもってて、何だか孔雀みたいだなってさっきからずうっと思っていたの」
「……孔雀?」
「知らない? あのね、綺麗な色をしていてね、羽にたくさん目があるんだよ。きっとたくさんのものを見ることができるんだろうなぁ。でもね、たぶん孔雀の目の中でいちばんたくさんのものが見えるのは、わたしたちと同じようにお顔に付いて、真っ黒な色をしてるあの両目だよ。
 ほら、おねえさん、色はたくさん混ぜると真っ黒になっちゃうでしょ? 孔雀もたくさんのものを見すぎて、おめめが真っ黒になっちゃったんだ。でもそれってすごく綺麗な黒だとわたし、思うな……
 それにね孔雀は空も飛べるの! この町でも何匹か飼ってるんだよ、踊り終わったら見に行こうよ、おねえさん!」
 そう言って楽しげに笑う少女の瞳が、微かな橙の光に輝いた。
 はっとして空へと視線をやると、そこでは暮れはじめた太陽があたたかな色の光を振りまき照らし、町の向こう側からこちらの方を眺めている。
 イリスは一瞬だけ北の空へと視線を移し、そこに燃えはじめた青の炎をその目に映した。
 それから、虹の里へと向かうのを漠然とした不安によって微かに躊躇っていた自分の心を自覚し、強く鳴っている心の臓の響きに痛みすらも感じながら再び暮れの太陽へと視線を戻した。
 ──己が何者であったとしても、自分の名がイリスであることには変わりないと言ったのはこの自分だった。そう、わが名はイリス。イリス・アウディオ。それは変わらない。自分が何者だとしても、わたしがイリスであることには変わりはない。そうだ、それだけは変わらないのだ。何があっても、何が起こったとしても。
 夕焼けが、恐れるなと強くこの背を押している。
 ──往こう、わたしの夢を、わたしの真実を掴むために。



20170320

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